暦の話題 
暦の話題トップへ
◎暦切り抜き帳

 ■腕時計にして日時計、「腕日時計」という珍品

いまはどうだろう。海外の漫画雑誌には昔、楽しくもあり、うさん臭くもある商品の広告がたくさん載っていたという。腕時計にして日時計、「腕日時計」という珍品もあったらしい◆アメリカ文学者で翻訳家の柴田元幸さんがエッセー『死んでいるかしら』(新書館)に書いていた。1㌦98㌣。影をつくる突起が文字盤に取り付けてあるのか。夜間や室内はもちろんのこと、昼の屋外でも曇り空では用をなさない困った時計である◆柴田さんの本を読んだのは何年も前のことだが、「時の記念日」(6月10日)が近づく頃になると、この時計を思い出す◆注文した料理がこなくてイライラしたり、乗るつもりの電車が遅れて青ざめたり、頻繁に腕時計を見るのは心の弾まぬ場面が少なくない。どこにいても携帯電話で呼び出される昨今、秒針も分針もない時計で過ごす一日にあこがれている人は多かろう。雨の匂いがあまりしない梅雨、せめて休日は戸外でゆっくり陽光を楽しむとしましょうか◆「きょうも締め切り時刻を守れなくてすみません。夜ですし、屋内ですし、腕日時計ですし…」。ささやかな夢である。
――読売新聞6月08日(土) より

 ■「端午(たんご)の節句」と呼ぶのはなぜ? ……おやこ新聞まめちしき

Q:5月5日を「端午の節句」と呼ぶのはどうして? /A:昔の暦は干支(えと)の十二支で表され、午(うま)の月にあたる5月の最初の午の日(5日)が「端午」だよ。「節句」は暦で5つある季節の節目のこと。この日に、お風呂に入れる菖蒲(しょうぶ)は邪気を払うとされているんだ。武道を重んじる「尚武(しょうぶ)」と同じ読み方なので、元気で強い男の子に育ってほしいという意味も込められている。こいのぼりを揚(あ)げるのは「コイが滝を登りきると竜になる」という中国の故事「登竜門」から、立身出世の願いがある。部屋に飾る兜(かぶと)や鎧(よろい)は男の子の身を守るとされているんだ。武者人形も強そうに見えるよね。
Q:楽しみは柏餅! /A:柏の木は新しい芽がでるまで古い葉が落ちないので「家系が途切れない」という意味があり、柏の葉を使った柏餅は縁起物なんだ。ちまきを食べる地域もあるよ。
――産経新聞5月5日(日) 20面

 ■「立夏」ってどういうこと? ……おやこ新聞まめちしき

Q:カレンダーの5日の欄に「立夏(りっか)」って書いてあるよ。夏が立つって、どういうこと? /A:1年を24等分し、季節の移り変わりを表現した「二十四節気(にじゅうしせっき)」の一つだね。「夏が来た」「夏が始まる」という意味で、暦の上では、今日から8月7日の立秋までが夏となるんだ。二十四節気をさらに細かく分けた「七十二候(しちじゅうにこう)」では「蛙始鳴(かわずはじめてなく)」といい、カエルが鳴き始める時期を意味するんだって。
Q:今日から夏なの!? 早い気がするけど…。/A:二十四節気は2000年以上前の中国で作られ、基準となった気候は寒冷な北部地域だったんだ。だから日本の季節とは少し違う感じもするね。でも実際の1年より11日ほど少ない太陰暦を使っていた昔の人たちにとって、毎年同じ時期にやってくる二十四節気は、田植えをはじめとした農作業のスケジュール管理に重要だったんだよ。       
――産経新聞5月5日(日) 23面

 ■「身を立て名をあげ やよはげめよ」……産經抄

「身を立て名をあげ やよはげめよ」。卒業式の定番だった『仰げば尊し』のこのフレーズにくると、目頭が熱くなってしまうという人は多い。子供たちの健やかな成長と将来の成功を祈ってきた先達たちの思いが直に伝わってくるからだろうか▼同じことは大正2年の尋常小学唱歌『鯉のぼり』の3番の歌詞にも言える。「百瀬(ももせ)の滝を登りなば たちまち竜になりぬべき わが身に似よや男子(おのこご)と…」。中国の伝説で激流を登り切った鯉は竜になる。その鯉のように、子供が竜を目指すことを願っているのである▼5月5日の端午の節句に「こいのぼり」を揚げるようになったのは江戸時代からだといわれる。初め武家が家紋の入った旗指物(はたさしもの)や幟(のぼり)を門口に並べ立てた。これにならって町人たちが鯉の幟を立て始めたのだという。いずれも子供たちの「立身出世」を祈っていた▼武士たちはもはや武功を立てる時代ではなくなった。だが武術や学問に励むことで禄高を上げることができた。立身である。町人たちも技術や商売を学び家業に精を出すことで、家産を増やした。こちらを出世と呼んだ(産経新聞社『教科書が教えない歴史』)という▲前の同僚で現白鷗大教授、高畑昭男さんは昨日の本紙コラムで、サッチャー元英首相の最大の功績を次のように指摘している。「努力すれば誰でも成功できる公平な競争社会を築こうとしたことだろう」。今の日本にも最も欠けていることだと見ていい▼薫風の空を泳ぐ「こいのぼり」は実に爽やかだ。一方で幟に秘められた歴史も思い返してみたい。明治維新という改革の奇跡的成功や日露戦争の勝利の陰には立身出世をめざし、武士や町人が競い合った江戸時代の蓄積があった。そう言えるからだ。     
――産経新聞5月5日(日) 

