興浜北線(浜頓別〜北見枝幸30.4km) 
 興浜線は、オホーツク海に沿って浜頓別と興部を結ぶ予定だった路線で、1935年に南線、翌年に北線が開業した。しかし、戦争のため北見枝幸〜雄武間50kmの着工は1966年まで遅れ、結局開業することなく終わっている。存廃の基準となった輸送密度は僅か190人、収支係数は1997だった。オホーツク海に沿って走る路線は憧れであったが、最初の北海道鉄道の旅は1986年夏なので、1年だけ間に合わなかった。

  1936.7.10 浜頓別〜北見枝幸間開業
  1944.11.1 全線休止
  1945.12.5 全線再開
  1981.9.18 第1次特定地方交通線として廃止承認
  1985.7.1  全線廃止  
  1937 1949 1956 1960 1965 1970 1973 1977 1980 1983
 輸送人員(千人/日) 0.2 0.8 0.8 0.9 0.9 0.6 0.4 0.3 0.3 0.2
 輸送密度(千人/日) 0.1 0.4 0.4 0.5 0.5 0.4 0.3 0.2 0.2 0.1
 貨物輸送量(万t/年) 2.8 6.8 5.5 7.1 7.5 5.2 3.3 1.8 1.2 1.0
 斜内だけは駅舎があると聞いていたが、奥まった所にあるためなかなか見つからず、あきらめて戻りかけた所でようやく発見した。一般の住宅のような建物なので、駅舎の写真を事前に見ていなかったら見つけられなかったかもしれない。個人が鉄道ファンのために残しているようだが、ホームは無かった。
2009.10 斜内駅跡A 2009.10 斜内駅より北見枝幸方A
 オホーツク海に突き出した岬を、トンネルを掘らず海岸線に沿って忠実に走った区間で、かつての撮影名所である。灯台の下、平らになっている所が廃線跡で、未舗装の道として残っている。右の写真は国道のトンネル南側から岬方向をみたもので、すぐ手前にある廃線跡の築堤がカーブを描きながら岬の先端まで続いている様子がよく見えた。 
1993.9 斜内〜目梨泊間 斜内山道B 2009.10 斜内山道の目梨泊方よりB
 北見枝幸は北線の終点で、線路がここから先に伸びることはなかった。背後の一級食堂という名がおもしろい。その先の枝幸の町外れ、ウエンナイ川の岸は築堤が残る。このあたりは興浜線と美幸線が同じ線路を共用する予定だったが、どちらも開業することなく終わった。  
2009.10 北見枝幸駅跡E 2009.10 北見枝幸駅南側の未成区間の築堤F
 2015年、天北線を探訪する途中で、まだ見ていなかった豊牛、目梨泊、問牧の3駅跡を探しにいった。しかし、豊牛駅の位置は特定できず、目梨泊駅と問牧駅の位置はわかったが、鉄道を思わせるようなものは無かった。 
2015.9 豊牛駅付近@
2015.9 目梨泊駅跡C 2015.9 問牧駅跡D
 興浜南線(興部〜雄武19.9km)
 本来は興浜北線とつながり、興部と浜頓別を結ぶ長大路線になるはずであったが、工事の中断と再開を繰り返した末に、北線と同時に廃止となった路線。最初の開業から50年、一度も延伸することはなかったのである。存廃の基準となった輸送密度は347人、収支係数は1536であった。

  1935.9.15 興部〜雄武間開業
  1944.11.1 全線休止
  1945.12.5 全線再開
  1981.9.18 第1次特定地方交通線として廃止承認
  1985.7.1  全線廃止 
  1937 1949 1956 1960 1965 1970 1973 1977 1980 1983
 輸送人員(千人/日) 0.2 0.6 1.0 1.2 1.0 0.8 0.6 0.5 0.4 0.3
 輸送密度(千人/日) 0.2 0.4 0.8 0.9 0.8 0.6 0.5 0.4 0.3 0.2
 貨物輸送量(万t/年) 2.4 3.3 8.3 8.8 8.9 5.7 2.8 2.4 2.8 1.5
 左の写真は興部を出てすぐの所で、大きく左にカーブする様子は鉄道時代の雰囲気が感じられる。この先は興部川を渡る橋が無くなっているので進むことができないが、北側に回りこむと、廃線跡としか思えない未舗装の道を見つけることができた。終点の雄武は、立派な道の駅に変わっていて鉄道の面影は無かった。 
2009.10 興部〜沢木間@ 2009.10 興部〜沢木間A
2009.10 雄武駅跡D
 2度目の訪問は、沢木駅跡と栄丘駅跡を探索。沢木駅の前後は廃線跡は比較的わかりやすかったが、栄丘駅跡周辺はただの原野で、自信をもって判断できなかった。 
2015.9 沢木駅付近B 2015.9 沢木駅跡B
2015.9 栄丘駅跡C

興浜北線・興浜南線