■「2月はどうして28日なのか?」に関連して ……高橋正男(獨協大学名誉教授) 2月の28日暦は古代ローマの暦にさかのぼる。古代の著述家たちの断片的な記述によれば、古代ローマの暦の変遷は以下の通りである。 第1回目は、ローマ建国(前753年)以前に用いられていた太陰暦とは無関係な暦を、ローマの神話・伝承上の初代王ロムルスが、前8世紀に、1年を304日とし、10個の月名から成る農事暦へ替えたことである。これをロムルス暦(表①)と呼んでいる。1年が春分の日を含むマルティウスの月の第1日から始まっている(第1番目の月マルティウス、第3番目の月マイウス、第5番目の月キンティリス、第8番目の月オクトベルが31日、第2番目の月アプリリス、第4番目の月ユニウス、第6番目の月セクティリス、第7番目の月セプテンベル、第9月番目の月ノウェンベル、第10番目の月デケンベルが30日)。多くの著述家たちが言及しているローマ建国以前の太陰暦、1年10ヶ月の暦の実在の信憑性については今後の研究に俟たなければならない。 第2回目は、ロムルス王ほどではないが神話的人物と伝えられている第2代王ヌマ・ポンピリウスが、前8世紀末に、1年10個の月名から成るロムルス暦の不備を補って、第10月のあとに第11月ヤヌアリウス(29日の月)と第12月フェブルアリウス(偶数28日の月)の2ヶ月を加えて、1年を12ヶ月とし、次いでロムルス暦の30日の月は29日に、31日の月はそのままにして、1年355日から成る暦(1年の長さは12太陰月に等しい)、ヌマ暦(表②)を制定したことである。ローマ人は古来、偶数を不吉の数として嫌い、奇数を幸運の数としていたという。ヌマ暦は以後、共和政時代を通じて行なわれていた。 次いでロムルス王やヌマ・ポンピリウス王とは違って、歴史上の人物と見なされている第5代王タルクイニウス・プリスクスが、前述のヤヌアリウスを年初とする暦に改めたと伝えられている(前600年頃)。したがって、タルクイニウス暦(表③)ではヌマ暦の第1月以下第10月まで、月名は残ったまま月の順番が2ヶ月ずつ繰り下げられることになった。この12ヶ月の順序は現在のグレゴリオ暦に引き継がれている。しかるに、その後、前6世紀末には第3月のマルティウスが再び年初に戻り、1年はフェブルアリウスで終わったという。そして前153年以降は3月の第1日に替ってヤヌアリウス(29日)の第1日が共和政期の最高官職コンスルの就任日となり、公的にはこの時点から年始が改められ、ヤヌアリウスはもう一度もとの年初に戻った。しかし、その後も長い間1年はフェブルアリウスの第23日に終ると考えられていた。 タルクイニウス暦のもう一つの重要な改革は、「閏月」の導入だった。1年355日から成るヌマ暦は太陰暦だったため、暦日と季節とが一致しなくなっていた。そこで季節とのずれを解消するために、第2月フェブルアリウスの23日と24日との間に2年ごとに22日または23日の1ヶ月を閏月として交互に補充する閏月(メルケドニウス。メルケスは「報酬」「利子」の意で、清算月とも)の制度を導入した。これを2年ごとに交互に22日と23日を平年に加え、4年間で45日、年平均11.25日を加えることになる。タルクイニウス暦の1年は平均366.25日、太陽年を365.25日とすればその差はほぼ1日となる。上述の閏月の設定には一定の原則がなかったとも言われている。 その後、タルクイニウスの改暦は為政者たちの都合で閏日の挿入をなおざりにされたため暦日が狂い、ローマの終身大神官ガイウス・ユリウス・カエサル(前100-前44)の時代、前47年になると、暦日は季節よりも2ヶ月以上も進んでいた。第3月マルティウスが夏季の月となり、第9月セプテンベルが冬季の月となっていた。カエサルは、暦日と季節のずれを解消するために、12ヶ月355日に90日(第2月の23日のあとに23日の閏月を挿入し、さらに67日(注)の第2閏月を追加)を加えたので、その1年は合計445日に及ぶ変則的な1年になった。この年を暦学上では「最後の攪乱の年」と呼んでいる(5世紀のローマの文法家・歴史家マクロビウスの言) (注) ドイツのローマ史家テオドル・モムゼン(1817-1903) によれば、共和政期の暦は、前5世紀のアテナイの天文学者メトーンに先行するオクタエリス(8年周期にギリシアの暦)の形を崩した古い十人委員暦で、きわめて貧弱な数学とお粗末な運営とが結びついていたため、正しい時よりも完全に67日進み、例えばフロラ女神の祝祭が、4月28日の代わりに7月11日に祝われるまでになっていたという(長谷川博隆訳、第Ⅳ巻、491頁)。67日は前46年の11月に33日(アンデケンブリス)、34日(ディオデケンブリス)として追加挿入するとのこと。ただし、筆者未確認。前46年は355日に2月に23日(メルケドニウス)、11月に33日と34日を加えると445日となる。 