眩いばかりの日差しの下、暖かい風が大地を撫でるように吹き抜けてゆく。
畑に出ていた壮年の男性が、一瞬覚えた涼しさに、ふと手を休めた。
首にかけているタオルで汗をぬぐい、視線を遠くへとやる。
見渡す限りの田園風景……とはいかないまでも、かなり広大な面積を、彼の育てている作物が埋め尽くしていた。
今年は気候も良く、虫や病気の心配もなかったため、天に向かって伸びるそれらはどれも生き生きとしている。
あるいは、今年の収穫量は過去最高のものになるかもしれない。
そんなことを考え、知らず顔に笑みが広がる。
腕の時計に目をやり、そこで作業を始めてからかなり時間が経っていたことに気付く。
そろそろ一息つくかと考え、背筋を伸ばす。
と、そこで彼は不意に疑問を覚えた。
微かに眉を寄せつつ、周囲に目を走らせる。
「おーい、どこにいるんだー?」
彼が視界の中で探しているのは、幼い頃からずっと一緒にいて、やがて結ばれるに至った妻。
その彼女の姿がどこにも見えないことが、彼に疑問を抱かせたのだ。
作業を始めるとすぐに時間を忘れて仕事に励む彼が一休みするのは、いつも彼女が呼びに来た時。
家を出てから、時間は大分経っている。
普段ならば、とっくに来ていてもいい頃だ。
けれど今、視界のどこにも彼女はいない。
いつものように息子を連れて呼びに来てくれる彼女の笑顔も見えなければ、彼を呼ぶ声も聞こえない。
目に映るのはのどかな田園風景のみであり、聞こえるのは風の騒ぐ音のみ。
もう一度時計に目をやるが、やはり時間は変わらないし、日の傾き方から考えても、時計が狂っているわけでもなさそうだ。
眩いばかりの太陽の下、ただ一人。
微かな不安が胸を過ぎるのを自覚する。
風が吹き抜ける音以外に何も聞こえてこない……それさえも何かの予兆のようで。
広大な田園に、言葉を失ったかのように立ち尽くす男。
何度見回しても、誰の姿も目に映らない。
何度耳を澄ましてみても、誰の言葉も聞こえてはこない。
再び強い風が吹いた。
まるでうねりのように大きくなびく作物。
ざわざわと、穂が騒ぐ音が耳につく。
平和なはずのその光景が、なぜだか心に暗雲を呼ぶ。
無意識に自分の胸に当てた手からは、動悸が強く響いてくる。
誰もいない。
そう、誰もいない。
目に映るところには、間違いなく。
目に映らないところでも、もしかしたら。
普段なら一笑に付すような、そんな想像が自然に頭に浮かぶこと……それもあるいは事の前兆だったのかもしれない。
脳裏に浮かんできた想像が、彼の意思を決定させる。
居ても立ってもいられなかった。
道具を放り出し、一目散に駆け出す。
走り出してすぐに荒くなる呼吸。
一直線の畦道だったが、彼の住む家まではまだ遠い。
けれど、ペース配分を考えたりはせず、彼はただ全力で大地を蹴る。
一心不乱に駆け続けるその姿は、まるで後ろから付かず離れず追ってくる何かから逃れようとしているかのように見えた。
ざっざっと背後へと音が流れてゆく。
そんな些細なことさえも、今の彼には不快を生み出すノイズでしかない。
走れば走るほどに、速度が増せば増すほどに、時間が流れれば流れるほどに、心中の不安は大きくなってゆく。
まだ遠い。
全力で走っているのに、家までなかなか辿り着けない。
広大な農園が、この時ばかりは恨めしかった。
無限にも思えた全力疾走の時間は、それでも実際にはそこまで長くはなかっただろう。
ようやく辿り着いた家は、今朝とまるで変わらない姿でそこにあった。
それさえもけれど、今の彼を落ち着かせてくれることはない。
息を整えることさえしようともせず、彼は走ってきた勢いのままに玄関の扉を開け放ち、室内に飛び込んだ。
荒い呼吸のまま、それでも大声で呼びかける。
きっと返事が聞こえるはずだと自分に言い聞かせながら。
ただ、その声を聞きたかったが為に。
