Kanon Another Story...




<1> 天野家にて

 華音市の一角にある巨大な日本家屋。庭は広く、部屋はすべて畳張り。その百年前から建ってそうな建物は、ここが極寒の地ではなく京都の豪邸のように思わせる。
 その一室に二人の人間が向かい合っていた。上座に座るのは成人にまだ届かぬ若き少女。しかし、身に纏う雰囲気は彼女を老女にも似た落ち着いた空気を纏っている。
 それに向かい合うはこれまた年齢を読み取るのは難しい雰囲気を纏う男性。髪は長く、目が見えないほどに前髪が伸びている。
 上座に座り――この屋敷の主でもある天野美汐あまのみしおは僅かな畏怖を持って相手を見つめる。
 この国で退魔という生業なりわいについている者なら、知らないものはいないという存在だ。――例え、先ほど涙を流しながらラーメンを食べていても――だ。
「初にお目にかかる天野殿、わたくしの名は国崎往人と申す」
「こちらこそ、国崎殿」
 凛と伸ばされた背筋。それに負けないほどの鋭い眼光。
 その眼光をかろうじて受け流しながら、美汐は口を開く。
「それで、今はなき法術の使いとして高名な国崎殿は何用でこのような極寒の地に?」
「なに、古い友人に会いに、な」
「古い友人というと……」
「ごさっしの通り水瀬秋子(みなせあきこ)さ」
 退魔の名門・水瀬。かの一族は春夏秋冬の一文字の名を冠するという。その中でも水瀬秋子の名は様々な意味で伝わっている。
 水瀬を抜けた水瀬。ドラ●ンも跨いで通る。…………。
 閉鎖的で組織的な水瀬を抜け出し、フリーランスとして縦横無尽に日本全国、果ては世界までに自由気ままに活動範囲を広げた水瀬秋子。
 そんな有名人が引退したとはいえ、この小さな町に住んでるのを知った時には、酷く驚いたものだ。
「それで、私には何用で」
「大したことじゃないし、そう身構えられても困るんだが……」
 苦笑する往人。
 ふと、自分の手がおもいきり握り締められていることに美汐は気がつく。ついつい力が入ってしまったようだ。
「まあ、無用のトラブルを避けるためだ。自分のテリトリーによそ者が無断で入ってくるのは、気分が悪いだろう」
 昔はそんなことは気にもしなかったんだが、と往人はおどける。
 そんな往人に美汐は用意してあった一枚の書類を持ち上げる。問いただす事があるのだ。
「ここに華音高校の新任の教師に関する書類の写しがあるのですが、勿論友人を訪ねてきた貴方には関係ありませんよね?」
「……はは」
「ふふふふふ」
「hahahahahahahaha」
「……で」
「うむ……。実は――」





<2> 新任教師・国崎往人

 9月1日、二学期が始まった。この北の地では10月の末から雪が降るが、今年は未だに残暑が残っていた。
 私はいつものように遅刻ギリギリのタイミングで学校に向かって疾走して行く。流石に二学期の初日から遅刻はマズイ。しかし、だからといって私の朝の寝起きの悪さは、お母さんのお墨付きだった。
「名雪の寝起きの悪さはどうしようもないわね……」
 ……いや、単にあなたの遺伝じゃないだろうか? という疑問は封印。朝の食事に自然ナチュラル謎色オレンジのジャムが混じっていたりするから……!

