拳の交錯する音が室内に響き渡る。
そこに小さく混じるのは、微かに漏れた苦悶の声。

「ちっ……」

幾度目かの交差の後、両者はぶつかり合っていた拳を弾くようにして、それぞれ後方に飛び退く。
激突の反動も強く、その速度は決して緩くはない。
体ごと弾かれたかのように飛び、それでも互いに姿勢を崩すことなく減速する。
もはや双方共、一瞬の隙でさえも致命的になり得ることを本能で理解しているからだ。
両足で着地するシャディードと、膝をも使ってブレーキをかける祐一。

戦闘開始より既にかなりの時が経過していたが、ここにきて戦況はほぼ互角の様相を呈していた。
蓄積したダメージは祐一の方が大きく、身体能力も彼の方が遥かに劣っていることは事実だ。
だが、シャディードの方は両手を自由に使える状態になく、それが彼の枷となっていた。
すなわち、両手の不自由が、単純な能力の封印のみに止まらず、以降の攻防全てに悪影響を与えていたのだ。

拳を握り締めたような状態ではあるが、それは強制的にされただけのこと。
歪な形で握り拳を作ったところで、十分に力を発揮することなどできはしない。
それは行動の全てに影響を及ぼし、当然のことだが、攻防のリズムも狂ってしまう。
このことが、両者の間の大きな実力差を埋める形となっている。



「げほっ……」

大きく肩で息をする祐一の表情は、しかし先と変わらず厳しいままだった。
互角に見える現在の状況は、けれど容易に覆され得るものだと、他ならぬ彼自身が一番理解しているからだ。

まず何よりも、五分という時間制限の存在が大きい。
当然のことだが、祐一の能力は、永続的な効果を発揮するわけではないのだ。
発動から僅か五分で、対象はその束縛から解放される。
そうなってしまえば、戦況は再び前と同じに戻ってしまう。
いや、負傷の度合いやエネルギーの残量などを考えれば、以前より悪化すると考えた方がいいだろう。

そしてまた、これまでの攻防で蓄積したダメージが、あまりにも大き過ぎた。
両手に穿たれた穴からは間断なく血が流れ続けているし、骨折でもしているのか、脂汗の浮いた顔は青白く染まってしまっており、気を抜けば今にも崩れ落ちそうな状態だ。
戦況が一時的にでも互角の状況になっていることが、限界に近い彼の体を動かす気力を生みだし、それで何とか動いているだけ。
その気力にすら肉体がついていけなくなる時が来るのも、そう遠くはないだろう。

だが、それでも。
祐一の目は、未だ輝きを失ってはいなかった。
満身創痍と言うべき状態でありながら、しかし眼光は鋭くシャディードを射抜いている。





「どうした? 睨んでいるだけでは俺を殺せんぞ? 時間も残り少ないんだ、もっと足掻いてみせろ」

祐一の視線を、シャディードは涼しい顔で受け流していた。
笑みすら浮かべながら、口にした言葉は挑発のそれ。
血に濡れたその顔に浮かんでいるのは、はっきりそれとわかる喜色。
祐一のそれよりもさらに鋭い眼光が、彼がまだまだ余力を残していることを強く示していた。

もちろん、彼にしても、ダメージは決して少なくない。
両手を封じられ、攻防のリズムに狂いが出ているのだ。
それ以前と違い、痛打をその身に浴びてもいた。
明らかに戦況が悪化しているのだが、それを理解しながらも、彼は笑っている。
一時的とはいえ両手の自由を奪われ、幾度も相手の攻撃をくらい、不利な戦況に身を落としているというのに、だ。
どこか凄惨さを思わせる笑みだったが、同時にそれは確かな喜びを内包する笑みでもある。
自身の苦境を歓迎するという彼の言葉に、嘘偽りはないのだろう。



「言われなくても……っ!」

しゃがんだ状態から、再び勢いよく飛び出す祐一。
動くだけでも全身が悲鳴を上げるが、奥歯を噛み締めてそれを封じ込める。
止まることなどできないのだ、生き残るためには。
例え激痛が襲ってこようとも、体が動く限りは、彼は戦い続けるだろう。

決然とした意志により、彼の体は俊敏さを取り戻す。
力強い踏み込みにより実現する凄まじい加速。
鬼気迫る表情は、どこか燃え尽きる直前に一瞬だけ煌く蝋燭の炎を思わせる。
それは終わりが見えている猛り。
どれだけ気力を振り絞ろうとも、彼の体はもうガス欠寸前なのだ。

