落ちる


 そう思いながらも少女は、無言だった。


 高くはないが、後頭部を打ちつける落下軌道であることは本人が一番分かっている。


 それでも少女は無表情だった。


 そして、そのまま――――


「っと」










 ――――少女は今でもはっきり思い出せる。

 その時、自分を包んでくれた温もりと、こちらを見た瞳と、その後の軽い痛みを。


 アリサ・ローウェルが高町恭也と出会ったのは、蝉が鳴く夏の日の図書館だった。





















 風芽丘異伝 外伝 天才少女の進路希望































 その日、恭也は朝から出掛けていた。

 行き先は美由希が常連となっている付近で最大の図書館――ちなみにその常連ぶりは、図書入荷希望に『高町美由希』と名前を書けば、図書館の職員が黙って頷き、採用するほどである。

 その図書館に開館直後に入館した恭也は、勉強スペースの一角に陣取り、一式を広げて、資料を探していた。


「………あとは辞典か」


 左手に何冊も分厚く大きく重い本を持ちながら、恭也は辞典コーナーを歩く。

 珍しく素直に感情の表れているその声は憂鬱そうで、どうやらかなり面倒なことをしているらしい。

 本棚を見上げ、番号と分類を確認、『化学 374〜456』と書いてある本棚から目的の本を取り出した。


 現在、恭也が憂鬱そうに取り組んでいるのは、夏休みの宿題である。

 教科は理科――化学、内容はイオン電解についてだった。

 それで恭也が憂鬱になっている理由だが………


 この宿題、実は一学期の復習ではなく二学期の予習、という意味合いになっていた。

 故に付け焼刃でなんとかした期末テストの知識は役に立たず、一から勉強しなおし、ということになる。

 まあ予習なので難度はそれほど高くないのだが、問題は学校以外でやたらと多忙な高町恭也のほうだった。

 その主な事柄を挙げるなら、妹との山篭り、姉的存在を訪ねる渡英、馴染みに会いにいく神戸行き、学業を本業とするならば副業になる仕事、などなど。

 今年に限って異様に詰まっていた予定を消化し終える頃には、カレンダーは既に残り数枚になっていたのである。

 そして、案の定、宿題はかなり残っていた。


「………こんなものか」


 一通り資料を集め終わった恭也は、自分の左手にあるものの重さではなく量にため息を吐いた。

 今日中に化学を終わらせ、夜から数学、同時に妹に古典文学を読ませ………

 思わず眩暈を起こしてしまった恭也だった。


「………やるか」


 ただ遠いものを目指すのはある意味慣れている恭也。

 千里の道も一歩から、を胸に彼は歩み始めた。

 ところで―――


「っ」


 ――――彼は本を抱えたまま疾駆に移った。

 その先には、台から落ちる少女の姿が。

 恭也でも背伸びの必要がある高さの本を台に乗って取ろうとして、その重さにバランスを崩したのだろう。

 頭のすぐ後ろを、取り落としたらしい分厚い堅い本が、落下している。


(間に合う、な)