 ■菖蒲…………あすへの話題(国際日本文化研究センター所長・小松和彦)

五月五日は端午の節供(せっく)。現在は「こどもの日」となっているが、以前は「男子」の節供とされていた。「五月人形」の別名が「武者人形」なのはそのためである。この日はまた「菖蒲湯(しょうぶゆ)」と言って、風呂に菖蒲を入れるのが習慣となっている。/なぜだろうか。幼い頃に聞いたのは、菖蒲が「勝負」に通じ、その形が「刀」に似ているからだったと記憶している。だが、これは後世のこじつけで、その茎が薬用とされ、放つ強烈な香りが悪霊を払う力をもっていると信じられていたからであった。/もっとも、湯船に菖蒲を入れる習慣はそれほど古くからのものではない。湯船に体を入れるのは江戸時代からで、それ以前は蒸し風呂が一般的だった。しかしながら、端午の節句と菖蒲の関係はさらにさかのぼる。湯に菖蒲を入れる以前は、家の軒下等に菖蒲を飾っていたからだ。室町時代の貴族の日記に「軒菖蒲」のことが記され、戦国時代の「洛中洛外図屏風」にも庶民
の家の屋根に登って軒下に菖蒲を飾りつけている場面が描かれている。昔話にも、菖蒲の中に隠れ潜んで鬼の追跡から逃れたので、菖蒲を軒下に飾って魔除(まよ)けにするようになった、といった話がある。したがって、菖蒲は明らかに家に侵入してくる悪霊を撃退するためのまじないだった。つまり、西洋の吸血鬼を追い払う方法の一つとしてのニンニクに相当するのが、菖蒲だったのだ。この軒菖蒲の風習は、今でも所によって見ることができる。/興味深いことには、武士がこの日菖蒲を身につけたり香りを肌にしみ込ませたりしたという記録もある。端午の節供における武士(男子)と菖蒲の結びつきは、じつはこのあたりにもあったのかもしれない。
――日経新聞5月7日(火) 夕刊

 ■歳時記で「更衣 (ころもがえ)」を見ると……――余録より

歳時記で「更衣」を見ると、昔の宮中の陰暦4月朔日(ついたち)の行事とある。この日宮中では人々が装束を改めただけでない。御帳(みちょう・とばり)のかたびらを夏の装いに替え、ついたてを取り払い、畳を替えるなど御所全体の模様替えが行われたという▲今年の陰暦4月1日は今の暦で5月10日というから、明後日である。「春と夏や隣あはせに衣がへ」は江戸時代の北村季吟(きたむらきぎん)の句だが、今年の「更衣」は春と夏とに加え冬まで隣り合ったような不思議な陽気の中で迎える。つい先日は北海道から積雪の便りまで届いた▲さて現代の更衣であるクールビズはすでに5月1日から始まっている。震災による節電の必要で2年前から1カ月繰り上がったが、それが今年は何ともちぐはぐな感じなのは、やはり平年より肌寒い天候のせいか。北日本や東日本の一部ではなかなか夏姿とはいかない▲この寒さ、日本上空に南下してきた季節外れの寒気によるもので、連休中には列島各地で5月としては記録的な低温となった。その後も寒さの続いた北日本だが、ようやくきょうから気温が上がりそうだという。例年ならクールビズ商戦が本格化する連休明けである▲地球温暖化対策として環境省が始めたクールビズも9年目となる。当初は官製運動への賛否もにぎやかだったが、その後節電の必要が高まるなか新たなビジネスファッションとして無理のない形で浸透してきた。古代からの更衣の伝統がものをいったのかもしれない▲「すゞかけも空もすがしき更衣 石田波郷(いしだはきょう)」。炎暑の夏はまだまだ先だが、着替え一つで心身共に軽やかに生まれ変われるこの季節のありがたさである。   
――毎日新聞5月8日(水) 1面

