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暦の会[第359回]例会報告

平成成22年11月20日(土)五反田文化会館・出席者20名
[テーマと講師]
★@ 「冊子型こよみ」のいろいろ・・・・・・・・・・・・・・・小川 益男氏
★A 授時暦の敗北? 延宝三年五月の日食について・・・・・・石原 幸男氏

★@《「冊子型こよみ」のいろいろ》の要旨
  どのご家庭でも壁に吊り下げるカレンダーのほかに、本の体裁をした「こよみ」を一冊はお持ちではないだろうか。神社やお寺から戴く「こよみ」や書店に並んでいる高島易断関係の「運勢暦」を、ここでは便宜上「冊子型こよみ」と称することにしたい。手元にある30点を一覧にすると別掲の通りである。また、それらを書誌学的な幾つかの要素で分類してみると以下の通りとなる。
▼神社や寺院が発行しているもの、ある宗派のものを一括して請負い製造し、関係寺院に卸していると思われるもの、最初から一般売りを目的とした運勢暦要素の強いものなど、さまざまである。
▼発行所内訳は神社関係配布物が16点、寺院関係配布物が5点、それ以外のものが9点。
▼判型(冊子の大きさ)は多様で、B6判及びそれに近いのもの(128〜130×182〜185ミリ、113〜116×182〜183ミリ、131〜133×189〜191ミリ)24点、A5判(148×210ミリ)が4点、最も小さいA6判(105×148ミリ)1点、特殊寸法のもの(和綴じ167×263ミリ) が1点。
▼頁数別では、32頁12点、34頁1点、36頁1点、40頁4点、44頁1点、48頁1点、
64頁1点、72頁1点(広告24頁含む)、128頁1点、160頁1点、二つ折り41丁1点。
▼定価表示のあるものは4点、他の26点は表示なし。
▼企業名の刷り込みのあるものは4点。
▼「暦の会」「日本暦学会」の関係者が指導、解説、著作、または発行に関与しているものは6点。
▼印刷所名が付記されているもの11点、奥付表記がまったくないもの4点。
▼「日本神社暦編纂会編」表示が3点。ネットによれば、その会は(有)神明館と住所が同一。
    〒102-0071 千代田区富士見2−2−14−101 рO3−3262−0778  
▼「日本暦書出版協会推薦」表示も3点ほどあるが、その「協会」の所在地等は不明。

これらの「冊子型こよみ」は、12か月分のいわゆる日々の「こよみ」がメインであるが、ほかにはどんな事項が記載されているのかの分析は残念ながら間に合わなかった。今後の課題としたい。
また、「冊子型こよみ」を発行している業界は組織化されていないとのことである。したがって、毎年、どれくらいの冊数が発行され、頒布され、また販売されているのかの把握はできていない。
年末ともなると、書店の店頭には「高島易断」の名が冠された何種類ものこよみが山積みにされている。これらはどれもが主に九星による人の運勢や吉凶判断等の運勢暦を収載している点に特色があるわけだが、発行点数や部数は不明で、一説によれば合計で二千万部以上とも推測されている。
明治16年の暦からは伊勢神宮のみに暦頒布の特権が与えられたのであるが、高島易断所の「高島暦」だけは唯一、「運勢こよみ」として例外的に許可されたという。したがって、戦後、出版が自由化されてからの「こよみ」に比べれば、長い歴史を経ていることになるわけだが、その実体は明らかではない。ホームページによってある程度様子を知り得る発行所は、ほんの一握りである。
それゆえ、「冊子型こよみ」の実体の検証・分析や全容の把握は相当の困難をともなうものと思われる。しかし、この際、研究団体である「暦の会」として、可能な限りのデータを整理しておくことも必要ではないだろうか。
そこで、会員諸氏でこの30点以外の「冊子型こよみ」をお持ちでしたら、ぜひ別掲の如き書誌的データや収録内容のデータ等をご教示いただきたく、可能な限りの整理、分析をしてみたいと思いますが、いかがでしょうか。ご賛同いただければ幸いです。            (小川)

★A《授時暦の敗北? 延宝三年五月の日食について》の要旨

 安井算哲(後の渋川春海)が授時暦を推挙していた延宝三年には五月一日に日食があったが、授時暦ではこれは予報されず、従来の宣明暦での予報が当たった。これを契機に算哲は授時暦に改良を加え、これが後の貞享暦となった。
 しかし、この時の日食はどのようなものだったのか?はたして授時暦の予報は外れていたのか?これについて検証してみた。
 延宝三年、宣明暦五月一日は授時暦では閏五月一日だった。いずれにしても、この時の日食は夏至(五月中気)に近い日だった。

日食の実態
 北海道大学『日食・月食・星食情報データベース』(http://www.hucc.hokudai.ac.jp)で調べてみると、この日食は中国の大部分では正現しなかった。北京は限界ぎりぎりくらい。そして陽城(洛陽)には日食帯は達していない。したがって、中国暦の基準点である陽城で判定するなら、授時暦は外れたとは言えない。
 一方、宣明暦は年がら年中「オオカミが来る」と言ってるような暦だった。外れることも多かったが、この時は偶々当たったのに過ぎない。

渋川春海の改良−−貞享暦
 貞享暦の授時暦からの主な改良点は
  1.里差の導入
  2.近日点の修正

1.里差の導入
 これは元ゲンの耶律楚材によって暦に導入されたものである(国立天文台所蔵『貞享暦 写本7冊』)。
 春海が前例として挙げているうちの嘉保元年甲戌三月(1094年3月19日)の日食ではたしかに中国と日本の時差だけの差が確認できる。また、淳祐六年正月(1246年1月19日)の例では、日本では日没の頃に食が始まったため、観測されなかった。
 その他、春海は武江(江戸)〜南部、津軽の距離と北極出地差(北極星高度差)から地球一周凡そ11000里を算出している。ただし1間=6尺5寸としているが、これは当時の上方で一般的だった。

2.近日点の修正
 この修正は重要であるにもかかわらず、これに触れている文献は少ない。
 石原の試算によれば、延宝三年五月の日食ではこれによる授時暦と貞享暦の時間差は27分ほどとなる。一方、宣明暦の予報はかなり正確であったように見えるが、他の例を総合するとむしろ偶然である。
 この近日点修正という渋川春海の功績はもっと知られて良い。

 なお、この詳細な内容は以下で読むことができる。
http://www.asahi-net.or.jp/~jc1y-ishr/Kyuureki/Koyominokai20101120/Koyominokai20101120.html

                                                 (石原)