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●暦の会[第358回]10月例会報告                               

平成22年10月16日(土) 五反田文化会館・出席者19名
講師:湯浅吉美 先生
テーマ:《近著『暦と天文の古代中世史』について》―――講演要旨

昨年末に出版された『暦と天文の古代中世史』について、著者の湯浅吉美先生(埼玉学園大学教授)から、本書の目次に沿いながらポイントとなる事柄や興味深いお話をご披露いただいた。
[第一部 具注暦の研究] 天理図書館に蔵する各種の具注暦を調査しているうちに、ある暦の五、六日分について七十二候や六十干支を調べるだけでその暦の年代が同定できるという、具注暦が有する特異な性格を知ったことによって、それまでの間違った年代表記を訂正することが出来たという。
また、ご用済みとなった暦と同内容の暦を将来的に再び使うということは、暦の仕組み上、まずありえないことから、「保存」という概念はなく、むしろ暦の裏面(=紙背)が貴重な書写材料として利用されている。いわゆるその紙背文書を考察することで、思い掛けない情報を入手することが出来たり、また隠れていた史料として再評価することが出来たりするのである。
例えば『正安二年具注暦』(1300)と『同四年具注暦』断簡(1302)、それに『建治元年具注暦』(1275)の三つの年代の異なる暦があるが、実はその紙背には、『除目申文抄』という貴族・官人の人事異動の前例についての文書が写されており、しかもそれら三つは、一連のつながりを持つ内容であったという。この文書の中で言う「今」とは「いつのことか」という場合、この三種の具注暦の時代から見て「鎌倉時代後期」頃と推定できるなど、紙背とはこのようにたいへん貴重な史料なのであると強調された。
[第二部 古代の暦法] 天平宝字八年(764)に恵美押勝の乱が平定されたことで、称徳天皇が戦没者を弔うために小仏塔百万基をつくり、中に陀羅尼経の経文を納めて法隆寺ほかに分置したという、いわゆる百万塔陀羅尼の小塔についての話は興味深いものがある。
その製作場所は平城京の一画の、いわゆる国家プロジェクトとしての官営工房であり、それゆえに一つ一つの小塔の底には作った工人の名や日付が墨書されているという。かつて法隆寺に残る小塔の調査がなされた時に、「神護景雲二年三月三十日」と書かれたものが見つかり、この月は本来小の月であるべきことから、この月の大小が問題となった。しかし、他にも小の月でありながら「三十日」と表記されている例が少なからず確認できたことから、これは「みそか」、つまり「末日」という意味合いで使われていたと判断しえたのだという。つまり、古い史料において二十九日あるいは三十日とある表記を単純に小の月、大の月と決めてしまうのはたいへん危険だということである。
[第三部 中世史料と天文・暦日] 鎌倉時代に入って、これまでの長い間の宣明暦採用により約一日分に相当する時間のずれが生じつつあったので、中国の新しい暦法を導入したいと考えていた朝廷は元との国交を視野に入れていたものの、幕府が元の使者を切り殺してしまい、国交どころか元の襲来を迎え撃つことになってしまった。中国の元ではすでに宣明暦に代わる新たな授時暦を採用していたのだから、日本は改暦の上で大きなチャンスを逃したことになる。
また九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』に見える惑星の出現や日蝕などの天体現象の記録は、年代推定の一手段であり、情報源として使われることが多いのだが、実際には配下の陰陽師たちがその天体現象を人間世界の吉凶判断において政治的に利用し、上申していたことが検証できた。さらに、「方忌み」や「方違え」は元来、公家社会で語られることが多いのだが、この鎌倉武家社会でも行なわれたという。『吾妻鏡』の記事によれば、この場合はむしろ有力御家人が将軍を自邸に招くことによって関係を築いたり、親密さを深めたりするという恣意的な操作がなされ、いっぽうでは将軍にとってもよい行楽となっていたとのことである。 (小川益男)

*湯浅吉美著『暦と天文の古代中世史』吉川弘文館
 平成22年12月刊/本体価9,500円