御剣いづみ
国家忍術免許三級を持つ彼女は、学内の有名人である。
まあ、時々壁を伝って窓から入ってくるのだから、有名にならないほうがおかしいかもしれないが。
そんな彼女の実家は旭川、先祖代々の忍者の家系であり、忍者が国家検定制となった現代でも名門中の名門である。
性格は真面目で正義感が強く、何事にも一途で一生懸命。
だが冗談が分からない堅物ではなく、気さくな面も持っている。
その真面目で一途で一生懸命ないづみ、その情熱は最近、とある男子高校生に向けられていた。
その男子の名前は、高町恭也。
風芽丘異伝 外伝
忍者少女の私生活
「………遅い」
膝に手を付いて激しく息をつくいづみ。
場所は家の近所の空き地、時間は22時過ぎ、鍛錬の真っ最中だった。
鍛錬のメニューは基本的に体力づくりから始まり、体術、忍具と進んでいく。
しかし最近はそのメニューに変化があった。
ここ一週間、いづみはひたすら体力作りに打ち込んでいた。
呼吸を整えたいづみは、再び姿勢を整えると、地面を蹴った。
土片が飛び、地面が抉れる。
幼い頃からの訓練で鍛えられた肢体は、加速していき………
それでも背中に届かない。
それどころか背中はどんどん遠ざかっていき………いづみはスピードを徐々に落として足を止めた。
今日も、届かなかった。
「くっ!」
悔しそうに己の足を打つ。
今夜、酷使し続けた足は、僅かに震えていた。
荒れる息を抑え、足を戻すのに専念すること数分。
今晩はもう終わりにするつもりである。
数日前になるが、限界を考えずに続けた結果、翌々日まで尾を引いたことがあった。
無理は禁物、などという甘い世界ではないが、アルバイトで生活費を稼いでいるいづみにとっては文字通り死活問題になりうるのである。
体調を整え終わったいづみは荷物をまとめ始めた。
その途中でふと後ろを振り返る。
「あれぐらいか」
そこには今、何もない。
そこにはあの時、高町恭也が立っていた。
一歩半、それがいづみと高町恭也の距離だった。
つまり恭也はあの速度まで一歩半で加速した、ということである。
そして恭也は、瞳と赤星の元に辿り着き、あっさり己のみに傷を残して終わらせていた。
いづみでは、間に合わなかった。
蔡雅御剣に生まれたいづみは、幼い頃から忍者となるべく鍛錬を積んでいる。
そしてその鍛錬には誇りと自負を持っていた。
それは、衝撃だった。
もちろん全てが順風満帆だったわけではない。
昇級試験に落ちたこともある。
今日も、届かなかった。
それでも常に上を見て、届くと思っていた。
明日も、たぶん届かない。
神咲薫、千堂瞳。
いづみが同年代において、己より上と認めていたのがこの二人である。
神咲薫は神咲一刀流の剣士。
神咲と言う名前は知っていたので、手合わせしてもらったが、真正面からの試合ではいづみよりも上だった。
そして千堂瞳、彼女は………天才である。
彼女の努力を否定するつもりは全くないが、それでもそうとしか言いようがない。
おそらく護身道以外を選んだとしても、現在と変わらぬ肩書きを持っていただろう。
武道の天才、それが千堂瞳である。
風芽丘に入学したいづみは、噂を聞きつけ護身道部に足を運んだ。
そこにいたのは噂どおりの、否、噂以上の実力を持った二年生エースだった。
その姿に思わず見惚れ、そして手合わせを申し込み………不意打ちを含めた戦績は、未だ勝ち星なし。
ただそれでも二人については、己の全てを尽くしたわけではない。
不意打ちにも平然と対応する瞳だが、さすがに全ての忍具に対応するのは不可能だろう。
薫についても剣士への実戦的な対応策は、まだ使っていなかった。
しかし、高町恭也には………
いづみが恭也に遅れを取ったのは、単純な速さ。
故にそれは、抗いようもない、事実。
荷物をまとめたいづみは帰途に着いた。
月明かりと街灯に照らされた顔を曇らせながら。
私立風芽丘2年F組、出席番号15番。
それが件の人物である。
昼休み、昼食を簡単にうどんで終わらせたいづみは自分の教室の一階下に来ていた。
昼休みだけに活発に人が行き来する中、その教室に辿り着いた彼女は中を覗き込む。
そこには、座りながらカバーのかかった文庫本を読む高町恭也がいた。
時折、外に目をやりながら本を読む高町恭也。
その高町恭也に話しかけたのは、数少ない友人の赤星勇吾。
そのまま藤代奈津実も加わって、三人で何かを話している。
