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品川の変遷の簡単な流れとわが町の縁起

情報提供:永井孝次氏
参考資料:品川町史・品川区史料・品川警察署100年 等 はじめに品川の地名のこと これら色々と説があるが、何れによるものか、また他説があるのか全く不明である。
  1. 品川の移り変わり
  2. 古代社会(奈良・平安時代)・中世封建社会(鎌倉・室町時代)の頃は、品川の地の御殿山から品川宿までの一帯は、すべて海浜の洲であって美しさと共に交通上貴重な地位にあったのではないかと思われていた。
    • 西暦1455年(和暦:康正元年、時代:室町時代)
    • 関東管領上杉定正家臣太田資清の子太田道灌が鎌倉から品川御殿山に移り住む。この時期関東は北関東の足利・南関東の上杉により二分されていた。
      3年余で江戸城(後世の江戸城とは比較にならぬ)を築城し移り住む。
      太田道灌の品川在住は短い期間であったが、詩人武将として美しかった品川の景観を愛でた歌などを残している。
    • 西暦1486年(和暦:文明18年、時代:室町時代(戦国時代))
    • 太田道灌相模国糟谷館にて上杉一族に謀殺される。その後上杉一族の内紛により関東大いに乱れ品川の神社・仏閣・及び仏像等の文化財的なものが焼き払われ、品川の街はひどい状態に陥る。その後上杉と小田原の北条との数年に亘る合戦が続き上杉が打ち負け品川は小田原北条の支配下となる。
    • 西暦1569年(和暦:永禄12年、時代:室町時代)
    • 室町戦国時代末期、小田原北条と甲州武田信玄との争いが起こり北条勢は武田勢に小田原へ押し返され品川は北条に代わり武田の勢力下におかれた。品川は数十年来の度重なる戦乱により、神社・仏閣はじめ町自体相当な損害を蒙った。
    • 西暦1590年(和暦:天正18年、時代:安土・桃山時代)
    • 豊臣秀吉が天下を統一し戦国時代が去り、秀吉の命を受け徳川家康が関東に下る。このことがその後300余年江戸の一大発展の端緒となる。
    • 西暦1603年(和暦:慶長8年、時代:江戸時代)
    • 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、将軍として日本政治の中心江戸幕府を開き、江戸城築城と城下町形成をしながら中央集権化、産業・経済及び都市的発展に力を注いでいった。これらを支える交通に関しては、水上は古くから使われている品川湊から江戸の各河川へと、陸上に関しては幹線道路として江戸を中心とした五街道(東海道・中仙道・日光街道・奥州街道・甲州街道)を整備し、江戸の入口には四宿(品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿)を宿場とした宿駅制を定めた。品川は古くから湊といわれているが、府中に関東の国府があったので国府に用向きのある船が沖にかかる程度で岸壁等の港湾設備のある湊ではなかった。そのような海沿いの漁師の家とその背後に農村があり寂れた宿があるだけの品川町が、江戸四宿の一つで且つ東海道に定められた53宿の一番目の宿場としてその後260余年幸いにも一番賑わいのある宿場としてその名を後世に残したのである。
    • 西暦1867年(和暦:慶応3年、時代:江戸時代)
    • 大政奉還により江戸幕府も幕を閉じたが、品川は明治維新の動乱期にはいろいろと騒々しい町であった。
    • 西暦1868年(和暦:慶応4年、時代:江戸時代)
    • 4月国の組織機構の大綱「政体書」が発付され、府・県・藩の行政区が定められ、江戸は東京府となる。
    • 西暦1868年(和暦:明治元年、時代:明治時代)
    • 12月品川地区は武蔵県となる。
    • 西暦1869年(和暦:明治2年、時代:明治時代)
    • 2月版籍奉還が行われ武蔵県が廃止され品川県となる。
    • 西暦1871年(和暦:明治4年、時代:明治時代)
    • 7月廃藩置県が断行され日本全国を三府(東京・京都・大阪)と72県とし品川県を廃止し品川県所属の荏原郡のうち南品川宿・利田新地・北品川宿・二日五日市村・居木橋村・戸越村・大井村・桐ヶ谷村など55ヶ町村は東京府に編入され、11月に大区・小区制を施工し府内市街を六大区に分け品川宿は第二区の所属となり、南品川宿は南品川猟師町・利田新地・二日五日市村と共に18小区となり、北品川宿・歩行新宿・品川大町は同じ第二大区の17小区となって品川宿は第二大区所属で小区は二つに分けられた。
    • 西暦1872年(和暦:明治5年、時代:明治時代)
    • 4月六大区を七大区に改定し、品川宿は第七大区となり小区も二つに分けられてた17区・18区を同じ2小区一つにまとめられた。このように整理され大区には区長がおかれた。暫くはこうした区割りの行政が続いた。
    • 西暦1878年(和暦:明治11年、時代:明治時代)
