欠けた月の下で
プロローグ
ゴォォォォォォ
全てが燃え、凍っていた。
野が、空が、家が炎に包まれ、崩れてゆく。
地が、木々が、人が凍った様に動かなくなる。
「僕が……僕があんな事思ったから……」
少年は全てを失った。
少年にとって世界だったもの全てを。
ただ一人の姉すら、冷たくなってゆく。
「悪ぃな……お前には何もしてやれなくて……」
少年の前に立つ男が悲しげに告げる。
少年を助けてくれた人。
しかし、間に合わなかった男だ。
そして、何故かその姿は今、消えかけていた。
「―――まってっ!」
少年は気付いた、自分の願いがかねられた事を。
そして、同時にそれは―――
「せめて、この杖を、それと―――頼んだぞ。
もうお前に払える代償はないが、この子を、頼んだ。
ネギ、元気に育て、幸せにな!」
最後に、杖と召喚の魔方陣を残し、空へと消える。
そこから何かが現れようとしていたが、今の少年にはそれよりも消えかけた男の事のほうが重要だった。
「まって―――
僕を……僕を―――」
その願い、聞き入れよう―――
それから6年後
「卒業証書授与」
宮殿を思わせる建物の広間。
今ここでは卒業式が行われていた。
しかし、日本でみられるそれとは様相が違い、周囲の者の多くは三角帽をかぶり、マントを羽織っている。
そして、卒業生である生徒達も同様だ。
「この7年間よくがんばって来た。
だが、これからが修行の本番だ、気を抜くでないぞ」
卒業生は皆10歳前後の少年少女。
だが、その中で一人だけ他の者とは明らかに年齢の違う少年がいた。
「ネギ・スプリングフィールド君」
「はい」
ネギと呼ばれた少年は祭壇に上がり、白い髪に、長い白い髭を生やした貫禄のある老人、この学校の校長の前に立つ。
「ネギ君、皆とは3年遅れてしまったが、よくがんばったね。
これから、皆に追いつき―――いや、追い越す姿勢でがんばりなさい、君ならできる」
「はい、ありがとうございます」
普通11歳で卒業の筈のこの学校で13歳の卒業生。
ある事故によって3年間勉学を進めることができなかった少年は今日やっと卒業できる。
3年という年齢差で周囲から浮いていたが、これからは努力次第でそれを縮める事ができるだろう。
喜びとやる気に満ちた輝く瞳で卒業証書を受け取る少年、ネギ。
式後、少年はこの宮殿―――学校の廊下で2人の人物と会っていた。
「卒業おめでとう、ネギ」
穏やかに微笑む18歳前後の女性。
金色の長い髪を靡かせる青い瞳の穏やかな美しい女性だ。
「それで、修行の地はどこなのよ?」
少年の一つ上、14歳の少女。
ブラウンの髪を2つに結った紅い瞳の勝気でかわいらしい少女。
2人はネギの姉と幼馴染。
ネギの卒業式に駆けつけてきてくれたただ2人だけの親しい人。
それと、
「……」
何時の間にか少年の足元には一匹の子猫がいた。
首に白いリボンが結われた、黒い毛並みに深い蒼の瞳を持つ猫だ。
「うん、ありがとうお姉ちゃん。
修行の地は今出るところみたい」
先ほど授与された卒業証書を広げる少年。
そこに今、光が走り、新たな文字が示されようとしていた。
「ん〜……日本……先生?」
読み上げ、驚く3人。
その後、校長の下へ確認に行ったり、騒いだが、結局これが少年の進むべき道となる。
だが、この時少年はまだ知らない。
ここから始まる長い長い物語を。
人に語り継がれる事はない、しかし決して忘れられぬ物語が、今ここから始まるのだ。
1ヵ月後 早朝 日本
「ここが日本か〜」
場所は東京、都会の真っ只中を歩く一人の少年が居る。
深紅のやや長めの髪に黒い瞳の15歳前後に見える少年。
本当は13歳なのだが、成長が早く、13歳にして170cmの身長を持ち、少し年齢が上に見える。
そんな少年が薄汚れたコートを羽織、キャンプにでも行ってきた様な装備を背負っている。
更に手には先端が少し『て』の字の様に曲がった、変わった形をした長い木製の杖が握られている。
長さは少年の身長程もある上、かなり使い込まれている様子で柄には白い布が巻かれている。
「さって、後は……」
ゴソゴソ……
ここからの移動方法を思い出していると、背負っているリュックが動く。
そして、程無くリュックの口から黒い頭が出てくる。
出てきたのは蒼い瞳の黒の子猫。
首には白いリボンが結ってある。
出てきた子猫は一枚の紙切れを咥えており、リュックから少年の肩へと飛び移り、紙切れを少年に渡す。
「ありがとう。
……次は電車か。
あ、ごめんね、もう少しリュックの中で我慢して」
「みゃぁ」
少年がすまなそうにそう言うと、黒猫は一言鳴いてからリュックの中へ戻る。
しかも器用にちゃんと蓋まで閉める。
「さって、駅は……」
ザワザワ……
今のやり取りを直視してしまった数名の通行人が固まっているが、少年は気にする事なく移動する。
向かったのは東京駅、そこから少年は更に電車を乗り継いで関東地方のとある場所へと向かう。
麻帆良学園都市 女子校エリア
そこは、広大な敷地に―――いや、一つの都市がまるごと学園になっている場所。
麻帆良学園都市、そこに少年は辿り着いた。
その中でも一番奥地にある女子校エリアの中、少年は一枚の地図を頼りにある場所を目指していた。
「ん〜、それにしても広いなー」
今は朝8時前、周囲には登校する生徒達で賑わっていた。
ここは女子校エリアであり周囲は女性だらけ。
その中で少年はその姿もあって非常に浮いていた。
それでキョロキョロと周囲を見渡していたら少し注目を浴びてしまっていた。
「ん〜……困った。
タカミチに迎えに来てもらえば良かったかな」
直接の知り合いであり、ここに勤務する人の名を呟く少年。
手紙でやりとりして、今日の朝に到着する事だけは伝えてある。
だが、待ち合わせなどはしていないのだ。
とりあえず、職員室に行けば居る筈なのだが、何分広大な学園であり、どの建物に職員室があるかすら解らず、少年は完全に迷ってしまっている。
と、その時、少年は視線を感じた。
とても鋭い、殺意ともとれる視線を。
「ん?」
振り向いた先、人の波の先で金色の髪が揺れたのだけは見たが、それだけだった。
更に、
「あの、そこの貴方」
「はい?」
背後から声を掛けられ振り向く。
すると、そこには女子生徒が立っていた。
緩やかなウェイブの掛かった長く美しいブラウンの髪。
制服からして中等部の筈だが、ずいぶん大人びて見える綺麗な女性だ。
「ここは女子校エリアなんだけど、男の方が何か御用?」
穏やかな顔はしているが、しかし、やはりこんな場所に男が居る事を不思議に思っているのだろう。
それも持ち物も少し普通ではない。
怪しまれるのは当然だ。
「はい、タカミチに……じゃない、高畑・T・タカミチ先生と会う約束をしていまして。
職員室に行きたいのですが、迷ってしまいまして」
だが、少年になんらやましい事はない。
正直に事情を話し、ついでに道も聞いておく。
「あら、高畑先生に?
