都響スペシャル 「日本音楽の探訪」 シリーズ第1回
2002年9月4日(水) 19時開演  東京芸術劇場
指揮/沼尻竜典
打楽器/ペーター・サドロ
合唱/東京放送児童合唱団


今日は、、日本人作曲家の都響による演奏を聴いた。
会場は、吹き抜けが大きく、きらびやかな池袋の東京芸術劇場。ここにもパイプオルガンがある。
ここのところ、クラシックづいている私の耳に、これらの曲がどう飛び込んでくるか。。。
それが楽しみである。



1.別宮貞雄:管弦楽のための「二つの祈り(1956)
席が真ん中の後ろの方というバツグンの位置だったので、オーケストラのコンビネーションを聴くには絶好だった。
開演前に見ると、なんと伊福部氏がそう離れていない場所に着席した。おおっ、お元気そうで。
さらによく見ると、その後ろ側に作曲者と思われる人たちが連なっていた。
私の席からは、別宮さんが一番近かった。そこへこの会場の支配人と思われる人がやってきて、別宮さんにしきりに『舞台に上がってご挨拶をお願いします。』と頭を下げていた。なぁ〜るほど、こうやって打ち合わせをしておくんだなと、感心して見ていた。
その別所さん、大きな声で「おいっ、舞台に上がるんかいっ?」と笑いながら答え、「しょ〜がないなぁ」と、最後は了解していた。
う〜〜ん、気さくであけすけな人なんだろうか?他の作曲者はみんなおとなしく頷いていただけに、この方のリアクションがやけに目に焼きついてしまった。

私は、別宮さんについて、こんな入り方をしてしまったため、その音楽性もさぞかし大味もしくはわかりやすいのではと、身近な人を見る目で見ていた。


第1楽章「沈痛に」
曲が始まった。それは、リズムをとる打楽器のあまりない、優雅で情緒的で美しい曲だった。クラシックなのだが、私はプログレの中間部分の演奏のように思えた。このままプログレに使える。暗くはなくてやさしくて余韻があって包容力のある曲だ。
私の貧弱な頭を最動員させて、必死に考えたら、Flower Kingsの“FlowerPower”の4曲目、「All You Can Save」が思い当たった。ゆったりしていて包み込むようなやさしさと暖かみのある曲だ。その切ないメロディにいつも胸を締め付けられている。
もっとわかりやすい曲なら、YESの「危機」の始まり部分。鳥のさえずりなどがある短い箇所だ。
Genesisやフロイドの持つ緊張感や暗さはみじんもない。
それを長いことやっていたので、いささか冗漫な印象はあったが、その方向性は私の好きな方面を向いていた。ヴァイオリンは、伸びやかに気持ちよく弾いていた。


第2楽章「雄々しく」
こちらは、もっと力強く、アップテンポになっていた。
聴き込めばもっと感想が書けると思うのだが、第1楽章の印象が強くて残念ながらあまり覚えていない。
もちろん、打楽器や金管楽器が多用されていた。


2.田中利光:「サドロ・コンチェルト」(1990)
今世紀最大のパーカッショニストとの呼び声高いペーター・サドロさんをフューチャーした曲である。
私は、彼が伊福部氏の「ラウダ・コンチェルタータ」の演奏を当初予定していたのに、突然変更したので、その時からいい印象を持っていない。
なぁ〜にが今世紀最大だぁっ!!
私はそのために25回も聴きこんだんだぞぉ〜〜っ!!
きっと、自分の思い通りの演奏ができなくて、名前にキズがつくとマズいと思って逃げたんだな。^^;
まぁ、悪態つくのはこの辺にしておこう。それより演奏を楽しもう!

彼は、ボディがまるでお相撲さんのような巨漢だった。顔と手と足は細い。けれど下腹部の出っ張りはちょっとねぇ〜。顔も、ロッキー4の宿敵“ドラコ”に丸みを持たせたような角切り頭に、ツンと突き出た鼻。眼光鋭く冷淡そうな目。、生理的に好きになれないルックスだった。
ルックスで人を判断してはいけないとは思うのだが、そう思ってしまった私はミーハーです。^^;
彼の演奏している姿をあまり見たくなかった。速いし確実だと思う。テクニカルでもあると思う。でも、マリンバのキメの一発を弾いたあと、かがんでいた上体を起こしてこちらを見るのだが、好きな人にはたまらなく魅力的に見えると思うのだろうけど、私には“どうだ!”と勝ち誇って胸をそらしているだけにしか見えない。そんなに自己顕示しなくてもいいのにと、マイナスイメージばかりがつきまとう。
しかも、真っ赤のマレットが、まるで長いマッチ棒のように見えて、それを叩くと危険な気がして、どうにも落ち着かない。ストレスまでたまってくる。