 彼女からの距離、自分の速度による判断。

 高町恭也がその種の判断を間違えることはほとんどない。


「っと」


 そして間に合ったにも関わらず、何故か恭也は顔を顰めながら少女を受け止めた。

 落ちる時、声も出さず、顔色も変えなかった少女を。


 片手で少女の小さな体を抱きかかえる。

 体重はなのはと同程度、おそらく年齢もその位だろう。

 だが覗き込んだ顔は、笑顔の多い妹と違い、無表情だった。

 無愛想な恭也をよく評する言葉は枯れているだが、枯れていると言うよりも渇いているとでも言うべきかもしれない、彼女の瞳は。


「………立てるか?」


 腕の中の少女に問うと、彼女は恭也の胸に当てていた顔で頷いた。

 足から降りられるようにコントロールしながら、しゃがんで少女の体を解放する。

 膝を着いた状態で改めて向き合った少女は、やはりなのはと同じくらいに見えた。


「………………」


 向かい合う少女と恭也。

 一人は目を伏せ、もう一人はその目を追う。

 沈黙する両者だったが、沈黙のまま片方が動いた。


「!」


 ゆっくりと少女に近づく恭也。

 そして先ほどまで少女を抱えていた右手を上げ


「!!」


 軽く、だが痛みは感じるように彼女の頭を小突いた。

 呆然と見上げてくる少女と再び目を合わせる。

 そして


「高い所の本を取るときは、誰かに頼むといい」


 口に出したのはそんなことだった。


「あっ、はい」


 返答は速やかに返ってきた。

 その瞳にも多少の力が戻っている。

 それを確認した恭也は、床に落ちていた分厚い本を拾い、少女に突き出す。


「それじゃ」


 言い残して恭也は己の席に向かった。

 彼の前に立ち塞がるのは、原子番号に化学式。

 強敵との戦いに赴くその顔は、決意に満ち溢れていた。


「はぁ、先は長そうだな」


 ………決意に満ち溢れていた。



































 アリサ・ローウェルは館内を動き回っていた。

 その手には先ほどの本はない。

 通りがかった職員に頼んで、戻してもらっていた。


 館内を走るのは厳禁、それでもアリサは小走りで館内を動き回っていた。

 目標は先ほどいきなり自分の頭を小突いた、片手にだけ本を持った男。

 抱えていた本の中に貸し出し禁止のものがあったので、おそらくまだ館内にいるだろう。

 早く見つけて、


「………とりあえずお礼、かな」


 久しぶりの先に対する期待、それがアリサの足を軽くしていた。

 弾むような足取りで進むアリサ。

 そして図書館の一角、机の集まった勉強コーナーを覗くと、そこには目的の人物が座っていた。


 手に持つのは、金属のペン。

 その視線は、じっと机へと向かっている。

 傍目から見ても集中しているのが分かる彼は、しかし急に顔を上げ


「ん」


 まるでこちらが見ているのを知っているかのように、アリサと目を合わせた。


「………えっ」


 本棚の間から僅かに顔を出したまま止まる美少女。

 周りの視線を若干集めるものの、頬の赤さは、そのためではないだろう。


「どうかしたのか?」


 怪訝そうな、それでいて彼女にとっては得がたい優しげな目が、アリサを迎えてくれていた。

 止まってしまったものの、その目に惹かれるように歩みを再開する。

 ゆっくりと確実に近づいていき


「…ええと……その……あの………さっきは、ありがとう、ございました」


 久しぶりの感情の赴くままの言葉は、恥ずかしくなるほど途切れ途切れで、


「……どういたしまして」


 返ってきた飾りのない言葉は、ひどく嬉しかった。

 激しい感情の振幅に振り回されていることを自覚しながら、いつものように制御しようとは思わない。

 ただしそんな状態でも、その希代の頭脳は全開で動いており、状況判断を続けていた。


「………えっと………あれ?」


 会話を続けたいのだが、ここは図書館勉強コーナー、私語禁止の区域である。

 移動させるのも難しい、などと思いながら机を覗き込むと、彼が書いているノートが目に入った。

 妙に滑らかに崩れている字で書かれているのは化学式。

 見慣れたアルファベットの羅列がきっちりとした直線で結ばれているのだが………


「あの………そこ、違ってます」


「………えっ」


「その原子、6ですから分解すると、こっちとくっ付いて………」


 その説明は雪崩の如く、止まることを知らずに解答を飲み込んでいった。


「………それとこっちはこうで………………………………………………でこれがこうなります」


 細腕には重過ぎるペンのせいで、字はあまり綺麗とは言えなかったが、それでもノート上には解答が並んでいる。

 全問完答解答完璧、この程度の問題を間違えるアリサ・ローウェルではない。

 しかしペンを返すアリサは、僅かに驚愕を露にしている顔を見てしまった。


(………………………………やっちゃった………)