そうでしたか。
職員室でしたらあちらの建物になります。
ご案内しましょうか?」
「あ、いえ、登校の時間ですからご迷惑は。
建物さえ解れば十分です。
ありがとうございました」
「いいえ」
女性に丁寧に頭を下げる少年。
その紳士的な態度に女性の疑う視線はもうほとんど無くなっていた。
それから言われた建物までやってくる少年。
だが、建物に着いてから気付いた事がある。
「あ、何階か聞くの忘れた。
けど、まあ……あ、すいません」
授業開始前には目的に人物に合わなければならない。
だが、近づいてみて気付いたのだが、この建物は3階まである上にかなり広い。
探し回る時間もあまりないので、人に聞こうと近くを通りがかった女子生徒2人に話し掛けた。
「え、あ!」
「なんですか? その前に、どうして男の人がここに?」
2人の内一人、長い前髪のせいで顔が隠れてしまっている子が驚いたのか逃げるように後退する。
そして、もう一人、黒に近い蒼の髪の少女が下がった子を庇う様に前に出る。
同時に、やはりというべきか、少年を怪訝そうに見る。
更に、背後に視線を感じる、ちらっと見たところ、長い黒髪に鋭い目つきの女子生徒が少年を見ていた。
今の少女の驚いた声が聞こえたのだろう。
「すみません、驚かしてしまって。
高畑・T・タカミチ先生に用事があるので、職員室に行きたいのですが、場所を教えていただけませんか?」
少年は驚かせてしまった少女に対しまず頭を下げ、そして目的を告げる。
「職員室でしたらここの二階です。
二階に上がれば札が出ていますからすぐに解る筈です」
「そうですか、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をする。
道を教えてくれた少女と、驚いた少女、それと後ろで睨んでいた少女にもだ。
「それでは、失礼します」
少女達と別れ、今度こそ少年は職員室に移動した。
職員室
教えてもらった通りに二階に上がり、職員室に入る少年。
「やあ、ネギ君」
入って直ぐに少年の名を呼ぶ者がいる。
短い白の髪、メガネを掛けた30前後の男性。
無精髭を生やし、だらしない様にも見えるが、しかし、それでも尚貫禄を感じる男である。
この男、高畑・T・タカミチ。
この学校の教師であり、少年、ネギ・スプリングフィールドとは旧知の仲の人である。
「タカミチ」
ネギも笑顔を見せて駆け寄る。
だが、タカミチの傍には2人の女子生徒がいた。
長い黒髪のおっとりした感じの少女と、オレンジに近いブラウンの髪をツインテールにした勝気な感じの少女だ。
「高畑先生、この人がお迎えする人ですか?」
「え? 違うでしょう? だって新任の教師って話じゃ」
少年には話が良く見えないが、この2人は新任の教師が来る事だけは知っている様だ。
そして、タカミチが笑みを浮かべながら告げる。
「いや、ネギ君だよ、待っていた人は。
麻帆良学園へようこそ、ネギ先生」
そして、その紹介にネギも応える。
目の前の2人の少女に対し、自己紹介も兼ねて。
「はい。
この度この学校で英語の教師を務める事になりました、ネギ・スプリングフィールドです」
丁寧に会釈するネギ。
同年代では在り得ないほどの完璧な動きだった。
だが、2人の少女にとって、そんな事はどうでも良かったかもしれない。
「ええっ!!」
驚く二人の少女。
特にツインテールの少女の方は声を大にして驚いていた。
「後、君達A組みの担任もやってくれるから」
「あ、それは初耳です」
ついでとばかりに一言付け加えるタカミチ。
それに対し、ネギは無邪気と言える顔を見せる。
だが、
「えええええええっ!!」
ツインテールの少女はことのほか驚いた様で、もう絶叫に近い声を上げた。
それから数分後 学園長室
ネギと2人の少女、学園長の孫娘だという近衛 木乃香と、付き添いの神楽坂 明日菜は学園長室に来ていた。
ネギは着任の挨拶、2人はその後教室への案内役である。
「ふむふむ、そうか。
修行の為に日本で学校の先生を……
そりゃまた大変な課題もろうたのー」
この学園の学園長、近衛 近右衛門。
白の長い髭を持った老人だ。
よぼよぼと言える程の外見なのだが、しかし動き一つ一つに鋭さを感じる。
「はい。
よろしくおねがいします」
「しかし、まず教育実習と言う事になる。
今日から3月までじゃ」
「はい。
やらせていただきます」
「うむ、よろしい」
ネギの真っ直ぐな瞳に、学園長は見た目の年齢など気にする事はなく教育実習生として認める。
勿論書類上の問題として、人にものを教えるだけの能力がある事は既にクリアしているからこそというのもある。
ただでさえ年齢的に子供としかいえないネギが教師など、問題が多い。
そうでなければ、いかに旧友の頼みとはいえ、学園の長を務める者として、そんな者を雇い入れる訳にはいかないのだ。
しかし、ネギなら問題ないと、今ここで断定する。
ネギならきっとこの教育実習も超えて、正式な教師として務める事ができるだろうと。
と、そんな事を考えながら学園長はもう一つ思いつくことがある。
それは、ネギの後ろに控えているかわいい孫娘の事。
「ところでネギ君、彼女はおるかね?