    • 7月郡区町村編成法が布告され三府72県が三府36県に縮小された。大区は郡となり南北品川宿はもとの荏原郡に戻り、皇居を中心とした麹町・神田・日本橋等15ヶ町は区となって、荏原・南豊島・北豊島・南足立・南葛飾・東豊多摩は六郡となり区長・郡長がおかれた。また品川宿は南北品川宿を統合して品川町と称するようになった。その他各宿・町村は大字を付す事になる。例えば:南品川の住所は東京府荏原郡品川町大字南品川宿の様に。
    • 西暦1888年(和暦:明治21年、時代:明治時代)
    • 更に10年に亘って各地で行政区画整理が行われ全国は三府43県となる。品川は江戸幕府の閉幕と明治・大正にかけて行政区を大きく変えながら近代化しつつ昭和へと突入していった。南北宿場を除いた品川町と隣接する大崎町は純然たる農村で東京市内の野菜供給地帯であったが、大正15年頃から農業生産が減少しはじめその波は近隣の大井町・荏原町へと移り広がり、品川町近隣の荏原郡町村の農業は衰退してゆき、その反面工業の発展と共に人口の流入により市街地拡張が宅地化進展・工場へと転換されながら徐々に姿を変えていった。
    • 西暦1932年(和暦:昭和7年、時代:昭和時代)
    • 10月1日東京市自治記念を期し東京府5郡(荏原・豊多摩・北都島・南足立・南葛飾)82町村は20区に分けられ人口500万という大東京市誕生。
      品川町も品川区として新しい行政区の一つとして第一歩を踏み出した。
      南品川の住所は東京府荏原郡品川町大字品川宿00番地から東京市品川区南品川00番となる。
    • 西暦1943年(和暦:昭和18年、時代:昭和時代)
    • 東京都制が施行され東京府・東京市は廃止となり東京市15区と20区併せての35区は東京都の行政区となる。
    • 西暦1947年(和暦:昭和22年、時代:昭和時代)
    • 新憲法と同時に地方自治法が施行され、35区を市に準じた取扱いを受ける23特別区に整理しその他3市(八王子・立川・武蔵)・三郡(西多摩・北多摩・南多摩)・三島(大島・三宅島・八丈島)に再編された。
      品川区はその時荏原区と合併し新たな品川区として発足した。
    以上の様に品川と一緒にわが町も時代と共に今日の姿に移り変わってきた。
  3. わが町明睦会の縁起メモ
  4. 古代から近代にかけて姿を変えながら存在してきた品川の南品川宿耕地にわが町明睦会という名が刻まれて80余年。
    現在東京の各地に町内会は数多くあるが町会という団体組織の起源は、寛永14年(西暦1637年)徳川幕府の直轄領で近くに住む五戸の家がまとまって犯罪防止・納税等に連帯責任を負う五人組制度を設けたことが始まりと言われている。
    昔の町には現在のような近隣の人々が集まってことを運ぶ団体組織も組織の旗印もなかった。各町の人々が集まるのは、ただ鎮守様の祭礼のときだけで、その時も何町の氏子の{某}だといって仲間入りする氏神のお祭行事だけを目的とした個人個人の集まりに過ぎなかった。それが明治の半ば過ぎの27年(1894年)日清戦争が起こり出征軍人・傷病兵の慰問・歓送迎・留守家族の援助等が要求される様になり、祭礼行事の集まりだけでなく目的を持った強い絆の組織的集まりの必要さが、同じ町に住む隣近所の人々の互いの安寧・幸福を目的とし且つ自治体の事業に協力する組織団体創りへ町民の心を必然的に向かせた。その結果明治の末頃から次々と町会名を旗印に町会が設立されていった。
    わが町の人々は大字南品川宿字東広町の耕地にあった稲荷神社を昔から守り本尊としてお参りしていたので社の付近の字東広町・字馬場の一部範囲に住む人々が纏まり40年6月1日明友会と称する町内会を設立した。
    その後大正13年若手を中心とした睦会というグループが明友会の組織の中で誕生し、更に大正15年2月その年6月予定の町内大神輿の完成を待ちながら明友会と睦会が明睦会という新しい町会名のもとで一つに纏まった。
    「註」:◎東関森稲荷神社には熊野権現が合祀されている。
    1. 東関森稲荷
    2. 創設時不明・稲荷社は江戸時代から始まり各地に勧請されて、特に江戸では町内安全の神として信仰が広まる。祭神は宇迦之御魂
      神社名は文政11年(西暦1828年)の地図によると東関森稲荷ではなく稲荷森稲荷と記されている。
    3. 熊野権現
    4. 嘉承元年(西暦848年)慈覚大師が大井村に開祖された常行寺は故あって承応2年(西暦1652年)に南品川宿に、当時寺の境内にあった大師が勧請した熊野権現も一緒に移転し、寺境内の裏門近くの社に安置された。その裏門前に稲荷神社があった。
      また裏門に並んで常行寺の町屋があった。下地図参照。
      平成21年(2009年)10月27日メモ
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