内容は不明、しかし周りにクラスメイトのいる中で話していることから、機密性は高くないと思われる。
などと思考をまとめていたいづみだったが、
「………はぁ」
廊下で一人ため息を付いていた。
夜の鍛錬と平行で行っている高町恭也の調査。
それも――鍛錬とは別方向だが――上手くいっていなかった。
御剣の情報網は使えないために、個人で学内の聞き込みを中心に行っている調査なのだが………
今まで入ってきた情報を上げると
名前は高町恭也――基本だが聞かなくても分かっている。
家族構成は、母に妹二人+妹的存在一人――年齢など若干不明なところもあるが特に注目すべき点はない。
言葉遣いが妙に時代がかっている――雰囲気的に納得である。
学校の成績は概ね平均かその少し下、ただし英語の発音だけは抜群である――少なくとも成績は勝っている。
時折、完璧な宿題を提出するのだがなんでも妹的存在によるものらしい――それは羨ましい、出来るなら写させて………
交友関係は極めて狭い。大体が赤星勇吾繋がりもしくは同じ中学出身である――………あまり人のことは言えない。
そして合同練習以来、女子剣道部、護身道部で株が急上昇していた。
2年F組の護身道部員、菅野美月曰く、『高町君ってかなり格好良いし、どうして今まで目立たなかったんだろう?』
まあ、あの場面に立ち会ったものとしてその感想は分からないでもないのだが………
ちなみに恭也が目立たないのは、当人の『枯れている』言動その他、と陽性の赤星勇吾といるからだろう。
ただいづみの見る限り、ある程度作為的に目立たないようにしている節もある。
それと聞いていた話の中に、ほとんど致命的というのがあったのだが………三日も見ていれば何が致命的なのか、よく分かった。
暖簾に腕押し、糠に釘。
一時的に上昇した株も一週間ほどで落ち着くだろう。
前よりも高値であるのは、間違いないが。
などなど、変わり者の証明にはなっても、いづみの求める――警戒する方面の物はほとんどなかった。
家に道場があるらしいので怪しいと言えば怪しいが、それもそこまでである。
「………それでも」
唇を硬く結び、拳を握り締める。
そんな彼女に斜め上後方から、声がかけられた。
「あら、御剣さん」
涼やかな声、護身道部主将、千堂瞳である。
「また、ね」
2年F組の前、ここの廊下で二人が会うのは、実は二回目だった。
目的もおそらく一緒だろう、方向性は別にしても。
「あっ、千堂先輩」
開けっ放しにされた扉から瞳の姿が見えたのだろう。
クラス内の護身道部員が反応する。
その声につられて、クラス内の視線が集中した。
千堂瞳は有名人である。
容姿、成績、護身道の成績、などなど目立つ要素は事欠かない。
そんな彼女の名前にクラスが反応するのも、よくある話である。
そして、その脇からクラスを覗き込むと、いつの間にか一人になっていた窓際の高町恭也が顔を上げていた。
「っ」
覗き込むいづみと文庫本から顔を上げた恭也の眼が合う。
そのまま軽く会釈する恭也。
つられて頭を下げると、隣で瞳も会釈を返していた。
「先輩、昨日言われたものですよね」
「…えっ、ええ」
会釈はノートを持った部員によって終わりを告げた。
そのまま話し始める瞳と、あっさり文庫本に戻る恭也。
若干視線が泳いでいる瞳と、一分の躊躇もなく視線を文字に向ける恭也。
そしていづみは、自分の教室に戻るべくF組前の廊下を後にした。
「おっす、御剣」
「ああ、相川」
所は廊下、場所は先ほどの一階上。
F組の前を後にしたいづみが、次に立ち止まったのは2年C組の前だった。
そこで会ったのは一年時のクラスメイトにして、瞳の弟(妹?)の相川真一郎である。
「もう昼飯は食べたのか?」
「ああ」
時間的に昼休みはあと五分ほどだった。
思わず短い昼休みを回想すると………有意義とは言い難かった。
いつもなら鍛錬に充てている時間、それでなくても最近は体力トレーニングに偏っているというのに………
昼も夜も成果はほとんど、ない。
だったら………
「あっ。そういや、今日、翠屋に行くんだろ?」
「………?」
「小鳥が聞いてきたけど、高町はいるらしいからな」
「はあ? 何言ってるんだ、相川」
「だって、御剣って………」
そう言って含み笑いをする真一郎の背後に回りこみ、首筋に手をやる。
そしてそのまま穏便にお願いして、話を聞いたところ………