 無言で唇を噛み締める。

 歯が柔らかな唇に食い込んで痛かったが、それよりも湧き上がる後悔の念のほうが強かった。


 異常な能力は、正負に関わらず忌避を生む。


 それはアリサが経験上、痛いほど分かっていることである。

 そのまま悔やみから諦めへと、経験が導く。

 そしてまたいつものように………


「助かった。ありがとう。………それで」


 見上げた先には、一目で分かる期待の顔があった。


「今日、時間、まだいいか?」


「は、はい」


 答えて空いている隣の席に登る。

 さっきよりも近くに、期待の顔があった。


「と、名前も聞いてなかったか………」


「アリサ。アリサ・ローウェルです」


「恭也。高町恭也だ。よろしく」


 恭也。

 高町恭也。

 染みとおっていく名前の持ち主に、アリサは笑顔で


「よろしくお願いします、恭也さん」



































 大きな窓から景色が流れていた。

 見慣れた町が近づいてきている。

 高町恭也は現在、電車で移動中だった。


「次で降りるから」


「はい」


 連れは一人。

 図書館であった救いの女神、アリサ・ローウェルという名前の、妹と同じ年の少女である。


 隣に座ったアリサは、まさに救いの女神と言うのに相応しいものだった。

 女神の前に敵はなし。

 化学式は次々と倒れていき、もしかして時間が余ったら、というか飽きたらやろうと思っていた数学もあっさり全滅。

 敵陣の壊滅は昼を少し過ぎた頃だった。


 珍しくはっきり分かる笑みを浮かべながら、荷物をまとめた恭也。

 ご機嫌の勢いでアリサを食事に誘って、了承の返事を得たので、近場で食べようと思っていたのだが………


「この辺りの店は、よく分からないんだが。どこか良い店を知っているか?」


 恭也がそう切り出したのは、図書館を出て二十分ほど経ってからである。

 その二十分間、恭也が先導する形で、二人は図書館周辺を歩き回っていた。


「すいません。私もよく知らなくて」


 二十分間、同じ道を何度も往復するなど、無駄に歩かされた挙句の恭也の台詞だったが、アリサからは怒りは特に感じられない。

 我慢強い子だな、と感心しながら、恭也は知っている店があると提案した。


「ここから電車で三駅なんだが、そこでもいいか。交通費は、もちろん俺が出す」


「………良いですけど………。電車代もご飯代も自分で出します」


「礼なんだから、素直に奢られてくれたほうがありがたい」


「…分かりました。お願いします」


「よし」


 そうしてようやく行き先を決めた二人は、駅へと向かった。


「翠屋と言うのだが、知らないかもしれないな」


「あっ、そこなら聞いたことあります」


「そうか。それは光栄だな」




『海鳴ー海鳴ー』


 アナウンスと共に電車が速度を落とし、ドアを開いた。

 先に降りたアリサに続いて、荷物を二つ持った恭也が降りる。


「私の分まで持ってもらっちゃって………大丈夫ですか?」


「ああ」


「あと………どうして両方とも左手に持ってるんですか?」


「癖みたいなものだな」


 応対が無愛想になっているのは自覚しているが、それでも何故かアリサは嬉しそうだった。

 そのアリサの左斜め後ろに位置取って、階段を降り、改札を抜け、商店街を通り、目指す店に辿り着く。

 店先には店主がいないことを祈りながら、翠屋のドアを開け


「いらっしゃ………あーー、恭也が女の子、ナンパしてきたーーー」


 祈りは届かず。

 腕利きパティシエに迎えられ入店した恭也は、溜息と共にランチセットを二人分注文した。


「かしこまりました♪」


「あと、母さんのお勧めの甘いものを。会計は………」


「そんなことよりも、ちょっと若いけど、こんな可愛い子、何処で知り合ったのよ」


「ちょっとな」


 母親には言えない出会いを誤魔化しながら、窓際の席にアリサを座らせる。

 そして水を取ってくる、と立ち上がったところで………一瞬、窓の外を一瞥した。

 鋭く、そして冷たい目で。





「へー、アリサちゃんってなのはと同じ学校だったんだ。そう言えば、なのはからそんな話を聞いたことがあったような………」


「うん。前に一回話したよ」


 楽しそうに話す少女と母に妹、彼女は妹と同じ学校だったらしい。

 自分よりも遥かに話せる二人によって、恭也はアリサ・ローウェルについて、知識を仕入れていた。


 アリサ・ローウェル。

 名前からも分かるように、彼女は日本人ではない。

 五歳の頃に、両親と共に日本に渡ってきて………そして両親を事故で亡くした。

 その後、孤児院に引き取られたアリサだったが、今は養父母の元で暮らしている、とのことである。


 そのアリサ・ローウェル、彼女はこう呼ばれていた。

 IQ200の天才少女。

 だから恭也の宿題如き、敵ではなかったのも当たり前だろう。


(その辺か)


