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◆[第384回]暦の会例会レポート      


                                    平成25年4月20日(土)2時~4時
                                    会場=五反田文化会館 
                                    出席者=16名

今月は久々に高橋正男先生に〝ユリウス暦からグレゴリオ暦〟のテーマでお話いただきました。以下はそのレジメ資料です。

◎テーマ:〝ユリウス暦からグレゴリオ暦へ〟……………………… 講師=高橋正男先生 
 
 ユリウス暦 
  BC46年






  BC46年
ユリウス・カエサル(BC100頃-44)、アレクサンドリアの天文学者ソシゲネースらの助言を得て、アレクサンドリア暦(4年ごとに閏年を設ける太陽暦)の基本を導入・実施。⇒ 古代ローマの公的な法例によって閏年を定めた最初の暦法。
ユリウス暦の平均の1年の長さ365.25日(365日6時間。1太陽年より約11分余長い。長い分は128年で1日/16世紀末までには128年で1日ずれ/400年で3日に達する)。平年を365日、4年に1度の閏年は366日。カエサルが布告した余分の1日は2月の第23日と第24日との間に挿入。

カエサル、90日に及ぶ閏日を挿入/11月と12月との間に閏日を通常の23日の他に67日の置閏を行った。1年355日+90日=BC46年は445日となる変則的な1年となった。
⇒ 5世紀のローマの歴史家マクロビウスは「最後の攪乱の年」と呼んだ。
その後神官団が置閏法を誤り3年ごとに閏年が置かれたため、皇帝アウグストゥスはBC8年からAD4年は閏を置くことを禁じ、AD8年より1582年のグレゴリオ暦改暦までは正しく置閏された。

*ユリウス暦成立当時の1太陽年  365.2423日(365日5時間48分56秒)
*グレゴリオ暦成立当時の1太陽年 365.2422日(365日5時間48分47秒)
                              (365日5時間48分45秒)
ユリウス暦の研究史(C.A.ロナン、1963〉 
1.730年 


2.11-12世紀


3.13世紀




4.14世紀

5.15世紀




6.16世紀
ベード(ベーダとも、英・ジャロー修道院の歴史家)、暦面上の春分が第1回ニケーア公会議で決められた3月21日より3日早いことを指摘。 

ウマル・ハイヤーム(イランの天文学者)、回帰年の観測を実施。
その後、アラビアの天文学・数学がイベリア半島経由で西欧に伝播。

暦年と太陽年の誤差7日以上に及ぶ。J.サクロボスコ(パリ大学の天文学者)、暦日と天体の運行との誤差を指摘、修正案を教皇に提案。R.ベーコン(英・スコラ哲学者)も論文を教皇に献上して改暦の必要を説く。R.グローステスト(英・リンカーンの司教)やC.ノヴァレ(パリの修道士)らも修正の必要を訴える。

改暦に対する問題意識まだ不十分。

1440年、J.グーテンベルク(独)、活字印刷機を発明。
15世紀中葉から活版印刷による暦書が登場。春分と暦日3月21日との誤差9日となる。1472年、教皇シクストゥス4世、ユリウス暦の改暦指導のため、J.ミューラー(独・天文学者)をローマに招聘(1476年同地で歿)。改暦作業進展せず。

ヨーロッパ天文学の急速な発展期。誤差が10日に及ぶ。
トレント公会議(1545年から18年間、伊・南チロルのトレントで断続的に開催)、教皇に対して改暦を請願。
ティコ・ブラーエ(デンマークの天文学者)、チェコのプラハに定住(1599)、J.ケプラーとともに天体の運動の計測を実施。

教皇グレゴリオ13世(在位・1572-1585)の改暦
   *グレゴリオ⇒イタリア語読み/グレゴリウス⇒ラテン語読み

グレゴリオ13世、1576年にトレント公会議が教皇庁に委嘱した「ユリウス暦修正事業」に着手。
① 春分の日の3月21日から大きくずれないようにする
② 「時」に対する教会の支配を再確認
③ 暦面上の春分が実際より10日早くなっていることを確認
 