妻の名を、息子の名を。
彼は呼び続けた。
けれど、返事はなかった。
室内からは、何の反応も返ってこない。
静かなままの屋内に、声はただ消えていった。
まるで、ここが何者も存在しない空き家のように、屋内は静寂に保たれていた。
家を間違えたかとさえ思ったが、外観も、農園からの距離も、調度品も、その可能性を完全に否定している。
透き通るような雰囲気……澄んだそれはしかし、彼の心をさらなる深みへと引きずり込んでゆく。
日中の陽射しの強さを考慮してか、窓にはカーテンがかかっている。
そのせいか、室内は驚くほどに暗く感じられた。
外が明るかっただけに尚更だ。
理屈ではそれを理解しながらも、感情はそこにも不吉な影を見てしまう。
焦燥に駆られながらも、彼はすぐに家の中を探し始めた。
もちろん、彼の家族がどこかに出かけたという可能性がないわけではないが、それでもそれは限りなく零に近い。
なぜなら、車が家の外に止まったままだったからだ。
この辺りに住む者のほとんどが農業を営んでいることもあり、隣の家でさえかなり離れたところに建っているため、どこかに出かける時はその車を使うはずなのだ。
故に、二人が外へ出かけたとは考えにくく、そうなるとやはり家の中にいなければおかしい。
そう、おかしいのだ。
しんと静まり返った広い家の中を歩く。
と、後ろでぱたんと音を立てて扉が閉まった。
そんな小さなことさえもまた、彼の不安をかきたてる。
三人だけの家族だが、彼がここまでこの家で心細く、また不安に感じることなど、未だかつてなかった。
妻の優しい笑顔があって、息子の無邪気な笑顔があって、それだけで家の中はどこよりも明るく快適に思えたのに。
それが今、二人の不在と胸中の不安のせいで、まるで見知らぬ家に紛れ込んだかのような居心地の悪さがまとわりついている。
靴が床を叩く音が、やけに大きく耳に響く。
こつこつという無機質な音が響くと、まるで自分が歩いているのではなく、誰かが自分に近づいてきているかのような、そんな錯覚に襲われる。
静寂の廊下。
重い空気。
薄暗いその空間の向こうで、誰かが、何かが息を潜めているような気さえする。
知らず緊張で体が強張っていた。
虱潰しに探し回ったものの、結局一階では誰も見つけられなかった。
目に映るのは、いつも通りの風景。
きれいに片付けられたキッチンにダイニング。
少し散らかったリビング。
編みかけのセーター。
転がったままの息子のおもちゃ。
どれ一つとて、彼の問いかけに答えてはくれない。
リビングで立ち尽くす彼がふと視線を落とすと、片付けられないままの人形と目が合う。
貼り付けただけの硬い笑み。
耳に痛いほどの静寂の中、そんな無機質な笑みを目にすると、それだけで背筋が凍る思いがする。
言葉に出来ない感情が、心の中をじわじわと侵食してゆく。
家の中に一人……言葉にすれば、ただそれだけのことなのに。
心中に染み出してくる感情を抑えきれず、彼はリビングを逃げるように後にした。
歩調にも、表情にも、どんどん焦りの色が濃くなってゆく。
何かがおかしい、という漠然とした不安。
それがしかし、今の彼には重く圧し掛かる。
何に対して焦っているのか、何に対して不安を抱いているのか、彼自身明確に言葉にできるわけではない。
だからこそ、耐えられないのだ。
一階を隈なく探し回っても、何の解決にもならなかった。
バスルームも何一つ変わりなく、クローゼットを開けても、物置を覗いても、異変など何も見つからない。
いや、異変どころか、何も見つからないのだ。
どこにも誰もいない。
生物の気配すら感じない。
そう、気配すら。
人はいない、動物もいない、虫さえもいない。
何も、いない。
この家に、本当に人が……否、生物がいるのか? そんな錯覚が、彼の脳裏を掠めた。
次の瞬間に大きく首を振り、浮かんだその思考を頭から追いやろうとする。