 気になったのは二点、IQ200と言葉少なく養父母を語るときの彼女の仕草。

 そして店の外には………


「母さん、そろそろ仕事に戻ったほうがいいと思うぞ」


 夏至を過ぎた今、日は徐々に短くなっている。

 衰えることを知らない風情の太陽も既に沈み始めていた。

 入店4時間、なのはが合流して3時間、そろそろ時計が18時を示している。


「それで、母さん。今日、アリサを家に泊めるけど、構わないか?」


「えっ?」


「大歓迎よ。ね、なのは」


「うん」


 突然の展開に戸惑うアリサの脇で家族の話は進んでいく。


「アリサ、家には俺が連絡しておくから」


 混乱覚めやらぬうちに、携帯電話を――母が選んだもので色は青である――取り出し番号を聞きだす。

 そして短縮ダイヤルから、別の番号を呼び出した。


『恭ちゃん、どうかしたの?』


「美由希、今何処だ」


『家だけど』


「なのはともう一人、迎えに翠屋まで来てくれ。それと………」


『それと?』


「一式、装備しとけ」


『! ………了解』


「なるべく早めに頼む」


『分かった。すぐ出る』


「ついでに夕飯は城島さんに声をかけてみてくれ。ダメだったら帰りに買い物を頼む。当番じゃないのに悪いが、今晩は忙しくなりそうだからな」


『あっ、だったらわた――』


「お前は絶対に触るな」


『うぅ〜、ひどいよ、恭ちゃん』


「いいから触るなよ。それじゃ、任せた」


『了解しました、師範代』


 弟子に連絡を取り、準備完了。

 なのはに美由希が迎えに来るまで、ここにいるように言っておいて席を立った。


「………恭也さん」


「上手くやるから、心配しなくていい」


 不安そうに見送るアリサの頭を軽く撫で、恭也は翠屋を出た。

 ただし店の入り口からではなく、裏口から。


「早めに、片付けるか」



































 商店街の建物には隣との隙間がある。

 その隙間はごみ置き場などとして利用されているのだが、翠屋から少し離れたそこには人が溜まっていた。

 素行の悪さが一目瞭然な集団。

 しかし奇妙なことに、様々な色に染められた髪に対して、その服はあまり目立たないものだった。

 そんな十代から二十代の男性6名の集団は、煙草を吹かし、飲み終わって、灰皿にしていた缶を蹴り飛ばし………


「店の近所でゴミを散らかすのは、止めてもらおうか」


 突然かけられた声に、一斉に立ち上がった。

 表通りからではなく裏から現れたのは、全身黒ずくめの………先ほどまでアリサ・ローウェルと一緒にいた男――高町恭也。


「………お前」


「アリサなら、今晩は家に泊まっていく。朝から付けまわしている辺り、何が用があるんだろうが………代わりに俺が聞こう」


 返答は言葉ではなく行動によってなされた。

 次々と取り出される警棒、手持ちナイフ、スタンガン。

 それら全てがあの少女に向けられることになっただろう凶器たちだった。


 獣じみた声を立てて、スタンガンが迫る。

 両脇は空き店舗と本日休日、表通りには人一人分ぐらいしか通れないように、冷蔵庫が置かれている。

 だからこそ音を気にせず、走ってきた。

 相手が誰かも知らずに。


「逝けよやぁ!!」



 獣じみた声は嘲笑を含んだ言葉へと変わる。

 一日、炎天下に晒されたストレスをぶつけるつもりなのだろう。

 そして火花が散り………


「………ぉぉぉぉ」


 激痛が走ったのは右手。

 その痛みに喉を震わせるも、口からは僅かな空気しか出なかった。


【裏蛇破山・朔光】


 拳を受け流し、人体中最大の急所の一つ、鳩尾に肘を打ち込む。

