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● 暦の会[第362回]例会レポート
                                      平成23年2月19日(土)2時〜
                                     五反田文化会館  出席者20名

[テーマ]〈2月はどうして28日なのか?〉……岡田芳朗会長
      〈ユダヤ教暦(太陰太陽暦)の形成と修正〉…… 高橋正男先生


[岡田芳朗会長の講演要旨]――2月どうして28日なのか?

 現在、日本をはじめとして世界の多くの国で使用されている「グレゴリオ暦」の前身は「ユリウス暦」であるが、そのまた前身は「古代ローマ暦」である。
 「古代ローマ暦」の起源については、西暦前753年にローマ市を建設したロムルス王によって作られた「ロムルス暦」に由来すると伝えられている。この暦では、1年はマルティウス(現3月)に始まり、10番目のデケンベル(現12月)に終わる10ヶ月で、総日数は304日であった。
 ロムルス王の後継者ヌマ・ポンピリウス王は、これにヤヌアリウス〔現1月〕とフェブルアリウス(現2月)を加えて12ヶ月とし、1年の総日数を355日とした。フェブルアリウスは1年の最後の月であったがゆえに、帳尻合わせのために他の月より少ない28日とされた。これはローマ人が奇数を吉として、フェブルアリウス以外の月の日数を31日か29日にした結果といわれる。閏月もこの月に設けられた。



 西暦前153年に政治上の年始がヤヌアリウスに変更されたが、毎月の日数には変更がなかった。西暦前45年にユリウス・カエサルによって改暦が行なわれ、太陽暦(ユリウス暦)が用いられることとなり、年始は正式にヤヌアリウスに変更され、各月の日数にも変更があり、フェブルアリウスは29日となったが、閏日はこれまでの習慣に従ってこの月に設けられた。
 カエサルの死後、「ユリウス暦」の置閏の運用を誤り、3年1閏としたため、西暦前8年にアウグストゥスによって補正が行なわれた。またこの時、第8番目の月セクスティリスをアウグストゥスと改称したが、同時にユリウスと同じ31日とし、それ以後の月の大小を変更した。これによって1年の総日数を365日に収めるため、フェブルアリウスを再び28日とした。
 もともとフェブルアリウスの語源は、ラテン語で「お清め」とか「おはらい」という意味で、気候的にも寒くて雪や冷たい雨の降る陰気な月であったから、1日でも短い方が良かったのであろう。今日では世界の多くの人々が、古代ローマ人の始めた変な習慣を踏襲しているわけである。


[高橋正男先生の講演要旨] ……ユダヤ教暦(太陰太陽暦)の形成と修正

 パレスティナにおけるユダヤ教暦は古代のバビロニアで用いられていた暦にさかのぼる。日常生活の暦年は秋のティシュレー月に始まったが、祭事暦年は春のニサン月に始まった。ユダヤ教暦は太陽年と太陰月の双方の周期の調和の上に組み立てられた暦「太陰太陽暦」で、暦の1ヶ月の日数が朔望月(さくぼうげつ 朔から次の朔までの期間で、太陽に対して月が天球を一周する期間)になるように工夫された暦である。この暦法は、月の満ち欠けによって日を数える純太陰暦法に、季節を調節するために太陽の運行による太陽暦の要素を取り入れてつくられたものである。古来、太陰暦は宗教的に重要な意味を持ち、一方、太陽暦は季節や農作業という点で重要であった。朔望月は、29日と12時間44分3秒と3分の1秒に等しい。
 ユダヤ教では1時間は1080の区分に分けられ、各々の区分は3秒と3分の1秒に相等する。平均的太陽年は365日と5時間48分46秒で、太陰年の354日より約11日多いことになる。暦月では端数の日は数えないので、大の月は30日、小の月は29日とする。表1のように、ニサン、スィヴァン、アヴ、ティシュレー、シュヴァート、アダール(閏年)は常に大の月、イヤール、タンムーズ、エルール、テヴェート、第二アダール(閏年)は常に小の月、ヘシュヴァン、キスレヴは大小いずれにもなる。秋年正月はティシュレーの月の第1日とされた。
  