けれど、一度浮かんだ悪い想像は、決して消えてはくれない。
透明な水に黒い絵の具を垂らしたかのように、一滴の不安は心の中をゆっくりと広がり、やがて全てを黒く塗り潰してゆく。
一体どこに迷い込んでしまったというのか。
ここは、本当に住み慣れたその家なのか。
しんと静まり返った部屋の中での自問自答。
当然、誰も何も、そんな疑問に答えてなどくれない。
まるで自分という存在を拒絶しているかのような静けさに居た堪れなくなり、彼は急いでリビングに戻ると、テレビのリモコンに手を伸ばす。
何でもいい、外部の音が欲しかった。
自分以外の何かがいることを、証明したかった。
この静けささえ打ち消してくれれば、人の作り出す音さえ耳に入れてくれれば、それだけでよかった。
だが。
テレビは沈黙を保ったまま、映像も音声も一切出てこない。
まるで、彼の必死な思いを嘲笑うかのように、何度ボタンを押しても電源は入らなかった。
直接本体の電源に手を伸ばしても、まるで反応しない。
かちかちかちかちという、やはり無機質な音が小さく響くだけ。
コンセントが外れているのかと思い確認してみても、やはり何の異常も発見できない。
プラグはきちんと刺さっており、故障箇所など見当たらない。
呆然と立ち尽くす彼の手から、するりとリモコンが滑り落ちた。
乾いた音を立てて床に転がるそれが静止すると、またも空間を静寂が支配する。
彼の肩に圧し掛かる程の重みをもって。
反応のない電化製品。
これがただの停電や故障によって引き起こされた事態だったならば……そんな望みは、今の彼の心には空虚に響く。
そう望むということはすなわち、彼の脳は事実はそうではないと理解してしまっていることの証。
今はっきりと、彼の心は異常事態を確かなものとして認めてしまったのだ。
ぎぎ……ぎぎ……と、まるで何か別種の生き物が呻いているかのような音が、足元から響く。
一歩ずつ踏み締めるように動くその足も、進みが遅い。
手すりを握る手が、汗で濡れる。
緊張で体が固い。
階段を上へと歩く彼の顔は、既に不安を超えて恐怖の色を滲ませていた。
それでも、彼はその歩みを止めようとはしない。
一階に誰もいなかったのだから、あとは二階だけ。
あるいは一階を調べ終わった時点で、家から車で逃げていればよかったのかもしれない……そんな思考を、けれど彼は首を強く振って否定する。
何かあったのなら、まず彼がそれを確認しなければならない。
大事な妻と息子なのだ……放っておけるわけがなかった。
長いような短いような時間の果てに、彼は二階へと足を踏み入れた。
ぎし……と、その一歩目に響いた音も、どこか不吉を孕んでいるように思えてしまう。
それは驚くほど長く大きく、それは静寂の廊下に響いた。
一瞬だけびくりと身を震わせたものの、すぐに息を潜め、慎重な足取りで歩き始める。
目の前にはさほど長くはない廊下。
両側の壁についているドアは全部で四つ。
自分と妻の寝室と、その対面に今は使っていない部屋が一つ、そして奥には息子の部屋と物置部屋がある。
廊下には何の異変も見つけられない。
意を決し、彼はその目を自分達の寝室へと向けた。
震える手でドアノブを掴み、ゆっくりと回す。
きぃ……と悲鳴のような音を発する扉。
そんな小さな音さえも、今の彼には耐え難い。
木製の軽いはずのドアが、酷く重く感じる。
隙間から中を窺いながら、彼はゆっくりと扉を押し開いてゆく。
広がってゆくドアの向こうの景色。
自分と妻がいつも使っているベッド。
小洒落た照明。
普段はあまり読まない本ばかり納まっている本棚。
何も変わらないいつも通りの寝室が、そこにはあった。
部屋の中まで入り込み、ベッドの下まで覗いたが、何も見つからない。
一瞬だけ、ほっとした心地を覚える。
だが、事態は何も変わってはいないのだ。
