線香の細い煙が、冬へと溶けていく。

 香りと煙は上へ、小さな赤は下へと向かっていた。


 その脇には、口を開けられた日本酒が二本。


「耕介さんと真雪さんに買ってきてもらった。もちろん地酒だから安心してくれていい」


 用意したグラスは四つ、二種類の酒をそれぞれ二杯ずつ注いで、一気に二杯、飲み干した。


「………やはり好きにはなれそうもないな」


『ったく、まだまだガキだな』


 余計なお世話だと、聞こえぬ声に返し、更に二杯、グラスを煽る。


「………こほっ」


 多少咳き込んだものの全部飲み切った。

 普通ならかけるのかもしれないが、彼の脳裏に浮かぶ人物はそう言うのを好まない人だった。

 そう、あの人が飲んでいた酒を、鍛錬の疲れでふら付いた彼が溢してしまった時、彼は鬼を見た。


「………そうだな。美由希はどんどん伸びてる。やっぱり美沙斗さんを見たからだな。俺より美沙斗さんのほうが、美由希には合ってるから――」


 日本酒に栓をしながら、とりとめもなく近況を語っていく。


「かあさんも、なのはも元気だ。特になのはは、少し大人になったよ」


 彼が座っている前に立てられている墓石、そこには『高町家』の文字が刻み込まれている。

 そして彼の名前は、高町恭也。

 話している相手は、高町士郎。















夕暮れに、あの人と



















「ったく、タチの悪い」


 幼い少年が、小声で悪態をついている。

 その足元には、不自然な穴が掘られていた。


 少年がいるのは、とある山中である。

 昼間にも関わらず生い茂る木々のせいでかなり薄暗い中を、目立たぬ色合いの服に身を包んで移動していた。

 そしてその手には、刀――小太刀が握られていた。


 不破恭也、彼は小学校の夏休みを利用して、父の士郎と山に来ていた。

 ただしキャンプなどではなく、山篭りにだが………。


「………」


 恭也がゆっくりと移動しながら、前後左右を見渡す。

 二人は山中実戦鍛錬の最中だった。

 互いに離れた位置からスタートし、相手を見つけ、戦闘不能に追い込む。

 剣道なら論外、剣術でも大半は見向きもしないだろうこの鍛錬も、彼らがよく行っている実戦鍛錬の一つだった。


「………………」


 士郎の足跡を見つけた恭也は、その跡を追ってここまで来たのだが、どうやったのか足跡は途切れていた。

 周囲もしっかり確認していたので、回り込まれたということもない。

 それに足元には、士郎が掘ったらしい穴があった。

 ただそれはトラップと言うには、浅すぎたのだが。


「………ん」


 周囲を警戒しながら痕跡を探していた恭也の視線が一点で止まった。

 5メートルほどの高さにある太い枝に刻まれた一本の線。

 注意深く見ると、その木には所々削り取られたような痕があった。

 そこから察するに、


「………煙か、あの人は」


 その枝に鋼糸を引っ掛け、一気に蹴り上がったのだろう。

 彼らの鍛錬に確かにその種のものも含まれているが………敢えてもう一つを挙げない辺り、恭也は、優しい。


 それから恭也の追跡は三十分ほど続いた。

 士郎が通った衝撃で落ちた小枝や葉と、わざとらしく落とされた飛針――こちらはしっかり回収した――を追って進んでいく。

 忙しなく上下に視点が移動しているのは、上方にいるだろう士郎と地面に仕掛けられたトラップ、両方に注意を払っているからである。


(どおりで笑っていたわけだ………)