 ふと、私が走っている音以外の足音がすることに気がつく。私が言うのもなんだが、本当に時間ギリギリだ。普段は私以外の人がいるなんて稀だ。予鈴なんてとっくに鳴っている時間なのだ。一分一秒を争う戦いなのだ。自転車を出すのも惜しいほどの時間。
「ぬぉー、ちこくだー」
 ……はや。
 一瞬で私を抜いた人を見る。
 最初は見間違えかと思った。……背広姿の大人の男性だった。
 ……教師?
「すいませーん、ウチの学校の先生ですかー?」
 スパートをかけて走っている男の人の隣に並び、話しかける。
 男の人は、呼びかけられて初めて私の事に気がついたらしい。ビックリしたような顔を見せる。
「ぬ……、お前は確か、水瀬名雪!」
「わっ、びっくり。何で私の名前を?」
 本当にビックリ。見ず知らずの人にフルネームを当てられたのは初めてだよ。
「ふっ、このビューティー・ティーチャー・国崎に不可能などない!」
 その人は、目にまでかかる長髪を左右に振りながら言う。……走りにくくないのかな?
「走りにくいが、生徒の疑問には答えんでは、教師として失格だろう!」
「……教師?」
 やはり教師らしい。
「そうだ! 私は今日から君らのクラスを受け持つことになった国崎往人くにさきゆきと教諭だ。親しみを込めてユッキーと呼んでくれ」
 そう言ってユッキー先生は更に加速して走り去っていった。
 私も遅刻しないように足に力を込める。
 ……そういえば、あの人。……さっき自然ナチュラルに私の心読んでなかった……?

 ……あ、本鈴がなった。遅刻だー!






北の町における
雪の少女の退魔伝

第五話 嵐の前の静けさ







<3> 帰り道

「いきなり新任というのが怪しいわね」
 ……そうかな?
 ……まあ、自己紹介で怪しげな人形芸を始めたのは、どうしようもなく怪しかったけど。
「そ・う・よ! 少しは疑問を持つとか、そーいうことに脳ミソ使わないと、そのうち腐るわよ」
 腐るのは困るなー。
「全く……、本来の私のスタンスはクールなキャラなのに……」
 少なくとも、香里は『クールな振りをしているけど、本当は惚れっぽい』キャラだと、思うなー。

◆◇◆

 今日は二学期初日ということもあって、始業式が終ったら即、下校だった。
 退魔アルバイトの方も今日は集まりはないらしい。6月に地元の退魔という人たちに助けられたから三ヶ月ほど経つが、あれ以来直接遭遇するということはなかった。
 ……無論、だからと言って彼らが行動を起こしていないということではないのだろう。しかし、私たちも遊んでいたわけではないし、夏休みの間、泊りがけの訓練をしていたのだ。あの時よりは格段に強くなっている自信はあった。

「それで、あの国崎往人とかいう教師、そもそも前の担任だった石橋が副担任に繰り下がったってのが明らかに不自然よ」
 確かに。他の学校ではどうか知らないが、ウチの学校における副担任という存在は『あってないような』存在だ。
 原則として、副担任の役割なんて担任が用があっていないときの代用を勤めるほどしか意味はないと倉田先輩が言っていた。
 ……ほら、私たち入学してまだ半年経ってないし。そんな私でも担任が副担任に降格?することには不自然さを覚える。
 ――しかし、
「でも、香里。私たちがどうこうする話じゃないし、私たちが気にする必要ってあるのかな?」
「ま……まあ、そうなんだけど」
 口ごもる香里。
 最近、香里はこういう普通の表情をすることが多くなったような気がする……。栞ちゃんのことがあったから、表情が少なかった香里。
 でも、今年の春にこの組織に入ることを条件に、栞ちゃんは最新の治療を受けて順調に回復しているらしい。それだけにしては最近の香里はとみに変なような……?
 そういえば香里は、夏の合宿ごろから北川君と行動することが多くなってきた気がする。戦闘スタイルが似ているということで、ワンツーマンの訓練をしていた北川君と香里。
 ……いや、何か置いていかれたような気がする……。
 倉田先輩と久瀬先輩もなんだかんだで、二人で良く話しこんでいるし……。

 ――もしかして、私ってばあぶれちゃった……?