 ■最先端研究の歴史を伝える――国立天文台(東京都三鷹市)……タイムトラベル

路線バスを降りて、新緑の並木道を進む。古めかしい門を入ると、ドーム形のいくつもの建物。大学や各地の天文台と連携し、最先端の研究をしている施設は、天文研究で東洋一と言われる。/威厳を放つ建物の多くは大正から昭和初期のものだ。1878年(明治11年)に現在の東大本郷キャンパスに作られた施設は10年後、東京都港区に。都会の明るさを避けるため、1924年(大正13年)には武蔵野へ移転した。/移転完了の3年前に建てられた「第一赤道儀室」は現存する最古の建物。室内の望遠鏡(長さ約4㍍)は99年まで、太陽の黒点を観測してきた。「大赤道儀室」の国内最大の屈折望遠鏡(長さ約10㍍)など、過去に活躍した観測機器も多い。天文台の広報普及員、小池明夫さん(54)は「天文学の歴史を肌で感じられるのが魅力です」と話す。/長い歴史の中では、思わぬ発見も。26万平方㍍の敷地内では、70年に7世紀中期の古墳が発掘された。それも考古学的に貴重な上円下方墳だった。天文台がこの地に移ったのは偶然だが、周囲で宅地化が進む中、古墳が壊されずに残るのに貢献した。/すばる望遠鏡がハワイに設置されるなど、日本の天体観測は海外や地方がメーン。都会にありながら、森にひっそりとたたずむ天文台は貴重だ。(諏)         
――読売新聞5月9日(木) 夕刊

 ■時は多様に流れている 異文化を知る糸口に――世界の暦 読み解く 中牧 弘充さんに聞く

[インドネシアには1年が210日しかない暦も]
世界の宗教はそれぞれが独自の暦を持ち、文化と密接に関わっている。世界では西暦(グレゴリオ暦)が標準のように考えられがちだが、暦の研究からは人々の暮らしや、価値観などが読み取れる。/宗教人類学者として、世界各地の暦を収集・研究を続けてきた。国立民俗博物館(民博)のコレクションは、約80カ国、およそ1600点にのぼる。考古学、考現学にならい、暦を考え知的に楽しむ「考暦(こうれき)学」を提唱する。/「世界の暦の研究を始めたのは1992年暮れ、インドネシアに約1カ月滞在したのがきっかけです。同国はイスラム人口が多いですが、ヒンズー教の文化的影響を受けているバリ島があるし、華僑もキリスト教徒もいる。先住民も多い。そうした様々な文化が、モザイク状に1枚の暦に記載され現実に使われていました。基本は西暦ですが、副次的にイスラム暦、さらに人々の暮らしは一巡が210日の『ウク暦』などが基準になっています。イスラム一色ではなく、文化が融合し緩やかにつながっていのがわかります」/「暦には宗教に限らず、政治文化や企業文化、民俗、教育、大衆文化などいろいろな要素が表現されています。それを読み解く作業は楽しいものです。切手やコインは国が作るものなので、お墨付きの国宝とか風景などの国民文化はわかりますが、例えば映画スターやスポーツ選手など大衆的な文化まではわかりません。暦には、情報媒体としての機能もあります」/「暦はどこの家にもある身近なもので『カレンダーに興味がある』といえば、調査研究に際して大切なラポール(相手との良好な関係)をつくる手掛かりにもなります。さらにいろいろな要素が絡むので、学際的な研究の手段として有効です。民博で暦の収集をすれば、世界の文化研究の突破口になると考え、同僚に頼んだり、海外から訪れた研究者にお願いしたりして、コレクションを続けてきました」
[カレンダーを見れば庶民の関心が分かる]
世界にはいろいろな暦法があり、人々は様々な時間をクロスさせながら、あるいはオーバーラップさせながら生きている。大阪府吹田市の自宅の書斎には、多くのカレンダーがかけられている。世界の文化を眺めることで、異文化を理解する手掛かりが得られ、国際人、地球人としての自覚がうながされるという。/「西暦と並ぶ有力な暦は世界で13~14億人が使っているといわれるイスラム暦です。イスラム暦は月の動きを基準にした太陰暦で、1年はふつう354日。一日は夕方から始まります。西暦より1年が11日ほど短いので、どんどん繰り上がっていきます。従って、ラマダンと呼ばれる断食月も毎年同じ季節に巡ってくるわけではありません。日の出の直前から日の入りまで飲食を断つので、夏だとつらさも大きくなります。イスラム暦はグローバルに拡大していますが、考暦学の立場から見ると、他の暦法や西暦などとすみ分け、衝突よりもむしろ共存の方向にあります」/「中国の人々は西暦のほか農暦という旧暦、それにイスラム教徒ならイスラム暦の3つの時間軸の中で生きています。中国では香港返還後、一国二制度のもと、香港の祝日も暦に記載されるようになり、やはり文化の共存がみられます。また、最近は高級外車と洋風の豪邸の写真をあしらったカレンダーが一般庶民には非常に人気があります。人々の関心の向きなどもうかがうことができます」/「日本でも、西暦のほかに元号、さらに旧暦もあるし、皇紀も廃止されたわけではありません。東京・渋谷の東京モスクでは西暦とイスラム暦を併記した暦が発行されていますし、中南米から働きにきている人々向けにスーパーや商店街などが独自の暦を作っている例もあります。移民などによって多彩な文化が混じり合い、国境を越えて人の交流が盛んになる現代は、多様な時間の流れをいや応なく意識させられます」
[西暦は「忙しい時の流れ」の象徴]
日本は1873年(明治6年)、西欧列強の国々に伍(ご)していこうと西暦を採用し、以来20世紀をひた走ってきた。しかし近年は、スローライフが見直されたり、旧暦を意識した暮らしなどが静かな広がりを見せる。グローバル化が進む現在、私たちは「時間」をどのように考えて生きていけばよいのだろうか。/「旧暦が見直される背景には、心の癒しを求める風潮があります。西暦は『忙しい時の流れ』の象徴です。旧暦だからといって時間の流れが変わるわけではないけれど、歴史や文化を学んだり、季節の推移を感じたりするときには旧暦の知識は有用です。グローバル化、統一的な文化だけではなくて、世界各地のマイノリティーの文化、メジャーになれない文化の背景に流れる時間に目を向けてみるのも、異文化理解の上で意味のあることです」/「東南アジアや東アジアでビジネスをしようとすれば、中国の農暦の世界などは無視できません。例えば、今年の旧正月は2月10日でした。これは毎年変わります。休暇の時期を理解しなければ商売だってうまくいきません。米国では、ほぼ全域で3月から11月にかけ約8カ月間はデイライト・セービング・タイム(DST=夏時間)が採用されており、季節によって時間が変動しているといえます」/「世界の多様な時間を意識して生きていくには、現地の生活感覚、人々の息づかいを感じる必要があります。暦はそのために身近で手軽に活用できるコミュニケーションの有力な手段です。21世紀は文明・文化が共存するバイカレンダー、マルチカレンダーの時代といえるでしょう」(編集委員・小仲秀幸)  
――日経新聞5月11日(土) 夕刊