どーじゃな? うちの孫娘なぞ?」
「はい?」
一瞬、学園長の言っている意味が解らないネギ。
だが、ネギが言葉の意味を理解するよりも早く動く者がいた。
「ややわじいちゃん。
さあ、ネギ先生、そろそろ教室にいかんと、ホームルームの時間が終わってしまいますよ」
突如ネギの腕を取ったのは先ほどまで大人しめの子だと思っていた黒髪の少女、木乃香。
祖父、学園長の言葉に対し笑みは浮かべているが、目はあまり笑っていない。
そして、ネギをぐいぐいと引っ張って部屋から出てしまう。
「あ、え?」
「まって、このか」
「ほっほっほっほっほ」
状況が少し理解できないでいるネギと、後を追う明日菜。
そして、学園長は一人愉快そうに笑っていた。
木乃香に引きづられて廊下にでたネギ達。
そこで、ネギ達の前に一人の女性が現れる。
「あら、学園長とのお話はもう終わったの?」
現れたのは長いブロンドの髪を持つ若い女性。
明日菜や木乃香など所詮子供でしかないと言いようがない大人の女性だ。
「しずな先生」
木乃香が女性の名を呼ぶ。
この女性は源 しずな。
明日菜や木乃香達2−Aの副担任である。
やってきたしずなの手にはネギの荷物がある。
結構な重量の筈だが、涼しげな顔で持っている。
「近衛さん、神楽坂さん、ごくろうさま。
始めましてネギ先生。
貴方の指導教員を務めます源 しずなです。
解らない事があったら何でも聞いてくださいね」
優しい笑顔を見せるしずな。
その笑みには大人の女独特の艶が見える。
「ネギ・スプリングフィールドです。
よろしくお願いします」
だが、ネギは無邪気とも言える笑みを持って返す。
興味がない訳でも、魅力を感じ取れなかった訳でもないが、純粋に根がまじめのと、鍛錬の成果でもあったりする。
「ところでネギ先生、住む場所などがまだ決まっていないと聞いたのですが。
あ、その前に着替えはこの中ですか?」
「あ、はい。
荷物ありがとうございます」
しずなからリュックを受け取るネギ。
ゴソゴソ―――
すると、受け取ったその瞬間、リュックの口が一人でに開く―――
「―――っ!」
それに驚く明日菜と木乃香。
だが、次の瞬間。
「ありがとう」
リュックから出てきたのは一匹の子猫。
口にハンガーを咥えた黒の子猫だった。
「アンタ、リュックに猫を入れて移動してきたの?」
「ええ、移動中に落ちたりすると危ないですから」
猫からハンガーを―――真新しいスーツの掛かったハンガーを受け取りながら明日菜の問いに答えるネギ。
猫からハンガーを受け取る事も、その答えも、さも当然の様に。
「飛行機も? てかその猫賢いわね」
「かわええなー」
「綺麗な猫さんですね」
問を重ねる明日菜。
木乃香としずなは可愛く美しい猫の方に目が行っている。
「飛行機は使ってませんよ。
あ、名前はラピスって言います」
「みゃー」
「あ、はい、行ってらっしゃい」
ネギが子猫を、ラピスを紹介していると、ラピスは一言鳴いて窓へと跳び、更に窓から飛び降りてしまう。
ネギはそんなラピスの言葉が解っているかの様にそれに答え、見送った。
「あ、いってもうた」
「見事なジャンプでしたね」
「というか、飛行機を使ってないってどういう事?」
去ったラピスを惜しむ2人と、その前のネギの言葉が気になる一人。
まさに三者三様の反応を見せるのだった。
それは兎も角、
「しずな先生、住む場所はアテがあるそうなので大丈夫そうです。
とりあえず着替えたいので、着替える場所とかありますか?」
「そうね、じゃあ更衣室に。
あ、2人は先に教室に行ってて」
「もう、着替えるなら最初から案内役なんか呼ばないでよ」
「ネギ先生、また後でなー」
文句を言いながら去る明日菜とネギに明るく手を振って去る木乃香。
この2人は対極と言っていいだろう。
「はい、ではネギ先生、こちらです。
まだ時間もありますし、軽くシャワーもどうぞ。
長旅でしたでしょう?」
「そうですね。
流石にウェールズから日本までは長かったですね。
速度には自身があったんですけど、到着はギリギリでした」
2人が去った後、ネギとしずなはそんな会話をしながら移動する。
誰も居ない廊下で。
誰も居ないからこその会話である。
数分後 中等部2−Aクラス教室前
シャワーを浴び、スーツに着替えたネギとしずなが教室の前に立っていた。
ホームルームの時間はやや過ぎている。
だが、新任の教師が来ると言う事で、教室の中はやや騒がしい。
