伊福部昭 
九十歳[卆寿]を祝うバースディ・コンサート



5/31(月) 午後7時開演 サントリーホール
日本フィルハーモニーオーケストラ



フィリピンに贈る祝典序曲(1944)(約15分)

日本狂詩曲(1935)(約16分)

SF交響ファンタジー第1番(1954/1983)(約15分)

交響頌偈《釈迦》(1989)(約45分)


指揮:本名徹次



伊福部昭先生、お誕生日おめでとうございます。

今日は伊福部昭氏の、90回目のお誕生日記念演奏会だった。
この演奏会のチケットは、ある方の好意によって贈られたものだ。
このような演奏会に参加させていただけたことを、深く感謝する。

例によって、私は伊福部作品をそれほどは知らない。それでもレビューを書いてしまおうっていうのだから、我ながら恐れ入ってしまう。


フィリピンに贈る祝典序曲

ステージ中央の前面に置かれた2台のグランドピアノにまず圧倒される。
指揮者の本名さんは、互い違いに置かれたその2台のピアノの後ろに立っていた。
演奏が始まってまず感じたのは、音のバランスがいいこと。歯切れが良くて、きびきびと音が立ち上がっている。
指揮者がそのようにさせているのか、日本フィルハーモニー交響楽団の実力なのか、サントリーホールの構造のおかげなのか、音色そのものにツヤがあって、ふっくらと華やかに広がりのあるサウンドを奏でていた。なのに、音と音のつながりが明確でメリハリもある。寸分の音のズレもない。聴いていて気持ちが良かった。

静と動の対比が見事で、時に強く、時に柔らかく、変拍子を交えて曲が展開していくさまは、スリルまで味わえた。

私は伊福部作品は、日本調のサウンドが混じってくる点が、どうもなじめずにいた。日本人だというのに、違和感まで感じてしまうのだ。
西洋のリズムに日本音階が使用された曲なら違和感なく聴けるのだが、日本調のリズムというか、民謡にも通じるリズムに乗った曲だと、それこそ民謡やお囃子の類に聴こえてしまい、音楽とは別の次元になってしまうのだ。
子供の頃、日本古来の曲よりもクラシックが身近だった背景が原因なのかどうかわからないが。。

それが、『フィリピンに贈る祝典序曲』では、まさにクラシックを超えた音楽を感じた。
作曲してから60年も経っているのに、むしろ現代感覚があるようだ。
他の人がどう思おうと、私はそこにプログレッシヴ・ロックを感じた。
それは、クラシックでくくれない、天衣無縫さである。無国籍さである。
私は、今まで聴いてきた音楽の何に一番近いのかを無意識に考えていた。が、何も出てこなかった。オーケストラを使用しているのに、不思議な浮遊感と構築された空間があった。これが歯切れ良く登場するのだ。次のフレーズが静なのか動なのかの展開が読めないし、どこに連れて行かれるのだろうかの感覚が不安だという気持ちは全くなく、むしろ楽しくて、先の展開をワクワクしながら待っていた。おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさである。

多分、フィリピンへ贈る立場上、「日本調的な部分」は極力取り去ったんだろうと、私は勝手に解釈した。なるほど、日本的な味付けでよくわからなかったが、伊福部氏の音楽には、他の人にない無国籍なオリジナリティがあるんだと今更ながらに理解した。基本的な部分だけを拾って聴けばわかることだったのだ。
これに、エレキ・ギターが加われば、最高の楽曲が出来上がる!!!!!(Kaipaとかね)
クラシックの持つ可能性と、伊福部昭氏の奥の深さを再認識したのだった。


日本狂詩曲

日本狂詩曲は、都響の芸術劇場に次いで2回目。
今回は、前回と比べることも出来、余裕を持って聴けた。
私は今回の方が好きだ。
まず和太鼓のようなパーカッションがいい。1連の太鼓のあとに鈴が鳴り響く。ものすごく小気味良く、こんな曲だったっけと新鮮な気持ちで聴いていた。

本名氏の指揮は、体全体を使ってはいるが、特に繊細な手の使い方がうまいなと思った。
体の内部に芯が1本通っていて、重心がズレないし、頭もフラつかない。
安定感があって上品だ。それではダイナミックさはどうだろうかと見たら、これも問題なかった。
見た目には、もっと全身を使って汗をかきながら指揮してよと思えたのだが、出てくる音に迫力があったので、私の求めるものが大げさなのだろう。

「夜想曲」で、途中ピアノが“ラ”や“レ”に1音ずつ入るが、これが真横に鋭く静寂を切り裂いていき、はっとするような衝撃を与えていた。ただ美しくてもの哀しいだけじゃないぞと、一石を投じているかのようだった。