 始める前、妙ににこやかだった父の顔を思い出し、ため息をつく恭也。

 しかし、この方法がかなり有効であることは間違いない。

 接触しなければいけない以上、恭也は士郎を追わなくてはならず、すると予め仕掛けられたトラップを通る羽目になり、周囲への警戒が疎かになりがちに………


「………猿か、あの人は………」


「父親に向かって猿とは。お仕置き、だな」


 頭上から唐突に声が降ってきた。


「っ」


 恭也は上を見ることなく、ただその場から飛び退る。

 そのまま抜刀し、視点を襲撃者に合わせようとし、


「くっ」


 傾斜に足を取られてバランスを崩してしまった。

 ぶれた視線の先には、落下の衝撃の方向をずらし、加速した猿の姿が………


「この程度で焦るとは、甘い甘い」


 常より大仰に小太刀を振り上げる士郎、そのまま加速の勢いとともに一気に振り下ろした。

 ただでさえ大人と子ども、膂力で差があるというのに、一方は体勢を崩しており、一方は加速中。

 それでも恭也はなんとか小太刀の峰に手を沿え、斬撃を堪えようとしたのだが


「またまた、甘い」


【貫】


 刀は刀をすり抜けた。


「反応速度は良いが、焦っちゃダメだな。周囲の地形ぐらい頭に入ってただろう」


 恭也の眼前で刀を止めた士郎は、その体勢のまま講義を始めた。

 そのほとんどが恭也のミスを指摘しているのだが、それでも士郎の顔には満足げな色が浮かんでいた。

 わざわざ声を出したとはいえ、あそこで反応できる辺り、年を考えるに脅威と言えるのだから。


「――それに不用意に歩きすぎだ。上を抑えられている以上、もう少し姿を隠す工夫をしないとな。俺が昔やった中で、妙に身の軽い奴がいたんだが――」


 士郎の講義はそのまま己の武勇談へとシフトしていた。

 だがそれでも刃は相変わらず恭也に突きつけたままである。

 彼らの実戦鍛錬は一方が死亡宣告し、もう一方が受け入れない限り――ほとんどが士郎が恭也にであるが――終わりにはならない。

 だから今も鍛錬は継続中、隙あらば刀を跳ね上げ、反撃をしようとしているのだが、士郎の斬撃を防ぐために両手で突き出された恭也の小太刀は攻撃に移れる状態ではない。

 それでも恭也は徐々に足をずらしていた。


(………読まれてるな。でも――)