けれど、すぐにも動けなくなるだろう状態だからこそ、逆に開き直ることもできる。
後先を考えないからこそ、例え一瞬だとしても、己の限界を超えられるのだ。

能力発動から、既に四分近くが経過していた。
残り一分かそこらで、シャディードの両手は解放されてしまうだろう。
そうなってしまえば、もう勝ち目はないだろうことは、祐一も理解している。

だが、ここまでの攻防でも、シャディードに致命傷を与えるには至っていない。
それを、残された僅か一分という短時間で達成しなければならないのだ。
できなければ、敗北あるのみ。
死神の足音は、もう彼のすぐ傍まで近づいていた。



一瞬で距離を零へと変える祐一。
迎え撃つシャディード。
もう数え切れないほどに繰り返してきた交錯。

右拳を突き出す祐一。
空気の壁を突き破ってくるそれを、シャディードは左腕によって自身の左へと受け流す。
手を使うことができれば、もっと素早く回避することもできるが、今はこれ以上の防御は不可能。
そして、このシャディードの動作が、祐一に次の攻撃へ移る余裕を与えてくれる。

気合一閃。
右手を流されることはわかっていたのか、そこから迷いなく左拳を突き出す祐一。
両者の立ち位置は近く、最大限の効果を発揮できる距離だ。
回避は不可能と判断し、シャディードは右腕で防御すべく、エネルギーをそこに集中させて眼前に掲げる。

だが、そこに訪れたのは、予想に反して小さな衝撃。
シャディードの左腕は、殴られたのではなく、祐一の右手によって掴まれていた。
拳による殴打ではなく、シャディードの左腕を捕らえる動作。

それに彼が反応するよりも早く、祐一の体は動いていた。
シャディードの右腕を掴んだ左手を、自分の体へと強く引っ張る。
と同時に、その反動を利して、その場で自身の体を回転させる。

予想外の状況についていけず、引っ張られるままに流れるシャディードの体。
半回転した祐一の背が、彼の視界に一瞬だけ映る。
その瞬間に、祐一の左手が彼の右腕から離れた。
そして。

「これでどうだっ!」

気合のこもった叫びと同時、隙だらけの脇腹に祐一の右肘が叩き込まれた。
瞬間見開かれるシャディードの眼。
重く響く骨の軋む音。
聞くだけで怖気が走るほどのそれが、確かな威力を物語る。

振り抜いた祐一の肘にさえ、衝撃が鈍く重く伝わったのだ。
受けたシャディードの身に走った衝撃は、その比ではないはずだ。
まさに渾身の一打。
自身の腕を走った痺れから、祐一は確かな手応えを掴み取る。

呻き声を漏らしながら、シャディードの体が大きく傾ぐ。
それは追撃が可能と判断するに足る明らかな隙。
けれど、それに気付いていても、祐一は次の行動へ移ることができない。
今の一撃の反動にさえも、体が耐え切れないからだ。
後方に飛び退くことで、どうにか倒れないようにするのが精一杯だった。





「はぁっ、はぁっ」

荒い呼吸を繰り返す祐一。
視線の先では、倒れそうになりながら、しかし同じく踏み止まったシャディード。
傾いだ体を見るに、浅からぬダメージは刻まれているだろうが、未だに彼の両足はしっかり地に着いており、倒れるにはまだ遠いことが容易に見て取れる。
祐一の表情に苦いものが走った。

今にも倒れそうな自分と、到底倒れそうにない相手。
明確なまでのその差を見せつけられては、両者の間の大きな実力の違いを感じずにはおれない。

たとえ何発攻撃を叩き込もうと。
たとえ何回能力を行使しようと。

祐一には、まるで彼を倒せる気がしなかった。
アルテマのリーダー……その強さは、彼の想像を遥かに超えている。

能力も脅威、身体能力も脅威、だがそれだけにあらず。
何より恐るべきは、その限りなく強靭な精神力。
ただ自身を強化するためだけに、その身を死の淵に追い込もうとする、狂気にも近い意志。
そしてそれを常に実行し、今まで生き抜いてきた経験。
それらこそが、彼を強者たらしめている所以だった。

実力では遠く及ばない。
正攻法では勝ち目はない。

それを今、祐一は嫌と言うほど自覚させられていた。
まともにやりあっては勝てない以上、愚直に攻撃を繰り返しても無意味だ。
祐一が勝つためには、賭けに出る必要がある。
それも、シャディードの想像を超えるような、とんでもない賭けに。





