戻る

● 暦の会[第364回]例会レポート
                                      平成23年4月16日(土)午後2時~
                                     五反田文化会館 出席者20名

[テーマ1]〈敦煌・顯徳2年(955)具注暦日について〉……西澤宥綜先生

 清代の光緒26年(1900) に敦煌莫高窟内の第17号窟「蔵経洞」から発見された文書類約6万点、この中に僅かではあるが「暦」の「具注暦」もあった。それらが整理研究されて、「45件」の具注暦書が明らかになった。内38件は鄧文寛の「敦煌天文暦法文献輯校」(1996年) で整理叙述されていたが、その後、愚生の研究・発見により「7件の具注暦」を追加して、計45件が明らかになった(2006年)。
 その中に、今回取り上げた「顯徳2年暦」も入っている。しかもそれは日本国内にあった。日本国会図書館蔵書目録、別冊3「新城新蔵旧蔵書目録(昭45・3月)」(WA37-9) にあったわけである。 〈(注)新城新蔵は明治6(1873)年生れ、天文学、暦学者、京大総長、1938年、上海にて没。〉
 年号、年次については既に新城先生が認定されている以上、改めて推考する余地はないかと思われるが、念のため、暦学的手続きにより私の検証をさせて頂く。
〈(注) 45件のうち33件もの暦日書が冒頭に年号、年次の記入がなかったため、後世の諸大家によって年号、年次の推考、確定がなされてきたのである。〉
 「遺書」(表1) の原本を見るに、冒頭に「一日」とはあるが、この月序は欠落していて不明である。月序は「中気」でしか分からない。「廿八日」に「霜降九月中(気)」とある。中気霜降のある月序は「陰暦九月」という原則により、冒頭欠如の部分には「九月」とあったに違いない。
 この九月一日の干支は丁卯、二十九日迄なので、この九月は「小」の月になる。次月の一日は丙申と分かるが、「なん月」であるかは次の論定による(「閏九月」もあり得るので)。
 終りから3行目「紫白図」(九宮図) の下に「自十四日立冬已(スデ)に得十月の節」とあり、「小」の月なので十四日プラス十五日で二十九日に中気小雪が入る。「小雪のある月は陰暦十月」という原則により、原本の該当月は 十 月と読める。即ち「十月の節」という表明もある。
 これを「三千五百年暦日天象」(張培瑜) の顯徳2年(955) の項によって見るに、「九月一日丙寅、十月一日乙未、十一月一日乙丑、十二月一日乙未」とある。対比するに以下の通りである。



この対照表に見ると、九月、十月は交互に干支一位差になるが、十一月、十二月で合致し、しかも閏九月は無い。  
 なお、原本末行上段に 丁 亥 とあるのは、十月が丁亥月であることを明示している。年天干「乙」の年は十月亥の上に「丁」が乗じる。なお、末行上段の「紫白図」(九宮図) の紫・白などの配置は十月の配置であることを示している。
 原則上、閏月には紫白図は記されない。よって此の残暦は、「後周世宗、顯徳二年乙卯歳(955)」と推定できる。
〈(注) 前段で敦煌暦45件のうち33件もの元号年次未詳の暦日があることを示したが、これらは皆、上記のような精密な暦学的検証の結果、元号年次が推(確)定されて来たのである。〉



時間の関係上、詳細は拙著『敦煌暦学綜論』中巻245-270頁を御覧願い度い。若干の要点のみを以下に記す。
(1) 最上段にある「蜜(ミツ)」については、これは七曜の日曜を表している。(Mitu)
  九月四日、庚午日に「蜜(ミツ)」がある。これが正しいかどうかの検算は、董作賓(とうさくひん)
  「中国年暦簡譜」の955年顯徳二年九月一日丙寅JD2070133(ユリウス通日)
   (2070134+4-1+1)÷7=295734・・・余0    (余り0は日曜「蜜」)
  よって此の蜜日は正しい。十一日、十八日、二十五日蜜も正。このように、日付ではなく「干支」によって蜜  日ほか月・火・水・木・金・土も決まる。
(2) 十二直「建」は九月寒露後は「戌」日に、十月立冬後は「亥」日に与えられている。
(3) 下段の「人神注」はその日に指定の身体部位にお灸をすると出血するという禁忌である。
(4) 上欄の各日の干支に木火土金水とあるのは、「納音(ナッチン)」五行と言う。
(5) 魁(カイ)と罡(コウ)の付く日には吉凶の暦注は記さない。
(6) 「紫白図」については、紫と白の方位は吉方で、他の色彩のつく方位は凶としていた。(清代まで)
(7) 俗字―正字  夘 ― 卯  兦 ― 亡  (以下21種は省略)  
                 (注) この稿は愚生が「中国科学史料21巻第4期2000年4期」に発表紹介した。


* 本レポートは、例会当日に西澤宥綜先生から配布された縦書きのレジメをもとに、横書き体裁に変えて編集した。 (以上、編集=小川)



[テーマ2]〈日本暦学会の報告〉……岡田芳朗会長

 桜の開花にはいま少し早い3月28日(月)、京都の八坂神社において第60回日本暦学会総会が開催された。11時から御本殿で正式参拝を済ませ、記念撮影、そして吉兆のお弁当の昼食をいただいて、午後1時から開会となった。一連の総会議事の後、古川麒一郎会長から平成24年壬辰歳の暦要素の説明があり、続く記念講演では、「長崎におけるキリシタン暦の制作について」とのテーマで、福岡教育大学名誉教授の平井正則先生がお話しなさった。以下にその概要を記す。
                     *
 フランス生まれのマルコ・マリ・ド・ロ神父は、1868 (慶応4) 年、28歳でプチジャン神父とともに長崎に渡来。隠れキリシタンの時代から行なった儀式や殉教日を記した「バスチャン暦」と呼ぶ日繰り帳(協会暦)の伝承に感動したプチジャン神父が、旧暦にグレゴリオ暦の要素を加えた正確なキリスト教暦を作り、そして命を受けたド・ロ神父は大浦天主堂に印刷所を設け、日本最初の石版印刷による暦「天主降生千八百六十八年歳次(さいじ) 戊辰(ぼしん) 瞻禮(せんれい) 記」を200部作製したという。暦には長崎26聖人の殉教日 (慶長元年12月19日〔1596年2月5日〕) が記されており、世界のキリスト教信者に長崎殉教の日が伝わるきっかけを作った重要なキリスト教暦といわれる。                     



 また、ド・ロ神父は、いっぽうで20世紀初頭にヨーロッパで販売・使用されていた機械式計算機アリスモグラフをフランスから取り寄せ、建築や編み物、教育などの事業に愛用した。
その後、ド・ロ神父は横浜に転勤し、横須賀に石版印刷所を設けるなどして、明治8年(1873)、大浦天主堂主任司祭、明治12年(1879)には現在の西彼杵(にしそのぎ)郡外海(そとめ)地区に赴任、以後、一度も故国には帰らず、生涯を外海での活動に捧げ、大正14年(1914)、74歳で逝去。その生涯の業績は、日本における福祉事業の最初の試みとして注目されている。なお、外海町にはド・ロ神父記念館があり、上記のキリスト教暦やド・ロ神父使用の計算機などが展示されている。

*上掲のキリスト教暦図版は、例会当日に会員・野口泰助氏所蔵品からのコピーが配布されたが、その資料をスキャニングして掲載させていただいた。 (以上、編集=小川)