方々で高町恭也について聞いている御剣いづみ。
つまり彼女は………
「………あのなぁ」
思わず片手で頭を抱えるいづみ。
実際と話の差が半分、そしてもう半分は己の未熟さに。
情報を聞かれたと気付かせないように収集するのがベストだと言うのに………
「その話、誰に聞いた?」
「唯子だけど」
「唯子か………」
「それと、唯子、俺だけじゃなくて、結構広めてたぞ」
「唯子ーーー!!!!」
駆け出すいづみ、見送る真一郎。
そして
「なんか騒がしいな。一階上か?」
「そうらしい」
その下で一因となっている高町恭也が上を見上げていた。
「唯子ーーー!!!」
「ふぇ、いづみちゃん、恐いよ〜」
御剣いづみは、苦学生である。
高校入学の時から旭川を出て海鳴で一人暮らしをしている彼女、実家からの仕送りは学費と家賃のみ。
故に食費などの生活費の全てをバイトで賄っており、その上、忍術の修行も欠かさない。
一年時のクラスメイト、相川真一郎曰く、良い奴だし結構尊敬してる、とのことである。
休日の昼間、いづみはバイトの一つに励んでいた。
今日のバイトは売り子、場所は海鳴臨海公園である。
「コーラと、何にする?」
「ええと、アイスティ」
「コーラとアイスティですね。レモンかミルクはお付けしますか?」
「ミルクで。それとシロップもお願い」
「畏まりました」
一組のカップルを捌いたところでようやく客足が途絶えた。
一息つきながらバイザーの下の額を拭う。
ふと見上げた空では、雲を控えさせた太陽が優雅に自己主張していた。
「はあ、熱いな」
暦の上ではまだ春のはずなのだが、今日の日差しは、ほとんど夏そのものだった。
おかげで飲み物の売り上げも良好、なのだが歩合制でもないので、バイトには迷惑な天気である。
「すいません」
「はい」
小休憩終了、笑顔を作りながら、向いた先には小学生らしき少女が二人、並んで立っていた。
客としては珍しい部類に入るが、客は客。
注文を聞くと、それぞれオレンジジュースとアップルジュースと言う返答が返ってきた。
そして
「それと、お茶か何かありませんか?」
「アイス宇治茶があればベストなんだけど」
「アリサちゃん、さすがにそれはないと思うよ」
「………烏龍茶ならあるけど」
二人しかいないにも関わらず注文は三つ。
しかもジュースから一転、アイス宇治茶とは………
とりあえず『それで』と注文を受けたいづみは、コップに三杯、注いで戻る。
「はい、どうぞ」
いづみがコップを差し出し、少女がポケットから財布を取り出す。
そこで
「なのは、ストップ。財布はあっちでしょ」
「誰が、財布だ」
脇から500円硬貨が差し出された。
「お兄ちゃん」
「恭也、遅いわよ」
少女二人が、笑顔を浮かべる。
その先には、対照的な仏頂面が、立っていた。
高町恭也。
そして少女二人は高町なのはとアリサ・ローウェルだろう。
高町恭也とその家族は、一応調べていた。
「ん、御剣さん、だったか………」
………こっちは時間を割いているというのに、向こうはこちらの名前もあやふやらしい。
「恭也、この売り子さんと知り合い?」
「ああ」
相変わらず短い返答とともに、改めていづみに500円硬貨を差し出す。
代わりにコップを受け取り、妹たちに配布する。
扱いに慣れているらしい、流れるような作業だった。
「はあ。やっと口直しが出来るわ」
「うん。カレーはちょっとね」
「………美味しいんだがな」
若干鋭い視線を向けられた高町恭也が顔を逸らす。
その仕草はいづみの見てきた中で、一番年に近いものだった。
「大体こんな暑い日になんで鯛焼きなの!?」
「任せろと言われたから好きなものを買ってきただけだが。それにそのぶん、これも奢りになっただろ」
「デートの時に、会計を持つのは当たり前でしょ」
「………理不尽だ」
「何か言った!?」
「…いや」
反論なし、高町恭也完全敗北。
アリサと言う少女に言い負かされた高町恭也は、烏龍茶のストローを咥える。
それを見て満足したのかアリサも、そして苦笑いをしているなのはもそれに倣った。
沈黙は数秒、顔を上げた高町恭也は、脇で僅かに呆然としているいづみを見た。
「御剣さんはアルバイトか?」
「…あっ………そう」
辛うじて肯定の返事を返す。
その態度を気にしているのか、いないのか、高町恭也は
「暑くて大変そうだな」
と言う本人は長袖長ズボンの黒ずくめ。