窓から覗けば、ネギから見て一つ上の少女達が大勢居て、教師の到着を待っている。
「これが、僕が担当するクラス……」
ネギが通っていた学校は共学だったので、女性が珍しい訳ではない。
だが、ネギは4歳の頃に抱えたある問題の関係もあり、年上の女性だけの集団と接する様な機会はなかった。
異性の扱いに着いてはイギリス紳士として心得ているが、集団相手となると実戦経験が足りない。
流石に、少し緊張するネギ。
「緊張しますか?」
「はい、少し」
「そう」
緊張するネギを見て微笑むしずな。
その笑みは決して嫌なものではなく、可愛いと思う気持ちと、少しの安堵の気持ちが混ざった純粋な笑みだ。
天才と言われていると聞いたネギも緊張するのだと、やはり年相応の部分もあるのだと、そう言う気持ちが混じる笑み。
「はい、これがクラス名簿です」
「あ、どうも」
しずなから渡されたクラス名簿を開いてみるネギ。
そこには、写真付きでクラス全員の名が記されていた。
31名の生徒の名前が50音順に並んでいる。
これが、タカミチから引き継いだクラス。
クラス名簿には数名タカミチのメモ書きがある。
自分の為であったものと、ネギの為に付け加え部分も見当たる。
それに名簿の左下には『May the good speed be with you,Negi. Takahata.T.Takamich』とある。
そう、少なくとも、ネギを応援する人が居る。
(そう、お姉ちゃんとアーニャも)
国を出る時、姉と幼馴染には立派に修行を果たして帰ってくると約束したのだ。
それに、もとよりこれは自分自身で決めた道。
「早く皆の顔と名前を覚えられるといいわね」
「はい」
名簿から顔を上げたネギは、やる気に満ちた瞳をしていた。
しずなが一瞬驚く程に。
「さあ、入りましょう」
「はい」
コンコン
チャイムはとうに過ぎている為、合図としてネギは教室の扉をノックする。
すると、扉の向こうでは少し慌てながら移動する気配があった。
それが落ち着いたのを見計らい、ネギは教室の扉を開ける。
「失礼しま―――」
フッ
扉を開け、教室の中に入ろうとしたネギ。
だがその瞬間頭上に何かが落ちてくる気配がある、
スッ!
それを、いつもの癖で回避行動を取るネギ。
「―――!」
クラス中が注目する中、落下物を紙一重で避けるネギ。
だがふと見ると、落ちてくるのは黒板消し。
(あっ、これは黒板消しトラップ?
日本にもあるんだ……しまった、わざとでもひっかかった方が良かったかな)
子供がする他愛のない悪戯。
時には成功させてあげるのも教育者の務めだと、国を出る前に教わった。
しかし、トラップはそれだけではなかった。
キィィ
黒板消しを避ける為に前に出した足に何かが引っかかる。
それは縄だと頭で理解するよりも先には動くものがある。
ヒュンッ!
風を切る音が聞こえる。
(これは―――矢か!)
タンッ!
咄嗟にネギは引っかかっている縄をも飛び越える様に前方宙返りをして矢の予測軌道から逸れる。
だが、足に縄が掛かっていたせいで跳躍がやや足りない。
ヒュゥンッ!
と、そこで、窓も開いていないのに風が吹く。
クラスの生徒達はある一定の例外を除き気付かないが、その風で矢の軌道が僅かに変わり、矢はネギに当たらない。
「ん?」
ネギがそんな回避行動を見せる中、ある一人の人物が今の光景を怪訝そうに見ていた。
例外ではない筈の人物で、よほど鍛えていないと見えないほどの僅かな軌道のずれをだ。
しかし、そんな中でもネギの回避行動は続いていた。
ヒュッ!
飛んで矢を回避した先、計算しつくされたタイミングでまた落下物がある。
着地したばかりのネギでは回避しきれない。
だが、
ヒュッ!
ガンッ!
もう一度跳び、今度はその落下物を蹴りながら回避する。
正体は解らなかったが、何であれ受け流すつもりだった。
タンッ
全てのトラップを回避して丁度教壇の教卓の前に着地するネギ。
見事なまでの回避行動であった。
しかし―――
(よく観たら玩具の弓矢にバケツ……
どうしよう、つい癖で避けちゃったけど……よし!)
ヒュゥッ
ネギの回避行動に静まり返る教室。
その中でもう一度風が吹く。
そして、
ヒュゥゥンッ
最後にネギが蹴ったバケツが落ちてくる。
それも、
ガポッ!
ネギの頭に。
丁度ぴったりバケツを被る事になるネギ。
いや―――そう調整したのだ。
「あはははははっ!」
最後の最後で詰めを誤る新任教師に、教室に笑いが木霊する。
(よしっ!)
