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■「暦の会に寄する──会員の呟き」渡邉治美(暦の会会員)

 平成八年西暦1996年、満六十歳の夏、NHKを定年退職の後程なく、暦の会に入会した。座右の書『暦日大鑑』(西澤宥綜編著)の巻末の「暦の会」のご案内を、前々から氣にしていたからである。正確に云うと、その案内を見つけた妻が「此処に入れて貰いなさい」と、私の背中を押したのである。暦研究の意欲や志があった訳ではない。動機不純な入会であることに内心忸怩たる思いのまま十余年を経ているが、良心の証として、例会の案内には必ず、出欠の返事を出している。では、何故『暦日大鑑』は座右に在るのか?祖母の撫育の賜物で、私は、毎日、夜空に月を探しているからである。又、年号が好きなのである。
 祖母のお供で墓参りに行くのが楽しみであった。祖母曰く。
「私は明治十二年五月一日生まれだが、閏三月十一日でもある。お前は昭和十一年七月二十一日の誕生だが、六月三日だ。三日月はお前のお月様。私のは十一夜月。私の父は安政四年十月二十一日生まれ。二十一日夜月は夜遅くならないと見られない。三日月は夕方に見えるだけ。私の月は四日後に十五夜となるんだ。お前の曾祖父様は弘化の生まれ。弘化元年は天保十五年でもある。丑若(うしわか)さんと云う叔父(おじ)さんがいるね。今、北支で軍務中の兵隊さんだが、大正二年丑歳(うしどし)の生まれなのに、自分は、明治四(シ)十六年生まれと云う。勘定すると、お前は、明治六十九(ク)年か大正二十五年の六月三日だね。昭和十一年で云う時は七月二十一日の方が良い。あの日は火曜日で難産でお母さんは大変だったよ……」
 米軍の空襲で東京が焼野原になるまでの五年程の間、墓参の度、又寝物語に祖母から聞いた話の数々を、五十の坂を越した辺で或る日、突然思い出し、以来今日まで、夜になると月を探し祖母を偲んで齢を重ねる内、言葉にこだわり、NHKの番組に苦言を呈し余計な心配するなと嫌はれ疎まれる老人と化した。
 新派の水谷八重子さんに、何故か呼ばれて芝居に関与するようになったら、放送屋の分際を忘れ身の程知らずに声高に、「言葉」に関して自分の思いを押付ける愚を演じ、昨年の十二月、失礼に氣が付いて身を引く決意をする始末──。妻に背中を押されて暦の会に入っても、末席を汚しているだけ──。発言を求められると、明治六十九(ク)年、慶應七十二年、元治七(シチ)十三年、文久七(シチ)十六年、万延七(シチ)十七年、安政八十三年、嘉永八十九(ク)年、弘化九(ク)十三年──そう心で呟いて発言を控えることにしている。でも、「江戸」を身近に思うことは出来る。
                              (平成二十三年六月十三日記)