「げほっ……今のは、効いたぞ」

視線を感じたのか、振り返りながらシャディードが口を開く。
咳き込んでいる様子から、今の攻撃が本当に効いているのはわかる。
けれど。

「だが、まだ足りないな。そんな程度じゃ俺は殺せない。時間もそろそろだろう?」

なおも揺らがぬ体、声、信念。
ダメージは間違いなく蓄積しているはずなのに、彼の目は輝きを増すばかりだ。
そんな様子を見るにつけ、あるいはダメージを与えれば与えるほどに強くなっていくような、そんな錯覚さえ抱いてしまう。

「くそっ……」

強く奥歯を噛む祐一。
シャディードの心は、僅かさえも揺らいではいない。
このまま戦い続けても、彼の心が折れるよりも遥かに早く、祐一が力尽きるだろう。
今でさえ、彼の全身は軋んでいるのだから。
賭けに出るにしても、その成功以前に完遂すら危ぶまれる状態だ。

祐一の心の葛藤に気付いているのかいないのか。
シャディードは小さく笑うだけ。
あるいは、祐一が動くのを待っているのかもしれない。

時間はもうほとんど残されていない。
それはすなわち、決着の時が近いということだ。
待っていても状況は変わらないということを、もちろん祐一は知っている。
だからこそ、崩れ落ちそうな体を叱咤して、再度シャディードに向かっていった。















神へと至る道



第67話  一撃に全てを















拳が互いの眼前に振るわれ、互いにそれを受け流す。
決して深く踏み込まず、細かい技の攻防が続く。
残りの時間がないだけに、シャディードも祐一も、隙を作ろうとしないからだ。
攻撃以上に防御を優先させなければ、勝利はない。

だが、互いに防御を優先し続けていては、祐一の敗北は必至である。
それがわかっていてなお、シャディードは敢えて防御に入る。

祐一は今、何かを企んでいる。

その確信があるからこそ、祐一を限界まで追い詰めようとしているのだ。
何を企んでいるかまではわからないが、あと一回だけ残されているという能力の使用が、そこには関係しているはず。
普通の攻防では祐一に勝ち目がない以上、その一回で、確実にシャディードを殺さなければならない。
つまり祐一は、シャディードを一撃で殺すような、そんな何かを狙っている可能性が高いのだ。
だがそれでも、いや、だからこそ、シャディードはその策を出させようとする。

相手が何を企んでいようと、それを真正面から叩き潰す。

これまで、どんな相手と戦う時でも、シャディードはその意志を貫いてきた。
自身を死の淵に叩き込み、そこから這い上がり、彼は今の高みへと上ってきたのだ。


自身の成長……これこそが、彼が生きている理由であり、また、彼が生きてこられた理由でもある。


こんなところでそれを曲げることなど、彼にはできない。
それは、自身の生き方の否定になり、紛れもない敗北の証にもなるからだ。

だからこそ、シャディードは真っ向から祐一を迎え撃つ。
いつ、どんな形で、祐一が能力を行使してくるのかを、心待ちにしながら。





交錯する拳。
爆ぜる空気。
火花散る攻防。

まさに一進一退。
どちらの攻撃も決め手に欠け、ただ時間とエネルギーだけが、平等に、少しずつ削られていく。
それはすなわち、勝敗を決める天秤が、シャディードの方へと傾き始めていることを意味している。

「くっ!」

傷の痛みによるものとは異なる、祐一の苦悶の声。
その表情には、明らかに焦燥の色が表れ始めていた。

能力の効果も残り僅か。
自身の体力も残り僅か。

隙を見せないシャディードを倒すには、祐一に残された時間は、あまりにも少ない。
それが故か、彼の表情は、時間を追うごとに厳しさを増してゆく。



何度目かの攻撃の交し合い。
祐一の蹴りをシャディードが腕で受け止め、お互いがその反動で僅かに後退した直後。
それは起こった。

「っ!」

揺らぐシャディードの表情。
揺らぐシャディードの上体。

祐一の眼前で、シャディードの体が傾いでいた。
何とか体勢を立て直そうとするも、膝から崩れようとしている。

着地の際にバランスを崩したのか。
それとも蓄積したダメージがそうさせたのか。

シャディードが、初めてその表情に狼狽の色を示す。
一度崩れかけた体勢を立て直すのは、さほど難しいことではない……時間さえあれば。
その立て直すまでの時間は、祐一が行動を起こすには十分過ぎるほどの時間。



