その日、パイロット達は暇だった。
部隊全体で言えば、戦闘で受けた様々な損害を癒しているさなかで慌しい。
その為ブリッジクルーや整備班などは忙しかったのだが、戦闘後に休息が義務付けられている彼らは休んでいるのだ。
一部の人間は自室や別の場所で体を休めている。
れっきとした仕事なので、暇と記すにはいささか語弊があるかもしれないが。
「ねー、こーへー」
「んー?」
コウヘイが一息ついたところで、テーブルの対面から幼い少女の声がかかった。
声をかけたのは、この艦のマスコットの片割れであるマリア・アイザワである。
相棒であり姉妹であるアキナ・アイザワも、彼女の隣席へ着いた。
「この美男子オリハラに何か御用かなプリティガールズ? ご両親との語らいは十分みたいだが」
「うん。パパとアキコママにはいっぱい抱きついたからだいじょーぶ」
「お父さんもお母さんも何時もより暖かかった」
「それは良かった。ではご用件をどうぞ」
「うん、お話してー」
「また面白いお話聞きたいです」
「ほほう、面白い話とな? 良かろう。前回は確か、神王にも魔王にも凡人にもなれる男の物語だったっけ?」
「そうそれー」
「うーむ。今度は何が良いかねぇ……少女達なら魔砲少女の話なんていいか? あるいは頭でっかちで魔法使いの子供が先生をやる話とか」
「魔法少女?! 面白そう!」
「私は先生の方も聞いてみたいなぁ」
「えー、魔法少女だよ」
まずはどちらの話を聞くか言い合いが始まってしまった。
同じ音の単語を喋っているが、マリアとコウヘイでは思い浮かべる存在にかなりの差異があるのだが、それには誰も気づかない。
取り敢えず、幸せそうに少女達を見るコウヘイは、普段を知る人間からはなんとも不気味に映るだろう。
「良いんですか、あれ」
「確かにその手のお兄さんって風情だが、まぁ大丈夫だろ」
「でもあいつの奥さんを見るに本気でロリコンなのですが……」
「ナナセさん、彼なら大丈夫ですよ」
「あたしは信じきれませんけど、アキコさんがそう仰るなら」
「それに、いざとなったら戦闘中後ろから撃ってしまえば良いだけですしね、ユウイチさん?」
「……え?」
「ああ。まだ蕾にもなってない家の娘に手を出したらそれもやむなし、か……」
「ええ!?」
上官のあまりにやばい発言にルミは目を剥いた。
もしそういう状況になったら彼女自身もコウヘイを再起不能にしそうだが、さすがに命がかかっていると別らしい。
発言内容が過激過ぎて変に焦っているが、本当にそうなったら普通に犯罪だとルミが気付くのはもう少し後の話である。
アイザワ夫妻はからかい甲斐のある彼女を弄っているだけで、お互い冗談を口しただけであった。
「じゃあじゃんけんね!」
「のぞむところ!」
白熱する姉妹対決を見ていると、コウヘイの脳裏に何とはなしに自分の妹が浮かんできた。
視線は2人を通り過ぎ、思考は過去へと遡っていく。
数限りない思い出の中で、何時もふとした拍子に浮かんでくるのは、あの印象深い1日の事―――
スーパーロボット大戦 ORIGINAL GENERATION
Another Story
〜闇を切り裂くもの〜
外伝 浩平と病院
白い部屋に人影が2つある。
1つは真ん中に置かれた大きなベットの上で、それは線の細い少女のカタチ。
もう1つのカタチもまた少女であり、その影はベッドの横にあるパイプ椅子の上にあった。
部屋はおよそ一般的なイメージそのままの病室ある。
強いて何かを付け足すのなら、一人部屋だという事だろうか?
「……」
「……」
双方とも無言。
ベッド上の少女は本を読んでいるし、椅子に座る少女はノートパソコンのキーを打っている。
傍目には居心地の悪い空間かもしれない。
だが実際この場にいれば、この2人がお互いに気を許しあっている事は分かるだろう。
それほどゆったりとした柔らかい空気が満ちていた。
「うおーい。元気にしてるか我が妹よ」
引き戸の動く重い音が生じるのと同時に、まだ若い男の声が部屋に届く。
2人の少女はまったく同じタイミングで、まさに花が咲くように嬉しそうな顔を一瞬だけドアに向けた。
そして顔を見合わせると―――
「いらっしゃい、お兄ちゃん!」
―――ベッドの少女が弾んだ声をかけた。
「早かったね。もう何時間かは後になるかと思ったんだけど」
『コウヘイにしては時間を守ったの』
「学校から直でここに着たからな。それとミオ、俺はミサオとの約束は必ず守る」
えへんと、ミオと呼んだ少女と逆側の椅子に座ったコウヘイはそっくり返る。
ベット上の少女は、その兄の言葉に苦笑しながらも嬉しそうだ。
このベッドで半身を起こしている少女が、コウヘイ・オリハラの妹であるミサオ・オリハラ。
顎のあたりで切り揃えた艶やかな黒髪と白い肌が対照的な少女である。
年齢ゆえか纏う雰囲気か、綺麗というより可憐と形容しうる整った容姿だ。
『それは良い事だけど、私達との約束も守ってほしいの。前は25分も遅刻したし』
「ええ! お兄ちゃんったらそんなに遅れたの?」
「あーあー……あれはあれだ、うん」
『どれなの?』
「だからあれだあれ!」
『分からないの』
あれだあれだと話を逸らす気満々のコウヘイだが、ミオと呼ばれた少女は誤魔化されもしない。
そんな2人の様子を、途中からミサオは口を挟む事なくニコニコした顔で見守っていた。
しかし、第三者が彼らを見た時必ず不思議に思うだろう。
3人の間では普通に会話が成り立っていたが、ミオだけが声を出さずに文字で意思伝えている事を。
そう、ミオ・コウヅキは声を出す事が出来ない少女だったのである。
『その前は15分の遅刻で、更にその前は10分の遅刻だったの。……段々酷くなってる?』
「うっ」
「うわお兄ちゃんひどーい、さいてー」
「クリティカル! 妹に言われると効くなぁおい、しかも棒読みだし」
『言われたくないなら次から遅刻しなければいいの』
「その通りですごめんなさい」
「うーん……ミオちゃん、あんまり反省してないよ?」
『それでも良いの。次遅刻したらデート代は全員分コウヘイの奢りだから』
「ぐっはー」
ミオは言葉を発する事は出来なかったが、相手に意思を伝える方法は他に幾らでもある。
手話という方法もあったが、彼女は筆談という手段を選んだ。
紙やペンの一般的なものではなく、幼少時からノートパソコンを使っていた。
両親の仕事がコンピューター関係だったためか、手で字を書く事より先にパソコンのキーを打つ事を覚えたという。
青紫色の髪をした、ミサオよりも幼い見た目の少女が一生懸命キーを打つ様は、違和感より微笑ましさが先に立つ。
実際は一流のプログラマーなのだが、彼女を知らない人間はそうは思うまい。
「それで……学校の方はどうなの?」
「ん、ああ。特に変わった事はないぞ。相変わらずナナセは俺をぶん殴ってくれるが」
『それはきっとコウヘイに問題があるの』
「うるさいよ」
「そっか……」
兄からは、変わらず自分を案じてくれる暖かい感情を感じる事が出来た。
それを実感できたミサオは、心配そうな顔からふっと安堵の息を吐く。
前に会った時と変わらない兄に安心したのだ。
コウヘイが通っている学校と言うのが士官学校なのだから、心配するのは仕方ないのかもしれない。
人殺しの為の手段を学んでいると思っている彼女は、毎日兄の身と心を心配していた。
「俺の事はいいから、お前らはどうなんだよ? ミサオ、寂しくないか?」
「大丈夫だよ。病院の敷地内で人の少ないところだけだけど出歩けないわけじゃないし。それに仲良くなった人もいるんだよ?」
『……ちなみに男なの』