ゆっくりと立ち上がると一息つき、次の部屋へ向かうべく顔を上げる。
だが、その次の瞬間に。
かん。
かこん。
かん。
かこん。
かん。
かつん。
こつん。
かこん。
かつん。
こつん。
微かに……そう、微かにそんな音がしていることに気付いた。
聞こえてくる方向から考えて、音の発生源は、今いる自分の寝室の隣にある、彼の息子の部屋。
そこから聞こえる、何かを叩くような軽快な音。
これは……
「剣玉、か……?」
ずいぶん前に東洋へ用事で出かけた際に、おみやげとして息子に買ってきたおもちゃ。
そう、これはそのおもちゃ――剣玉をしている音だ。
息子はこれが大好きで、よく楽しそうに遊んでいた。
そんな子供の姿をいつも微笑ましく見ていた彼が、その音を聞き違えようはずもない。
「なんで……?」
そこに思い至った瞬間に、背筋が、表情が、思考が、完全に凍りついた。
少しずつ沸き起こっていた恐怖が、その瞬間に奔流となって噴き出し、男の顔面を蒼白に変える。
剣玉で遊ぶ人間は、この家では息子しかいない。
だが、息子は黙って剣玉をしたりはしない。
楽しそうにはしゃぎながら、たまに悔しそうにしながら、それでもいつも笑いながら遊ぶのだ。
それなのに、今聞こえてくるのは、機械的に規則正しく玉を打つ音だけ。
リズム良くと言えば聞こえはいいが、その音はどこまでも無機質。
かつん、こつん、と、感情も何も感じさせない音しか聞こえてこないのだ。
息子の音は、もっと楽しそうな音だったはず。
それはすなわち、彼でも、その妻でも、息子でもない存在がそこにいるということに他ならない。
いったい、誰が剣玉を使っている?
いったい、この家に何が起きている?
いったい、妻はどうしている?
いったい、息子はどうなっている?
凍てついたままの表情。
噴き出してくる冷たい汗。
震える手足。
ごちゃごちゃになる思考。
疑問ばかりが後から後から湧き出てきて、全然整理が追いつかない。
消えた音。
消えた温かみ。
消えた妻と息子。
現れた音。
現れた疑念。
現れた不審な存在。
頭は一つの結論を導き出し、心はそれを即座に否定し。
せめぎ合う思考と感情が、彼の時を止める。
瞬きすら忘れ、ただその場で凍りついたように固まっていた。
と。
「!」
音が止んだ。
かつん、こつん、と続いていた音は完全に消え去り、またも静寂が場を支配する。
静けさを取り戻した室内。
だが、それは最早単なる静寂ではない……沈黙だ。
何も言わず、何も示さず、けれど確かに隣室にある存在。
もうそれを否定することなどできない。
その意識が、寝室に向いている。
その目が、壁を通して彼を見ている。
きっと無表情に、あるいは無邪気に、もしかしたら邪悪に。
怖気が走る。
周囲の空気が急激に冷却されているかのように、彼の体に震えが走った。
見えないのに、聞こえないのに、それでも否定できない何かと相対している感覚……それは確かな重圧となって彼を襲う。
睨み付けるでもない、また怒鳴りつけるでもない。
何の感情も伝えることなく、けれど確実に。
静寂の中、息を潜めているかのように。
見えざる存在……けれどそれが今、何よりも恐ろしい。
語らぬ存在……けれどそれが今、何よりも怖ろしい。
妻も、そして息子も、これと対峙したのだろうか?
同じ感情を、味わったのだろうか?
同じ末路を、そして自分も辿るのだろうか?
心の中を、そんな疑問がぐるぐる回る。
「ぁ……ぁ……」
漏れる声は言葉にならない。
体の震えが声帯にも伝わったのか、と思わせるほどに、それは微弱な音声。
それでも彼は必死に考える……ともすれば真っ白になりそうな頭で。
誰かがいる。
これは決定だ。
そいつは剣玉をしていた。
これも間違いない。
なぜ剣玉なんかをしていた?
それはわからない。
息子は? 妻は? 家は? 俺は?