◆◇◆

「まあ、そういう情報の収集は北川君の役目だしね」
 まーね。私らは所詮下っ端だしー。
 そんな気楽に返事する私に香里は向き直り、
「いい名雪。これからの時代、組織の末端でも会社の経営自体を考えられるような人間でないと、やって行けないわよ……!」
 かおりぃ、それはまともな会社での話でしょ。この会社は非公開だし、そもそも私たちはこの業界のことだってまともに知らないのに……。
「あら、夏休みのときに集中講義、受けたじゃない」
「あれは……。」
「寝てたんでしょ名雪」
 寝てないよー。香里隣にいたでしょ。
「道理で静かだと思ったら、目を開けたままで眠ってたのね」
 そんな器用な真似できないよー。
 その言葉は口に出さなかった。
 このときは、香里も冗談を言っていると思ったのだ。
 夏休みに受けた国連退魔機関デモン・バスターの研修。私たち以外の全国の末端が集まっての座学。業界の話や、その中における国連、デモン・バスターの役割。
 ――タチの悪いセミナーのようだった。よくニュースなんかで特集されるような悪質セミナーってのはきっとこういうのだろうと思える講習会。
 組織の良い所ばかりを羅列した説明官。あの話を聞いていなければ私も騙されていたかもしれない。
 この国に存在する、この国古来から存在する退魔組織、陰陽寮(仮)。
 あの話を聞いていた香里もどちらの話を信じると言われたら、ミランさんの言葉を信じるだろう。ミランさんの話を聞いた後にあの説明官の話はあまりにも薄っぺらかった……。

 後に、私はこのときを感慨深く思い出すことになる……。





<4> 水瀬家で。何故か国崎往人が

「ただいまー」
 いつものように帰宅して、いつものように玄関を開けた。いつものようにリビングにいるお母さんに声をかけようとして――
「お帰り、水瀬。秋子なら買い物だぜ」
 ――いつも通りのじゃない、怪奇に遭遇した。

◆◇◆

「ごめんなさい国崎先生」
「ごめんなさいね、国崎さん。名雪が失礼なことを」
「気にすることねえよ。勝手にリビングでくつろいでいた俺が悪いし。……ただ、あの飛び蹴りは効いたな……」
 シャイニング・ウィザードです。夏休みに出会った同い年の金髪のハーフの女の子に習ったの。
「実は国崎さんは私の古い友人なのよ」
「ぅえ?」
 いきなりのお母さんの告白に一つの想像をする。
 ……も、も、もしかしたら、この人が私のお父さん……?
「これでも既婚者だよ」
 憮然としたように答える国崎先生。怒らしちゃったかな……?
「心配要らないわよ名雪、奥さんと別れて暮らすのが寂しいのよ」
「そ、そうじゃねえよ。時間がなかったから晴子に何も言わずに来ちまったからな……」
「あら、なら晴子さんは怒り心頭でしょう」
 初めてかもしれない。お母さんが友達を連れてくるのは。……いや、お母さんが友だちと電話しているとこさえ私は見たことがなかった。
「国崎先生の奥さんって晴子さんっていうんだ」
 …………あれ?
 無難なことをいった筈なのに。私、拙いこといった?
「あ、あははははははは」
 お母さんが笑ってる。これは間違いなく始めて見た。口を開けての大笑い。
「てめえ、水瀬。笑ってるんじゃねえよ」
 反対に苦りきった顔をしているのは国崎先生。
「まあ、あれだ。晴子ってのは俺の嫁の母親さ」
 いわゆる姑?
「そうだ。あいつより晴子を怒らすほうが、格段に拙いんだよ」
 国崎先生は横を見て。
「おい、水瀬。いい加減笑いを止めろ」
 この話の間もお母さんの笑いは止まらなかった。声には出ていなかったが、笑いすぎて苦しそうに地面に項垂れていた。
「晴子さんが国崎さんの奥さんって……、くくくっ」
 しつこいよ、お母さん。
「本当だ。いくらなんでも笑いすぎだ」
 そうして私と国崎先生が暫くの間、冷たい視線を浴びせていると、漸く笑いのダメージから立ち直ったのか顔を上げた。
「……っふー、一年分ぐらい笑ったわ。こんなに楽しい冗談を聴いたのは」
「ふん。あん時、お前さんが突然姿を消したりするからさ。俺たちに一言の挨拶も抜きに……」
 !!!
 一瞬で総毛だった。その何気ない国崎先生の言葉の内容にか。
 一瞬で凄まじいプレッシャーを発したお母さんにか。
 ――水瀬名雪は人生における一つの節目を迎えたのかもしれない。
 ――即ち、聴くか? ここでは聴かぬか。無論、『聴かない』という選択肢は始めから存在しない。数ヶ月前から自らの父親のことを調べようと思ってから、そう選択肢は多くないことに行き着いた。