「なっ! 不純異性交遊!? 待て、待て待て待て待て!! お兄ちゃんは許しませんよ!!」
『もちろん冗談なの』
「冗談なのかよ?! 絶対この前会った時より性格悪くなってるぞ」
『そういうコウヘイはシスコンに磨きがかかっているの』
「ぐっはー」
「ふふ」
ミオの打つ文章に一喜一憂するコウヘイ。
普段は周りを振り回す側のこの男だが、こと妹が絡むと途端に振り回される側に回る。
付き合いの長いミオにとっては日頃からかわれている仕返し。
普段は実力行使で口を塞いだり手を握ったりで使えなくするコウヘイだが、妹の傍ではそうもいかず、結果言葉の応酬で負ける
何時もと違う賑やかさに兄が帰ってきた実感を抱きながら、ミサオは笑った。
「ホントに男じゃないんだな?」
「本当だよ。優しい女の人でね。ユキコさんって言うんだ」
『おばさん良い人なの』
「なんだか近くにいると落ち着くんだぁ。……お母さんみたいで」
「……そうか」
オリハラ兄妹は小さい頃に両親を事故で亡くしている。
叔母に育てられてはいるが、叔母はまだ若い為に姉のような意識が強く、母親の様には慕えなかった。
だからそういった人が妹の近くにいる事をコウヘイは感謝した。
言葉を喋れないからか、昔から人の感情に敏感なミオも心を許しているようなので人柄は間違いないはずである。
「はー安心した。じゃあ検査の方は? 問題は?」
「うん、今のところは問題ないって。ミオちゃんも昼間は傍にいてくれるし」
「ほぉ、ミオ良くやった」
『えっへん!』
「偉そうにしても胸ないけどな」
『コウヘイのエッチ! 小さい胸が好きなくせに!!』
「え! お兄ちゃんってやっぱりそうだったんだ……」
「やっぱりって何だやっぱりって!! 好みを捏造するなよ!!」
『捏造なの?』
「ああ捏造だね! 俺は女性の胸は何でも大好きだからなっ!!」
「……そんな威張って言わなくても」
堂々と言い放ったコウヘイは漢としての力強さに満ち溢れていた。
その妹は個室で良かったとしみじみ思ったが。
他に知らない人がいたら”危ない人”のレッテルを貼られる事必至である。
「そういうミオはどうなんだ。ちゃんと仕事してるのか?」
『コウヘイとは違うからだいじょーぶ。納期も守ってるもの』
「そーそー。ミオちゃんは真面目だよ。集中しすぎて、何時間も会話しない事だってあるんだから」
『それはしょうがないの。まだまだ私は下っ端の、しかも外注なんだから、まずは真面目さをアピールしないと』
「わかってるよー。それに毎日わたしの病室に来てくれているんだから、お話出来なくても感謝してるって」
「ふーん。ま、とにかくミオもクビにならないよう頑張ってるって事か」
『そーなの』
ミオ・コウヅキは現在19歳ではあるが、自身の能力を生かしてプログラマーとして仕事を請け負っている。
守秘義務が存在する為、彼女の知り合いや身内にさえも仕事内容を知るものはいないが、ある会社の専属プログラマーだ。
仕事はなくならないようなので、中々重宝されているようだ。
家庭環境ゆえか子供時代からコンピューターを扱っていた彼女だが、普通の子供には縁がないだろうプログラムに手を出したのには当然ワケがある。
昔から付き合いがあった少年の言った、自分でゲームを作れたら面白いだろうな、という言葉に触発されての事だ。
一念発起し、頑張って一からプログラミングを勉強し、数年後に自作ゲームの第一弾をその少年の誕生日にプレゼントしている。
「―――でその時にナナセがな……」
「そうなの?」
「そーなんだよ。ははははは!」
その時の少年が同室で馬鹿笑いしているこの男。
自分の何気ない一言が、1人の少女の人生を決定付けたとは欠片も知らない。
コウヘイ・オリハラ、業の深い男である。
(……思えば私も若かったの)
「はっはっは!」
ハイティーンの少女が若さを懐かしむのはどうかと思うが、いまだ笑っている男を見れば、さもありなん
当時の彼は、もう少し大人しくて真面目な男の子であったのに、とは昔のコウヘイを知る全ての人の意見である。
でも、コウヘイに対する感情自体は強くなりこそすれ、自分の中で変化していないのが何故か嬉しいミオだった。
コウヘイが病室に来てから少なからず時間が経過したが、場はゆったりとした雰囲気になっている。
当初は会えなかった時を埋めるかのように話し続けた3人だが、数分前に会話が一段落してからはこの通り。
さてそろそろ主治医に挨拶でも、とコウヘイが考えた瞬間―――
「ボクの勝ちー!!」
「……まけたー!」
―――騒々しくドアが開け放たれた。
勢いが良すぎたのか、開ききった途端壁に当たった鈍い音も響く。
病院内とは思えない騒々しさである。
「あー! コウヘイ君だ!!」
「みゅ? コーヘー?! ほんとだ!!」
病室に入ってきたのは、長さの違う栗色の髪を持つ2人の少女だった。
1人は後ろ髪がバラけないようにか、赤いカチューシャを耳の後ろにつけた肩ほどまでの髪の少女。
もう1人はあまり髪形に頓着しないのか、さっぱりと切られたショートカットの少女だ。
またしてもと言うべきか、やはりと言うべきか、2人とも女性というよりは女の子と言うに相応しい容姿である。
「お前ら! 病院なんだからもっと静かにしろよ!!」
「わーいコウヘイ君ひさしぶりー。ぎゅー」
「みゅー」
「ぐわ! 何抱き付いてやがりますかお前ら! いや柔らかいし嬉しいけどね!!」
「お兄ちゃんも声大きいよ」
『本音が洩れまくりなの』
ぎゃーぎゃーわーわーと煩い3人。
始めは注意していたコウヘイも、抱きつかれて即騒ぐ側に回ってしまった。
残りの2人は生温かい目で見ているが、微妙に諦観が見て取れる。
日常茶飯事なのだろう。
「アユ、マユ、ぎゅー」
「コウヘイ君」「コーヘー」
……最早勝手にどうぞという感じである。
ハート乱舞でもしそうだ。
ミサオがこの3人(場合によっては4人)を普通にスルー出来るあたり、やはり日常茶飯事なのだろう。
『筆談は見てくれれば会話は出来るけど、逆に気付いてくれないと会話が成り立たないところが困りもの』
「ま、まぁまぁ。久しぶりの再会だから大目に見てあげないと」
『私達も久々の再会だけど?』
「そこはそれ、年齢の差と言う事で」
『同じ年。確かに精神年齢には差があるけど』
「中々言うなぁミオちゃん」
『筆談だから音でばれないから問題なし。モニターも私達しか見れない位置だし』
「……計算ずくですか」
『私だって再会の時抱き合ったりしたかったの』
「あ、やっぱりそれは気にしてるんだ」
ぷくーっと頬を膨らませたミオは、恨めしいような羨ましいような眼差しで1つになった3人を見る。
心なしか打たれる文章もぶっきらぼうな感じになっていた。
相対するミサオは、微笑ましい妹を見るような暖かな眼差しで笑った。
少なくとも、この5人の中では彼女が一番大きな包容力を持っているのは間違いないだろう。
『あ、終わったようなの』
「……まぁ、取り敢えずいらっしゃいアユちゃん、マユちゃん」
「んーー堪能したぁ。うん、ミサオちゃんこんにちは」
一頻りベタベタして満足したのを見て取ったミサオが挨拶を発する。
ミサオがミオとやり取りしている間もスキンシップは続いていたようだ。
精神衛生上、皆の妹(実はミサオが一番年齢が低い)はそちらを向いていなかったのだが、彼女が見切った通り栗色の髪の少女はちゃんと返事を返した。
彼女はアユ・ツキミヤ。
コウヘイ達との交流は、彼女が小学生時に事故で1年間入院していた時、同じく入院中のミサオと知り合ったのが始まりである。
以来付き合いが続き、ミオと同じく中学時代にコウヘイと彼氏彼女の関係になった。