突然訪れた好機に、祐一の体は、ほとんど反射的に行動を開始した。
待ち望んでいた瞬間。
ようやく訪れたチャンス。
これを見逃せば、次があるかどうかもわからない。
そうである以上、躊躇う理由など、どこにもなかった。

幸いにして、祐一はバランスを崩してはいない。
とはいえ、片足で着地した状態では、ともすれば後方に流れてしまうだろう。
だが、機を逸するわけにはいかないという一念で、それを無理やり静止させた。
地に着けた足に全力を込め、弾けよとばかりに床を蹴り、そのまま前方へと加速する。

体に走る激痛。
脚部から上がる悲鳴。
無理な体勢からの踏み込みは、限界近い体には負荷が大き過ぎる。

それでも彼は止まらない。
決して、止まるわけにはいかない。



目の前のシャディードは、バランスを崩したままの体勢だった。
祐一は、躊躇うことなくそこへ突っ込んでゆく。
握り締めた拳から溢れ出る血も、全身を襲う突き刺すような苦痛も、全て精神力で抑え込んで。

右の拳で攻撃するつもりだからか、若干右回りで、一歩ずつシャディードに迫る。
一歩を踏み出す度に、祐一は加速し、その勢いをも拳に宿す。
そうして辿り着いた射程圏の一歩手前。
祐一は躊躇うことなく、その最後の一歩を踏み込んだ。
力強い踏み込みと同時、握り締めた拳を振りかぶる。





「っ?!」

その瞬間に。
最後の一歩を踏み込み、蹴ろうとした、まさにその瞬間に。


祐一の体を、突然浮遊感が襲った。


驚愕に剥かれる祐一の瞳。
集中させていた力が、瞬間的に霧散する。
シャディードを貫くはずだったエネルギーが、攻撃のための態勢が、築き上げてきたリズムが。
全て散り散りになってゆく。

体を襲った突然の浮遊感。
バランスを崩したその大元は、踏み込んだ足。
まるで凍った路面で足を滑らせたかのように。
祐一が強く床を蹴ろうと踏み込んだにも関わらず、そこから何の力も返ってこなかったのだ。





踏み込んだ一歩が突然崩れ、反射的に体勢を立て直そうと動く祐一の体。
当然、それ以外の身動きはとれない。
たとえ、シャディードの腕が振り上げられていることを、彼の頭が理解していようとも。

「馬鹿がっ!」

見開かれた祐一の目に映るのは、バランスを崩していたはずなのに、両の足でしっかりと大地を踏み締め、拳を構えているシャディードの姿。
そこに展開されていたのは、奇しくも先とは正反対の光景。
ただ、先と異なるのは、シャディードの体勢が、再び崩されることはなかったということ。
完全に体勢を崩してしまっていた祐一には、もはや為す術もない。

「ぐっ……!」

ほとんど宙に浮いている状態の祐一に、シャディードの拳が炸裂した。
瞬間、押し潰したような悲鳴が上がる。
と同時に、彼の体は殴られた勢いのままに、横へ吹っ飛ばされる。
凄まじいまでの衝撃。
飛ばされてなお勢いは衰えず、重力に従い床へと落ちてもさらに転がってゆく体。
何度か跳ね、部屋の端の壁にぶつかって、ようやく静止する。
祐一は一度大きく身を震わせ、それから苦悶に耐えかねるかのように身を縮めた。



「考察が足りてないな。俺は、触れた物を自分の意思で接合することができるんだ。それならば、逆に接合した物を自分の意思で分離することもできて当然、と考えて然るべきだと思うがね」

身を震わせながら咳き込む祐一を見やりながら、シャディードが小さく肩を竦める。
少なからぬ嘲弄の色が、その声には滲んでいた。

だが、そんな言葉にさえ何の反応も返ってこない。
祐一の吐き出したものに、赤いものが混じる。
口の中を切っただけなのか、それとも……
いずれにしても、背を丸めて縮こまったまま床に転がる今の彼の姿は、深刻な事態を思わせる。

立ち上がるどころか、身動き一つ取ることもできない状況。
そんな彼に、追い討ちをかけるようにシャディードは話し続ける。

「物を接合するだけじゃない。接合させたものを、好きな時に切り離すことだってできるんだよ、俺は。例えば、天井に貼り付けておいた鉄棒、床に貼り付けておいたタイルとかも、な」