 ――母はこの町の出身ではないこと。
 ――この町に越してきたときには既に父親はいなかったこと。
 そして、
 ――母も裏の業界の人間だったかもしれないということ。

 三つ目はただの推測だ。しかし、根拠になる理由はいくつかある。まずはうちの収入の出所。田舎だから土地は安いかの知れないが、家は別のはず。最低でも一千万以上はした筈。
 もう一つは、こういった能力は遺伝する可能性が極めて高いという。北川君がいうには、家の歴史を深く遡ることが出来る家系は、結構な可能性で能力者の素質があるらしい。確かに久瀬会長も佐祐理先輩も古くからの地主だし、香里も母方の方が遡ると中世の欧州ヨーロッパの方まで遡ることが出来るらしい。そうなるとますます家の家系が気になる。
 そもそも私はお母さんのお母さん、即ちお婆ちゃんにも会ったことはないし、顔も知らない。お母さんは私は生まれる前に死んだと言っていたが、今となってはどうにも信じることが出来ない。
 ――私は自分の生まれルーツすら知らない。

◆◇◆

 結局、私は国崎先生の台詞を問いただしたりしなかった。お母さんに止められるのは目に見えていたし、国崎先生自体、まだ会って間もないし、何処となく信用できるのか図りかねていたし……。
 何より、あのとき聴いても答えてはくれなかった気がする……。チャンスはきっとある。今はまだそのときではない。そう、感じた。





<5> 往人と名雪

 数日後、チャンスが訪れた。
 夜の10時過ぎ。通常は9時に寝てしまう私だが、退魔アルバイトを始めてからは深夜でも起きていることが可能になった。中学時代からは考えられないことだが、これも慣れだろう。香里には今だに度々、そのことで突っつかれる。
 どうやらお母さんはお風呂に入っているらしい。ここ数日は深夜までに起きて、お母さんと国崎先生の生活習慣を調べていただ。さしたる目的もなく深夜まで起きているのは酷い拷問だったが、目的のためなら我慢できる忍耐もここ数ヶ月で手に入れた技能スキルだ。
 その調査の結果、ここ数日のお母さんの入浴時間は入る時間などには変動があるものの、一度入れば一時間弱は出てこないが分かった。
 つまりはその時間に――聞き出せばいい。
 私は自室の部屋を空け――ようとして、誰かが階段を昇ってくる階段のわずかにきしんだ音に、体を凍らせた。
 いや、凍る必要はないはずだ。昇ってくる人間は一人しかいない。ならば好都合のはず。ただ、自分が考えていた通りに事態が進まなかったことに戸惑いとかすかな苛立ちがあるだけ。
 登ってきた人間は私の部屋の前に止まり、ドア越しに低く抑えた声で話しかけた。
「水瀬。いるんだろう、少し話がしたい」
 国崎往人教諭だった。
 解ってはいたが、彼の声に応えるのは危険な気がした。身の危険とかそういうものでもなく、実戦で感じた命の危険でもなく……。
 何か大切なものを失ってしまうあの感覚。
 味わったことはある。この業界に身を投じようと決心したとき。大きな事を決断するとき。そのときの感覚に近いものを感じる。
 そして、今度は何を決断するのかは良く解っている。つまりは、自分のルーツを調べるということは最も身近な家族――母、水瀬秋子の秘密を知るということだ。
 それは恐怖なのだろうか? 『知らなければいい事実』というものなのか?
 ――いや、私はもうこの業界に関わってしまった……。ならば――
「ここで目を背けるわけには行かない……」
 例え真実がどんなに過酷なものでも。
 背中を見せるわけには行かない……!
 背中を見せたら最後、私は真実を知ることは永遠になくなる。
 ……ドアの向こうで国崎教諭が小さく呟いたのが聴こえたような気がした……。