バケツを外しながら照れ笑いをするネギ。
なんとか上手く行ってほっとしているのだ。
だが、その中、
「ねえ、今バケツが変な軌道を描かなかった?」
「そう?」
一人だけ、最後のバケツの動きに疑問を持った者がいる。
そんなに無理な軌道の変更はした訳でもないのに、それでも違和感を感じた者がいるのだ。
それはオレンジの髪をツインテールにした勝気な少女、神楽坂 明日菜。
「はいはい皆さん、席に着いて」
だが、それでも状況は動いてゆく。
しずなが生徒達を静め、ネギと並ぶ。
「この方が、今日からこのクラスの担任になる新任の先生です」
「ネギ・スプリングフィールドです。
このクラスの担任と、英語の教師を務める事になりました。
3月までの短い間だけですが、皆さんよろしくおねがいします」
「おおおおっ!」
クラスから歓声が上がる。
教台に立ったネギはその身長の高さと整った顔立ちで美青年と言える容姿だ。
年頃の乙女としては思うところもあるだろう。
だが、その中、一部の生徒が違う反応を見せていた。
そして、その生徒はネギには見覚えがある。
(あ、やっぱり今朝の……確か那波 千鶴さんと綾瀬 夕映さんと宮崎 のどかさん、それに桜咲 刹那さん)
クラス名簿の写真を見たときにもふと思ったことだ。
その4名は今朝学園で迷っている時に声を掛けてきた人と、こちらから道を聞いた人、それに後ろで睨んでいた人だ。
4人は、まさか今朝の人がクラスの新しい担任だとは思っていなかったのだろう、歓声を上げる生徒達の中、驚いた顔を見せる。
(それに……エヴァンジェリンさん)
しかし、更にその中でも別の視線を向ける者が居る。
それは今朝感じた視線と同じもの。
殺意にも愛情にも似た視線を向ける者。
美しいブロンドの髪を持つ少女、エヴァンジェリン。
実は彼女の事は事前に聞いている。
彼女は、ネギにとって―――
「ネギ先生、若く見えますけど、おいくつなんですか?」
と、そんな事を考えている間に、質問をしてくる生徒がいた。
今のネギはやや童顔の大学生と言っても通じるくらいの容姿だ。
そして、恐らくクラスの生徒達はそう考えている筈。
そう考えた上で、童顔を突っ込む為の前置きの質問だ。
しかし―――
「今年で13になります」
ネギは正直に答える。
自分の年齢を。
「またまたー」
生徒達は上手く返されたと笑う。
だが、
「本当よ。
ネギ先生は13歳。
ちょっと特殊な事情があってね、こちらで教師をする事になったの」
しずなが補足する。
普段から冗談は口にしても、馬鹿げた嘘は吐かない人だという認識をされているしずなからだ。
ならば、最早クラスの誰もそれを事実だと受け入れよう。
「うそぉぉぉ!!」
当然巻き起こる叫び声。
何せ自分より一つ年下の男の子が自分達の教師をやると言うのだ、驚かない筈はない。
ごく一部の例外を除き、クラス全員が驚愕している。
「これでも地元の大学で研修を受けてきました。
後、英語は大学卒業レベルとして認定も受けてきましたので」
自分より年下の子供が先生など、反対意見が出ない筈はない。
それは解っているからとりあえずネギはまず理論的な確証を述べる。
自分が教師になれるだけの実力があるという証明の一つを。
「ですが、なんで女子中学の先生など……」
一人の生徒が倫理的な問題として問う。
それもまた当然だろう。
そもそもネギは日本で教師をすれば良いというだけなのだから、別に初等部でもかまわなかった筈なのだ。
しかし、それでも、
「これは学園長の判断です。
それにネギ先生が受け持つのは英語の授業ですから」
初等部も英語の授業はあるといえばあるが、中等部ほどの時間はない。
ネギが教師としての仕事をする時間の量を考えての配置でもあるのだ。
「でも……」
流石に易々とは受け入れられない様だ。
まあ、本来なら義務教育で自分達と同様に学生をやる様な年齢の相手だ。
常識的には受け入れ辛いだろう。
だが、
「ネギ先生、先生はオックスフォードに通われていたとか」
静まる教室に凛とした声が響く。
立ち上がり、ネギに問うたのはこのクラスのクラス委員長、雪広 あやかだ。
あやかは雪広財閥の次女であり、所謂お嬢様である。
クラスにどんな新任教師が来るのかは知らされていなかった筈なのに、ネギが通っていた大学を知っているのはその情報網からだろう。
「はい、良くご存知ですね。
校長先生の知り合いの伝手で、短い期間でしたけど」
だが、お嬢様だからとて、知ろうとしなければ情報網があっても意味はない。
何故知ろうとしたかは別として、少なからず興味はもたれていると言う事だ。
ならばと、ネギはその気持ちに応え、柔らかな笑みを持って応える。
「その様ですね。
ですが、それでも語学に関しては卒業の証を立てて良いと言われたほど。
ならば、頭脳は問題なく、見たところ礼節も弁えていられる様子。
でしたら、後は実力を持って教師に相応しいか見させていただきます。
教育実習生として、その判断の大半を握っているのは私達生徒ですから」
あやかはネギに好意的な様に見える。
だが、それとは別に職務として教師を務めるのであれば、それに見合った実力が必要だと言っている。
そう、教えてもらうが、同時に試させてもらう、と。
「はい、僕としても生半可な覚悟でここへ来た訳ではありません。
ですから、もし僕が教師に相応しくないと思われたときは、どうかその様に言ってください。
全力を持って修正し、期限であるこの3月までに、必ず立派な教師になる所存です」
「ご立派です。
皆さんもよろしいですか?」
ネギの応えに笑みを浮かべるあやか。
そして、クラス委員長として皆を纏める。
「おおーー!」
のりの良いクラスの生徒達はあやかの呼びかけにほぼ全員が立ち上がって応える。
とりあえず、反対する者はもう居ない様だ。
「はいはい、話がまとまったところで次の授業は丁度ネギ先生の英語の授業です。
皆さん、授業の用意をしてください」
最後にしずなが閉め、ホームルームが終了となる。
そして、それは同時にネギの初授業の始まりでもある。
「はい、では皆さん128ページを開いてください」
タカミチが残した授業進行状況より、前回の続きから始める。
生徒に指示を出しつつ、ネギは黒板に重要と思われる文法の入った文章をさらさらと書き記してゆく。
「では、この文ですが―――」
書き終わると、生徒達の方を向き直り、書き記した英文を読み上げる。
もとよりイギリス出身で在る為、当然と言えば当然かもしれないが、しかしそれでもない美しいと思える、まるで歌っているかの様な英語の朗読。
タカミチと代わっての初めての授業は、その後滞りなく進んだ。
そんな2−Aクラスに外部から視線が2つの視線がある。
一つは廊下から、長身の男の影が。
もう一つは窓の外から、木の陰に白いリボンを着けた黒の子猫が。
キーン コーン カーン……
教室に終業の鐘の音が響く。
「っと、もう終わりですか。
では皆さん、本日はここまでです」
「きりーつ、礼」
初授業の閉めも通常通り終わり、とりあえず一安心のネギ。
そして、廊下に出ると、
「やあネギ先生。
初授業はどうでした?」
授業を外から聞いていたタカミチがネギに話しかける。
前担任として心配でもあり、ネギがどの様な授業をするのか興味があったのだ。
「あ、タカミチ。
それがちょっと予定通り進まなくって、今時間ある?