主な委員  G.シルレト(枢機卿)、L.リリオ(ラテン名A.リリウス、伊・ペルージア大学の天文学者)、E.ダンティ(ドミニコ会修道士、数学者)、C.クラヴィウス(イエスズ会修道士、天文学者)、P.チャコン(スペイン人数学者)
改暦批判者 F.ヴィエート(仏)、M.メストリン(天文学者)、J.J.スカリゲル(伊・古典学者)
リリウス、改暦草案作成
 ① ユリウス暦からの誤差の10日を取り除くことを提言 
 ② 一度に10日のずれを解消する方法と1584年から40年かけて閏日を挿入しない方法を示し、その 選択を委員会に一任
クラヴィウス、ユリウス暦の1582年の10月から一度に10日間を取り去ることを決める。
リリウスの弟アントニオ、リリウスの「手稿改暦案」を教皇に提出。
グレゴリオ13世、リリウス歿(1576)後、クラヴィウスに改革の助力を要請。改革草案の検討を専門家達に具申。
ユリウス暦修正検討委員会、1580年、「最終報告草案」として教皇に上奏。
グレゴリオ13世、暦面上の春分の日付を3月21日とするため、累積した10日間を繰り上げることを決め、1582年2月14日付で、改暦大勅書『教皇大勅書』(『改暦回勅』)とも。須賀隆氏提供)を公布。
「……春分を3月21日に戻すために、1582年の10月のノーナエ*から数えて3日前(10月5日)より、イドゥース**の前日(10月14日)までの10日間を取り去ることを命じる」と。
 * 古ローマ暦の呼称で、31日の月では7日、それ以外では5日、この場合は10月7日
  ** 31日の月では15日、それ以外では13日、この場合は10月15日

10月4日(木)の翌日は10月15日(金)となった ⇒ 全ヨーロッパのキリスト教徒に改暦を告げ、その採用を命じた。

グレゴリオ暦の特徴  回帰年が365.2422日

改暦の要点
① 天体の運行と暦日上の10日の誤差の修正 ⇒ 次の春分は3月11日ではなく、3月21日。
② 誤差を防ぐため、ユリウス暦の置閏法を補充し、閏年の規定を改めた。
「西暦年数が4で割り切れる年を閏年とする。ただし、西暦年数が100で割り切れる年は、100で割った余りをさらに4で割って割り切れる年のみを閏年とする(つまり、西暦年数が100で割り切れても、400で割り切れない年、1700年、1800年、1900年は平年とする)。閏日は2月29日とする。」
改暦の特徴は「ただし書き」にある。西暦年数が100の倍数で、400の倍数でない年は平年にするという。つまり、100の倍数は4で割り切れるので原則閏年になるが、そのなかから400の倍数でないものを平年とする。たとえば、西暦1900年は、100で割り切れるが、400で割り切れない。ユリウス暦では閏年であるが、グレゴリオ暦では平年になる。西暦2000年は、100で割り切れて、400でも割り切れるから、グレゴリオ暦でも閏年となる。
グレゴリオ暦の1年の平均日数は、(365×303+366×97)÷400=365.2425
1太陽年との差は0.00030日、10,000年に3日。/閏年は400年に97回置く。

グレゴリオ暦の伝播
a. ローマ・カトリック諸国の改暦(1582/天正10-)
b. プロテスタント諸国の改暦(1583/天正11-)
c. イギリス・北アメリカの改暦(1752/宝暦2-、1782/天明2-)
d. 東方正教会諸国の改暦(ブルガリア・1916/大正5-、ロシア・1918/大正7-、ユーゴスラヴィア・1919/大正8-)
e. 非キリスト教諸国の改暦(日本・1873/明治6-、朝鮮・1894/明治27-、中華民国・1912/大正元-)

グレゴリオ暦の問題点
① 暦年の長さが太陽年のそれより長い。
② グレゴリオ暦の年初は、天文学的にも社会的事象とも無関係に制定。これに対して、国際天文学連合は1922年のローマ大会で年初を冬至とする変更案を提唱。日本では立春正月を目標として主張。
③ 各月の日数が28日から31日まで4種類あってきわめて不規則、四季の期間が一様でない。各種の配日改良案が提唱。
④ 毎年暦日と曜日が一致しない。各種の週の改良案や移動祭日改良案が提案。

*グレゴリオ暦は、キリスト教的要素が強く欠点も有するものの、簡便かつ天文との誤差の少ない優れた暦法であり、その成立は暦学史上最も重要な出来事であった。
 
                                        (レポート=小川益男 暦の会理事)