 しかも今回は受け流しの際に、飛針で掌を貫いている。


 唯一の弟子にも教えていない裏の技。

 その一つが【裏蛇破山・朔光】である。

 それを使うほど恭也は、怒っていた。

 眼前の獣どもを睨みつけ、冷然と告げる。


「聞きたいこともあるが、その前に、全員痛い目にあってもらう」


 暴力に慣れた、他人を傷つけることを躊躇わないだけの素人たちが、たった一人の前に全員伏せったのは、その後すぐだった。





「………………………火影さんをお願いします」


 頬に付いた血を拭いながら、恭也は左手に持った黒い武骨な携帯電話で会話を始めていた。

 足元に転がっている男たちからは既に必要なことを聞き出している。

 あとは、処理するだけだった。


「………………不破です。お願いしたいことがあるのですが」



































 アリサ・ローウェルの高町家滞在は、既に三日を過ぎていた。


 朝、なのは・美由希と共に並べてある布団から起き、揃って朝ごはんを食べる。

 昼、二人と一緒に翠屋でランチを食べ、そのまま商店街を歩く。

 夜、恭也の宿題を終わらせながら、なのはと美由希の勉強を見る。

 そんな日が続いていた。


 恭也がいないのが不満ではあったが、それでもこれはまるで夢のようで………しかし夢はいつか覚めるもので………

 幸せと不安を抱えながらの三日目の夜、アリサは恭也の部屋に呼ばれていた。


「すまない。なのはと話していたのだろう」


「いえ、それはいいんですけど」


 珍しい和室で、出された座布団に正座しているアリサ。

 目の前に座る恭也に合わせてだが、形の美しさとしては完敗である。

 背筋のしっかり伸びたその姿は、どこか完成したような印象を受け、出されたアイスティに手を付けることもなく、アリサはじっと恭也を見ていた。


「どうだ、家に来て三日経ったが?」


「楽しいです。なのはも美由希さんも桃子さんもいるし。それに………」


 この家の人間は全員、アリサの全てを認めてくれていた。

 少女であることも、IQ200という能力も。

 それにここには、恭也がいる。


「そうか」


 そこで言葉を止めると、湯気立つ湯飲みに静かに口を付けた。

 そして


「アリサ」


「はい?」


「家に来る気はないか?」


「………………………………………」


 聞きようによっては、プロポーズの言葉。

 驚きに身を固めていたアリサだったが


「家のことなら心配はいらない。母さんにも既に話して許可は取ってある」


 なるほど、高町家で暮らさないか、という提案だったらしい。

 残念と言えば残念だが、ここで暮らすのはとても嬉しいことである。

 だが………


「本当に嬉しいんですが………でも私………」


 アリサ・ローウェルに自由はない。

 彼女は、今の養父母に、買われているのだから。


 孤児院からアリサを引き取った養父母は、とある財閥の流れを汲む、50代の夫婦だった。

 実子が一人、その実子が既に成人したために、孤児を引き取ることにしたというのが、表向きの理由だったが………

 アリサは自分が買われたことを理解していた。


 引き取られたアリサは、対外用の名目として聖祥女子に入学。

 同時に、研究所へと叩き込まれた。

 IQ200の天才、それが生み出す価値は計り知れない。

 事実、アリサによって生み出された利益は既に、彼女に掛かる費用とは桁違いになっていた。

 その利益は全て、養父母の元へと流れ込んでいる。


 自由もない日々、しかしアリサには帰るところなどなかった。