何も、わからない……
ぎし……
そんな音が、今度は廊下から聞こえてきた。
彼は動いていない……否、もう彼は動けない。
それでも音がするということは、剣玉をしていた誰かが動き始めたということだ。
そんな思考が浮かぶ間にも。
ぎし……
また、彼の耳に届く音。
少しだけ、さっきよりも近い気がする。
ぎし……
誰だ? 誰だ? 誰だ?
ぎし……
何が目的だ? 何がしたいんだ?
ぎし……
妻をどうした? 息子をどうした?
ぎし……
俺を、どうする気だ?
ぎしっ……
と、ドアの向こうで。
何かが動きを止めた。
何かが息づく気配。
何かが蠢く気配。
振り返ることはできない
時が止まったかのように、彼の表情も、体も、微塵も動こうとしない。
きぃぃぃぃぃ……
きしむ扉の音。
ゆっくりと、ゆっくりと。
彼のいる部屋の入り口の扉が、開かれてゆく。
恐怖は頂点に達し、彼の頭は真っ白に染まる。
まるで心臓を鷲掴みにされている気分だった。
生きている心地などしない。
むしろ、生きていることこそが辛い。
何も知らずに、何も考えずに、今この瞬間に死ぬことができたら、どれほど幸せだろうか?
いや、もしこれが夢だったら……そう、次の瞬間に自分のベッドで目覚めて、その隣で不安げにしている妻に向かって、恐ろしい夢を見た、と軽く話せたなら。
混乱はやがて、錯乱へと変わる。
既にもう、彼は現実を見失っていた。
この時点で、彼の全ては終わってしまっていた。
開かれてゆく扉に引きつけられるように、彼はゆっくりと振り向く……いや、振り向かされたと言うべきか。
きしむ扉と変わらぬ速度で動く顔。
目に映る景色が、スローモーションで横へと流れてゆく。
それはきっと最期の光景。
ドアと反対側にある窓。
そこから差し込む、常と変わらぬ日の光。
部屋の隅の観葉植物。
きれいに整頓された机。
同じく整理されている本棚。
そして……
「……」
扉の方へ目が向いた瞬間に、そこにいる何かの姿を彼が認識する寸前に、その意識は闇に呑まれた。
やはりただ、静寂のみがその場に残された。
神へと至る道
第70話 崩壊の序曲
七月某日、保護機関のマリアの部屋にて。
事務的な部屋と言おうか、仕事のための部屋なのだから仕方ないとは言え、無機質な感じを与えるその部屋に、今二人の人間が向かい合って座っていた。
二人を包む空気は重い。
普段は穏やかな笑みを絶やさないマリアの表情が、けれど今は憂いの色に染まっている。
その対面に座るアリエスもまた、似たような表情をしていた。
「……連絡がとれないのですね」
「はい、昨日夕刻の定時報告以降、彼らとの通信は不可能です」
「何もわからないということですか?」
「そうです。最後の報告さえも、何も異変は見つからない、という内容でした。現時点では、情報は皆無と言うしかありません」
鋭い眼差しのまま、深く考え込むマリア。
アリエスは、ただじっと彼女の返答を待っていた。
僅かの時間が流れる。
「……どこかの組織に狙われた、あるいは偶然敵に遭遇した。その結果、通信機器が全て壊された上に、身動きがとれなくなった……という可能性も、否定はできませんね」
「……」
マリアがゆっくりとした口調で告げた内容に対し、けれどアリエスは何も答えない。
彼女が言いたいことはそんなことではない、と理解しているからだ。
じっと見つめてくるアリエスの視線を受けて、マリアは言葉を続ける。
「……ですが、そこまで都合よく事が運んだと考えるのは、さすがに無理があります」
「はい。我々の持つ情報に、あの地域に存在し、我々に攻撃を仕掛けてくる可能性のある組織など、一つを置いて他にありません」
「けれど、その組織は既に消滅してしまっている……それも、原因不明の現象で」
「そして、その原因究明のために派遣した者達の、突然の音信不通……こうなると、この二つを繋げて考えない方が不自然でしょう」
流れるような言葉のやり取り……既に、二人の中では答えは出ていた。