 ■初夏の風情……プロムナード――小島ゆかり(歌人)

気象の上では、五月はまだ春だけれど、暦の上では五月六日ごろが立夏。毎年、ゴールデンウィークを境に気分も夏になる。/今年は、四月二十九日に鎌倉歌壇の会へ、五月三日四日に筑紫(つくし)歌壇の会へ出かけた。いずれも晴天にめぐまれ、湘南新宿ラインも江ノ電も、また羽田から福岡への空の便も、たいへんな混雑。例年より気温は低かったにもかかわらず、人々はカラフルな軽装でにぎやかに連れ立つ。若者たちはいちはやく、大胆な夏のファッションだ。/おそるべき君等(きみら)の乳房夏来(きた)る 西東三鬼/すこやかな生命感溢(あふ)れる、こんな俳句が頭に浮かぶ。眩(まぶ)しい新緑のなか、溌剌(はつらつ)とした薄着の乙女たちの姿が見えてくる。昭和初期にはじまる新興俳句にかかわった俳人らしい、じつに斬新な表現である(「おそるべき君等の乳房」の「君等」に、わたしはもう含まれていないことが、しみじみと残念だけれど)。/一方で、この句が終戦直後に作られたことを思うと、苦しいながらも精神的な解放感や、社会全体にアメリカ文化が拡(ひろ)がってゆく、そんな背景も想像される。/そして戦後五十年、六十年と時は流れ、乙女たちはますますおそるべき状況に……。/セク・ハラをのたまふキミが脚(おみあし)をなぜそこまでもお見せなさるか 奥村晃作/敬語遣いに思わず笑ってしまう。からかいでもなく、堅苦しいお説教でもなく、いわば真面目なユーモアが楽しい歌である。/ところで、日本の伝統的な季節の美意識として、春には花、秋には月、冬には雪、つまり雪月花というものがあるが、残念ながら夏にはない。語源は「暑(あつ)」とも言われる夏はとにかく暑いので、情緒どころではないのかしら。/しかし、盛夏や晩夏はともかく、初夏は爽やかで明るい。とりわけ、「薄暑」という季語は魅力的である。「薄暮」とは、うっすらと暑さを覚えるころ、陽射(ひざ)しも風も草木も、夏めくころの気候である。同じように「薄(はく)」がついても、薄情や薄給にはなるべく近寄りたくないが、薄暑は好ましい。/はんけちのたしなみきよき薄暑かな 久保田万太郎/「ハンカチ」でなく「はんけち」というあたりに時代が感じられる。作者は、演劇人として「文学座」を立ち上げたことでも知られる。明治二十二年(一八八九年)生まれの俳人。/この句の「はんけち」のイメージは、きれいなアイロンがけされた白や淡彩のハンカチであろう。あざやかな柄やブランド物のハンカチではない。わたしがもっぱら持ち歩くタオルハンカチなどはもってのほか。「はんけち」は、いかにもはんけちでなければいけない。/さらに「たしなみ」という言葉がなつかしい。「おっ、少しはたしなまれるんですね」というお酒の話は別として、近ごろはあまり用いられなくなった言葉だ。ここでは、慎(つつ)ましい心がけや用意の意味である。/「はんけち」「薄暑」のハ音、「たしなみ」「薄暑」のシ音がそれぞれ清潔にひびき合い、「はんけちのたしなみきよき」にひらがながよく似合う。/「おそるべき君等の乳房」と「はんけちのたしなみ」。どちらもすてきな初夏の風情である。
――日経新聞5月11日(土) 夕刊 4面

