平成14年6月23日付け朝日新聞の書評


伊福部昭・タプカーラの彼方へ


        木部 与巴仁 【著】     (ボイジャー・3200円)


 『伊福部昭・音楽家の誕生』に続き、今年米寿を迎えた作曲家の戦後の歩みをたどる。一種の連作ではあるが、必要と思われる部分には説明が加えられているため、単著として充分体裁をなしている。
 作曲者自身が直接語る部分が多くあり、そこから扇形に展開してゆく。戦後のヨーロッパ前衛に追従する音楽界と自らとの乖離、ほとんど作品を発表しなかった時期、新たな聴衆との出会い。あるいは早坂文雄、三浦淳史といった旧友をめぐってのエピソード。
 戦後の日本現代音楽史といえば、前衛・実験的な側、モダン、ポスト・モダンからの記述が往々にして目立ってしまうのだが、本書はむしろその裏、あるいは逆の、プレ・モダンとでも呼びうる位置からの記述、といえようか。
 しばしば伊福部の丁寧で穏やかな「・・・・・・ねぇ」「・・・・・・といえばいえるんですが」といった口調が生かされているのも感興を添えている。
  小沼 純一 (文芸評論家)



この書評を読んで。。】
私の応援している木部与巴仁さんの「タプカーラの彼方へ」の書評が朝日新聞に載ったのは、とってもうれしい。オンデマンド本という、特殊な販売方法をとっているので、一般にはなかなか目につかないと思うが、こうして新聞に取り上げられたことによって、興味を持つ人達が出てくるだろうと期待するからだ。
じわぁ〜〜っと感慨深いものがある。

kibegrapyによって、「タプカーラの彼方へ」がこの世に誕生するまで、さまざまな紆余曲折があったことを、私なんかでも知っている。
木部さんの苦悩、どうやって本と言う形にするのか。。
本になるとわかってからは、校正はどうするのか、締め切りに間に合うのかなど、問題は山積であった。
それをひとつひとつクリアして出来上がった本だからこそ、さらに感慨深い。
私はその本には全然携わっていないのだが、完成するまでをリアルタイムで追ってきたので、まるで自分が関わりを持ったかのようだ。事実、木部さんがこんなに大変な思いをして出来上がった「タプカーラの彼方へ」だから、広くさまざまな人達に知らせたいという思いがある。
彼の熱心さ、誠実さを知るにつけ、応援したくなってきたのである。

その思いがあるので、「タプカーラの彼方へ」の書評が掲載された感想は、一言では表すことができない。
驚きとともに、作品が認められた感がどうしてもするのである。
作者ではないのだが、ものすごくうれしいのだ。
これは、きっと、kibegrapyを読み続けた他の人も同じではないだろうか?

ただ悲しいかな、私は書評というものに慣れていない。
半分くらいまでは、そうだった、そうだったと共感を持って読んでいた。
が、「本書はむしろその裏、あるいは逆の、プレ・モダンとでも呼びうる位置からの記述、といえようか。」とは、どういう意味なのかピンと来なかった。
Rock好きな私には、まず、モダン、ポスト・モダンという言葉からしてなじんでいない。多分、今までにない、新しいタイプの、前衛的要素のある音楽だろうとは察しがついた。
なら、プレ・モダンは何なのか??
モダンの反対、あるいはモダンが出現する前の音楽だろうとは思う。そしたら、それはいったい何を意味するのか??
残念ながら、書評ではこれに答えてくれない。このくらいわかる人間じゃないと、書評は読んではいけないのかなと感じるほどの冷たさだ。

私は、すでに「タプカーラの彼方へ」を読んでいるので、この意味には答えられる。
それは、伊福部氏が子供の頃から、北海道への移住者たちの民謡と、ヴァイオリンを通した洋楽と、アイヌの音楽を区別することなく聴いてきたことに起因する。
このような、かつての日本人が持っていた力強い古来からの伝承音楽や、歌や詩や踊りが一体になったアイヌの音楽や、ストラヴィンスキーなどの形式のない自由奔放なクラシック音楽が渾然一体となったのが、伊福部氏の音楽なのである。
ルーツは古い。だが温故知新という言葉があるように、古くからの音楽であってもそれらの特徴を生かしながら高めていけば、今までにないオリジナリティ溢れる音楽ができるのである。

伊福部氏の音楽は、まだわからない点が多い。
聴くたびに新しい発見をする。
理解できるようになるまでに、何十回、何百回聴けばいいのだろう。飽きがくるどころの話じゃない。
その理解を手助けするのがこの本なのである。
そしてこの本によってさらに深く聴き込むことができるのだ。