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◆[第368回]暦の会10月例会      

                                    平成23年10月15日(土)
                                    会場=五反田文化会館/出席者17名


◆太陽暦改暦について書かれた明治5年の「京都新報」について
                                    ………報告・岡田芳朗会長

 送られてきた古書店目録を眺めていると、「京都新聞」の鉄道時刻表という項目が目にとまった。なんとなく気になって、古書店に出向いて現物を見せてもらうと、これがなんと京都府知事が御布令として出した改暦詔書の写しを掲載したものであった。この「京都新報」は、御用書林の村上勘兵衛なるものが明治五年九月二十六日から隔日に発刊したもので、入手したものは「日本 明治五年壬申十一月十七日 本日雨 寒暖計五十度」「西洋 千八百七十二年十二月十七日 火曜日」と二行に表示された「隔日發兌 京都新報 第廿六號」である。この号は改暦についての太政官布告が全面に紹介されている。大きく三段構成で、上段には「詔書寫」と京都府知事長谷信篤の御布令、そして「別紙」として十二月三日を以って明治六年一月一日とすることや、四年毎に一日の閏を置くこと、昼夜平分二十四時に定め、子の刻から午の刻までと午の刻から子の刻までをそれぞれ十二時に分かち、前者を午前幾時と称し、後者を午後幾時と称することなどが記載されている。中段には太陽暦一年は三百六十五日で、閏年は三百六十六日であること、一月から十二月までの大小の別やひと月の日数が示されている。下段は「時刻表」で、上で示した太陽暦での一日の時刻の表示の仕方を、旧暦の表示法と対照させている。この新聞により、こうした十一月九日の布告内容が、京都では八日後の十七日になって初めて人々に知らしめられたことがわかる。  
 上段の欄外には「鉄道蒸気車之図」として機関ノ汽車・石炭車・荷物車・旅客車からなる5両の列車が描かれている。古書店はこの汽車の図と上記の「時刻表」とで本紙を鉄道時刻表と勘違いしたようである。
〈続いて東京―横浜間、京都―大阪―神戸間の鉄道の開業の歴史や、開業当初の東京の機関車が水や石炭との一体型(タンク機)であったのに対し、関西では独立した炭水車を付設していた(テンダー機)など、初期鉄道の興味深いお話が披露された。〉

◆前回の「大刀に刻まれた〈庚寅〉日に関連して……………………須賀 隆会員
  ⇒リンクより須賀隆氏のホームページをご覧ください。

◆「こよみ研究」第2号、3号、4号の残部配布 
 岡田会長から、本会初期に刊行した会報の余分が出てきたのでとご持参くださった。
第2号 昭和56年〈1981〉10月20日発行 近年発見紹介された暦(岡田芳朗)
第3号 昭和57年〈1982〉 2月20日発行 広瀬秀雄先生追悼特集Ⅰ
第4号 昭和57年〈1982〉 5月20日発行 広瀬秀雄先生追悼特集Ⅱ
*第2号は上記論考のほかに、3頁にわたって暦の会第6回(1974.6.22) ~第23回(1976.4.24) までの研究会の報告が掲載されている。また、末尾の「事務局便り」によると、「こよみ研究」創刊号は昭和49年〈1974〉10月で、年4回の刊行を目指していたことが記されている。
*第3号には、大崎正次・内田正男・鈴木智恵・桃裕行・山ノ内由也・橋本万平・藤原高芳・安田辰馬・伊藤節子氏の諸氏が、また4号には能田忠亮・矢野憲一・中山茂・佐藤勝郎・小林悦子・高橋信彦・大谷光男・吉賀玄二郎・藤原幹三・佐藤寿治・佐藤均・長谷川一郎・岡田芳朗の諸氏が追悼の一文を寄せておられる。

                                 (以上、レポート=暦の会 理事 小川益男)