 ■月を愛でる……あすへの話題(国立天文台副台長 渡部 潤一)

月が再び太ってきた。明日は上弦。宵空に浮かぶ半月である。江戸時代までは、月を暦の基準にしていたので、宵の半月は月の「上」旬に現れる「弦」月。そのために「上弦」なので、弦の上下とは、もともと無関係である。
/月の光に癒されるのは、古くから月を愛(め)でてきた日本人の独特の感覚なのだろうか。宵の月明かりは闇を照
らす希望の光のようで、なんとなく気持ちも明るくなる。満月を過ぎ、光を失いつつある月は、上ってくるのが夜遅く、深夜になるという時間的な要素も相まって、心を落ち着かせるような輝きである。江戸時代までは、下弦過ぎの二十三夜や二十六夜の夜、月の出まで寝ずに待って、上ってきた月を拝むという月待信仰が根強かったのも、深夜の落ち着いた月光に何かを託したかったのかもしれない。/考えてみると、季節毎や月齢毎に、これほど多くの異なる名前の月を持つ国もないだろう。明日の上弦に限っても弓張月(ゆみはりづき)、恒月(こうげつ)、破月(はげつ)、片割月(かたわれづき)という具合である。田毎(たごと)の月、あるいは寒月など、眺める場所や、季節感に絡めた名前も多い。歳時記などを紐解(ひもと)くと、これでもかというほど月の異名を目にすることができるし、万葉集の時代から日本の詩歌や文学に数多く登場している。/そして、その中に悪い意味として解釈されるものがほとんどないことは特筆すべきだ。西洋では、満月の強烈な光は狼男(おおかみおとこ)をはじめ、人を狂気に誘う話が多い。英語のルナティックという言葉は、狂気の、あるいは愚かななどという悪い意味で使われるのだが、日本ではそんな話は皆無に近い。それだけ月にわびさびを感じ、愛でてきた証拠なのだろう。
――日経新聞5月17日(金) 1面