 両親は既になく、親戚などもなし。

 引き取られた孤児院にも、もう戻れない。

 アリサを引き取ってから、院は養父母の会社から支援を受けているのだから。


 院を恨むつもりはない。

 院の経営は順調とは言いがたかったのを、アリサは聞かされていた。

 そして養父母は………嫌悪もするが逆らうことは出来ない。

 いくら道具として使われようも、恨めない院は裏切れなかった。


 だから、アリサ・ローウェルはあの人間たちのところに、戻るしかない。


「これを」


 断りの言葉は、恭也の差し出した一枚の紙に遮られた。

 勧められるままに読み勧める。

 難解な言い回しに、読みやすいとは言い難い書式だったが、難なく読み進めると


「………………これって………………」


 内容を要約すると、養父母のアリサの親権放棄、社会奉仕の一環としての援助の継続、などなど。

 つまりアリサを縛っている鎖をあらかた断ち切る、そんな書類だった。


「………どうして?」


「亡くなった父が顔の広い人でな、その伝で手を回してもらった。それに三日かかってしまった」


 三日かかったというが、三日しかかからなかった、というべきだろう。

 たった三日の間に、自分を調べ上げ、あの二人と交渉し、全面的に要求を呑ませた。

 目の前の恭也が、底知れなく見える。


「それで、どうだ?」


「………どうして」


 だが恭也に対する恐怖など芽生えない。

 芽生えたのは疑問、それを口にする。


「どうして、ここまでしてくれるんですか?」


 その質問は予想していたのだろう。

 真面目なモノから苦笑へと表情を変え、そしてまた元に戻った。


「恩を受けたら、全力を以って返せ。よく、そう言われたからな」


「そんな大したことは………」


 あれは恩と呼ばれるようなことではない。

 しかし、恭也はアリサの言葉を、静かに遮った。


「何を恩と呼ぶかは、個人次第だ。少なくとも俺は、アリサに感謝している」


 そしてペンをアリサに差し出す。

 あの書類は、アリサのサインを以って、有効となる形式だった。


「ずいぶん勝手なことをしてしまったが、受け入れるかはアリサに任せる」


 受け取ったペンはずっしりと重かった。

 その重みによってペン先が、書類に近づいていく。


「………………………恭也さん」


「なんだ?」


 自分がこれほどの恩返しをされるほど、大したことをしたとは、今でも思えない。

 だが、望んだモノが目の前にある。

 ただそこはあまりにも眩しくて………


「私、ここにいてもいいんですか?」


「………ああ。俺は歓迎する。それに」


 唐突に無音で立ち上がり、音も立てずに移動し始めた恭也。

 そしていきなり襖を開け放つ。


「美由希、気配の消し方が甘い」


 そこにはバツの悪そうな顔の美由希と、楽しそうな桃子と、嬉しそうななのはが並んでいた。

 恭也、美由希、なのは、桃子、家族が揃っていた。


「もちろん大歓迎よ、アリサちゃん。明日、みんなで買い物に行きましょうね♪」


「二学期から一緒に登校しようね」


「もちろん私もだよ」


「だそうだ」


 視界が滲んでいく。

 泣いている。

 それを自覚すると、涙は止まらなかった。


「ううぅぅぅ」


 顔が固く、暖かいものに押し付けられる。

 その暖かさに、あの時、抱きかかえられた感触が蘇り、涙はしばらく止まりそうもなかった。

 そんなアリサの頭を撫でながら、


「これから、よろしくな」


 こうして、アリサ・ローウェルは高町家の家族になった。

 そして―――



