 己の感覚を研ぎ澄ましていく。

 眼前の離れぬ刃、話し続ける士郎、木々を通り抜け頬に当たる風、揺れる葉。

 全てが、緩やかになっていく。


【御神流・奥義ノ歩法・神――】


「えっ………」
「おっ………」


 親子の驚きの声が唱和した。

 士郎の眼前で恭也の体が傾いていき、そして消え去った。

 
「………あいつ」


 状況を単純に説明すると、傾斜に立っていた恭也の足元が崩れ、そのまま転がり落ちていった、以上である。

 だが士郎から見ると、恭也の足元が崩れた原因は明確だった。


「いつの間に【神速】を………」


 恭也の足元が崩れた理由は、【神速】である。

 引き伸ばされた感覚時間によって身体能力のリミッターを外す【神速】は、それこそ『目にも留まらぬ』速さまで加速することを可能にする。

 ただし、そのためにはいくつかの条件が必要であり、足場の確保もその一つである。


 ただでさえ柔らかい傾斜は、飛び退って来た恭也によって衝撃を与えられており、【神速】の圧力に耐えることが出来なかった。

 故に足元が崩れ、疲労していた足腰ではバランスを取ることが出来ずに、転がり落ちていった。

 以上が、士郎の見たことの顛末である。


「………ったくしょうがないか」


 確かに恭也の前で、【神速】は見せたことがあったが、まさかこの歳で辿り着くとは思っていなかった。

 だが辿り着いてしまった以上、色々と教えなくてはならないだろう。

 【神速】が体にかける負担は並大抵のものではないのだから。


「とりあえず、引き上げてくるか」


 苦笑の中に、喜びとほんの僅かな哀しみを滲ませながら、不破士郎は息子を助けに降っていった。



































「そろそろいいんじゃないか」


「まだ早い。もっと強火の遠火でじっくりと」


「いや、もういいだろ――って斬れるぞ、おい」


「まだ、早い」


 川原で焚き火をしながら、不破の親子が和やかに会話していた――木の棒が高速で伸ばした手に襲い掛かったりもしていたが。

 あれから転がり落ちて泥だらけになった恭也が服と一緒に川で汚れを落とし、その後に早めの夕食になっていた。

 メニューは服を乾かすついでに釣った川魚。

 あまり釣りの腕が良くない二人だが、今回は川に入ることもなくある程度の数を確保することが出来ていた。


「………………もう、いいか。父さん、醤油を取ってくれ」


「あいよ」


 魚の香ばしい匂いと醤油の香りが食欲を誘う。

 しばし親子は何も言わずに、ただただ口と手を動かしていた。




「ああ、食った食った」


「食べてすぐ横になると、牛になるぞ」


 満足げに寝転がる士郎に、後片付けをしながら恭也が注意する。

 普通ならば逆のような気もするが………


「…お前、ほんとに小学生か」


「この前、授業参観に行った場所を思い出してくれれば分かると思うが」


 その授業参観があったのは月曜日、例の如く週末に放浪していた不破親子は授業参観に親子同時登校を達成していたりする。

 その上、目立つ士郎についつい消しゴムを超高速で投げつけ………結果として、クラス内での恭也の知名度が格段にアップしたとだけ言っておく。



「それで恭也」


 今だ寝転がっているものの士郎の声色が重さを帯びた。

 応じて、恭也も片付ける手を止めた。


「お前、いつからだ?」


「意識的にやってみたのは今日が初めてだよ。はっきり入れたのは、この前、田宮抜刀とやった時」


 田宮抜刀術、それは通常よりも柄の長い刀を使う抜刀術に特化した流派である。

 常に先を取り、一撃必殺を目指す、剣道には決してなれない剣術。

 一月ほど前、その使い手数人と士郎と恭也は交戦していた。

 切欠は誤解であり、互いに重傷者が出ることなく終わったのだが――不破側の勝利である――恭也はその際、向こうの使い手一人を戦闘不能に追い込んでいた。


 鯉口を切り、鞘走りの音がする。

 鞘より解き放たれる白刃、それは何故かひどくゆっくりしていて、それどころか未だ描かれぬ銀の軌跡さえ、はっきり見えていた。

 風圧で髪が揺れるほど近くを刃が通過し、そして一瞬後、鳩尾に柄を打ち込んでいた。


 一人で数人の剣士を片付けた士郎が慌てて駆けつけた時、そこには地に伏せった相手を鋼糸で縛りつけている息子の姿があった。


「なるほどな」


 息子には密かに何度も驚かされていたが、今回は格別だった。

 と言っても、何処か納得しているのも事実だが。


 不破恭也、この幼い少年には容易に見取ることの出来ない才能があることを士郎はよく知っていた。

 【神速】に必要なのは、単純な動体視力ではなく、脳の処理能力を上げるための集中力である。

 恭也には、それが備わっていた。

 桁外れの集中力が。


(才能と呼ぶしかないな)


 恭也が学んでいるのは、【神速】を使い最強を謳われている御神流。

 鍛えているのは、御神流においても不世出の剣士と呼ばれた不破士郎。

 しかも士郎に連れられて他流派の鍛錬も豊富に経験している。


 恭也が置かれているのは剣士としてこれ以上ないほどの状況と言ってもいい。

 それでも、【神速】に辿り着くのには早すぎた。

 だとしたら、その差を埋めたのは、純然たる恭也の才能、である。

 それはまさに至宝とも言うべきものなのだが


「で、どうだ、感想は?」


「入るのに時間をかけすぎ。それにまだまともに動けそうもないし………」


「分かってるな。だったらしばらく禁止な」


「………うん」


 恭也には慢心の欠片もなかった。

 ただただ上を目指し、邁進する。

 そしてその上とは、他でもない不破士郎、その人である。


(気、入れないとな)