 ■「東の野」歌の意味 伊勢の帰りに見た「日」と「月」……歴史の鍵穴 佐々木泰造

『日本書紀』に書かれなかった歴史が『万葉集』からうかがえる。「軽皇子(かるのみこ)が安騎野(あきの)で宿りした時に、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が作った歌」という説明(題詞)が付いた長歌1首、短歌4首が『万葉集』の巻1に載っている。軽皇子は後の文武天皇。安騎野は奈良県宇陀市の阿紀神社のあたりとみられている。/
中でも有名な第3短歌「東野炎立所見而反見為者月西渡(巻1-48)は、江戸中期の国学者で歌人の賀茂真淵(かものまぶち)の読み方が広く親しまれているが、私はこう読むべきだと考える。/東(ひむがし)の野にしてほのほ立つ見えてかへり見すれば月西渡る(東の野にいて日の光が立ち上るのが見え、振り返って見ると月が西の空に輝いている) /人麻呂は最初の長歌で、都を後にして安騎野を訪れ、いにしえを思いながら旅宿りをなさると歌った。続く第1短歌では、旅人はいにしえを思うと寝られようかと歌い、第2短歌では、亡くなったお方の形見の地として来たという。最後の第4短歌では、草壁皇子(くさかべのみこ軽皇子の父)が馬を並べて狩りに出発された時が迫ってきたと締めくくった。/天武天皇と皇后(後の持統天皇)の子、草壁皇子は、天武天皇の跡継ぎと期待されながら即位することなく689年に亡くなった。人麻呂が歌った「いにしえ」は、亡き天武天皇と草壁皇子が少なくとも2回、安騎野を訪れたことをさすと考えられている。/『日本書紀』によると、1回目は672年の壬申の乱。旧暦6月24日、即位前の天武天皇が後の持統天皇、草壁皇子らとともに東国に向かって吉野を出発し、その日のうちに菟田(うだ)の吾城(あき)に着いた。2回目は680年旧暦3月23日。天武天皇が菟田の吾城に行幸した。草壁皇子も同行したとみられる。草壁皇子は翌年、皇太子となった。/東の野にいて見えた「炎」(火ほの穂)は、高天原(たかまのはら)に通じる伊勢の方角から昇ろうとする日の光。天照大神の子孫として天つ日嗣(ひつぎ 皇位)を継承することを期待された軽皇子をさす。「いにしえ」に草壁皇子がそうだったように軽皇子が日嗣の皇子(皇太子)となる時が近づいたと、人麻呂は歌ったのだ。/『万葉集』の巻1の歌は年代順に並んでいる。安騎野の歌の直前には、持統天皇が伊勢に行幸したとき、都にとどまった人麻呂や、随行した石上麻呂(いそのかみのまろ)の歌が載っている。『日本書紀』によると、持統天皇は692年旧暦3月6日、伊勢に行幸した。『日本書紀』には記載がないが、このとき軽皇子を連れていったのではないだろうか。だからこそ人麻呂は伊勢の方から夜明けの光が差していると歌ったのだ。/今までこの可能性は全く顧みられなかった。行幸に人麻呂が随行しなかったうえ、長歌に「み雪降る安騎の大野に」とあり、真冬のことと思われたからだ。/しかし、雪が降るのは冬とは限らない。奈良地方気象台(奈良市)の1954年以降の観測で、最も遅かった降雪日は96年の4月13日。持統天皇が伊勢から飛鳥の都へ帰ったのは旧暦3月20日。毎月旧暦17日のころ、夜明けの空に日と月がある。帰途の旧暦3月17日は太陽暦の4月11日。安騎野に雪が降ってもおかしくない。/国立天文台によると、この日の安騎野の日の出は午前5時半、月の入りは午前6時7分だった。西の飛鳥の宮の方角には月が輝いていた。草壁皇子が亡くなった翌年(690年)に即位し、「日」であった天武天皇亡き後の夜空を照らした皇后、持統天皇を人麻呂が「月」に例えたと私は考える。/今年の旧暦3月17日は4月26日。未明に車で安騎野に向かった。ちょうど日の出前に雲に隠れてしまったが、西の夜空に大きく円い月が輝いていた。
――毎日新聞5月21日(火) 夕刊4面


 ■江戸の庶民は時計など持っていなかったが……余録より

江戸の庶民は時計など持っていなかったが、市中では時の鐘が鳴るから困らなかったらしい。岡本綺堂の「半七捕物帳」には「吟味をうける者は六ツ時頃までに」「湯屋へ急いで行ったのは朝の四ツ半頃」などと時刻がよく出てくる。六ツは午前6時、四ツ半11時だ。▼とはいえ、当時は日の出から日没までを6等分する不定時法を採っていた。一時(いっとき)の長さが昼と夜で、夏と冬で異なるわけだ。定時法への変更は明治5年である。そんなマイペースの国が「世界」を意識するようになったのはさらにその14年後。グリニッジ標準時より9時間進んだ東経135度の時刻を日本標準と定めた。▼それを2時間早めようというアイデアを、東京都の猪瀬直樹知事が政府の産業競争力会議で披露した。国土の真ん中に標準時を求めなくてもいいではないか。戦略的に2時間進めれば東京市場は世界でいちばん早く開きニッポンの存在感が高まる。省エネにもつながる。明るい時間に仕事が終わり余暇だって増えるという。▼たしかに地域の標準時の設定は意外に便宜的なものだ。ロシアのウラジオストクは東京より西にあるのに2時間進んでいる。猪瀬案もあながち荒唐無稽ではないのだが、やはりマイナス効果も多々あろう。冬など会社に着いてもまだ夜が明けぬ。猪瀬さんがせっかちに時の鐘を鳴り響かせても体がついていかない気がする。
――日経新聞5月23日(木) 1面

 ■季節のことば 検定

Q:俳句では、麦秋(ばくしゅう、むぎあき)は、いつ頃の季語として使われるのでしょうか? (上級) 
A:旧暦時代から使われている二十四節気の「小満」は、今年は5月21日から6月4日まで。これを3等分した最後の「末候」が「麦秋至(むぎのときいたる)」です。/山も田も新緑のころ、麦畑が黄金色になり、収穫期を迎えます。したがって、答えは初夏です。一般に麦は冬に種をまき(季語・麦蒔むぎまき)、早春に麦の根を強くするために踏み(季語・麦踏むぎふみ)ます。「秋」は、穀物や木の実の成熟を示す場合があります。/〈麦秋や狐(きつね)ののかぬ小百姓 与謝蕪村〉/〈鳴門見て讃岐麦秋渦をなす 森澄雄〉/小津安二郎監督、原節子主演の「麦秋」(1951年)という映画があります。小津は前作「晩春」に続いて原を起用したため、2人の結婚説が当時の芸能ニュースを賑(にぎ)わせました。ちなみに、映画「麦秋」の英語の題名は「EARLY SUMMER」で文字通り初夏ですね。(川崎城春、俳人、会社経営) *二十四節気=1太陽年を24等分したもので、月の満ち欠けを基にした旧暦時代、季節の目安を知るために併用した。「立夏」から夏が始まり、続く「小満」までが初夏、「芒種(ぼうしゅ)」と「夏至」が仲夏、「小暑」と「大暑」が晩夏とされる。         ――読売新聞5月24日(金) 夕刊 2面
 