年はミオと同じだが、入院の件で1留年している為、現在は地元の高校に通っている。
「温かいねこーへー、良い匂い」
「そ、そうか? 何か照れるな」
訂正、ミサオにも見切れていなかったようだ。
バカップルそのままの会話である。
が、3人は目線も向けずナチュラルに無視。
コウヘイといちゃいちゃしっぱなしのその少女の名はマユ・シイナ。
小柄な少女達の中でもっとも華奢で年齢もミサオと同じ16歳と最も低い。
彼女の方が若干誕生日が早かったりする為、ミサオの事を妹だと強調してよく構っている。
マユの両親とコウヘイ達の両親が知り合いだったらしく、幼少時からコウヘイが面倒を見る事が多かった。
そんな彼女と恋人になった時、コウヘイは周りから「光源氏」、「真のロリコン」、「自分色に染める男」、「教祖」、等々数限りない称号を贈られている。
閑話休題。
『私もいるの』
「あ……うん。ミオさんもこんにちは」
『その間はなに?』
「あはははは!」
『……』
「ミオちゃん別に沈黙まで打たなくても」
渇いた笑いを響かせるアユと、その彼女を白い目で見つつキーで延々『……』と打つミオ。
更には、周りを満たす笑い声に全く反応せずバカップル全開なコウヘイとマユ。
どう見てもカオス、1人素のままのミサオはもの凄く居心地が悪い。
「わたしがどうにかするのヤダなぁ。けど……うん、お兄ちゃんいい加減戻ってきて! 見せたい物もあるし」
「ん? ああ、マユこの辺で」
「みゅー」
結局兄に頼った。
声を出したのはミサオだが、他人の名前が言葉の中に入っていればそちらに意識は行く。
結果上手い具合にコウヘイに注意が向き、変な空間は終わった。
「ほー」
「鯛焼き美味しいよ」
『一息ついたの』
変な空間は終わったものの、一息入れるべく茶を飲んで一服。
お茶請けはアユの大好物である鯛焼きである。
彼女は何故か見舞いに来る度に買ってくるので、皆で食べている。
「だな。はー。……で、見せたいものって何だ?」
「ふー。あ、うん。えーっと……これ」
「葉書? 誰からだ?」
「あ、ミサオちゃんもう見せるの?」
『もう少し内緒にすれば良かったのに』
ミサオが枕元の台から取り出したのは1通の葉書。
どうやら他の3人は誰からのものか知っているようだ。
すぐに送り主がわからぬよう、届け先である自分の名前が書いてある方が見えるようにコウヘイに渡した。
裏面の几帳面な文字と文面がミサオの目に入る。
「何か真面目そうな字だなぁ。どっかで見た記憶が……」
「ふふっ、早く裏も見てね」
「へいへい。何々……望んでいた環境に身を置けそうです。時期がきたらミサオちゃんに会いに行くね。ミ…………なるほど」
「ねーお兄ちゃん誰からだった?」
ミサオは複雑そうな顔のコウヘイにニコニコした顔で尋ねる。
第三者でも明らかに面白がっている顔だ。
妹第一の兄は、暫く会わない内に最愛の妹がそんな表情をする事にショックを受けた……がっくり。
「知ってて聞くのは性格悪いんじゃないか?」
「そーかなー?」
「だとしたら確実にこーへーの影響」
『朱に交わればなんとやら』
「そうだねー。コウヘイ君イジワルだから」
「普段ミサオと一番時間を共にしてるのはお前らなので、朱はお前ら! 特にミオ」
「うん。みーは仕事するようになってからなんか性格悪くなった」
「あ、それはあるかも」
『ガガガガーンなの。心当たりが……あるかも』
「「「やーい、やーい」」」
『……がっくり』
盛り上がる4人。
男は思った。
これで話は横道に逸れるに違いないと。
しかしミサオは騙されない。
「話を逸らそうったって無駄だからね」
「……へい。強くなったな妹よ」
「はいはい。その顔だとミズカお姉ちゃんとは一度も連絡とってないんだね」
「その通りでございます」
葉書の送り主はミズカ・ナガモリ。
オリハラ兄妹の幼馴染であり、同じ学校に通っていたアユやミオ、マユとも仲の良かった少女。
幼少時は獣医を目指していたが、中学卒業後は看護師になるべく、日本地区外の専門的な学校へ通っているらしい。
看護師を目指している理由はミサオ以外の知り合いは聞いているが、何を思って進学先を海外にしたのかは誰も聞いていなかった。
「ま、元気でやってるようで一安心だな」
「そうだね」
「3年になってからはなんか避けられてた気がするし、元気ならいいや」
「避けられてた?」
「ああ。俺が話しかけても用事があるって取り合わなかったし。ミオやアユも一緒にいたから覚えてるよな?」
兄妹の会話を大人しく聞いていた3人に話を振る。
鯛焼き食べてたりお茶飲んでたりキーを打っていたりする3人は、同時に首を縦に振った。
同時に目線をコウヘイに向ける。
「な、なんだ?」
「コウヘイ君もしかして気づいてなかった?」
「は? 何を?」
「その時期ってお兄ちゃん皆と付き合い始めた時でしょ? ミズカお姉ちゃん気をつかったんじゃないかな?」
「……そうなのか?」
『多分、授業中や休み時間には普通に話せたと思うの』
「……そういえば」
視線に咎める様な色が混じった。
あの時ミズカが幼馴染のコウヘイに特別な感情を抱いていたかは分からない。
朝起こしたり勉強を教えていた当時の生活を考えれば、おそらく手のかかる弟程度だっただろう。
だが、幼馴染がいきなり疎遠になれば寂しさは感じたはずだ。
「鈍いよコウヘイ君」
「こーへー……」
「かわいそうなミズカお姉ちゃん」
『コウヘイはもう少し女心を理解するよう努めた方がいいの』
「ちょ、俺にそんな事分かるわけないだろ!」
「「「開き直ったー!」」」
コウヘイとしても鈍いと言われるのはわからなくはない。
だが、それが分かるのは今の年齢だからこそ、という事も同時に理解していた。
子供だったあの頃に戻れたとしても、決して分からないだろう。
いまいち思い出せないが、自分も幼馴染が急によそよそしくなった気がして寂しかったような記憶もある。
「結局はお互い子供だったって事だな」
「そうだね」
「んー?」
「何のこと?」
『どっちもどっちなの』
「分かってるなら俺を責めるなよ」
『そこはコミュニケーション』
「そーかい」
苦笑してコウヘイは立ち上がった。
アユとマユは何の事かわからない顔をしているが、ミサオとミオはわかっているようだ。
精神年齢の差なのだろう。
「どこか行くの、お兄ちゃん?」
「ん、師匠に挨拶してくる。あまり遅くなってもあれだしな」
「わかった」
『気をつけてね』
「またねーコウヘイ君」
「マユも行く」
「今回は俺だけで行かせてくれ、な」
「みゅー……わかった」
「さんきゅマユ。じゃ」
コウヘイは病室から出た。
目的の人物を探すべく、まずはナースステーションを目指す。
ミズカに会ったなら、色々と昔の事を話そうと思った。
「あらコウヘイ君こんにちは」
「ちは」
「またお茶飲みにきなさいな」
「そん時はゴチになります!」
「おおコウヘイの坊主じゃないか! 元気じゃったか?」
「おっ、ナジーの爺さんまだ生きてたのかよ! 相変わらず女の人の尻追っかけてんの?」
「当たり前じゃ! 女子さえおれば、儂ゃ後50年は生きるぞい」
「爺さんもう80越えてんだろ……どんだけ化け物?」
「うっさいわい」
「あら、オリハラさんの。こんにちは」
「うっすこんちは」
歩くごとに声をかけられながら、コウヘイは院内の廊下を進む。
目的の外科病棟内を歩きつつ、知り合いの看護師や入院患者が元気な事に内心安堵した。
病院内の知り合いには、明るく妹想いのコウヘイは好印象をもって受け入れられている。
妹の肩身が狭くならないようにバカな行動は自重しているのが効果的だったのだろうか?