得意げな声音は、どこか種明かしをする手品師のようにも見える。
戦闘開始時に天井から落下してきた鉄棒の件や、先程祐一がバランスを崩した件など。
それらは彼の能力によるものだったわけだ。
そう、そもそも戦闘開始と同時に天井から計ったようにタイミングよく鉄棒が降ってきた時点で、そうした可能性――この建物に他にも仕込がある、ということを考えなければならなかった。

「そもそもだ、敵のアジトに足を踏み入れて、トラップの一つさえないことを、怪しみもしなかったのか?」

はっきりと嘲笑を浮かべるシャディード。
だが、祐一は今なお蹲るような体勢に移行するのがやっとの状態で、自身に向けられた嘲りの笑みを目にすることはなかった。
シャディードもまた、反応を期待している風でもない様子だ。



「……だがまぁ、残っていたエネルギーを集中させて、今の俺の攻撃を防御した点だけは、褒めておいてやろうか」

そんな言葉を、最後に口にするシャディード。
彼は、殴った右手から、祐一が攻撃された部位にエネルギーを集中させていたことを理解していた。
まるで事前にその攻撃を覚悟していたかのような反応速度。
それは、S級として戦い抜いてきた、彼の経験の賜物なのだろう。
だが、状況の悪化には変わりなく、そしてさらにそれは加速する。

「……タイムリミット、だな」

シャディードが、自分の手を見ながらそう言った。
祐一の能力の効果が切れたらしく、開いた両手から、真っ赤な塊が手から零れ落ちる。
その瞬間に、それは完全に束縛から解放され、床へと散った。

びしゃ、と小さな音を響かせ、床を赤く染める血。
それを見てから、シャディードは両手を握ったり開いたりして、その動きを確認する。
だが、もはや彼の手を束縛するものは何もなく、その動きには何ら問題はなかった。

「さて、これからどうするんだ?」

ゆっくりと祐一の方に歩み寄るシャディード。
両手の解放だけでなく、刻まれたダメージの差も大きく、もはや二人がまともに攻防を繰り広げることはあり得ない。
そもそも、祐一が満足に動けるかどうかすら怪しいところだ。
それでもなお、シャディードは期待する。

伏して動かぬ祐一。
悠然と歩くシャディード。
徐々に詰まってゆく両者の距離。
それが三メートルほどになった時に、祐一のエネルギーが小さく揺らいだ。
何かをしようとしていると察知したシャディードは、構えを崩さずに出方を待つ。



と、それまでぴくりとも動かなかった祐一が、突然行動を開始する。
その身を無理やりに起こしながら、左手の甲をシャディードに向けた状態で、思い切り左腕を振り回した。
その手の動きにあわせて、掌に開いた穴から、真っ赤な血が噴き出し、振り回された勢いのままに宙を舞う。
帯状になったそれは、一直線にシャディードの顔へと向かってくる。



先の記憶……血によって、両手を封印させられたことが、シャディードの脳裏を過ぎった。
その間も、真っ赤な血の帯は、かなりの速度で彼の目に向かって飛び込んでくる。

もし、この血が能力の効果を受けているとすれば、それを浴びるのは極めて危険。
蹲っていた時間を顧みるに、能力行使の時間には十分だった。
仮に目に浴びれば、失明してしまう可能性もある。
防御の選択はなし。
何としても回避しなければならない。

その身を一瞬にして走りぬけた戦慄。
その恐怖にも似た感覚が、意識や理性よりも早く、シャディードに回避行動をとらせる。

「くっ!」

その表情に戦慄が走った。
帯状に広がりながら、中空に歪な曲線を描きながら、シャディードへと迫る液体。
液体故に、その回避は困難。
けれど、その血液には僅かさえも触れてはならないのだ。

仰け反るようにして脅威から身を遠ざけるシャディード。
その顔面に触れるか触れないかというところを、鮮やかな赤が通過する。
まさに間一髪。
けれど回避は成功。
血液には一切触れることなく、脅威をやり過ごした。