少し相談したいんだけど」
「ええ、良いですよ」
それから直ぐにネギは今回の授業内容を振り返り、前の担任であるタカミチを授業の進行について話し合いながらその場を去った。
タカミチはついでにこの学校の簡単な案内もするつもりである。
「あ、高畑先生、行っちゃった」
「残念やったね」
その後、声を聞いて教室から出てきたのは明日菜と木乃香。
明日菜はタカミチと話がしたかったのだが、タカミチはネギにつきっきりの様子。
明日菜としてはそれが非常につまらなかった。
「まあまあ、相手は男性で昔からの知り合いみたいやし」
「そうだけどー」
明日菜が高畑に好意を持っているのは周知の事実。
明日菜はネギの事を睨みながら見送る。
(それにしても、アイツ―――)
だが、誰も気付かないだろう。
ネギを見ているその視線が、ただ単にタカミチに関する嫉妬だけではなく、疑念が混じっている事を。
放課後
ネギがタカミチに学園を案内して貰っている頃。
ネギが受け持った2−Aクラスはあやか主導の下ある計画が動き出していた。
しかし、そんな時、クラスの生徒の数名の前にとある人影が出現する。
それはまずエヴァンジェリンの下に現れた。
そこでだけ、他の者とは違う用件を交えて。
「お前か……」
学園の中にある森。
その中に入ったところでエヴァンジェリンはソレと再会した。
「久しいな、エヴァ」
「ああ―――ラピス」
腰の下まである長く美しいブロンドの髪と碧眼をもつ、エヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェル。
クラスの平均からは20センチ近く身長が低く、幼く見られる容姿をしながら、それでもなお妖艶とすら言える雰囲気を持つ少女だ。
そんなエヴァが対峙しているのは足元まであろうかという長く、そして吸い込まれそうなくらいに美しい漆黒―――いや闇色の髪に蒼い瞳を持つ、端正な顔立ちの美人。
漆黒の髪を結う白いリボンとエヴァンジェリンの名を呼ぶ時の綺麗なソプラノボイスから女性だと思われるが、長身の上に服装は黒の上下と黒のジャケットと男装。
パっと見た目では女性らしさが先立つが、どちらと言われても不思議ではない、そんな姿をした者。
「知っての通り、ネギがここに来ている」
「ああ」
「お前の住処を間借りしたい」
「……は?」
相手―――エヴァンジェリンはラピスと呼んだその者が言った意味が解らず―――いや、言った『意図』が解らず少し間の抜けた声を出してしまう。
何せ、この者は知っている筈なのだ。
エヴァンジェリンとネギ・スプリングフィールドの関係を。
「正気か?」
「ああ」
エヴァの確認に無表情のまま応えるラピス。
そこで、暫しの時間が流れる。
「まあいい。
ところで、飯はお前が作ってくれるのだろうな?」
「構わない。
ついでだから掃除もしてやろう。
どうせネギが先生をしている間は暇だ」
「それはそれは、ありがたいことだ。
いいぞ、ちゃんと部屋を用意しよう。
あの坊やにはせいぜい気をつけるように言っておけよ」
「もう大半話してある」
「そうか」
風が吹く。
2人の間に春に近い冬の風が。
幾ばくかの花びらを乗せた風であり、しかし同時に冷たい風でもあった。
そして、そこからの言葉。
それは、ここからある特定の者に同じく言われる言葉。
それは―――
「そう、一つだけ忠告がある」
他の者の前に現れた時、その時は唐突で、ただ「忠告がある」と。
しかし、それ以外は同一の内容。
それは、準備の為に一人で学園の廊下を歩いていた近衛 木乃香の前に突然現れた。
「お前には失恋の相が出ている」
それは、一切の気配も、しかし何故かそこに居る事が自然と受け止められる不可解な出現をして、準備の前に図書館に寄っていた綾瀬 夕映、並びに同図書館の別の場所に居た宮崎 のどかに告げる。
「それは、途中ですら全てを失いかねない運命とも言える失恋だ」
それは、自然であるが故、人間の世界ではありえぬ存在。
「お前はそれに関わろうとしている」
「……お前、人間ではないな?」
そんな刹那の問いは返ってくる事はなく、予言にも似た忠告は続けられる。
「最早処女の生贄をもってすら払う事は敵わない」
「……それは、どういう―――」
聞き返そうとした那波 千鶴の声はむなしく風に流れて消える。
全てを告げた後は、最初からそこには何も無かったかの様に消えるだけだった。
そして、その予言の言葉は―――
中庭
放課後の中庭。
タカミチに一通り学園を案内してもらった後、ネギは一人中庭で今後の授業の計画を練っていた。
途中、噂が広まったのか生徒達に先生として声を掛けられた事もあったが、おおむね落ち着いて計画を立てられている。
「流石にそう上手くはいかないな。
もう少し余裕をもって授業を進めないと……」
残り1ヶ月の授業。