「あ、師匠どこにいらっしゃるか知りませんか? 外科病棟の医局ならそっちまで訪ねますけど」
「え……君のお師匠様?」
「あぁ、あの一等おっかない顔の医者じゃな」
「ああ。北辰先生ってナジーさんこちらにこない!」
「なんと酷い言葉を! 差別? 老人差別か?」
「いや、手を伸ばす場所が嫌らしいので」
毎度の光景と聞いた言葉にコウヘイは苦笑する。
この老人と女性看護師達とのやり取りもいい加減日常茶飯事と化している。
老人のカラっとした性格が見た目にも分かるので、第三者が見ても嫌な感じを受けないのが凄い。
まぁ、苦笑の理由は師匠=病院で最も顔の怖い医師という認識が一般化している事にだが。
「それで……」
「あ、ええ、北辰先生でしたら整形外科で外来を行ってらっしゃいますよ。このっ、そろそろ終わると思いますけど」
「わかりました、そっち行ってみます。爺さんほどほどになー」
「ほっ! 当たり前じゃ。よっ! セクハラしたいわけじゃないでな」
「サノさんも殺さないように頑張って」
触ろうとするナジー老人と、それを避けるサノ看護師の攻防を背に移動を開始する。
おそらく何時も通り他の人間による水入りに終わるだろうな、と思いながら。
なんだかんだ言ってあれも長期入院患者とのスキンシップなのだろう。
あの色ボケ老人のどこが悪いのか分からないが、コウヘイは何時もの通りそう思い込むことにした。
「しっかし何で外来なんだろ? あの人メス振るってるイメージしかないんだが」
嬉々としてオペを行う目当ての人間を脳裏に思い浮かべながらコウヘイは歩く。
それにあの顔で外来はちょっとなぁ、と呟く。
コウヘイ自身もかの人物の顔が恐ろしいのは理解している。
人となりを知ると気にはならないが、初対面だと怖がられるはずだ。
「滅」
「痛っ! いたたたたたた!!」
「……着いたけど、やってるなぁ。でも滅しちゃダメだろ滅しちゃ」
外科外来の待合室に到る瞬間、診察室の向こう側から病院で聞くには不吉な響きの一文字と悲鳴を聞きつけた。
悲鳴の方はかなり大きな声なので扉越しに聞こえるのも納得だったが、もう1つの方はそう大した音量でもなかったのに響いてきたのが不思議である。
その大きな悲鳴も僅か数秒で消えたが、コウヘイは中々に痛そうな印象を受けた。
コウヘイと同様に歩いていた人達は、それを聞いた瞬間自らも痛そうに眉を顰めて足早に歩き去る。
「足早っ」
サーっという擬音が出現しそうな程の速度で、あっという間に待合室にはコウヘイ1人が取り残された。
元々最後の外来患者だったらしく付近のベンチには誰も座っていない。
誰か残っていれば診察が終わる待たなければいけないので、コウヘイにとってはちょうど良かった。
誰か出てくるまで待つかと座ろうと思った瞬間―――
「では後は任せる」
「はい。お疲れ様でした」
「うむ……む?」
―――待ち人が出てきた。
座ろうと腰を屈めた状態で静止したコウヘイと白衣を着た無表情の男の視線が絡む。
「……ぽっ」
「オリハラか」
何故か恥じらいの表情を浮かべ、目を伏せたコウヘイを男は豪快にスルー。
相手が顔見知りだと判別すると一瞬だけ頷いた。
無表情は欠片も動かない。
「素でスルーとかボケ殺しも大概にしてくださいよ師匠」
「知らん。男が顔を赤らめても気持ち悪いだけだ」
その通りである。
「相変わらず厳しー。でも律儀に返答してくれますよねぇ、ボケ殺しなのに」
「後半は関係あるまい。まぁ、我も医者である故患者とその親族には語る口も持っている」
「さすがししょー。そこに痺れる! あっこがれるぅ!」
「そもそも何故お前は我を師と呼ぶ? 何か教えた事はないはずだが」
「またスルーっすか……。まぁその容赦のなさとかを割と尊敬してるんで」
「ほぉ、中々に分かっておるな」
始めて無表情を崩し、ニタリと男は爬虫類染みた笑いを浮かべた。
病院中に怖い医者として評判になっているだけあり、確かに凄みのある顔をしている。
その容貌の中でも、一番目を引くのは猛禽のように鋭く細い両眼の内の左。
普通の目より数倍大きい真紅のそれは、殊更注視せずとも義眼だと分かった。
若干痩せた顔には弱弱しさではなく溢れる覇気が感じらる為、サングラスでもしていたら確実にソレもんの人である。
実際初めて見た人間はギョっとして道を譲るほどの怖さなのだ。
そしてその身にまとう白衣に気づき、医者だと理解すると更なる驚愕に襲われて行動が停止する。
だが、そんな外見に反して医師としての腕とモラルは理想的なレベルという反則具合。
性格も公正で実直であり、付き合ってみると何とも味のある人間であった。
コウヘイも照れくさくて言わなかったが、彼のそういう性格を尊敬して師と仰いでいるのだ。
ある程度以上の年齢と人格を備えた患者には一番人気がある医師である。
「で、聞きたい事があるんですが……今大丈夫でしょうか?」
「貴様の妹の事か……良いだろう。医局では他に人間がいる故、手術棟の談話室にでもするか。貴様も他人に聞かれたくあるまい?」
「ありがとうございます。……顔が怖い割に面倒見が良いですよねぇ師匠」
言い終わると男は先に立って歩き出す。
その後に続いて歩き出すと、コウヘイは男の外見を恐れる人間では絶対に口にしないような言葉を平然と吐いた。
先を歩く白衣の男は別段怒るわけでもなく、無表情を全く動かす事もなかった。
どうやらあの笑い以外は無表情がデフォルトらしい。
「……煩い」
「気にしてたんすか」
無表情のまま、心なしか憮然とした表情の男に苦笑しつつ目的地へ向かう。
コウヘイと話しつつ移動する男こそ、ミサオの担当医にしてコウヘイが師と仰ぐ男。
他の医師や看護師のネームプレートは地球圏公用語で記されていたが、彼のモノだけ院内で唯一漢字で記してあった。
名を、北辰と言う。
「ちなみに妻子持ち」
「オリハラ、貴様どこを向いて喋っている」
「コーヒーで良いな?」
「あ、すんません。金払います」
「気にするな、奢ってやろう。最近金を使う暇がなくて余っている」
「それは羨ましいっすねー。じゃあ遠慮なくゴチになります」
角部屋に位置する談話室のテーブルにつき、缶のプルタブを引き開けて中身を流し込む。
予想通りこの談話室に人はいなかった。
逆端の幾つかの手術室が使用中なようなので、そちら側の談話室には誰かしらいるのだろうが、こちら側は静かなものである。
コーヒーは予想に反して甘い。
ヤのつきそうな外見の中年と差し向かいで何やってるんだ俺? と埒もない疑問が抱いたコウヘイだが、その思考はコーヒーの甘さに紛れた。
「師匠は緑茶っすか。前はコーヒー飲んでませんでしたっけ?」
「珈琲はブラックしか飲まぬのだが、娘にそれは体に悪いと言われて控えている」
「ぶっ」
思わず飲みかけのコーヒーを噴出しそうになった。
北辰というこの男、こう見えて愛妻家にして子煩悩である。
外見に反して惚気やら子供自慢が出てきたりして、付き合いのある人間でも予期せぬダメージを受ける事が多々あるのだ。
しかも会話の途中に唐突に出るので予想できないので困る。
「一度専門の人間に見せる必要があるかもしれんな」
「え……は……あれ? 何の事でしたっけ?」
「戯け。貴様の妹の事だ」
そしてこの脈絡もない話の急展開。
自らの家族関係の話題でダメージを与え、それが回復しない内に真面目な話になったりする。
大抵は今のコウヘイのようについていけない。
天然というのではないが、言語回路が人と違うのだろうというのが周囲の意見である。
「あー、ああはいはい。……さすが師匠」
だがそんなところもコウヘイは尊敬していたりもする。
混乱させて主導権を握る方法として大いに参考になるとかなんとか。
「専門って言いましたけど、師匠の専門も脳外科なんじゃないんでしたっけ?」
「我は脳治療が出来るだけであって脳そのものの専門家ではない」
「そういえばそうか……治せてもその部分の細かい作用とかを研究していないって事ですか」
「然り。それでも大凡は理解しているがな。ちなみに我は診察、手術共全身全て可能だ」
「は? ちょ、それは凄すぎなんですが」
ただ、確かに可能ではあってもやんごとなき理由で北辰では不可能な科が2つほど存在する。
産婦人科と小児科である。
「我が凄まじいのは当然の事だ」