だからこそ、マリアの表情も、アリエスの表情も、どこまでも厳しい。
二人でなくても、保護機関の派遣した者達が突如音信不通に陥るなど、最悪の事態を想定せずにはいられまい。
「ロウソサイエティ……なぜ、消滅したんでしょうか。いえ、何が、消滅させたのでしょうか」
「……彼らが加害者なのか被害者なのかによって、その答えは変わってくるでしょう」
四月――アルテマとの戦いを控えていた最中での、S級組織『ロウソサイエティ』の突然の消滅。
これを受けて保護機関は調査隊を派遣したのだが、それはつい最近になってからのことだ。
その対応は余りにも遅い。
アルテマとの戦いやその後の事後処理などもあり、また他のS級組織の動静など、問題が山積みだったこともある。
だがそれ以上に、既に当の組織が滅んでしまっているという事実が先に立ち、どうしても上の人間はそれを軽視してしまい、結果先送りされてしまっていたわけだ。
けれど、その姿勢を責めるわけにもいかない。
保護機関は、個人の裁量で動く組織ではないのだ。
なさねばならないことはいくらでもあり、人員にも余裕があるわけではない。
確かに『ロウソサイエティ』が消えたという事実からは、脅威の匂いを感じ取ることができる。
だが同時に、それが単なる自滅や事故の可能性もあるのだ。
そんな不確かな脅威のために貴重な人員を割いて、確かにある脅威への警戒を薄くするわけにはいかないのである。
この世界において、保護機関が果たさねばならない責任は非常に重い。
ともあれそんな事情もあって、二ヶ月強の間隔をおいてから、ようやく調査が開始された。
そしてその矢先、何の前触れもなく、その調査隊と連絡が取れなくなったのだ。
マリアやアリエスが苦い表情になるのも無理からぬところである。
もっと早くに対処していれば……そんな後悔があることは否定できない。
けれど、それを今さら口にしても仕方がない。
今、何よりもまず求められるのは、原因の究明と然るべき対処。
自分達の失態の反省をするのは、その後でいいだろう。
いったい『ロウソサイエティ』は、何が原因で消滅したのだろうか。
それが単なる事故や自滅でないことは、調査隊と連絡が取れなくなった以上、もはや疑う余地はない。
つまり、何がしかの脅威が、そこにあったのだ。
問題は、それが何なのかということだ。
それは、『ロウソサイエティ』が創り出した脅威なのか、それとも別の理由で現れ、たまたまそこにいた『ロウソサイエティ』に牙を剥いたのか。
『ロウソサイエティ』は、原因なのか、結果なのか、と言い換えてもいいだろう。
どうあれ、早急に解明し、事態を収拾させなければならない。
「こうなった以上は、十二使徒を動員しないわけにはいきませんね」
「『ロウソサイエティ』の調査に、現地の探索……確かに、十二使徒でなければ、遂行は難しいでしょう」
原因究明のためにも、まずは『ロウソサイエティ』の実態を調べなければならない。
徹底した秘密主義を貫いていた彼らが、閉鎖されたその世界で、いったい何をしていたのか。
それがわかれば、今回の不審な事件の原因も掴めるかもしれない。
あるいはその対処法も。
加えて、現地を調べる必要もある。
はっきりと口にこそ出さなかったが、マリアにしてもアリエスにしても、調査隊が今も無事でいるとは微塵も考えていない。
おそらく、彼らは既にこの世にいないだろう。
それはつまり、保護機関の調査隊を簡単に葬り去ることができるような存在がいるということに他ならない。
だからこそ、十二使徒を派遣するしかない、という言葉が出たのだ。
それほどに、二人は危機感を抱いている。
漠然とした不安が、けれどどうしても胸中から消えてくれない。
S級賞金首としてリストアップされている者達と対峙する時の方が、まだしも気は楽だっただろう。
少なからず情報を持っている相手と違って、今回の相手に関しては、何もわからないのだから。
いや、そもそも相手の正体以前に、そんな相手がいるかどうかさえ確定してはいないのだ。