学年末テストというイベントも控えている為なかなか難しい日程になる。
だが、タカミチは上手く進めていてくれていたので、引きついた後の授業はそう残っていない。
逆に、その残りの授業をどう上手く進めるかがネギの手腕に掛かっているのだ。
「よし、とりあえずこれで、っと」
一旦教科書を閉じるネギ。
そして、次に開いたのはクラス名簿だ。
一通り名前を顔の情報は頭に入れたが、まだこの中から得られる情報はあるだろう。
タカミチのメモ書きも活かせる筈だ。
そう、メモ書き。
今後、ネギは生徒達の情報をこれに書き込もうと考えていた。
クラスの生徒達がどんな人たちなのか、その情報をネギの主観で。
(たった1ヶ月だけど、できるだけみんなの事を知りたいな)
それは目標でもある。
たった1ヶ月で31人もの生徒全員の特徴を掴みきるのは難しいが、初めて受け持ったクラスでもある。
だから、ちゃんと皆の事を理解したいと思っている。
「さて、と……ん? あれは……」
そろそろ移動しようと立ち上がったところで、ネギは掘り下げられている中庭から地上1階相当の位置へ上がる為の階段の上を見上げた。
そこに丁度知った顔が見えたのだ。
「あれは……宮崎 のどかさん」
今朝道を聞いた時に出会った人であり、クラスの生徒だ。
今そののどかが階段の上から下に下りてこようとしている。
だが、のどかは大量の本を抱え、前が見えにくくなっている上に、何か考えて事をしている様子。
「……なんだったのかな、さっきの人、それに……」
先ほど言われた言葉が頭を離れないのどかは、階段にさしかかっている自覚が薄い。
毎日使っている道であるが故に感覚で階段を踏むが、しかしその階段は―――
「危ない―――」
階段の高さは2階相当の高さがある。
その階段の普段落下防止用でもあるてすりがあるのだが、今は交換工事中で取り外されているのだ。
注意書きが立ててあるが、今のどかにはそれが見えていない。
のどかは、階段の端をあるいており、今まさに階段から足を踏み外そうとしていた。
「え?」
いつもなら手すりがある場所に手すりがない。
気付けば踏み出した足は地面を捉えることはなかった。
そして、手に荷物があるのもあり、体重が前へ、そして下へと傾く。
「あっ!」
「いけないっ!」
のどかが落下を自覚する。
そして同時にネギも動く。
だが、ここからでは遠すぎる。
さらに―――
「本屋ちゃん!」
先ほどまで誰も居なかった筈の中庭に声が響く。
それは神楽坂 明日菜の声。
しかし、明日菜の位置も遠く、とてものどかの下へは間に合わない。
(仕方ない!)
バッ!
明日菜が居る事は自覚している。
だが、それより優先すべきはのどか。
ならば、とネギは意を決して杖を握る。
木でできた杖を、のどかに向けたのだ。
「きゃぁぁぁっ!」
地面へと落下するのどか。
着地や受身を取る様な技術も精神的余裕もなく、ただ本能的に身を硬くするだけ。
地面に衝突すれば骨折程度ではすまないかもしれない。
だが、
フワッ!
突如風が吹く。
のどかは自覚する事がないが、のどかの落下を受け止めるような風。
「―――っ!!」
それを見た明日菜は今度こそ確信する。
それは自然のものではないと。
そして、
ダンッ!
地面を蹴るネギ。
だがその速度、大凡人間が出すものとは思えない。
オリンピック選手すら顔負けだろうものすごいスタートダッシュでのどかの落下に割り込み、そして、
ボフッ!
のどかを見事受け止める。
風で落下速度を軽減したとは言え、ギリギリのタイミングであった。
ズザザザッ!
のどかの体重を加え、そこまで飛び込んだ速度を地面をずって減速する。
新品のスーツがボロボロだ。
まあ、人命には代えられないとそれは割り切るネギ。
「あたた……大丈夫ですか? 宮崎さん」
防御が間に合わず、すってしまったところが痛いが、しかし笑顔でのどかの顔を覗き込む。
まだ身を硬くしているのどかに、優しく。
「……え?」
覚悟していた―――いや覚悟などできていないが、それでも来ると思っていた痛みは来ず、代わりにやわらかい何かに包まれた感覚を覚えるのどか。
そして、ふと目を開ければそこにネギの笑顔がある。
何が起きたか、何を起こしてもらったか、それが解るには少し時間が掛かった。
「立てますか?
本が好きな様ですが、一度に沢山持つと危ないですよ」
のどかを立たせ、本を拾い上げるネギ。
そして、まだ明日菜も呆然としているのを見ながら、
「すみません、ちょっと人に呼ばれているもので、これで失礼しますね。
では、気をつけてください」
そう言ってその場から歩き去る。
明日菜の方へと―――
バッ!
と、そこでネギと明日菜の姿が消える。
「え? あれ?」
まだ何が起こったかすら把握し切れていないのどかはまた呆然とするだけだった。
そして、ネギと明日菜は―――
バッ!