 ―――今も、アリサ・ローウェルは高町家で、楽しく暮らしている。

 なのはと一緒に学校に通い、桃子の翠屋を手伝い、美由希から護身術を教わる日々。

 それは夢のようで、でも当たり前だと言ってもらえる日々だった。 


「恭也〜。早くいこ〜」


「………ちょっと待ってくれ」


「ダメ。時間が勿体ないから」


 そして、今日は恭也とのデートの日だった。


「まだ店も空いてないと思うが」


「いいの、空くのを待つのが楽しいんだから」


 恭也の手を家から連れ出す。

 桃子に見送られて、目指すは海鳴駅。

 今日は一日中、恭也を独占できる日である。


「今日は臨海公園には行かないからね」


「別に構わないが。………カレーは美味しいと思うんだがな」


「そういう問題じゃないんだけどね。ってカレーは絶対嫌だからね」


 最近、恭也の周りの男女比が、急速に傾きつつあった。

 いかに恭也が朴念仁だとしても油断できない事態である。

 ………それでも危機的状況ではないと断言できるのが、恭也の恭也たるところなのだが。


 今、やるべきことは現在の状況を、自分を除き、維持すること。

 そのためにもやるべきことは全てやっておかなくてはいけない。


 そして15歳になったら、一気に攻勢に出る。


「恭也♪」


「ん?」


「ずっと一緒にいようね」


「ああ」


 アリサ・ローウェル

 その姓は、あの養父母からも守り通した大切なものだった。

 だから第一希望に通っても、残したいと思っている。


 高町・R・アリサ


 天才少女の進路希望は、もう書き込まれている。



































 後書き


 風芽丘異伝、外伝、第二段はアリサ・ローウェルがメインになりました。

 とらハを3から始めた自分にとって一番ショックだったのが、彼女でした。

 ですので、1、2ヒロインがメインの異伝ですが、なんとか幸せにしたいと、登場してもらいました。


 内容に関しては、今までにない出会いが見たいと言う希望を頂いたので、必死に考えてこうなりました。

 既に同じような内容のSSが発表されているかもしれませんが、それを参考にしていないことだけは、恭也に誓わせていただきます。

 してたら、二週間以上前に上がってますので………


 作中の【裏蛇破山・朔光】ですが、あくまでもこの話のみでの1発ネタですので、広い心で読んでいただけると幸いです。

 知っている方に対するサービスのようなものだと思ってください。


 忍者少女、天才少女、と続いたので次回も○○少女にしたいのですが、犬耳少女………やめたほうが良さそうです。

 なにかいいものがありましたら、メールかBBSにお願いします。


 それではまた次話で

 では〜







管理人の感想


 希翠さんから外伝SSを投稿していただきました。
 例のシチュエーション募集における、読者さんの意見の結晶です。


 希翠さんの仰る通り、今までに無い出会いかな。
 大抵のSSだと、恭也が助けに入って〜って感じですからね。
 どのヒロインでも同じような展開が多いですし。(それが悪いわけでもないですが

 原作と違い、恭也はかなりのコネを持つ様子。
 気になる名前も出てきましたしね。
 本編でこの繋がりを知った時、某忍者少女はどう出るか。(笑


 しかし桃子さんや。
 アリサは若いのではなく幼いのでは……?



感想は次の作品への原動力なので、送っていただけると作者の方も喜ばれると思いますよー。

感想はBBSかメール(kisui_zauberkunst@yahoo.co.jp)まで。(ウイルス対策につき、@全角)