「すっげー自信。過信でもなんでもなさそうなのがすげーわ」
「自らの腕に自信なくば人を切る事など不可能よ」
実際、北辰は凄腕の執刀医として日本のみならず世界でも認められている男である。
その技量は過信でもなんでもない。
この病院の外科部長−「氷凍のメス」と呼ばれる人物−と並び、「修羅のメス」と呼ばれ双璧をなしている。
「それで脳の専門家だが」
「……はい」
明後日に飛んでいた話を修正する。
事が妹に絡む話なので、コウヘイの顔も真剣になった。
今度はしっかりと話題についていけている。
「特脳研なる場所にケンゾウ・コバヤシという男がいるのだが、そやつならばあるいは何か知っているかもしれん」
「特脳研……研……研究所ですか?」
「ああ。正確には特殊脳医学研究所と言うそうだが、長いので誰もそう呼ばずに略しているそうだがな」
「そこに行けばミサオの病状が何か判るかもしれないと?」
コウヘイにとって悲願とも言える妹の治癒が適うかもしれないとあって俄然力が入る。
知らず知らず、対面の北辰へと身を乗り出していた。
ミサオ・オリハラ、彼女は厳密には病気を患っているわけではない。
肉体的にも精神的にも問題は何もないのだから。
ただ、周囲に不特定多数の人間が数多く存在する場所に行った場合、頭痛や眩暈、嘔吐を感じ、酷い時には気絶してしまう。
そういった症状が表れたのは、小学校に入って色々な場所に出かけるようになってからだった。
特に大人が多い場所に行った時に顕著になっていったようだ。
子供が多い場所では軽度の頭痛が精々だったのを考えれば、原因は不特定多数の大人にあったのだろう、と判ったのは後になってからの事。
周りの人間の気持ちや考えが自分の中に入ってきた、とミサオ自身が理解したのもやはり後の事である。
当時はただただ気持ち悪かったとしか彼女には感じられなかったからだ。
「実はな」
北辰は一瞬だけ言いよどんだ。
だが相変わらず彼の表情自体に動きはなく、その後も変化が生じる事もなく話し始めた。
コウヘイは、これからするのがより重要な話だと理解するより早く感じ取ったのか、瞬きもせず続きを待つ。
「どこから聞きつけたか、数年前からミサオ・オリハラの身柄を特脳研へ移すよう圧力がかかっている」
「……え?」
「さすがに一患者への強制召集は違法なので強制力のあるものではないがな。おそらくは特脳研と繋がりのある連邦政府のお偉方からだろう」
「ちょっ! ちょっとちょっと!! ……冗談ですよね?」
「我は冗談は好かん。嘘は言うがな。断っておくが、当然この話は嘘ではない」
普段のコウヘイならツッコミを入れるところだが、さすがに今回はそうはいかないようだ。
それもそうだろう。
世話になっている病院が、自分の妹が原因で圧力をかけられているなど、特別変な構造の脳でも持っていないと思いつかない。
「圧力については貴様の気にする事でもない」
「ですけど」
「気にしてもどうにもならん。むしろ気にするだけ無駄だ」
「そ……それはそうですが、もうちょっと言い方はないんでしょうか?」
「患者でもないのに気を遣ってやる必要があるのか?」
至極当然といった顔で言い放った。
これが北辰という男である。
患者と患者だった人間以外には気配りを見せない人間なのだ。
関係者には話はするが、淡々と説明するのが常で気を配る事はない。
それ以外の人間からも問われれば応えるし、(怖がられるが)人付き合い自体は悪くないのが不思議である。
「逆を言えば、患者である以上何からでも我らは全力を持って守る。それが医者という人種だ」
「はっ……さすが師匠」
そういう人間ではあるが、医者としては何よりも高潔な意思を持っていた。
その意思はこの病院のどのスタッフからも感じ取れるものだ。
だからこそ、この病院には毎日大勢の人々が通っている。
「落ち着いたか?」
「はい。感動しました」
「ふん。あの程度の我の威と言で感動するとは、まだまだ青いわ。それで、理解したか?」
「特脳研が俺の妹を欲したと言う事は……」
「……少なくともミサオ・オリハラの症状か、その原因があちらの望むモノの1つというのは確かだな」
ミサオの入院後に病院にコンタクトを取ったという事は、必然的にそうなる。
あくまでも必要なのは症状そのものか、それに付随する何かなのだろうが、その為には逆説的だが彼女自身が必要になる。
つまり、特脳研側はこちらが知らないミサオの症状(同じものか似たものかは不明だが)の詳細な情報か、それを引き起こす原因を知っている事になる。
「それが本当なら……」
「完全な対処が可能かは分からんが、打てる手は増えるだろう」
「……ですね」
身を乗り出していた状態から体を起こし、天井に顔が向くほど背もたれに体を預けて目を瞑る。
コウヘイの胸に去来するモノがあった。
妹が集団生活から弾き出されて生きている。
それは、ミサオに亡き父母の分も愛情を注ぐコウヘイにとって地獄にも似た苦痛だった。
入院する前、妹を虐めていた奴らと何度喧嘩したかも分からない。
泣いているミサオを見るたびに、原因不明の症状と妹を許容出来ない周りを恨んだ。
あのままだったら自分も妹もお互いにのみを大事とし、世間に背を向けてダメになっていただろう。
そうならなかったのは、今の恋人達と幼馴染、親友のおかげだと理解している。
照れくさいから口に出した事はないが。
抱く感情は違えど、彼女らは兄妹共通の得がたい人物達。
不足とは微塵も思わなが、妹にも妹だけの得がたい誰かがいてほしいと兄は願っていた。
その為の機会は、自らの経験からもやはり学校などの集団生活の場がもっとも相応しいと思う。
だから、何とか最低限周りに大勢の人間がいても大丈夫にしてやりたかった。
たとえ、自分のエゴだとしても。
「……あれ?」
不自然さに気づいた。
そういう場所の情報があるのなら、何故もっと早く自分に知らせなかったのだろうか?
目前の男は、患者を治す為の手段と手間を秘匿するような人間ではない。
それを知っているからこそ、自身は彼を師と呼び慕っているのだから。
「当然よな」
その旨を聞いてみると、果たして理由があるようで師は頷いた。
どことなく苦いものを口に入れたような表情になる。
関係があるのは、やはり圧力という言葉だろうか?
普通に考えれば後ろ暗い存在が無理やり言う事を聞かそうとする手口であるし。
「まずはオリハラよ、これは過去の情報だと理解した上で聞け」
「過去……って事は今は違う?」
「然様。あくまでも過去の話である」
「なら、はい」
「うむ」
頷くと、北辰は鋭い眼光を一層鋭くして座りなおした。
空気が変わったのを感じ取り、コウヘイも居住まいを正す。
「特脳研については極秘機関故我も詳しくは知らんが、非人道的な人体実験を行っていたらしい」
「じっ!」
「声がでかいわ戯け」
「でも師匠」
「実験内容や研究テーマなどは知らん。が、ケンゾウのライフワークを考えればおおよそ予想はつく」
その事についてはそれ以上語るつもりもないのか、北辰は口を閉じた。
自分には知らせる必要がない事か、あるいは知っても理解できない事だと感じたコウヘイも聞くつもりはない。
今聞くべき事は―――
「『今』は大丈夫だと、師匠は思うんですね?」
―――その男が妹に害を成すか、益を及ぼすかである。
「うむ。今のケンゾウならば非人道な人体実験に饗するような事はなかろう」
「そう判断した理由を聞いても?」
「目を見れば分かる」
「……目ですか」
コウヘイにはさっぱり分からないが、数十年に亘って人相手の医療に携わってきた師が言うのなら確かなのだろう。
人の表情や雰囲気を読む事にかけては、医師もプロであるのだし。
だが今の話を聞いた以上顔が強張るのは仕方ない。
「一番拙い時期の顔はある意味見物ではあったな。ああいうのを狂信者の顔というのであろう。目が逝っておったわ」
「そんな面白そうに言われても……」
「あれに比べれば以前会った時の顔は余程人間らしいものよ。何があったかは知らぬが、娘に対する父性も芽生えおったようであるし」
「父性ですか」
ミサオに対する感情には父性的なものも抱いているコウヘイは、それを聞くと複雑そうな表情を見せた。
共感できる感情ではあるが、今までの話を聞くに嫌悪感も感じているといったところか?