◆◇◆

「お前も気が付いているだろうが、水瀬秋子はかつて退魔者だった女だ」
 流石に私の部屋では色々問題があったので、一般の家に比べて広いベランダで話す国崎教諭。
 彼も時間がないのは分かっているようで、前もった話はなかった。
 ――しかし、分かってはいたことだがショックだった。
 自分の母がそういう仕事に属していることに。
「ああ、国連の組織じゃあ細かいこと教えてないだろうから言っとくが、同じ退魔でも何処に所属するかでだいぶ違うぜ?」
「この国の最も古い組織は『陰陽寮』だ。平安時代に設立してから平成の世まで存続しているが、現在は陰陽寮は昔に比べれば規模は小さくなっているな」
「次は旧家とか呼ばれている家規模の連中だな。これは数が多いが、戦争が終わってからは数が減ってな……、残ってるのはどこも古豪とか呼ばれる奴ばっかしさ……」
 ……ああ、ちなみに。と、何でもないように。
「水瀬秋子が生まれ育った水瀬家も有名な旧家だ」
 ……私は水瀬の実家を知らないし、よって祖父母の顔も見たことはない。父の顔も名前も知らない。知っている肉親はお母さんだけだった。
 ……ああ、そうなんだ。漸く解った……。私が本当に信頼できるのはあの人おかあさんだけだったんだ……。
 こんなにも不安だったのはそういうことだったんだ……。
 ……解れば怖くない。そう怖くない。
 ……怖くない。歯を喰いしばれ!!
 内心の不安を打ち殺し国崎教諭の話の続きを促す。私は聞かねばならない。これは重大な国連側『ではない』情報なのだから……。
「落ち着いたか?」
 国崎教諭は私が無言で頷くのを見下ろすと更に情報を吐き出す。
「この他にもお前らデモン・バスターのような組織はある。それは旧家の連中が出資しているやつだったり、陰陽寮の上、宮内庁の関連だったり……、後は警視庁お抱えの連中もいるな」
「さてここからが本題だ」
 本題。それは即ち。
 ――私と母、『水瀬』ということ。
「水瀬は数ある旧家の中でも一段と古い家系でな。陰陽寮があった平安時代より遙か昔、源流は弥生時代とか言われているほどだ。稲作の豊作を祈る祈祷師が始祖とか言われているほどだ」
「水瀬は京都に本家を置いていてな……、水瀬の奴が――ああ、お前さんの母親のことだが――あいつが実家を飛び出した経緯については端折るぞ」
「――それは」
「だからな」
 一方的に聞いていた私の声を遮る
「――それはあまり関係ない話だし、それは本人に聞くべきだろう」
 ……聞けないからこうしているんだよっ! ぎり、と奥歯を噛み締める。
「現在水瀬家を統括しているのは、お前さんの伯母――水瀬夏子なつこ冬子とうこ姉妹だ」
「? 春子はるこさんは?」
 夏子と冬子という名前には聞き覚えがなかったが(名前から察するに母の姉妹だろうが、それすら知らないことに更にショックだったが)、何度か逢ったことのある伯母を思い浮かべる。
 春子という名前を聞いてあからさまに嫌そうな顔をする国崎。名雪には知り合いだということは推測できるが、どのような関係だったのかは推測しかできない。