第3回目が、共和政末期の独裁者ガイウス・ユリウス・カエサルによって行なわれた太陰太陽暦から太陽暦への改暦、ユリウス暦(表④)である。 カエサルは、エジプト遠征の途次、エジプト太陽暦が生まれる基準になった恒星暦/シリウス暦(シリウスはラテン語読み、大犬座〈おおいぬざ〉の首星)に遭遇、アレクサンドリアの暦学者ソシゲネスを顧問として、再び混乱が起こらないように、タルクイニウス暦を改め、前46年、シリウス暦にならって太陽暦を制定、翌年の前45年からこれを導入した。1年を平均365.25日と定め、平年は365日、閏年(ラテン語でアンヌス・ビゼックトゥス。もともとは第3月マルティウスの第1日の6日前、つまり第2月の第23日の2回目の日を指す言葉に由来)は4年ごとに古い暦の年末に当たる第2月の23日と24日との間に閏日を1日補うことで366日とした。形式はローマ暦を踏襲、年始の月マルティウスを改め、ヤヌアリウスを年首の月とした。次いで各月の日数を改め、奇数月の日数を31日、偶数を嫌うローマ人の習俗を破って偶数月を30日とした。ただし、2月は29日と定められた。ここに太陽暦の導入によって暦日と季節が一致する暦が成立した。ちなみに、天文学的には前45年の元旦が太陰暦ローマ暦の第1月ヤヌアリウスの第1日に当たる可能性があることが判明し、カエサルは改暦第1年の初日が旧太陰太陽暦に一致するようにしたと考えられている(青木信仰)。 カエサルは太陽暦導入後間もなく、前44年に、元老院議事堂で共和政権擁護者らに暗殺された。その後、故意か否かは別として、為政者が4年ごとに閏日を置く置閏法を誤り、前42年から前9年まで、3年ごとに閏年を置いたため、閏年は13回にもなり、暦日は3日のずれが生じた。これを調整したのがアウグストゥスの改暦(表⑤)である。その修正の年は前9年/8年のことであったと考えられている。 ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(在位・前27-後17、カエサルの養子)は、前5年から後4年までの間に閏年を3回省略して調整し、後8年から4年ごとに閏年を置いた。同時に、元老院はアウグストゥスの養父カエサルが自分の誕生月第7月の月名キンティリスを自分の名にちなんでユリウスと改めたのにあやかり、第8月の月名セクスティリウスを、かつてオクタウィアヌスが撃破した戦い、アクティウムの海戦(前31年。ローマの内乱の終結)に勝利を収めた記念にアウグストゥスを称えてアウグストゥスと改名した。加えて、アウグストゥスは、第8月の30日に、第2月の29日から1日を削ってその1日を加え、第8月を31日とした。その結果、第7月、第8月、第9月は大の月が続いたので、第7月は養父カエサルの月、第8月はアウグストゥスの月(自分の月)、大の月のままとして、第9月を小の月、第10月を大の月、第11月を小の月、第12月を大の月と1日ずつ増減した。そして第2月を28日に、第9月・第11月を30日に置き換え、平年を365日とした。ユリウス暦と異なった月は、第2月、第8月~第12月。前9年のアウグストゥスの改暦による12ヶ月のそれぞれの日数の配分が、ローマ教皇グレゴリウス13世(在位・1572-1582)の『グレゴリオ暦』(1582年)を経て現在に至っている。 グレゴリウス13世は、春分の日が3月21日になるように、1582年の年を暦の上から10日省いて、10月4日(木)の次の日を10月15日(金)、週の曜日はそのままとした(表⑥)。加えて、ユリウス暦の置閏法を改めて、「西暦紀元年数が4で割り切れる年を閏年とする。但し、100で割った商が4で割り切れない年は平年とする。 閏日は2月28日の翌日に挿入する」こととした。閏年は400年間に97回置くことになった。1700年、1800年、1900年はグレゴリオ暦では平年、2000年は閏年。末筆ながらグレゴリオ暦の成立は、暦学史上最も重要な改暦の出来事で、これによって誤差の比較的少ない太陽暦が実現した。 〈参考文献〉 T.Mommsen,Römische Geschichte,Bd.Ⅲ,Berlin,1856(長谷川博隆訳,第Ⅳ巻,名古屋大学出版会,2007年,第5編第11章). J.Finegan,Handbook of Biblical Chronology:Principles of Time Reckoning in the Ancient World and Problems of Chronology in the Bible,Princeton,1964(三笠宮崇仁訳,岩波書店,1967). A.K.Michels,The Calendar of the Roman Republic,Princeton,1967. 渡邊敏夫著『暦のすべて-その歴史と文化-』(カルチャーブックス35,雄山閣出版,1980年)第3章. 青木信仰著『時と暦』(UP選書,東京大学出版会,1982年)第3章. |