狂人日記008・横浜の関内と関外

1999.05.15 13:02(土) 曇り空

 昔、福富町(関外)のイレブン・ポイントビルに『B』という名のパブがあった。
 八年くらい前のことだ。その頃は一人で閉店まで、そこでバーボンを飲んでいた。閉店は三時だった。
「マンちゃんどうする、帰るの? これから元町に行かない?」
 店の女の子たちと閉店後は元町の『フォープレイ』というディスコに行ったりしてた。
 横浜で飲んでて、一番おもしろかったのはその頃だった。
 当時の私は二十六歳だった。店をきりもりしている女の子は二十四歳くらいの子だった。
 懐かしい思い出である。
 何週間か前のこと、野毛大道芸があった日の夕方、一人で福富町近辺を歩いてみた。
 今となっては知ってる店なんか皆無となってしまった。
 不景気なのだろう。
 あの頃はバブルの時期だったから、若い女の子がチョットお金を貯めてすぐに店を出していたりいた。若いママの店が多かった。つまみは乾き物中心だった。
 少し感傷にひたってしまった夕方だった。

  RCサクセションのマイナー曲に『よそ者』というのがある。

  ♪ 踊れば揺れる 胸に降る かなしさ
    どのくらいなんて おいら知らない
けむる 港町        
              港のみえる店 遠くに浮かぶ あんな船に乗れたら
     すぐにおまえを さらってっちまう ♪
                    
                               詩・曲:清志郎andチャボ

 少し、横浜のことを書いてみよう。
 JR根岸線に「関内」という駅がある。これは地名ではない。
 駅周辺に「かんない」という地名は存在しない。駅より海側は「尾上町」であり「相生町」、「太田町」、「南仲通り」、等となる。 逆に駅を挟んだ反対側は「伊勢佐木町」、「吉田町」、「長者町」、「福富町」等となる。
 横浜市には横浜という名の土地が存在しない。東京都に東京という地名がないようにだ。でも昔はあった。幕末から明治にかけての頃にはあった。その時の横浜が何処にあったのかといえば、現在の横浜駅(三代目横浜駅)周辺ではなく、関内である。今でもハマッ子と呼ばれる彼や彼女たちは関内のことを横浜と呼んでいる。
 伊勢佐木町モールから馬車道へと歩いて行くためには、吉田橋を渡らなくてはならない。「エッ、何処に橋があるんですか?」と言う人がいる。今の吉田橋は、誰かに教えられないと分からない所でもある。下に川が流れていないと橋を想像できない、という人もいる。昔は川があり、水が流れていた。今はその代わりに首都高速道路に車が流れている。
 何年か前、私が日ノ出町に住んでいた頃のことだ。関内あたりで飲んだ後、タクシーがひろえない時には、家まで歩いて帰っていた。フラフラと千鳥足。自販機で買ったウーロン茶片手に相生町の赤舗装を歩き、馬車道に出る。馬車道も赤舗装である。赤舗装をたどりながらゆっくりと進む。途中休憩は吉田橋でとる。ストーン・モニュメントに刻まれた文字を目で追いながら意味もなくひとりで納得して頷いていりしていた。(酔っ払いの典型。ただのバカ)
 かつて、ここに関門があったという説明文である。海側は関所の内側になるから「関内」。逆に伊勢佐木町側は「関外」である。
 
「だから、何? それがどうしたの? 関内のことなんか、アタシわかんなーーい」
 と若い女の子に、言われたことがあった。(笑)

万太郎