 ――国崎にとっては一言では表現できないほどの縁の深い人間だったが……。

 今、名雪が知ることはない。
 そこまで嫌いなのか、渋々といった感じで口を開く国崎。
「水瀬家長女にして、旧姓水瀬春子・現相沢春子は、結婚を機に実家を飛び出している。家の方は猛反対してそれからは絶縁しているらしい」
 国崎の言葉に気が付く。そうだ、春子さんが苗字を捨てるということ。いかにも頭の固そうな『旧家』のイメージなら……。
 そこでもう一つに疑問が浮かぶ。
「春子さんは今でも退魔者なの?」
「一度、この業界に浸かった者が完全に縁を切るということは有り得ない」
 ――それは私にとって大切な人ゆういちが平和に過ごしているかもしれないという希望を打ち砕くものだった。
 春子さんは退魔と縁が切れず、退魔が代々継承されていくものならば……。
 国崎さんはそんな私に気が付いたのか。こんな言葉を投げかけた。それこそ、私の肺腑をえぐる台詞を。
「あっちからすれば、お前さんがこの業界に首突っ込んだほうが、ショックなんじゃないのか?」
 ――息が詰まった。本当に一瞬、呼吸が止まった錯覚に陥る。
 ……そうかもしれない。
 あっちからすれば、16になってから退魔この業界に首を突っ込む方が異常なのかもしれない。
 ――それでも、責任が私にあるわけでもなく。
 私は知りたかったのだ。無謀とか異常だとかそういう問題以前に。誰もが知っている自らのことを。家族のことを。
 また一つ、私は誓いを契る。水瀬という退魔の名家としてでなく、水瀬名雪として……。
「教えてください。私の父親は誰なんですか?」





<6> 往人と秋子

 常に真実は残酷だと誰かが言った。
 だとしても『今』彼女に知らせるのはあまりにも残酷で残酷で救いのない内容だと思った。
 だから言わなかった。
 ……勿論、水瀬の奴は怒っていたが、俺自身奴のことはよくは知らない。何とも呆れる話だ。
 あの時。それなりに信頼できると思っていた戦友を、実際俺は何も知らなかった。
 仕事を引退して。
 それなりに幸せというものを噛みしめていた俺は。
 ――本当に何も知らなかった。

「全く呆れるほどにアホだな俺は」
「昔から国崎さんは、抜けていますから」
 何時の間にか往人の傍には秋子の姿があった。
「随分ないわれようだな、オイ」
「……今でも時々思い出すんですよ、ポテトの不思議な踊り」
「……それは俺のせいなのか?」
 ――しかし、ポテトの不思議な踊りについては大きく同意する。
「で? こんな夜中に何のようよ?」
「……名雪に、言ったんですか」
 秋子の声は震えていた。往人には彼女の声に覚えがあった。出会った頃の彼女の声だった。
 往人と秋子が出会ったとき、秋子は決して今のような人物ではなかった。どちらかというか自分の意見もはっきり言えないような臆病な娘に見えた。
 普通の家の娘ならそれでもいいかもしれない。……だが、秋子が生まれた家は、普通とは全く縁遠い先祖代々、血に塗(まみ)れた一族だった。
 ――歳を取ったということなんだろう。外見を偽ることばかり巧くうまくなる。――俺も、水瀬も。
「アイツの親父のこと以外、大体な」
「……そう、ですか」
 何処か、諦めるように、安堵するような溜息をする水瀬秋子。
 ……安堵だろう。そう往人は思う。
 結局の所、隠せることに限度はあったのだ。秋子ははが退魔だということも。名雪むすめの中にも異能の血が流れていることも。
 ――そして■■の■■■れ■■■■■■■■も。
「……ん?」
 ズキンと往人の頭にノイズが走る。思い出そうとしたことが『何かに隠されたかのように』思い出すことを妨害された。
 往人はそれを無視する。何年も前からの持病だった。これがボケというものだと聴いていたし。
「で? お前はどうするんだ? 結局のところ、おまえ自身が話さなければいけないと思うが」
「……怖いんです。初めて名雪を抱いたとき、私はこの子の為ならどんなことでも出来ると思いました。でも名雪が大きくなるたびに一つの恐怖が出てきました」
 秋子の恐怖の正体には往人にも覚えがあった。彼も彼女と同じく娘を持つ親だ。彼女の恐怖の正体も容易に理解できた。
「自分のやっていた仕事を知られることが怖いのか」
「それもあります。……だけど、一番の恐怖は――」
 そう一番の恐怖は。
なゆきが自分と同じ道を歩むかもしれないことが一番怖いです」
 確かに。往人も痛いほど解る。往人も自分の娘が退魔の業界に身を投じるといったら、間違いなく反対するだろう。退魔の業界というのは間違っても遊び半分で首を突っ込む世界ではないし、好き好んで踏み入れるべき世界でもない。
「でも、お前の娘はそのつもりだぞ。覚悟は……あるだろう。遊び半分でもないだろう。……それにそれが退魔の名門の宿命かもしれない」
 宿命。嫌な言葉だ。そう往人は思う。だが、往人もその宿命を背負った人間だった。死んだ母から受け継がれた翼の少女を探す当てのない旅。
 だが、終りのある旅だった。事実、その宿命は果たし、娘に継がせることをせずにすんだ。
 しかし水瀬という退魔の名門一家が背負った宿命それは往人が背負った宿命それよりは重く――そして、残酷だ。
 魔を討って、滅ぼし、この世界を守る。
「終わりのない旅みたいなものです」
 秋子は搾り出すように呟いた。そうなのだろう、今のなお彼女らの役目は終えず、人知れず戦っているのだから。
「だから、名雪にはただ幸せを享受させてあげたかった」
「だが、それを決めるのはお前じゃないよ。水瀬」
「……解っています。……もう、名雪は関わってしまったんですね」
 諦めたように秋子。今更、言ったところで名雪を止めることは出来ないだろう。……自分あきこがこの業界に入ったのも親の静止を振りほどいたし。
 そう、往人は秋子が家を飛び出したときのことを思いだし、一人笑った。