曲は、変リズムでもあるが、やたらと単調に感じた。
音を低いところから高いところへ、早弾きで段階的に音程を上げていく。その反対に音を下げていく。
メロディを感じないのだ。実験的な音でもない。ひどい言い方をすると、サドロ・コンチェルトはマリンバを叩くための練習曲だ。始めはトモレロ奏法が続き、その後は力強い早弾き。
途中、トムトムとかボンゴのアフリカ調のパーカッションが入り、サドロさんもそれに呼応して太鼓を叩いていて、いいアクセントになっていた。あれをもう少し続けてくれても良かったなぁ〜。

マリンバのパートにはオーケストラはそれほどついてこなかった。マリンバは弾くと、それと同じメロディをオーケストラが弾くといった場面もあり、前衛的な曲でもあったため、並列的に演奏していた感があった。
ちょっと退屈だった。


3.外山雄三:管弦楽のためのラプソディ(1960)
日本の民謡が織り込まれている曲だ。
「あんたがたどこさ」や「ソーラン節」はわかった。他に「炭鉱節」や「串本節」「信濃追分」「八木節」があったらしい。
サドロさんは巨漢で、まるで口をあけた大クマのようなイメージがあるが、対する指揮者の沼尻さんは、37歳と言う若さもあるが、やや細身だし背は高くないし穏やかなやさしそうな顔をしているので、おとなしそうな動物のようだった。
たとえて言えば、きつね。また、踊るような軽やかなステップで指揮をするので、うさぎのようでもあった。

そんな彼の持ち味が一番発揮されたのが、この「管弦楽のためのラプソディ」だと思う。
ソーラン節は、ここのところ耳にする現代調にアレンジされた、ややロック混じりの軽快なものだ。
耳なじみが良く、まるで民謡メドレーのように、テンポ良く曲が進んでいく。とっても楽しめた。
途中沼尻さんがまるで阿波踊りのように両手を上げて指揮をしていた。それが誰が見てもそう思えたのだろう。前列のオバさまが隣りのオバさまに「あの指揮者。。。」と耳打ちした。とその時、私の隣りのオジさまがそのオバさま達の肩をすかさず叩いた!いやぁ〜、早かったわぁ〜。まるでボクもその話入れてとでもいうかのように。でもそれは「私語は慎め!」の警告だったですね。クラシックの演奏会では、厳しいわぁ〜。私は一人で見ていて正解だったかも。^^;
けれど、この阿波踊りの場面は楽しくてノレて微笑ましかった。民謡でも、リズムがつくとまた違った曲になるのだと思った。


4.伊福部昭:日本狂詩曲(1935)
この日、一番楽しみにしていたのがこの曲だった。
伊福部氏19歳の時の作品!チェレプニン賞受賞の彼の初のオーケストラ作品!!
曲の合間に、打楽器担当の人がぞろぞろ入ってくる。

聞きながらまず思ったのは、このようなやり方で演奏しているんだなということ。
ビオラのソロから始まった第1曲「夜曲」は、ビオラのしっとりとした音色が寂しげであり、美しい。
それに太鼓やチェロやフルートなどが次々と加わる。遠くからお囃子がやってくるイメージが確固たるものになった。
ビオラがソロを弾いている間中は、ヴァイオリンはお休みである。それが後半になると、ヴァイオリンがメインのメロディを奏で、ビオラやチェロはお休みになる。
その対比に少し驚き、また楽しめた。
生の演奏は、このような演奏を見て楽しめるとあらためて思った。CDでは見えてこなかった音も見えてきた。良い演奏だった。
最後の2台によるハープの音色が私は好きなので、もっと大きな音でやってくれたら、もっと良かったな。

第2曲の「祭り」は、これまたいろんな奏法のオンパレードで、弦楽器は弦を弓で弾くだけじゃないとつくづく思った。
コントラバスやチェロは、ボディを叩き、その音が回って会場のあちこちから響いてくる気がした。ちょっとしたトリップだ。
ヴァイオリンは、指で弾くのを多用していた。1/3くらいが指による演奏のような気がした。バスやチェロまで指で弾いていてその柔軟な演奏方法に驚嘆した。音に変化をつけるために弾くのかと思ったのだが、これは弾く音がこの曲には必要なのでたくさん取り入れたのだと思った。祭りの賑やかさ、足取りの軽快さ、勇ましさを表現するのにうってつけだ。
ただ、音があまりにも密集しすぎていて、私にはメロディがなかなか拾えなかった。音が混じったりつぶれたりしているように思えてならなかった。