「無論接触を図っても安全には十分留意する。我も必ず立ち会うし、不安なら警備員も待機させよう」
「警備員までっすか」
「当然だが打てる手は全て打つ。基本的に、何かやるなら必要な機材をこちらに持ち込ませて行うつもりであるしな」
「ああ、向こうには行かないんですか」
若干安堵したのか言葉の最後からは少なからず硬さが抜けた。
そんなコウヘイの内心を知ってか知らずか、北辰は胡乱な視線で見やる。
「何故我の患者を怪しげな施設に連れ出さねばならぬ? 診たいというのなら自ら来いというのだ」
「な、何と言う俺様な発言」
「確実に患者が癒えるというのなら頭の1つでも下げん事はないがな。まぁ、今のところは急ぐでもない。ゆっくり決めろ」
「はい」
さすがに一気に情報を与えられてコウヘイの脳もパンク寸前といったところである。
1人で決める事でもないので、ミサオ自身とも話し合う必要があるだろう。
余程強い力を入れていたのか、何時の間にか気づかず握り締めていたコーヒーの缶は少し凹んでいた。
「我は……ふむ、取り敢えずケンゾウから情報が搾り取れないか探ってみるとするか」
ククク、と何やら黒い笑いを浮かべ始めた北辰。
唇の両端が吊り上がり、彼の容貌と相まって恐ろしさが止め処ない。
心なしか瘴気さえ感じられるような錯覚をコウヘイは覚えた。
空気を何とか換える為、気になっていた事を質問してみるべく口を開く。
「そ、そもそもそのケンゾウって人と師匠の繋がりがわからないんですが」
コウヘイには、師とそんな人体実験やるような人物との接点が浮かばない。
目の前の人間も外見からは似た様な事をやりそうではあるが、しかし医学に対しては何よりも真摯なのは数年の付き合いで理解している。
いや、今の恐ろしげな顔で嗤う北辰とはこれ以上ないほど合う人物なのかもしれないが。
「ん? ふん、ケンゾウ・コバヤシこそは我が不倶戴天の宿敵よ」
「そんな物騒な」
「やつの頭蓋を叩き割って20針縫う外傷を与えたのは何を隠そう我だ」
「ホント隠してませんね!」
「同時に我の左目はやつに抉られたがな」
「えぇぇぇぇ! マ・ジ・で・か!」
「嘘だが」
「って嘘かよっ!」
振り回されっぱなしでツッコミに次ぐツッコミを繰り出す。
普段ボケてばかりの反動か、本当にツッコミまくっている。
虚空を裏手で叩く仕草は既に熟練の域。
案外この手の人間を相手にしすぎた反動で普段はボケに回っているのかもしれない。
(マジで嘘なのか? 素直に安心できないのが師匠の恐ろしいところだからなぁ)
北辰の左目が義眼なのは確かである。
本人も別段隠しているわけでもないし、右目より大きい真紅の眼球は人工物だと普通にわかるのだ。
視覚内拡大、暗視等の各機能搭載の高性能義眼なので、手術等には大いに重宝している。
本人にとってはお気に入りでさえあった。
某伝説の酔いどれ医師のようにレーザーも仕込もうかと考えているのは本人だけの秘密だ。
ちなみに、ケンゾウ・コバヤシの額から左側頭部への縫合後があるのも事実である。
それらが互いによって刻み付けられたものか、唯一真相を知る2人の口から話題に上った事は一度もない。
真相は闇の中である。
十数分が過ぎた。
特脳研の話から最近のミサオの病状へ、それをあらかた終えた今は世間話にシフトしつつある。
もっぱら喋っているのはコウヘイであり、北辰は頷いたり相槌を打つだけだが。
それでも、話が終わったら即席を立つ男だけにこの状況が珍しいのは確かである。
「む……」
「で、そこで俺は言ってやったんですよ。幼女の何が悪い! と、そうしたら……なんです?」
「誰か来るな」
「……? なんも聞こえませんけど」
耳をすますが、コウヘイには足音等は聞こえてこない。
こちら側の方が外来用の入口からは近いので、誰か来るとしたら確かにこちらからではあるが。
しかし、話している間も誰一人として近寄ってはきていない。
そんな場所に見るからに悪役顔男の男と2人きり……。
(今更ながらに凹んできた)
同じ院内に恋人がいるだけに尚更である。
士官学校の同期である
そうなれば、閉鎖環境である学び舎では光の速さで噂が流れるに違いない。
しかも噂はワープ進化どころかジョグレス進化して、尻の心配をするはめになる可能性も否定できないのだ。
軍学校の、しかも男子寮で生活するコウヘイはその手のカップルを多数知るだけに死活問題である。
(……やつとココに一緒に来るのだけはよそう)
「この気配は……奴か」
「気配察知出来る医者とか……いや今更ですがね」
北辰は1人静かに気配を探っていたらしい。
軍人数歩手前のコウヘイは戦闘訓練などでたまに第六感が疼く事はあるが、意識してその手の感覚を働かせる目前の男は何者なのか。
たまにもの凄く師の半生を聞きたい欲求に駆られるコウヘイであった。
……恐ろしくて結局聞けないけど。
「そろそろ貴様にも音が聞こえるだろう」
「あ、マジだ」
誰かが走っているらしい音が近づいてくる。
師より遅れること1分程、コウヘイにも誰かが来るらしいというのは理解できた。
図らずも気配察知の正しさが証明されたわけだが、2人ともそんな事はもう頭にない。
少しずつ足音も大きくなってきた。
「どれ、院内の廊下を医師が走るとは……仕置きだな」
北辰はそう言い放つと、音を立てず、かつ流れるような滑らかな歩法で談話室から出た。
あまりに自然かつ一瞬の動きに、続こうとしたコウヘイが見惚れてタイミングを逸した程である。
そのまま椅子から立ち上がる事も忘れ北辰を目で追うと、談話室前の廊下に立った。
談話室と言っても廊下との間にドアや壁があるわけではないので、その姿はよく見える。
「はぁ、はぁ」
「…………」
足音とともに、男のものらしい息切れする声も聞こえてくる。
院内の廊下はどこも広いので、廊下から突き出した談話室内のコウヘイからは、白衣を着た男の姿が見えた。
だが、北辰の位置からではいかに廊下自体が広くとも、左に曲がる道を支える壁が目隠しになって見えない。
逆に相手からも見えないのだが、おそらくそれが目的なのだろう。
「はぁ、はぁ」
「…………」
男が近づくにつれ、耳に入ってくる息遣いも大きくなる。
向こうからもコウヘイは視認出来るはずだが、余程急いでいるのか眼中にないらしい。
対して北辰は見事に存在感を消し、幽鬼さながらに立ち尽くしていた。
位置取りは、曲がり角から3〜5歩くらい離れているだろうか?
どのルートで相手が曲がってきても即対処可能な場所である。
「はぁ、はぁ……ここを曲がれば!」
男は突き当たりに到達すると、進行方向を90度変更。
向きを変える為、左足を大きく踏み出して加速する。
同時に北辰も右足を一歩踏み込んだ。
何時の間にか瞑っていたらしい目を開き、待ち構えていたとは思えぬほどさりげなく、自然すぎるほど自然な歩み。
まさか曲がった瞬間人が目に入るとは思わず、走ってきた男は大きく目を見開いて―――
「うわぁぁ!!」
「……滅」
―――瞬間、北辰は男を巻き込むように逆時計回りに半回転した。
と、コウヘイに見えたのはそこまでだ。
次の瞬間2人の体勢が変わっており、北辰が男を投げていた。
「あ、ありのまま今起こった事を話すぜ……って誰にやねん! っは! いかんいかん、またツッコミを入れてしまった……」
様子を見るに背負い投げを打ったらしいのはわかったが、速過ぎて目で追いきれないとはどんな早業か。
そりゃコウヘイもポルナレっぽくボケてセルフでツッコミを行ってしまうというものだ。
だが、それで我に返ったらしく、自省のため頭を振りつつもテーブルから離れて2人の方へと向かう。
「ふん」
「いて!」
廊下の北辰はというと、引っ張り上げていた相手の片腕を離した。
どうやら相手はダメージの無いように投げていたらしいが、その後は離されて強かに背中を打ったらしい。
さすがにあの速度で硬い床に叩きつけられてしまうと、色々と飯が食べられない光景が広がってしまっただろう。
「っ〜〜! っ〜!」
余程の痛みなのかのた打ち回る。
背中を逸らすように転がる様はさながら海老か。
着ている白衣がバタバタと床を叩くのが少し鬱陶しい。
「うむ。これで少しは落ち着こう」
「っ……っ……」
「聞こえてませんが」
「全く、医者が院内を走り回るとは何事か」
「っ〜」
「いや、聞こえてませんが」
自省したのに、近寄ったコウヘイはナチュラルにツッコミを入れている。
だが北辰はそんな言葉もどこ吹く風。