にも関わらず特に汗などは掻いていなかった。
「いつもは二人だったと思うんですけど、今日は一人だけなんですか?」
そう訊いてきたのは、高町なのはだった。
いつも仏頂面の兄と違って、笑顔が似合うと率直に思える少女である。
「いたんだけど、この天気で………」
相方もいたのだが、そちらは暑さでダウンしていた。
結果、いづみは一人で売り子をやることになってしまった。
ちなみにその分、バイト代は割り増しになっている。
だから張り切って働いていたのだが
「ずいぶん汗掻いてるみたいですけど、大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫、大丈夫」
言って、また額の汗を拭う。
実は本人もいつもより体が重いと感じていた。
それでも心配そうにこちらを見るなのはに、笑みを見せる。
そこに
「御剣さん、烏龍茶もう一杯、今度はLLで貰えるか」
高町恭也が、硬貨二枚とともに注文を入れた。
了解して、品物を取って戻る。
すると高町恭也は
「………?」
まだ中身の入っていた最初のカップの上部を開け、受け取ったLLサイズのカップも同様にする。
LLを傾け、八分目まで補充、そしてまた締めて
「これを」
いづみに口をつけていない、半分以上残っているLLカップを差し出した。
そして自分は中身が三分ほど戻った烏龍茶をまた減らす。
その隣で妹たちが笑みを浮かべていた。
「いや、もらうわけには」
「体調があまり良くないのなら、水分補給はしっかりしておいたほうがいい」
いづみ当人は気付いていなかったのだが、汗の量だけではなく呼吸も顔色も体調の下降を示していた。
そしてそれらは妹の体調管理をしている恭也には一目瞭然だった。
「だったら、これは私が払って――」
「いや。こっちも飲みたかったから気にしなくていい。ただカップの処理はお願いする」
そう言って、恭也は踵を返した。
妹二人もそれに従う。
「高町………」
「無理は、しないほうがいい」
じゃ、と軽く手を上げた恭也の背中が遠ざかっていく。
それをいづみは、黙って見送った。
そして、その後姿が見えなくなった頃、ふと手にしているカップに口を付ける。
「………美味いな」
思わず呟いてしまうほど、冷えた烏龍茶は美味しかった。
自分の渇きと鈍りを実感する。
そう言えば、昨晩も少し無理をしてしまっていた。
「高町、恭也か」
あれを見て、調べて、実際に話して………結局分かったこと言えば
「よく、分からないな」
その程度だった。
ただそれでも差し出されたカップの冷たさは確かで、年下の少女に言い負かされていたのも確かで、そして瞳を助けたのも確かである。
だとしたら、警戒の必要などないのかもしれない。
「よし」
一息ついて、烏龍茶を飲み干す。
さて、仕事を頑張ろう。
ただ御剣いづみに残った一片の気がかり。
それをもたらしたのは、肩口に向けられた見透かすような視線だった。
そしてそれは、ある意味正しかった。
彼女が、よく分からない高町恭也………
否
不破恭也を知るのは、もう少し後、とある夜のことである。
後書き
風芽丘異伝外伝の一発目はいづみ編になりました。
人気投票のコメントとシチュエーション募集のヒロインサイドの話が読みたいという意見から、こういう話になりました。
楽しんでいただけたら、何よりです。
次回以降の外伝は、瞳メインというか瞳サイド、さくらと恭也の出会い、アリサと高町家の出会い、赤星&藤代&恭也、などなどを予定しております。
シチュエーション募集は常時行っておりますので、何かありましたらメールかBBSにお願いします。
では
管理人の感想
希翠さんから外伝SSを投稿していただきました。
例のシチュエーション募集における、読者さんの意見の結晶です。
いづみの普段の生活がよく書かれてると思いました。
確かに恭也怪しいもんなぁ。
その手の技能を持っているなら、普通は探ろうと思いますよね。
しかしいづみ嬢は、『神速』を超えようとしてるんですか……。
個人的には、瞳が訪れた時の恭也の反応が1番面白かったですが。
らしいなぁ、とね。(笑
感想は次の作品への原動力なので、送っていただけると作者の方も喜ばれると思いますよー。
感想はBBSかメール(kisui_zauberkunst@yahoo.co.jp)まで。(ウイルス対策につき、@全角)