今回、レビューを書くために、CDを聴きながら書いているが、サントリーホールでの演奏と明らかに違ってびっくりしている。
パーカッションの音の強さの違いもあるのだが、CDの音はもの哀しい。これに尽きる!!
CDは、まるで祭りに参加せず、外部から眺めていた様子を描写したようだ。祭りに携わっている内部からほとばしるエネルギー、今の瞬間を楽しむべきというパワーは、前面的には感じられない。それよりも、祭りという一時的な楽しみ、この楽しさはかりそめ的なものとの認識を持って、終わったあとの祭りの様子なども踏まえつつ、だからこそ今を楽しまなくちゃというもの哀しさを感じてしまった。ナマの演奏とCDの違いはあるのだろうか?

卒寿演奏会では、もっと生き生きしていた。
日本狂詩曲は、日本の伝統芸能である“祭り”の期待感、あわただしさ、迫力を見事に表現していた。
パーカッションが賑やかに鳴り響き、バスによる低音もしっかりと土台を築いていた。
何よりも歯切れが良い。弦楽器は優美に金管楽器は鋭く縦に横に広がりを持たせる。この金管楽器とパーカッションがかさにかかって攻撃してくるさまにゾクゾクした。
本来、祭りとは荒々しいものだ。最近よくあるイベントではなく、生身の人間が大自然への感謝と神への鎮魂の気持ちを込めて、全身全霊で体感し、表現するものだろう。けが人だって出る。
祭りの基本的な部分を、この日の演奏会で思い出すことができた。

CDの演奏よりも、曲から受ける祭りの規模というか、参加人数が遥かに多いのだ。
それらは、演奏の勢いとスケールの大きさ、鮮明なパーカッションによる。


SF交響ファンタジー第1番

ご存知、ゴジラはじめ、映画音楽のオンパレードである。
しかし、私は米寿記念で聴いたくらいでまともには聴いていない。
『なぁに、伊福部作品の中で、SF交響ファンタジーも聴いてないの?』と言われそうだが、事実だから仕方ない。
ということなので、自由な感想を述べてしまおう!

出だしからゴジラを思わせる低音の連続は、意外とあっさり出現するゴジラのテーマソングへの期待をいやが上にも増長させる。ゴジラからの展開で、ずっとこのまま低音で行くと思いきや、7拍子かと思われるゆったりした曲に変化し、これもありきたりの曲のままでは終わらないぞと思った。
私はこの、不思議な7拍子のゆったりした曲が気に入った。ハープの音色が幻想的だった。

曲紹介を見ると、映画音楽のメドレーのようなので、一貫性はないのだが、終始低音を基調にした重厚さが印象に残った。
低音の部分では、あくまでもシンプルに、リズミカルに響く。音の繰り返しが、強烈に主題を訴えかけてくる。

映画音楽を聴く人には、インデックス的な作品だろうが、私は1単位として聴いてしまった。
そのため、比較的わかりやすく、親しみやすい曲に聴こえた。
伊福部作品としては、とってもわかりやすい。
1954年から1983年の作品と、30年間もの幅があるのに、その時の流れは音には全然影響していなかった。
映画界では、特撮からコンピューターグラフィックへと変貌を遂げていたというのに。


休憩の前に

指揮者の本名さんが、ごあいさつをした。
指揮をしている時は、りんとしたイメージがあるのに、あいさつになるととたんにへにゃへにゃしていた。
足をだらしなく曲げ、指揮者用の背もたれに寄りかかって、背筋まで曲がっていた。
そして、照れるのか、盛んに髪を触っていた。
う〜ん、指揮中(ていうか後ろ姿)はカッコいいのに、台無しだ。^^;

その彼が、目線を客席の1点にやると、そこに伊福部氏が入場してきた。(フィリピン〜の後のこと)
SF交響ファンタジー〜の後では、「素敵なお客様がお見えになっています。」と、また視線を客席の1点に向けると、そこに な、なんとゴジラがのっそり入場してきたではないか!!
ちゃんと花束を抱えていたのがかわいいね♪
客席はすべて割れんばかりの拍手だ。中には立って拍手し続けるおじさまがわんさかいた。(^^)
みんな、90歳を迎える伊福部氏を、心から祝福しに来たのだろう。
そ〜いや、開演15分前だっていうのに、当日券を買い求める人たちがたくさんいた。
客席も1階は満員、2階も80%は埋まっていた。

そして、休憩になり、伊福部氏の姿を間近で見ようと、おじさま、おばさま方が伊福部氏の座っている通路へ殺到したのだった。
う〜ん、私だって俊輔がいたなら、人が多くてとても近寄れないとわかっていても並んじゃうから、気持ちはわかるよ〜。

ロビーに出たら、今度はビールやワインに行列だ。中身は。。。サントリーだろう。(^^)
(コーヒーもあり。BOSS??)