ただし、その結果として、彼は若干バランスを崩してしまっている。
そしてまた、祐一への意識も、一瞬途切れてしまっていた。










瞬間、背筋が凍るようなエネルギーの高まりを感知し、シャディードの体はが反応する。
仰け反った状態のままで、しかし後方へと飛び、距離を取りながら体勢を立て直す。
その視線の先では、いつの間にか立ち上がっていた祐一が、低く構えた状態で、右手を左手に収めるようにしている。
そこへと集約されるエネルギーは、目視さえも可能なほどに濃密。
その一撃に全てを込める、と言わんばかりに、全身から残り少ないエネルギーを、全てかき集めていた。

余力も、防御も、何も考えない。
その一撃で、確実に相手を仕留めるという絶対の意志。
そして絶対の覚悟。

後も先もない。
ただ、一撃に全てを。
それが故に、その高まりは苛烈。
全てを犠牲にした攻撃は、何よりも強大。
今この一瞬のみに発現される力は、儚くも怖ろしい輝き。

そこでシャディードは察した。
今の血による攻撃は、この最後の攻撃の準備のための時間稼ぎなのだ、と。
空間を広がりながら迫る液体を完全に回避するために、シャディードは体勢を崩し、脅威への対応のために後方へと退いてしまっている。
完全に立ち遅れた。
もはや祐一の攻撃を邪魔することはできない。
下手に動けばやられてしまう……そう思えるほどの力が、今の祐一の拳には集められている。

妨害が不可能である以上、あとは逃げるか受けるか、だ。
自身の全てを賭けた、祐一の正真正銘最後の一撃。
まさに命を賭したその覚悟の攻撃は、まともにくらえば、シャディードとてその命を散らすことになるだろう。
このままいってもジリ貧だということを理解しているからこその、最後の賭け――そう判断を下すと、シャディードは薄く笑った。

それは嘲笑などではなく、期待していたものが自身の前に現れたと言わんばかりの喜色に溢れていた。
それはそうだろう。
自身の命をも刈り取り得る、そんな攻撃を、彼はずっと待っていたのだから。
ならば、彼の取る選択肢はただ一つ。

両足に力を込め、床を踏み締める。
不動の覚悟。
祐一の最後の一撃を、真っ向から迎え撃つ体勢だ。

低い姿勢で祐一と正対したシャディードは、その左手にエネルギーを集中させる。
鏡で映したように相対する両者の姿。
息苦しいほどの互いのエネルギーの高まりに、肌がちりちりと焼け焦げるような錯覚を抱く。

そのやり取りこそ、シャディードが求め続けて止まないもの。
それは彼の生きる糧であり、また彼が生きる理由でもある。
命を賭したこの攻防の果てに、自分はどこまで高みに迫ることができるのか。
それを思い描くことは、彼にとって何物にも代え難い至福。
恐ろしいほどの高揚感と、怖ろしいほどの喜びに身を震わせながら、シャディードは自身の限界を突き破らんとばかりに、エネルギーをさらに集約させてゆく。





――……これが、最後の攻撃だな――

同時に祐一も、これが最後の攻防になることを自覚していた。
というよりも、今から行う攻防が終われば、祐一は、自力で立つことすらできなくなるだろう。
悔しさを覚えずにはいられないが、その確信があった。
文字通り、全てを右の拳に集めている。
残されたエネルギーも、力も、気力も、命をすらも、そこに。
最後の攻撃だという確信が、本来なら動かぬはずの体を、一時的に活動可能としている。

それは、かつてないほどのエネルギー。
強固なまでの意志と覚悟の証明。



――決まれば、俺の勝ち。決まらなければ、俺の負け――

この攻防が終われば立つことすらも叶わなくなるだろう祐一に対し、シャディードの方に同じ状況を期待することはできない。
これで殺せなければ、祐一は死ぬ……もはやこれを覆すことはできないだろう。
それこそ、シャディードがここで逃げの手を打つだけで、祐一の敗北は確定する。
分がいい勝負とは、お世辞にも言えない。
だがそれでも、この一撃以外には、祐一に勝つチャンスはない。
この機を逃せば、どうせ嬲り殺されるのみなのだ。
それならば、迷う理由などない。

この攻撃が成功すれば、シャディードが死ぬ。
この攻撃が失敗すれば、祐一が死ぬ。



――わかりやすくて結構だ――

覚悟を決める。
この攻防が終わった時、どちらかは死んでいるだろう。
あるいは、二人ともそうなってしまうかもしれないが、それは考えない。
ただ、生き残るために最善を尽くすのみだ。