◆◇◆◇◆

「それで、往人さんがこの町に赴任してきた本当の理由はなんですか」
 場所はリビングに移った。時刻は真夜中に近いが、二人とも眠れない気分だったのだ。
「往人さんにも家庭がありますし、何より業界に何時復帰したんですか?」
「三年前だ。娘も手がかからなくなったし、どうにも最近きな臭くなってきたしよ」
 まかり間違っても金が尽きたからとはいえない。言えっこない。
「何より、魔物どもの発見件数がジリジリ伸びてきているんだ」
「二千年問題でしょうか?」
「……どうかな? ただ俺がこの町に来たのは――」

 その瞬間、往人と秋子は心臓を鷲掴みにされた恐怖を覚えた。

 恐怖。
 敵意。
 殺意。
 背筋から悪寒と共にせり上がってくる。今までの人生で両手の数を越えるほどあった命の危険。
 だが、何か違うものを感じたような……?
「国崎さん!」
 その声と共に往人は考えを消し飛ばす。
「……ああ。まあこの土地の守護者もいるし、別段俺らが出張る必要性は……」
「この土地の守護者ですか……。実力は?」
「若いのに大した嬢ちゃんだよ。そこん所は心配する事はないだろう」
 秋子の心配を一笑する往人。少なくとも往人としては彼女のほどの逸材を見るのは久しぶりだった。
「てーか水瀬。お前この土地に住んで長いのに、未だにこの土地の守護者に会ってないのか……?」
「……私はこの業界から足を洗っていましたから……」
 既に二人の間には先ほどの恐怖に対する心配は存在しなかった。今までに幾度となく死線をくぐってきたし、人様の縄張下ででしゃばることの面倒さや縄張り意識のこと等を知っていた。
 だから手を貸そうとは思わなかった。
 彼女らは、今までそうやって来たし、これからもそうやって戦い続けて行くのだ。

「お前、ウデ、落ちたんじゃねーのか?」
「ふふふ。ジャムの方の腕は上がりましたよ? 確認してみます?」
「…………イヤ、遠慮スル。」





<7> まものがあらわれた!