交響頌偈《釈迦》

さぁ、知らない曲はまだ続く。
今度は90名もの男女の合唱団が入ってきた。それが向かって右側の奥に集中する。
その合唱団の中にヨハニちゃんがいるというので、探してみた。いた!!端の方だった。
楽曲は、それまでの歯切れの良さが打って変わって、なめらかな糸を引くような、弦楽器主体の音となった。たとえると、薄絹のヴェールで包み込まれている曲。――常に弦楽器によって音が鳴り響いている。上品だと思うが、そのために中身がはっきりと把握できない。ヴェールが切れてしまうので、鋭利な打楽器も多用できないってところだ。
リズムというより、メロディというより、ハーモニー重視。
う〜ん、どちらかというと苦手。
私の中では、王道のクラシックである。(弦楽器主体ということで)
あまり長く続くと眠くなるかも。。。^^;

そんな心配は、合唱が入って解消された。
やっぱりというか、合唱が入るまで主役だったオーケストラは、合奏が入ると脇役に徹する。指揮者の本名さんも、合唱団に体ごと向けて入るタイミングを伝えていた。
合唱も楽器のひとつとして機能していたのがおもしろかった。
ヨハニちゃんはですね、きちんと大きな口をあけて歌ってましたよ〜。

さらに、チューブラベルズが2台入ってきた。
同じ音をユニゾンで何回も繰り返す。まるで教会の鐘のようにエキゾチックな響きだ。それが何とも心地良い。
完璧に合わせていた2台のチューブラ・ベルズだが、1度だけ音がズレたことがあり、なぜか「見〜つけちゃった♪」って感じでとってもうれしく思ってしまった。(←バカ)
しかし、あまり長く続くと退屈になる。あともう少しで退屈っていう絶妙な時に、チューブラベルズは終わった。

第3楽章くらいに美しい場面があった。詳しいことは忘れてしまったが、その後に、主題のような第1楽章が入ってきた時、すごく感動したし、精神が安定していくのを感じた。これが釈迦のチカラ??
旧約聖書の「ヤコブの梯子」のように、上空から光が差し、天に開かれていく様子さえ思い浮かべた。
釈迦というので、日本調なメロディラインを想像していたが、むしろ西洋のメロディラインに近いと思う。
どこがどのようには、あと10回聴いてみないとわからないと思うが。
ここでもホルンやチューバの金管楽器が目立っていた。重要なパートはほとんど金管楽器に任せていたような。
もしかして伊福部氏は金管楽器に比重を置くのだろうか?それとも、金管楽器はよく響くので、自然に目だってしまうのだろうか?

《釈迦》はとっても美しいし大曲だと思うのだが、この次に登場したアンコール曲によって、ぶっ飛んでしまったのだ!!
(注:のちに調べたら、V(第3楽章)までしかなかった。知らない曲だとこれだ。)


アンコールはっ!!

演奏が終わって拍手の嵐のあと、本名さんが2回ほど引っ込んだ。
そして2回目に登場した時には、楽譜を手にしていた。
すぐに演奏が再開された。
それは。。。。いきなり前触れもなく、シンフォニア・タプカーラの第3楽章を演奏しだしたのである。
ま、まさかシンフォニア・タプカーラが聴けるなんて!

私の一番好きな伊福部作品、それはシンフォニア・タプカーラ。
楽団は、それをアンコールらしい肩の力の抜け具合で、見事に演奏していた。
第3楽章は、始めの3音くらいで判別できる。(多分) イントロクイズにも充分耐えられるのだ。
一番聴きこんでいる曲だから、頭の中で鳴る音と完全に一致する。
うん、いいね!気がつくと頭を振っていた。

それまでは、広大な北の大地を思わせていたタプカーラだが、この日は違った。この世に存在するあらゆるものを認め・慈しむような、スケールの広がりを感じた。いわば賛歌だ。
伊福部氏への賛歌&応援歌だとしたら、拡大解釈のしすぎだろうか??

ここで太鼓がガツンと来て、フルートが力の限り吹きまくって。。と、ひとつひとつを確認するような聴き方になってしまったので、以前のような素直な感動から遠ざかってしまったが、やっぱりいいものはいいっ!!!!
私はシンフォニア・タプカーラのダイナミックさが好きだと痛感した。