「行くぞっ!」
「来いっ!」

裂帛の掛け声と同時に、祐一が前へと飛び出した。
防御も何も考えない、まさに捨て身の攻撃。
右手を大きく振りかぶったまま迫る祐一。
大きく見開かれたその目は、まっすぐにシャディードを射抜いている。

凄まじいほどの殺気と闘気。
それは、相対しているだけでも潰されそうになるほどの圧力を伴っている。
その高まりを、震えるような歓喜の目で見るシャディード。

例えば横っ飛びに避ければ。
あるいは後方や空中に飛び出せば。
祐一の攻撃が無駄に終わる可能性は高い。

だがもちろん、そんなことをするつもりなど、シャディードにはなかった。
あくまでも真っ向からぶつかり、真っ向から叩き潰す。
その結果、自分にどんなダメージがあろうとも、気にすることではないのだ。

彼が戦闘に求めるのは、結果ではなく、むしろその過程。
そこが濃密か否かである。
今この状況は、まさにその一番重要な過程の部分。
そこで避けるという選択肢をとるなど、敗北よりも耐え難い苦痛をもたらすだろう。

足を大地に根ざすように、深く構える。
真っ向勝負の意思表示。
高めたエネルギーの集中する左手は輝きを放つ。
触れれば蒸発するのではないかと錯覚するほどのそれは、人のものとは思えぬほどの力に満ちていた。

唸りを上げるようにして、空気を焦がしながらシャディードへと迫る祐一の右拳。
それを迎え撃とうと、山のようにどっしりと構えたシャディードが振りかざした左拳。
交錯は一瞬。





まるで爆弾でも炸裂したかのような壮絶な音が、極限の緊張状態にあった部屋の空気を一瞬で引き裂いた。
同時に部屋を満たす閃光は、両者のエネルギーの輝き。
衝突の瞬間、まるで何かが爆ぜたような感覚が、確かに両者の腕に重く響く。
爆発に等しい衝撃は、両者の体を激しく揺さぶる。
気を抜けば、腕が千切れてしまうかもしれない……そう思わせるほどに、それは苛烈。
顔面を打ち抜こうと迫っていた祐一の拳を、同じく全力で振るわれたシャディードの左拳が受け止めたのだ。

「ぐ……っ!」
「ぬぅ……っ!」

押し込もうとする祐一の右拳と、それを押し返そうとするシャディード。
両者の形相は、さながら修羅の如く。
ぶつかり合う両者の拳を覆っている空気は、まるで燃えているかのように熱い。
熱波が停滞しているかのような、強烈なエネルギーの衝突部分。
余りの衝撃に、床といわず壁といわず、亀裂が走り破片が散る。
余波ですらそれなのだから、直接ぶつかり合っている部分となれば、その状態はもはや想像を絶するだろう。
一瞬でも気を抜けば、それがそのまま死に繋がる状況。
互いの意地と信念がぶつかり合い、膠着状態になる。

永遠に続くかと思われた押し合い。
だが、それは少しずつ、だが確実にシャディードの方へと近づいてゆく
大きく開いた実力差を、強靭な精神力で一時的にでも縮めている。
それを成すのは、生への執着。
勝利への執念。

ほんの少しずつ、その速度が増してゆく。
苦悶の表情に変わるシャディード。
必至の形相の祐一。

「ぐぅ……っ!」
「く……」

変わり始めた戦局は、少しずつ加速してゆく。
それは抗いがたい流れ。
そのまま拮抗が崩れるか、と思われた瞬間に。





「がああああっ!」

絶叫が響く。
極限まで追い詰められたシャディードの咆哮。
獣のそれを思わせる叫びには、怖ろしいまでの力に満ちていた。

常に自分を追い込み、その度にその苦難を乗り越えてきた経験。
限界に突き当たり、その度にその壁を乗り越えてきた自信。
そうして重ねてきた成長。
それはもう、彼の特性とも言えるもの。
眠っていたそれは、今この瞬間に目を覚ます。
新たな扉を開く瞬間。
自身の殻を突き破る瞬間。

祐一の攻撃は、確かにシャディードを追い詰めた。
だが、それが逆に、彼の限界を超えたところから、知られざる領域を呼び覚ますこととなってしまったのだ。

野獣さえも逃げ出すだろう猛りに連動するかのように、限界近かったはずのエネルギーが再度強い輝きを放ち出す。
シャディードの心に、一つの壁を越えた感覚が、津波のように押し寄せる。
新たな領域に足を踏み入れたという高揚感が、彼の表情から苦悶を吹き払う。
軋む体、爆ぜるエネルギー。
体の各部が悲鳴を上げるも、けれどもはや彼は揺らがない。
祐一の決死の形相も、怖ろしいほどの殺気も、凄まじいまでの闘気も、今のシャディードには心地よくすらある。
待ち望んだ瞬間の到来に、次いで上げるのは歓喜の雄叫び。