“おかしい、こんな曲じゃない”と違和感を感じていた。
それは何から来ているのか?
いろいろ考えたが、きっと指揮者によるのだろう。
さきほども書いたが、沼尻さんの指揮は、軽めのリズミカルな曲には真価を発揮する。けれど、「祭り」のような大音量を必要とする曲には今イチなのだ。
私の希望点を書いてしまおう。それは、もっと音を上げてほしかったのだ。そして、もっとテンポも上げてほしかった。
きれいな演奏で、すっきりしているようにも思えた。でも、この場合は力まかせにぶちかましてほしかったのだ。
私のサッカー観とはまるっきり逆だが、ここ一番ではテクニックよりも力で押していってほしい。
沼尻さんは、思いっきり手を振り下ろして彼のマキシマムを表現していたのだが、どうもやっていることが決まっていてカッコ良すぎる。なりふりかまわずじゃない。
それが好きな人もいると思うが、私の好みじゃなかったということだ。
これが佐渡さんだったらどうなっていただろうか?スペシャルゲストがサドロじゃなくてサドだったら良かったのにぃ〜。(((((((((;^▽^)


5.三善晃:童声合唱とオーケストラのための「響紋」(1984)
ラストのこの曲には、東京放送児童合唱団が100人くらいずらずらと登場してきた。
合唱つきかぁ〜、あまり気乗りしないなぁ〜と思ったが、まぁ聴いてみよう。

この純真そうな子供達がいきなり歌い始めたのが「か〜ごめ かごめ〜」
それを低いトーンで抑え気味に歌う。「かごめ」はわらべ歌の中でも意味不明で、私が知っている意味は不気味なものなので、身の毛がよだってきた。
さらに「かごめ」は続く。オーケストラが入ってくる。コーラスが抑え気味なので耳をすましている中に、大音量が響き渡る。リズムもメロディも追う余裕がない、大迫力でいきなりどっか〜んと攻撃を受けた。
曲が進むにつれ、コーラスはだんだんと声を上げ、音程も上げてきた。同時に、右と左で輪唱のように呼応しながら続いていった。コーラスは美しい。穢れを知らない少年少女たちが心を込めて真剣に歌えば歌うほど、私のからだはゾクゾクしてきて、鳥肌が立ってきた。彼女達は、意味を知っていて歌っているのだろうか?
私が知っている意味は、

   
身重の女(籠女)のおなかの中にいる赤ちゃんは、
   いつ出てくるのだろう?
   それはいつなのかわからない(夜明けの晩に)
   でも生きて出てくるのは叶わなかった(鶴と亀(おめでたい象徴)がすべった)

   
というものだった。後ろの正面だあれというのは、いくらでも考えられる。水子が後ろについてまわっているというのと、赤ちゃんが後ろ何だか正面なんだかわからない。→男か女かわからないというのと、後ろめたい気持ちでいつもいることを暗示している。。。
いずれにせよ、あまり気持ちのいい歌じゃない。

その歌に、今度は「なべなべそこぬけ」のわらべ歌がいっしょに混じって歌われた。
これは、単に遊び歌だと思っていたが、「かごめ」といっしょになると、まるで“なべ”が“おんな”のことで、底が抜けた→病気とかで役に立たなくなったら、帰りましょ→実家へ帰してしまいましょ という恨み歌のようにも思えてくる。
とても不気味だった。

オーケストラがまるで効果音のように前衛的で攻撃的な音を連発していると、自分の後ろの正面に“なにか”がいるような気がして震えてきた。
コーラスが一通り終わると爆発的な効果音が始まるのだ。あまりの衝撃に心臓が止まりそう。。それは、沼尻さんが振り上げる腕を見ると、いつその音が放たれるのかがわかる。腕が降りあがるのを見るたび、「もう勘弁して〜!もうやめて〜!!」と心が叫んでいた。
けれど、コーラスはその手を緩めない。さらに声が大きくなり、絶妙なハーモニーで空気がビリビリし、音に一段と広がりが出た。まるで異次元空間を感じさせる。

トリ肌は立ったが、それが恐怖の鳥肌なのか、感動の鳥肌なのかはよくわからなかった。
わかるのは、わらべ歌を導入して人数をかけて丁寧に歌えば、とんでもない効果が出ること!今までにない表現ができること。それらはすべて“子供”の純真さ、素直さ、純朴さ、真っ直ぐさを利用したものだろう。
余計なお世話だが、この子らが大きくなってその意味を理解した時、子供達の親がこの演奏を見たときにどう思うのだろう?知らずに利用されたと傷つかなければいいのだけれど。