 ■星空浴の勧め――明日への話題(国立天文台副台長・渡部潤一)

星を眺めるのが趣味というと、なんだかオタクか、根暗な人間に聞こえたのは、昔の話になりつつある。学校の天文部が男性だけだった時代はとうに終わり、いまや「宙(そら)ガール」と称される若き女性たちが、積極的に星を楽しんでいる。/何が彼ら彼女らをそうさせるのだろうか。星はロマンチックというイメージがあるし、実際に本物を眺めれば美しいが、それだけではないようだ。星空に癒されるという人が多いのである。/現代社会は物質的には豊かで便利になったものの、私たちは常にあふれる情報に囲まれ、日々忙しくて、なんだか走らされているようにも思える。一方、見上げる星空は時間的にも空間的にもそんな日常とは対極の世界、なにしろ人間が眺められる最も雄大な風景である。星の光は何百年、何千年、あるいは何万年かかって地球に届く。人間にとっては永遠に思える時間も、宇宙ではほんの一瞬に過ぎない。そんな悠久の宇宙を目の前にすれば、私たちの日常の悩みや苦労が、ほんの少しだけ些細(ささい)な事に思えてくるのである。/夜空を眺め、星や月の光のシャワーを浴びて、癒される。これを筆者は森林浴ならぬ星空浴と名付けた。/星空浴は、必ずしも満点の星空でなくてもいい。たとえ都会の夜空でも、必ず明るい星や月は見える。都会のビルの間に窮屈そうに輝く星や、駅のホームでの待ち時間に見上げる月でもいい。ほんのひととき、夜空を見上げてみてほしい。場所によって、季節によって気象条件によって、あるいは自分の精神状況によっても、様々に異なる風情をもつ星空に、あなたもきっと出会えるはずだ。
――日経新聞5月24日(金) 夕刊

 ■日本標準時「2時間早く」猪瀬都知事、提案へ 「世界一早く開く金融市場に」

東京都の猪瀬直樹知事は、22日の政府の産業競争力会議で、日本の「標準時」を2時間早めることを提案する。東京の金融市場が始まる時間を世界で最も早くすることで、金融機関の拠点を日本に置く動きを促す狙いだ。政府は6月にまとめる成長戦略に盛り込むことを含めて検討に入る。/日本の標準時は1886(明治19)年に定めて以来、変更していない。しかし、海外ではシンガポールが1982年に標準時を早めるなど、政府の判断により標準時を変えた例はある。/東京の標準時が2時間早まれば、外国為替市場などが1日のうちで世界で最初に開くことになり、世界の金融市場で東京の存在感が高まるという。/また、いまは日本時間の夕方に欧州の金融市場が始まるが、標準時を2時間早めれば、東京、ロンドン、ニューヨークの三大市場で、市場が開いている時間を補完し合える。サマータイムと似た効果も得られ、エネルギーの節約にもつながるという。(福山亜希)
――朝日新聞5月22日(水) 7面

 ■鉢二つに重箱と矢の絵で、「八十八夜」……――余録より

鉢(はち)二つに重箱と矢の絵で「八十八夜」と読ませた江戸時代の絵暦(えごよみ)である。山賊が荷物を背負って走る図なら「荷奪(にうば)い=入梅」だった。当時の書物では入梅は二十四節気の芒種(ぼうしゅ)の前の壬(みずのえ)の日、出梅は小暑(しょうしょ)の後の癸(みずのと)の日とされていたという▲その間が暦の上での梅雨になるが、もちろん実際の天気はその通りにならない。天保(てんぽう)年間の随筆集には「その時には花葵(はなあおい)の花咲きそむるを入梅とし、だんだん標(すえ)のかたに花の咲き終わるを梅雨の明くるとしるべし」とある▲花葵とはタチアオイのことである。すっくと伸びた茎にピンクや赤の大きな花をつけ、梅雨葵とも呼ばれる。昔は花が咲き始めると梅雨入り、茎の花が咲き終わると梅雨が明けるといわれた。ただ実際の花期は5月半ばから8月までと、梅雨より少し長いようだ▲だが今年は東京ではタチアオイが咲き始めたと思ったら、すぐ西日本から梅雨入りの報が届いた。きのうは近畿地方が平年より10日早く、東京地方は11日早く梅雨入りしている。今の空模様だと関東甲信地方もきょう梅雨入りする可能性が高い。花暦通りの運びである▲記録的な早さの梅雨入りとなったが、3カ月予報によると6月は梅雨前線が本州寄りで活発化し、東日本・西日本ともに平年より雨が多いそうだ。先の随筆のいう通りだんだん茎を上へ咲きのぼっていくタチアオイの花だが、さて梅雨明けはどのあたりで迎えるのか▲「梅雨に入る椎(しい)の木陰(こかげ)の葵かな」は花葵を多く詠んだ正岡子規の句だ。タチアオイだけでない。どうせならアジサイ、ハナショウブ、クチナシ、カラタチなど意外に豊かな花暦を楽しみたい梅雨である。
――毎日新聞5月29日(水) 1面