 得がたい才能を曇らせないためにも、高くなくてはいけない――生活面では既に地に落ちている気もするが………

 とにかく決意を新たに息子を見ると、その息子は炎をじっと見詰めていた。

 日が落ちて暗くなりかけの中で、その横顔は揺れる火に照らされて………

 そしてその顔は、まるで刃の如く研ぎ澄まされていて………


「なあ、恭也」


「なに?」


「彼女、出来たか?」


「………小学生に聞くことじゃないと思うけど」


「ふっ、甘いな。俺なんて――」


「はいはい。俺には剣があるから」


 恭也はこういう子どもだった。

 己の人生の大半を剣と言うものに捧げている小学生。

 それも剣道と言うスポーツではなく、剣術と言う戦闘技術に。


 物心付く前から、恭也は剣と共にあった。

 当たり前である。

 唯一の保護者である士郎の片手には常に剣があったのだから。

 そして物心付いてから、当たり前のように剣を振っていた。


 士郎が恭也に剣を強制したことはない。

 恭也が自然と剣を取り、そして自然と士郎に弟子入りして………


 否


 恭也に選択肢などなかった。

 そうだろう、唯一の保護者が剣士だったのだから。


 恭也が剣に不満を漏らしたことはない。

 そうだろう、息をすることに不満を漏らす者などいるはずもないのだから。


 恭也が士郎の放浪に文句を言ったことはない。

 そうだろう、いくら大人びていてもまだ小学生なのだから。



 街行く親子連れが休日遊びに行く相談をしている脇を、士郎と恭也は通り過ぎる。

 今晩の宿の心配をしながら。


 父の職業を楽しそうに話し合う子どもの脇を、恭也は通り過ぎる。

 簡単に話せる職ではないのだから。


 母の日に学校で母の絵を描く授業に、恭也は出ない。

 母はいないのだから。


 昔、一度だけ恭也が母について訊いたことがあった。

 士郎はこう言った。

 お前を置いて、何処かに行ったと。

 それに対する恭也はただ、そう、とだけしか言わなかった。

 それ以来、恭也が母について訊いたことはない。


 不破士郎は自分の生き方に悔いを持ったことはない。

 護るために剣を学び、御神ではなく不破士郎として護るために、弟に不破を譲り、己の護りたいものを護ってきた。

 不破士郎は自分の歩んできた道に、悔いはない。

 それでも、自分は恭也を………



「とった!!」


 気付いた時、彼の首には鋼糸が巻きついていた。

 そして頚動脈に当てられる刃の感触。

 やっているのは、勿論恭也だった。


「死んだね」


「………ああ」


 呆然としていた士郎は素直に死亡宣告を受け入れる。

 さすがにここからの逆転は不可能だった。


「油断しすぎだよ」


「っ、ずいぶん性格が悪くなったもんだな」


 なんとか調子を戻して悪態を付く士郎から離れると恭也は黙って荷物をあさり始める。

 しばしの後、取り出したのは、紅葉の形をした特大の饅頭と缶の緑茶だった。


「お前………」


「今日、殺したほうが全部食べていいんだよね」


「ってお前、さっき――」


「まだ宣告されてなかったよ」


 確かに恭也が転がり落ちていったことで鍛錬は中途半端な形で終わりに………否、中断されていた。


「てめえ、せこいぞ、恭也!」


「油断大敵、でしょ」


 封を開けて三角形の一角を千切ってみせる。


「食べたいなら、食べさせてあげてもいいけど………でもこの前、焼肉取られたしな」


 次々と挙げられる士郎の罪科、そして


「やっぱり一人で食べるか」


「この!!」


 それから親子は、饅頭を巡って川原でじゃれ合っていた。

 結局、半分ずつにすることにしたのだが、それまで楽しそうに笑っていた。


































「母さんのシュークリームは、今度本人が持ってくるから、我慢してくれ。なんでもあの時の全種類を用意するらしいから、楽しみに」


 あの時、川原でじゃれ合っていた子どもは既に青年となり、父は歳を取るのを止めていた。

 それは彼らの姓が変わってすぐのことだった。


「………そうだな。一応話しておくと、今は百人には遠いが友人もいる。生憎彼女は出来ないが、こればっかりはどうしようもないことだからな」


『あのな、恭也』


『なに?』


『今回のことでも分かるように、この希代の天才剣士でもたかが老人的小学生に負けることがある』


『ん………』


『だからな、友だちは作っておけよ。そうだな、歌の通り百人ぐらい』


『………話が分からないんだけど』


『それはお前が未熟だからだ』


『悪かったね』


『それでも、いずれは分かる』


『………分かった』


『ついでに彼女は十人ぐらい作っておくと、なお良しだぞ』


『十人ってどっから出てきた?』


『俺の最高時の人数だが』


『………いつか知らない兄弟と会う気がするんだけど』


 そう言って川原で笑っていた士郎の顔には陰りなどまるでなかった。

 あの時は、親子二人で、本当に楽しく………否、士郎と二人でいたどんな時も、恭也は楽しかった。

 言葉には出さなかったが、それでも伝わっていた、そう思っている。



「あのことは母さんには黙っておいてある」


 感謝しろよ、と恭也は立ち上がった。

 一升瓶を二本、手元のバックに仕舞いこむ。


「さてと、今晩は四杯程度じゃ済まないだろうな」


 今晩はさざなみ寮での宴会である。

 高町家や赤星、忍にノエルにさくらに、唯子に真一郎に小鳥に………

 主催者たる仁村真雪曰く、細かいことは言わずに集まって飲め、だそうである。


「それじゃ、また」


 そう言って、恭也は歩き始めた。

 士郎と恭也の手に剣があったからこそ、会えた人たちのところに帰るために。


「ありがとう、父さん」


 その後ろでは磨かれた墓石が、夕日を反射して、笑っていた。





 夕暮れに、あの人と


 了
































 後書き


 この話は拙作、風芽丘異伝の外伝ではなく、とらハ本編の短編になります。

 まあ繋げようとも思えば異伝にも繋がらないこともないのですが、とにかく自分の初純粋短編になってます。

 テーマと言うか目標としては『しみじみとする話』なので、読んだ後に少しでもしんみりしていただければ、とても嬉しいです。

 それでは失礼します







管理人の感想


 希翠さんからSSを投稿していただきました。

 しんみり系ですねぇ。

 親子の愛情溢れるいい話でした。


 部外者が聞くと、恭也は不幸な幼年期なんでしょうね。

 本人は微塵もそう思ってないでしょうけど。

 恭也がああいった良い大人になったのは、間違いなく士郎のお蔭。

 偉大な父親です。

 SSでは大抵生活不能者ですが。(爆



感想は次の作品への原動力なので、送っていただけると作者の方も喜ばれると思いますよー。

感想はBBSかメール(kisui_zauberkunst@yahoo.co.jp)まで。(ウイルス対策につき、@全角)