 実際のところ、学生の身分の彼らが毎晩のように夜中の町を巡回するのは、並々ならぬ重労働である。
 それでも深夜の巡回は経験を積む上では、この上もない重要である事は分かっているので、今夜もこうして毎晩巡回している。
「だからってわけではないけど、成績がこの頃落ち気味なんだよな……」
「徹は進学する気なの?」
 徹は夜に溶け込み黒髪をひるがえ同僚パートナーの言葉に軽く息を呑む。結構剣呑な雰囲気を感じたからだ。そして非難するようだった。
 理由は分かっていた。大学に進学する事になると、田舎にこの街に大学などあるわけもないので、町を出て行かなくてはならない。退魔の仕事は続けることは出来るだろうが、今のメンバーで仕事を続けることは出来なくなるだろう。
「正直な所、結構悩んでるんですよオレ。親にもこの仕事のこと、詳しく話してないんで、この街に残る理由説明しにくし、この街で生涯過ごすのって勿体無い気がするんですよ」
「もったいない?」
 舞は徹の考えがあまり理解できなかった。
 舞は別の街で生まれ、この街に越してきたが、この街は自分の故郷だと思っているし、自分がずっとこの街で生きていくことに、別段疑問は感じなかった。
「だってそうでしょうよ。この仕事にしてもより強くなりたいなら、色んな所で経験をつんだり修行するなりすべきでしょう」
「……」
 舞としてもその点は同意できた。この土地は霊的に安定していることもあって、それほど強力な魔物は……でない。
 より強く、より高みに達したいなら、古都などの激戦区で経験を積むか、海外――特に欧州などで様々な経験を積めべきだ。
「……先輩?」
 しかし、舞としては今のまま、今のメンバーのまま、時を過ごすのは、とても心地よかったのだ。
 昔から自らに宿る異能のせいで、友人が少なかった幼少時代。相沢祐一という異能者とも出会いによって、この業界に身を投じた。
 それ以降も幾つもの戦いをしてきたが、今のメンバーが最高だと思った。口数も少なく無愛想な自分を当然のように仲間としていられることに。
 それも永遠に続かないことは理解している。
 えいえんはないのだ。
「私は……」
 次の瞬間。
 二人は、一糸乱れぬ動きで駆け出した。

 ――誰かが、強力な魔物と交戦している。

 感知の能力が比較的低い――というかそういうのは美汐リーダーまかせなので、鍛えようとしていないだけだが。そんな自分たちが気付くほどなのだ。それほど、強力な魔物だというのは殆ど確信に近いものがある。
 徹の携帯が鳴る。徹が小学生の頃に放送していたアニメの主題歌だ。相手は解っているので、液晶画面を見ずに電話に出る。
「もし「美汐です。」
 想像通りの相手だった。タイミングから考えると、感知したのはほぼ同時か、あちらの方がほんの少し早いか。
 しかし、相手の声を遮るとは、彼女らしくない。徹はそんな彼女を落ち着けるかのように、ゆったりとした口調で話した。
「で、どーしたんすか?」
「魔物です」
 その短い美汐の言葉には、ある感情が混じっていた。
 それは――焦燥。
「現在は国連の退魔士たちが交戦していますが、まず勝ち目はありません」
 思っていたより、事態は悪いのかもしれない。徹は舞に視線を向ける。彼女も事態の深刻さを察知したのだろう。走るペースを上げる。

 ――そして、彼女が焦燥の正体を告げる。
「敵は吸血鬼――ヴァンパイアです」






□後書
 忘れた頃にやってくる作品、登場です。
 まー、現在カノンも京アニverが放送されていますし、またカノンの二次創作界も盛り上がればいいなー、とは思いますが、最近自分は小説を書くのが向いていないのかもしれないと憂鬱にもなります。あまりにも作品の執筆スピードが遅すぎる。まあ、毎日書くということが出来ればいいんでしょうけど。
 さてさて。この作品も次で終り(エピローグを入れると後二話)。その続きは執筆予定は微妙ですし、それなら依然書いた短編を連載風に書き換えた方がいいかなぁと、思っています。勿論あの話は少々アレですので、もう少し原作に近い話にしますが……。
 今年中に終わらせらることを目標に頑張るッス。