「ぐっ!」
ネギと明日菜は先ほどの場所からすぐ傍の雑木林の中に居た。
居た、というより、明日菜は先ほど居た場所からネギに連れてこられたのだ。
ネギに腕をつかまれ、在り得ない程の加速力をもって。
「申し訳ありません。
紳士にあるまじき行為と自覚しています。
ですが―――」
人目が入らない雑木林の中、明日菜はネギに杖を向けられていた。
先ほど風を操った杖をだ。
「貴方―――まさか―――」
超能力か魔法か、どちらかは判別はつかない。
だが、最初に教室に入ってきたときの回避行動と違和感を覚えるトラップの動き、そして最後のバケツ。
怪しいとは思っていたが、今その答えが目の前にある。
「はい、僕は魔法使いです。
ですが、一般の方に魔法を見られてそのままにする訳にはいきません。
記憶を消させていただきます。
どうか、抵抗しないで―――」
ゴゴゴゴゴ……
空気が揺れる。
明日菜にはまだ解らないが、魔力が回路を描き、精霊が集まってきているのだ。
「記憶をって、ちょっと―――」
目まぐるしくまわる状況と情報。
混乱する明日菜は向けられた杖に対し本能的に腕で身を護ろうとする。
しかし、
「消えろ!」
ブワッ!
発動される魔法には無意味な行為―――
「え?」
フッ……
の、筈だった。
しかし、魔法が消える。
明日菜の目の前で、ネギの魔法が。
見る者が見れば解っただろうが、完璧な術式持って編まれた強力な記憶操作魔法が、まるで最初から存在しなかったかの様に消滅したのだ。
「レジスト?! いや、違う、これは―――
神楽坂さん、貴方は一般人じゃなかったのですか?」
今の現象に驚愕しながらも冷静に分析するネギ。
不測の事態に備え杖の構えは解かないが、明日菜は少なくとも一般人ではないと認識を改める。
「え? な、なに?」
だが、明日菜は余計に混乱するばかり。
一体今何が起きたのか、サッパリ解らないのだ。
「とぼけている、という訳ではありませんね。
ならやはり記憶は消させていただきます。
抵抗しないでください、下手に抵抗すると精神が破壊してしまいますよ」
事実という脅しをかけながら、もう一度―――先ほどよりも強力な魔法を編むネギ。
「え、ちょっと、ま、まってよ!」
ネギの脅しに更に混乱を極める明日菜。
しかし、身体は逃げ出そうと体勢を整えている。
運動神経が良い為か、反射的にそう言う行動に出てしまっているのだ。
「お願いですから、抵抗はしないで!」
逃がすまいと魔法を向け、標的を定めるネギ。
「まって!」
逃げる明日菜。
だが、それでもネギの照準からは逃げられない。
と、そんな時だ。
「ネギ」
声が聞こえた。
綺麗なソプラノの声が。
「え?」
そして、その声の方を振り向くと、何時の間にか綺麗な長い黒髪に蒼い瞳を持つ人―――男装をしている中性的な美人が立っていた。
「ラピス」
現れた者をネギは『ラピス』と呼んだ。
しかし、明日菜の記憶が正しければ、その名は確かネギがリュックで連れていた猫の名前だった筈。
そんな事を思い出しながら、助かったと思われる現状に、その場にへたりこんでしまう明日菜。
だが、状況は未だ不明点が多く、動き出す事はままならない。
「止めておけ、ネギ。
無駄だ」
「無駄って、やっぱり神楽坂さんは……」
2人がなにやら話しているが、言葉が少なく明日菜には意味不明の会話。
とても現状を把握する材料には足りない。
しかし、それでも状況は流れていく。
ラピスと呼ばれた者が明日菜を向き直る。
そして、告げた言葉は―――
「久しいな、アスナ―――」
知らない、記憶にない人が明日菜の名を呼ぶ。
記憶にないのに、どこか懐かしい声で。
「貴方は―――」
思い出そうとする明日菜。
だが、その前にラピスは止める。
「止めておけ、そして今見たこと全てを忘れろ。
魔法で消してやる事はできんが、見なかったことにする事はできる筈だ。
さもなくば―――」
「さもなくば?」
「お前はやっと手に入れたもの全てを失ってしまうぞ」
無表情のまま、しかし何処か悲しげに告げられた言葉。
それは明日菜にとって意味不明で、しかし何処か楔にも似て心に刺さる言葉だった。
「どういう……こと?」
やっとの思いで立ち上がり、ラピスと向き合う明日菜。
しかし、その問いには答えは返らず、ラピスは更に忠告を重ねた。
「先の忠告と重なるが、お前にも一応言っておこう。
―――アスナ、お前には失恋の相が出ている」
「はぁ?」
大凡この場と何の関係があるのか解らない言葉だ。
しかし、それでも聞かなければならないと思える言葉。
「それは、途中ですら全てを失いかねない運命とも言える失恋だ。
お前はそれに関わろうとしている。
最早処女の生贄をもってすら払う事は敵わない」
静かに、しかし深く楔の様に心に捕らえて離さない言葉が告げられる。
それは、ある特定の人物に同じように告げられた言葉。
しかし、アスナには最後に付け加えられる言葉があった。
「だから、お前はネギに関わるな。
今の幸せを信じたいなら、魔法のことは全て忘れ、思い出すな」
「何を―――」
それだけを返すのでやっとだった。
ラピスの瞳を、その深い蒼の瞳を見ながらでは言葉が出ない。
そしてまだ自覚もしていない。
アスナにとって、もう始まっている事を。
最早変えられぬ運命は、もう止められぬ運命は始まってしまったのだと。
人に語られる事はない、しかし決して忘れられぬ物語が始まる。
一人の少年と少女達によって織り成される運命という残酷な言葉で始まる物語が。
幸いという僅かな可能性を探す旅路が、ここから―――