だがそれでも、脅威となり得る存在がいるという可能性が出てきた以上、動かないわけにはいかない。
「今、手が開いてるのは、タウロスとキャンサーでしたか?」
「はい。ではこの二人に?」
「えぇ、現地に行ってもらいます。ロウソサイエティの調査は、あなたにお願いします」
「わかりました」
方針が決定すれば、話は早い。
マリアが矢継ぎ早に指示を出し、アリエスもそれに了解の意を示すと、すぐに行動を開始すべく、席を立つ。
と、部屋の外へ向かおうとする足を止めて、アリエスが振り返る。
そして、マリアが何かを言う前に、その口を静かに開く。
「付近の街への注意などは、どうしましょうか?」
アリエスが考えたのは、一般人への配慮。
何も知らない付近の住民に、脅威の可能性を教える必要があるのかどうかについてだ。
もし本当に危険な存在がそこにいるとすれば、避難や救助も考えなければならなくなる。
「……いえ、今は止めておきましょう。そもそもロウソサイエティの施設があった場所の近辺に、大きな街はありませんし」
マリアは、アリエスの言葉に少し考えてから、けれど否定の言葉を口にする。
まだはっきりと脅威があるとわかったわけではないのだ。
それに、一般の被害報告はまだ一件もなかった。
ならば、今は口を閉ざしておくべきだろう。
不確かなことを発表して、徒に一般の人々の不安を煽る必要はない。
下手な報道は、いらぬ騒動を引き起こしかねない。
一般への報道や避難勧告などは、はっきりとしたことがわかってからだ。
もちろん、報道する時には、事件が解決済みであることが最良なのだが。
「わかりました」
「それでは急いでください」
一礼後、アリエスは部屋を辞した。
ロウソサイエティの施設があった場所へ向かう二人にそれを伝え、自身も調べなければならないことがあるのだから、ゆっくりとしているわけにもいかない。
部屋を出てから、彼女は足早にエレベーターへと急いだ。
「……間に合うでしょうか?」
一人部屋に残されたマリアは、椅子に腰掛けたまま天井を仰いだ。
その表情は、やはり厳しいまま。
既に、事件が発生してから二ヶ月以上が経過してしまっていた。
その事実が、彼女に不安を抱かせる。
こうしている間にも、脅威は広がっているかもしれないのだ。
具体的な人的被害の報告は未だにないものの、それを鵜呑みにすることなどできない。
むしろ、何の被害報告もないからこそ、不気味なのである。
水面に波一つ立っていなくとも、その下に怪物が息づいていないとは言えない。
何も報告がないからといって、何も起きていないと言い切ることなどできないのだ。
もしかしたら、既に何か取り返しのつかない事態が発生している可能性だって十分にある。
「……思い過ごしであればいいのですが」
窓の外へ向ける眼差しには、隠し切れない不安と微かな焦りがあった。
何かとんでもない事態が進行しているような、そんなどこか馬鹿げた不安を、けれど彼女は否定しきれずにいる。
目に映る街の光景は平和そのものだったが、それも彼女の心を安定させる役に立ってはくれない。
それからしばらくの間、彼女は微動だにせず、街の向こうへと視線を向け続けていた。
時はただ、静かに確かに、流れ続けている。
続く
後書き
第二章と第三章の中間に当たる、いわば幕間のお話でした
当然重要な意味を持つ話なわけですが……いかがでしたでしょうか?
もし時間がおありでしたら、ぜひ四十四話を読み返してくださいませ。
事態は緩やかに進行して行きます。
そしてまた、次回は何事もなかったように祐一達のお話に戻るわけですね。
さて、その第三章ですが、申し訳ないと思いつつもしばらくお時間を頂きたく。
最近なかなか時間を取れず、進みが遅いもので、投稿可能と判断できる状態にないのです。
どれだけ時間がかかるかはわかりませんが、ある程度書き進めたら再開しますので、今しばらくお待ちくださいませ。
それでは、また第三章再開の時までしばしのお別れを。