彼がどことなくやり遂げた顔をしていると感じるのは気のせいか否か。
「っ………………」
「あ、静かになった」
北辰に投げられた男の名はアキト・テンカワ。
この病院に勤務する小児科医である。
アキトが沈黙して数分―――
「つんつん」
「一体何が……って北辰!」
―――コウヘイがアキトをツンツンとつついて遊んでいると、ガバっとでも擬音が響きそうな動作で起き上がった。
大概丈夫な男である。
そして自らが今の状態に陥った元凶を目に留めると食って掛かった。
「あ、あんたはいきなり何て事をすんだ! 死んだらどうしてくれる!」
「我が手加減を間違えることなどない」
「そうじゃない! そもそも出会い頭に人を投げ飛ばすなよ!」
「貴様が来るのは分かっていたのだから、我にとっては出会い頭ではないな。つまり問題はない」
「相変わらず医者とは思えない人間だなあんた!」
「そういう貴様も医者が院内を走るのは如何なものだ?」
「ぐっ」
しかし北辰が先ほどまでの爆走に言及するとアッサリと言葉に詰まる。
気にせず糾弾すれば良いのに、と脇で見ているコウヘイは思った。
間違った事を指摘されたりすると、何を置いても良心の呵責に苛まれるタイプなのだろう。
確かに童顔でぼさぼさの髪を持つアキトは人が良さそうな感じだった。
(基本的に善良、というかお人よしな人なんだろうなぁ)
悪い事が出来ない性質ということだ。
人の為に何かをするような職業−医者や料理人−には向いているのだろう。
貧乏くじを引くタイプだなぁ、とコウヘイは苦笑した。
見れば、珍しく表情を変えた師も同じような表情をしている。
それを見て、アキトをからかってはいても嫌いではないと分かった。
「テ、テル先生はどうなんだ?」
「……貴様はあれと同レベルになりたいのか?」
「ごめん無理」
苦し紛れに吐き出した言葉も不発。
穴に嵌ったら変にもがいて更にドツボに嵌るタイプ、とコウヘイは内心人物評価に付け足した。
医師2人は、会話内のテル先生とやらを思い出したのか揃って沈黙。
(さすがにこれ以上墓穴掘っちゃかわいそうだし、第三者の空気が読める俺が何とかすべきか? ……もうちょっと見ていたかったけど)
いたたまれなさが未練を上回ったのか、コウヘイは殊勝な事を考えてしまった。
ミオやミサオがこの場にいれば、きっと恋人・兄の成長に涙しただろう。
士官学校で団体行動の大切さを叩き込まれた結果ね、と同期のツインテール少女なら言うはずだ。
「(良い事しようとしてるのに、釈然としないのは何故だ?) で、そっちのお兄さんはなんで急いでたんですか?」
「は!? そうだ! こうしちゃいられない―――
「待て」
―――ぐぇ」
コウヘイの言に我に返ったアキトが走り出そうとするも、北辰に襟首を掴まれて阻まれた。
先ほどから全く躊躇のない実力行使を繰り返すこの男……何かある。
幸い転倒は防いだアキトだが、運動エネルギーは完全に殺されてしまった。
一歩下がって締まった首を開放すると、反転してまたしても北辰に食って掛かる。
「あんたさっきから何で邪魔するんだよ!! 何か俺に恨みでもあるのか!」
「ある」
「そこは普通ないって言うところだろ!?」
「我の娘が貴様に懐いているからでは決してない」
「しかも逆恨みかよ! あ、あんたって人はぁぁ!」
「煩いやつめ。人がいないとは言え、一応院内であるぞ」
「俺が悪いのかよ?!」
テンプレっぽいやり取りを行う2人。
ある意味相性はいいのだろうが、力関係が北辰>アキトなのは間違いなさそうである。
1人蚊帳の外なコウヘイも、仲良いなー、と思いつつ生暖かい目で眺めていた。
「大体貴様はまだオリハラの質問に答えていないではないか、戯けめ」
「そ、そんなに言われるような事?」
「いいから答えるが良い。そうすれば開放せんでもないぞ? 急いでいるのではなかったのか?」
「そ、そうだった! 子供が生まれそうだって聞いて急いできたんだよ!」
「ほぉ、そういえば貴様の奥方はここに入院していたな」
「な、何故知っている?!」
「何故かマヒガシの子倅が嬉しそうに吹聴しておったわ」
「テ、テル先生……いや、今は考えるな俺! じゃ、じゃあ行くぞ? い、良いな?」
何度も念を押しそろそろと後退る。
さすがに2回進行を阻まれれば学習するようであった。
そして、妨害がないと知るや転身。
「おーはえー」
「結局走っておるではないか」
わき目も振らず一直線に駆けていった。
と言っても手術室は全て走っている廊下に面しているので、目的地は丸分かりなのだが。
「さて……」
「どうします師匠」
「無論我らも同行する」
「ですよねー」
2人は走り去るアキトの姿を視界に収めると、殊更ゆっくりと歩き出した。
その時の師の顔には押さえきれぬ愉悦が浮かんでいたと、後にコウヘイは述懐している。
「…………北辰、何故ついてきた?」
これは、手術室前の長椅子に座っていたアキトが普通の声が届く位置まで来た北辰に言った台詞である。
その時の彼は、何とも言えないイヤーな顔をしていた。
額に飾っておきたいくらいの嫌そうな顔だった、とは唯一その場にいた第三者であるコウヘイの談。
「貴様を哂いにきた……。そう言えば、貴様の気が済むのだろう?」
「好きでこうなってるわけじゃない! それは人の親であるあんたにだって分かるはずだ」
「我から同情がほしいものでもあるまい? ならば我が愛娘の期待に応えるアキト・テンカワであってほしいものよ」
「……だが」
「やはり怖いか。然り……怖かろう、例え
「ぐぅ、北辰……」
「それにしてもこの北辰、ノリノリである」
思わずナレーションを入れてしまうコウヘイ。
何故か入り込んでしまっている2人には聞こえていないようだが。
それ程までに今の彼は苛めっ子オーラ全開で輝いていた。
「俺の事ばかり言うけど、そういうあんただって奥さんの出産の時は怖かったはずだ!」
「そのような事はない。我は妻を信じていたゆえな」
「本当かよ?!」
「真である」
当時を知らないアキトには真贋を確かめる術がない。
北辰が鉄面皮で白と言えば、実際は黒だったとしても白なのだ。
その顔で信じるとか嘘だろてめぇ、とか思っても口には出せなかった。
……が、ここには当時を知るものがたまたまいた為、事態は更に彼方の方へと転がる。
「実際は足ガクガク震えておろおろしっぱなしだったらしいですがね」
そ知らぬ顔で明後日を向きながら、ボソっとコウヘイが発言した。
コウヘイとしても師が一方的に勝ちすぎるのは観客として面白くない。
個人的にも精神的に防戦一方だった今日、一矢報いたくもあったし。
その言葉が耳に入った北辰の動きが止まる。
「オリハラ、貴様そのような戯言をどこから仕入れた?!」
「何かの折にクサカベさんから聞きました」
「くっ、おのれクサカベェェェ!!」
良いところで落とされ、北辰は歯軋りせんばかりに悔しがって吼えた。
クサカベ氏というのは、この大きな病院の医療事務の総元締めをやっている人間だ。
ちなみに北辰の竹馬の友で悪友というか、まぁそんな感じの人物である。
「へー、やっぱ怖かったんじゃないか!」
その様子に発言内容に間違いがないと分かると、アキトは鬼の首を取ったように喜んだ。
虐げられていた状況から見つけた一筋の光明なのだろう。
ニヤニヤと笑い顔さえ抑えきれない様子だ。
「もっと面白い話はないのかな? えーっと……オリハラ君?」
「コウヘイで良いっすよ。……テンカワ先生」
「ああ、オレもアキトでいいよ。敬語もなくて良い」
「OK。じゃあ聞こえないように小声で」
遅ればせながら自己紹介を済ますとそそくさと距離をとる。
今だけは、北辰に弱いもの同士通じ合うらしく、アイコンタクトせずとも行動が揃った。
そしてこそっと顔を寄せ合うと、コウヘイが仕入れていた話をネタに盛り上がる。
「あの時も奴は我の邪魔をしおって。自分こそ出産日は有給など取りおって男らしくないくせに……ぶつぶつ」
そんな2人にも気づかず、北辰は愚痴めいた独り言をこぼし始めていた。
クサカベなる人物には思うところが多々あるようだ。
「ふぅ……」
「はー……」
長椅子に腰掛けて息を吐くコウヘイとアキト。
話し合いながら自販機で買った飲み物を口にすると、また力を抜いて息を吐いた。
お互い言いたい事を言えたのか、その顔は満足そうである。
「……クサカベとは白黒つける必要があるな」
「あ、師匠お茶買っといたんでどうぞ」
「うむ」
こちらも思考に一段落ついたのか、最後の1人も椅子に座る。