 つまり1ヶ月が30日か29日の12ヶ月で1年とする。通常の平年の日数は353日、ないし354日、355日のいずれかで、閏年のそれは383日、384日、または385日である。1日は日没から始まり、日没で終わる。季節は4つあって、各季節の始まる平均時期は、ニサン月のそれは平均太陽が春分点にくる時期を表し、その他は、タンムーズ月、ティシュレー月、テヴェート月のそれぞれは夏至、秋分、冬至点に平均太陽が来たときを表すことにしている。
 太陰暦によれば、1太陰年は太陽年より10日〜11日短い。これをどう調整して季節と祭日とを合わせるかというのが重要課題であった。そこで太陽年は12太陰月より約11日長いので、19年周期で、19年間(太陰周期)に7ヶ月の割合で閏月(アダール月の次に第二アダール月)を設けてこれを一定の秩序で挿入し、両者を調整して現在に至っている。3年目、6年目、8年目、11年目、14年目、17年目、19年目に、それぞれ13番目の月を置閏する。閏月はアダール月の次に置く(第二アダール月)。19年7閏法ともいう。ギリシア世界ではギリシアの天文学者メトーン(BC5世紀後半に活動)の発見(BC432年に夏至の観測)によって、これを「メトーン周期/メトーン法」と呼んでいる。中国でも紀元前から知られていて、19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとし、19太陽年を1章としたところから「章法」と呼ばれた(近年の閏年は、2003年、2005年、2008年、2011年3月7日〜4月4日)。暦は19年の太陰周期で一巡する。これによって太陰月と太陽年を調整している。19年7閏法は、古代のバビロニア(すでにBC9世紀に235太陰月が19太陽年にほぼ等しいことが発見され、BC4世紀までに標準化されていた)、ギリシア(BC5世紀)、秦漢時代の中国でも早くから用いられていた。ちなみに、バビロニア捕囚期(BC6世紀)以前は月名は番号で呼ぶのが普通だった。聖書には、アヴィヴ(1)、ツィヴ(2)、エタニム(7)、ブル(8)の4つが記録されている。バビロニア捕囚期にバビロニア暦の月名を使うようになったことを伝えている。
 パレスティナにおける毎月の新月の日は第二神殿時代(BC6世紀〜AD70年)には月を肉眼で観察してイェルサレム神殿に仕えていた大祭司が定めていた。新月が見えたことを確定するには少なくとも2人の証人の観測証言を必要とし、その証言を確認したうえで、それがユダヤ人コミュニティーに伝え届けられた。AD70年のローマ軍によるイェルサレムおよび同第二神殿壊滅後は、暦に関する権限はイェルサレムのユダヤ人コミュニティーの最高自治機関のユダヤ最高法院=議会(サンヘドリン)の三人評議会に受け継がれ、使者または烽火(のろし) によって全コミュニティーに通達された。遠くバビロニアの各コミュニティーへは使者が派遣され、遠隔の地へは烽火によって新年の始まりが伝えられ、イェルサレムでは東方のバビロンより37分早く新月が見えるので、ときには新しい月がバビロニアより1日早く始まった。
 閏月をいつ挿入するかという権限・告知も上記の三人評議会にあったが、使者による新月告知の制度とともに、この制度は、AD4世紀中葉、358年、総主教ヒッレル2世(在位・AD330〜365。BC1世紀〜AD1世紀の律法学者ヒッレルの眷族(けんぞく)ではない)によって天文学の研究に基づく不変の暦が決定されたおかげで廃止された。これは、不変の暦の決定と前後してビサンツ帝国当局が反ユダヤ政策の一環としてユダヤ人の祝祭日の順序を混乱させ、キリスト教徒はユダヤ教の過越の祭り(エジプト脱出を記念する春の祭り)の最初の日に復活祭(イースター)を祝うことを防ぎとめようとして、離散ユダヤ人コミュニティーへの使者による伝達方式を禁止したことにもよる。
 AD921年にバビロンのユダヤ人とパレスティナのユダヤ人との間に、年始に関する大論争が起こった。結局、ラビ・サアディア・ベンヨセフ(AD882/89〜942年)の指導によってバビロン側の主張が通り、以後、ユダヤ教暦は変わっていない。その後、年始をティシュレー月(秋月)にするかニサン月(春月)にするかという問題は、1250年にティシュレー月を年始とすることに決着した。
 なお、肉眼による月の観測によって暦月のはじめを決定する方法に代わって、計算による方法が採用されるようになったのはAD1500年頃からである。
 バビロニア・タルムードのサンヘドリン11bの項(成立年不詳)によると、ラビ(導師)たちは閏月挿入について次のように教えている。「第一に穀物が早熟であること、次に果樹が早熟であること、第三に週期が遅れていること、この3つの条件があれば閏を挿入してもよい。ただし、どれか2つ揃えば閏を付加してもよいが、1つだけではいけない」と。付加された月は第二アダール月と呼ばれ、月の日数(29日か30日)は上記の三人評議会にゆだねられた。
 イスラエルではグレゴリオ暦・西暦、ヒジュラ暦が併用されているが、ティシュレー月の第1日が新年として盛大に祝われる。
 ニサン月以後の6ヶ月はいずれの1年も日数は同じとなるので、秋正月のティシュレー月の第1日は過越の祭り(ニサン月第14/15〜第20/21日から163日後になる[表1])。したがって、過越の祭りの日が決まれば、ティシュレー月の第1日の週日は決まることになる。月はじめは、新年を目視したときに始まるが、この時刻とこの日の週日との間の関係によって決まるので、平年・閏年とも各々3種の1年が生ずることになる。

                                 (編集・整理=暦の会 理事 小川益男)

第362回例会【参考資料】石原幸男様作成・提供