 ■日本の標準時 早める話があるわね……ニュースがわからん

余暇の時間が延びるかも。でも悪影響の検討も必要だね。
アウルさん:日本の標準時を2時間はやめようって言う話があるわね。A:もともと時刻は、天体観測などをもとに各地域で独自に決めていた。だけど、鉄道が国境を越えて発達するなど、各地の時刻の関係、つまり時差を決める必要性が高まった。1884年の国際会議で、英国のグリニッジ天文台を通る経線上の時刻を世界の基準にすることが決まった。アウル:日本の標準時はどのように決まっているの? A:1886年、兵庫県明石市を通る東経135度の時刻を標準時とすることが勅令で決められた。グリニッジ標準時(現在は原子時計による協定世界時)に9時間足した時間が、日本の標準時として使われている。アウル:変えたりできるの? A:国や地域の標準時を決める国際的なルールはない。経度にとらわれず、その国の事情に応じて、標準時を独自に変えることはある。例えば、南太平洋のサモアは2011年、標準時を変えた。交易で豪州との結びつきが深まり、豪州に近い時刻にするためだった。アウル:標準時が早まると、暮らしはどうなるの? アウル:言ってみれば、サマータイム制を導入し、一年中使い続けるのと同じだ。2時間早めると、現在より朝型の暮らしになる。東京では12月の冬至は朝8時を過ぎても、まだ日が昇っていないことになる。逆に日の一番長い夏至は夜9時まで外が明るい。余暇を楽しめる時間が延びるかもね。A:悪影響はないの? アウル:サマータイム制を導入した海外の事例では、夏時間への切り替え直後に、心筋梗塞の危険性が高まるという研究もある。時刻の変更に伴ってコンピュータ―システムにトラブルが起きたり、人々の活動時間の変化でエネルギー消費が増減したりする可能性もある。多角的な検討が必要だろう。(高山裕喜)
――朝日新聞5月31日(金) 2面
 
 ■小惑星名に有田焼陶祖「李参平」 天文学者の古川さん命名

日本暦学会会長などをつとめる天文学者・古川麒一郎さん(83)=東京都在住=が、火星と木星の間に発見した小惑星に有田焼の陶祖にちなみ「李参平」と命名。1月30日に国際天文学連合小惑星センター(米国)に正式登録された。歴史認識などで日韓外交摩擦が目立つ昨今だが、古川さんは「命名が良い交流への一助になれば。日本で磁器の文化をつくった李参平への顕彰の意味も込めた」と話している。/この小惑星は古川さんが東京大学東京天文台(現・国立天文台)の教官だった1976年に発見し、これまで通し番号「16357」で呼ばれてきた。地球から約5億㌔の位置にあり、推定直径は約10㌔。4月中旬におとめ座のスピカの方向で明るさを増し、観測チャンスが訪れるという。/2016年には、李参平がいまの佐賀県有田町泉山で陶石を発見し、日本で初めて磁器を焼成して400年を迎える。古川さんは夫人が同県出身で、かねてから有田焼の歴史に関心があったという。/平井正則・福岡教育大名誉教授(69)=天文学=は「この機会に国際的に紹介され小惑星の名前として永遠に慕われることは、文化や地域の交流にもつながるはず」と話している。(平原奈央子)                   〔西日本新聞2月5日(火)より〕
 ■立川志の輔の新作落語、明治改暦をネタにした「質屋暦」

昨年の12月3日で、ちょうど明治改暦から140年が経過したわけですが、〈時の政府が、それまでの太陰太陽暦から太陽暦に替え、明治5年12月3日は、太陽暦の明治6年1月1日となった。一気にひと月分が飛んでしまったわけで、そのため庶民があたふたした模様を〉落語家の立川志の輔師匠が「質屋暦」という落語に仕立て、恒例のパルコ1か月正月公演で披露したのだそうです。機会があれば聴いてみたいものですね。
〔参考・東京新聞1/11(金)朝刊 東京版、および2/13(水)夕刊より〕