買っておいた緑茶を渡すコウヘイと、それをごく当たり前のように受け取る北辰。
その様子を見たアキトは目を丸くする。
北辰としっかりコミュニケーションを取れている人間に驚いたようだ。
「まさか同僚と患者以外で北辰と話せる人間がいるとは……」
「こやつの妹への熱意は認めている」
「それじゃあタダの妹好きの変態みたいなんですが……。熱意は病状回復へだからなアキト!」
「どちらでも変わらん」
「ちょ、師匠」
少なくとも北辰の方もそれなりに心を許しているようだ。
彼に尊敬だったり敵意だったり感謝だったりライバル心だったりと、ごちゃごちゃした複雑な感情を抱くアキトにしてはちょっと面白くない。
そんな諸々が出ていた顔をコウヘイに見られる。
おおよそ内心がわかったらしく、なんとも憎たらしい顔でニヤリと笑った。
「しっかし、まさかアキトが医者になった動機がああいうのだったとは」
「む?」
「ちょ!! ちょっと待てー!!」
「わかってるわかってる」
すかさず止めるべく大声を上げる。
アキトとしてはそれを同僚に、特に北辰にだけは聞かれるわけにはいかなかった。
もっともコウヘイもそれは分かっているらしく、すぐさま発言を停止したが。
1人北辰だけは相変わらずの無表情で怪訝な雰囲気を漂わせる。
「コウヘイ、それだけは秘密だからな! な!?」
「わかってますって旦那」
「ホント頼むよ……」
「はいはい。(からかい甲斐があるなぁこの人。だから師匠もちょっかい出すんかね?)」
滅法押しに弱い男、アキト・テンカワ。
童顔で気さくな性格でこれなら、さぞかし年上にもてた事だろう。
あるいは弄ばれた可能性もあるかもしれない。
確実なのは、彼はコウヘイにからかわれる材料となる弱みを握られた事だけである。
「おい」
「は?」
「なんだよ北辰、今取り込み中――」
「また人が来たようだぞ」
「――え?」
目を凝らせば、アキトが爆走してきた方向から向かってくる人影が見える。
ガヤガヤと賑やかなその数は男女合わせて実に10以上。
その中で眼鏡をかけた女性がアキトに気づいたらしく、大きく手を振った。
さすがに病院内で大声を上げる事はなかったが、一段の移動速度が心持ち速まる。
どうやらあの一団はテンカワ夫妻の応援らしい。
「さて、我は去る。オリハラは好きにしろ」
一声かけて立ち上がると、お茶の缶を持った北辰は一団と逆方向へ歩み始めた。
以降は振り返りもせずスタスタと歩く。
一瞬だけ逡巡したコウヘイだが―――
「んじゃ俺も。アキト、後はあの人たちと頑張れー」
――同じく師の背中へと続く。
そうして唐突な退場にぎこちなく頷くアキトの前から去った。
小走りで北辰に並ぶと、後ろから挨拶するたくさんの声が流れてくる。
どうやらあの一団は主役のいるところに辿り着いたようだ。
「師匠」
「なんだ?」
「もしかしてアキトが1人で不安にならないように?」
「別にあやつの為ではない。……思ったより取り乱さなかったのは確かだがな」
「おー……なんというツンデレ」
「なんだ? そのつんでれとか言うのは」
「いやいやこっちの事ですよ」
(病室に戻ってその話を皆にしたら爆笑したんだよなぁ。しばらくは師匠が病室に来るとミサオ以外笑わないように逃げたし)
楽しそうに会話する双子を見やりつつ、コウヘイは回想から戻ってきた。
何時の間にかジャンケンはお開きになっていたようだ。
単純に話しかけてもコウヘイが反応しなかったからではあるが。
(赤ん坊は、やっぱ何回思い出しても猿にしか思えないけど。まぁ奥さんがあの容姿だからなぁ、将来は美人間違いなし……アキト人生勝ち組かよ)
時間も圧していたコウヘイはあの後少しして病院を辞したが、無事にアキトの奥さんは出産した。
元気な女の子で、次に病院を訪れた時写真を見せてもらった。
生後1年未満の愛娘の写真を肌身離さず持ち、知り合いに自慢しまくっているアキト……既に親ばかと言えよう。
余談だが、数年の後、彼は自分の娘が父親より北辰に懐くのを目の当たりにし、大いに凹む事になる。
(ミサオはあいつ等や師匠に任せておけば安心だし。特脳研ってところも力づくでは来ないって話だから大丈夫だろうな)
軍務とは言え地球から離れている今、妹との距離は過去最大に開いている為、やはりどうしても心配は強い。
だがミサオの精神的な支えはミオやアユ、マユがしてくれる。
医療的な面ではあの病院以上のところはないとコウヘイは自信を持って言える。
「……ハラ! リハラ! 殴るわよ」
「殺っ…き」
気づく前にバシンと衝撃がきた。
軽くはたかれただけなので痛みはそうでもない。
宣言と同時に手を出したのは、この艦で1番コウヘイに容赦のない乙女ことルミ・ナナセである。
「あんた2人をほっぽって何物思いに沈んでんのよ」
「のよー」「よー」
正面に立ち、腰に手を当てて威圧するルミと、彼女の左右に侍りそれを真似ている姉妹。
気を引くなら普通に話しかければいいのに実力行使に出るのが実にナナセだな、と思ったがコウヘイは口に出すのを控えた。
出したらまた手が飛んでくるのは経験上分かっている事であるし。
「いや、ミサオのいる病院の事を考えてたらな……」
「ああ、あの面白い人が多い病院ね。あんたのお師匠さんなんて言葉遣いアレで良いの?」
「逆に貫禄合って良いって評判良いぞあれ。手術の腕もいいし」
ミサオの見舞いに行く事もあるルミは当然あの病院を知っている。
だからこそ最小限の会話で話が通じた。
そしてそれがある場所も、当然知っている。
「あそこって地元よね?」
「うむ。ああいう面白くて楽しくて名医が多い病院が近場にあって助かるよなぁ」
(オリハラ含め変なのが多いのは土地柄? いやでもそうすると……)
彼女やその知り合いも地元は同じなので、その土地柄故『変人』と言う事になる。
脳裏を過ぎ去った面々を思い浮かべると一概に否定するのも難しい。
それ以上進めると、もの凄く嫌な考えに到達しそうなのでルミは思考するのを止めた。
人は薄々実感しかかっていてもわが身が可愛いものだ。
「何だ? そんな面白い病院があるのか?」
「あら、それは一度行ってみたいですね。面白いエピソードとかも多いのかしら?」
アイザワ夫妻も寄ってきた。
これは話す話題は決まったな、とコウヘイは姉妹を見やった。
元々は別の話を聞くはずだった彼女達だが、その目は期待で輝いている。
ならばコウヘイ自身も話すことに否はない。
「ああそれはですね―――」
どのネタから行くか頭に思い浮かべながら、コウヘイは語りだした。
面白いスタッフが多く、だが自らが知る中で最高峰の病院の事を。
彼は特脳研が大丈夫だろうからと楽観視していた。
確かにそれに関しては正しいのだろう。
だが、他に同じような研究をする組織や人間が存在したら?
それらが過去の特脳研と同じく、非人道的な人体実験を是とする集まりであったら?
自らに利するであろうミサオの存在を知った時、果たしてそれらが穏便に済ませてくれるだろうか?
それをコウヘイが知るのは……きっともうすぐ―――――
後書き
北辰はツンデレ。(挨拶
まぁツンはともかくデレる描写なんてほとんどありゃしませんがね。
久しぶりの自作更新ですこんにちは。
あまりに久しぶりすぎて作者は順調に暴走してます。
中途半端にネタぶち込んじゃってるし。
何度も文章が明後日の方角へ飛んでいって修正するのが大変でしたよ。
さて内容ですが、本編で登場していない一部キャラの紹介編?
まぁ重要な伏線があったりしますけど、それはバレバレだからいいか。
作中にどこかで見たような方々や、何かで目にしたような名前の方々が出てますが、所謂平行世界の同一人物というやつです。
アキトや北辰は生活環境が違うので原作とは全く違う職業についている最たる例ですが。
一応そこらへんの裏設定は考えてますけど、彼らの話でもないので載せてません。
他の病院関係者は大体原作準拠だと思ってくださればOKです。
後、今回行間を変えてみたので、以前の方がいい、とか、この方がいい、とかのご意見もいただけたら幸いです。
しかしこのタイトル、初見の人はコウヘイついに頭どうにかなって入院か? とか思うんだろうな、と思った。(変な文
ご意見ご感想があればBBSかメール(chaos_y@csc.jp)にでも。(ウイルス対策につき、@全角)
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