それまでの全てが覆される。
傾きかけた天秤は、一気に引っ繰り返された。
崩れかけた均衡は、逆の形で完全に崩されてしまう。



戦況はもはや、互角のものではなくなってしまっていた。



一際大きく響いた破裂音は、力の拮抗が崩れた証。
微かに体勢を崩したシャディードと、後方へと弾かれた祐一。
それが、何よりも如実に、両者の間の力の差を示している。



後方へと倒れようとしているかのように、ゆっくりと傾いでゆく祐一の体。
それを見ているシャディード。
停滞は一瞬。

今の一撃に全てを注いでいた祐一は、糸の切れた人形のようにすら見える。
もはや拳を握ることすら叶わない右腕は、弾かれた勢いのままに宙を泳ぐ。
握っている左拳にも、もう余力は感じ取ることはできない。
いや、そもそも意識が残っているかどうかすら怪しまれる状態だ。

シャディードはというと、全身を走る高揚感と、この攻防から得られた充足感に酔いしれているような状態にあるのか、凄惨に思えるような笑みを浮かべていた。
その目は真っ直ぐに祐一へと向けられている。
視界の中、ゆっくりと傾いてゆく祐一は、さながら沈む直前の大型船のようだ。
それこそ、放っておいても遠からず死ぬだろう。
だが、それを待つことなどする気はなかった。
祐一の敗北ではなく、自分の勝利のために、ここで手を緩めたりはしない。

ここで、祐一を殺さなければならないのだ。
今こそが、この戦いの幕引きにふさわしい。

全てのエネルギーを今の攻防に使っていたので、今の祐一はもう空っぽの状態だ。
攻撃も防御も、絶対に不可能。
手足が動かないわけではないだろうが、エネルギーの込められていない攻撃など、脅威になどなり得ない。
なれば、防御の必要など存在しない。



それを理解したシャディードは、さらにエネルギーを右手に集中させる。
相当な量のエネルギーを消費してしまっているが、その濃密さは増すばかり。
まだまだ戦闘可能な状態だ。
高まるエネルギーは、むしろ時を経るごとに鋭くなっているように思える。
それがまた、シャディードの心に歓喜を呼ぶ。

祐一の命は、もはや風前の灯。
全てを犠牲にして攻撃を放った以上、それが終われば反動であらゆる行動を禁止されることになる。
その上で、全身に刻み込まれたダメージが顔を出すのだ。
死が彼の身に降りるのは時間の問題だろう。

だが、それでは意味がない。
確実に、シャディード自身の手で殺さなければ、意味がないのだ。
それを完遂して初めて価値ある勝利になる。
そこで初めて、自身の成長の履歴に、輝かしい一ページが刻まれるのだ。



「さらばだっ!」

先程の一撃よりも、あるいは輝きを増しているシャディードの右拳。
祐一を再度襲う、全てを込めた一撃。
防御の必要がないが故にもたらされる、凄まじいまでの力の奔流。
裂帛の声と同時に、それが祐一へ向けて牙を剥いた。









 続く












後書き



お久しぶりです。 & 遅ればせながら、新年明けましておめでとうございます。

今年も頑張りますので、どうぞよろしくお願い致します。

しかしこの話、本当なら去年のうちに完成させたかったんですが、引越しなどの関係でちょっとごたごたして、ここまでずれ込んでしまいました。

更に言いますと、引越し先のネット環境が未だ整わず、またその見込みも立たない状態だったりします。

今回は実家から送ることができましたが、次回以降はいつになるか、正直検討がつきません。

新年早々申し訳ない話ですが……



とりあえずパソコンは使えるわけですし、新しい話など(ひぐらしのSSなんかも書いてみたいと画策中)書きながら、ネット開通を待ちたいと思います。

第二章も残り僅かですしね。

第三章もぼちぼち書き始めていますが、まずは第二章の完結を、と気合入れてます。

決着は持ち越しとなりましたが、この先の展開等、予想しつつお待ち頂ければ幸いです。

それではこれにて。