かつて、
統一言語師
(
マスター・オブ・バベル
)
と呼ばれた魔術師が存在した。彼は協会の中でたった十年でマスタ
ークラスへと上り詰めた人物である。
しかし、その存在は不明瞭とされている。魔術協会の
学院生
(
魔術師
)
やアトラスの学院でも彼の姿を
見た者はいない。故に、彼は名前だけが存在している幽霊であると疑われた。
それは、大きな間違いである。彼は存在し、生きていた。神話の時代を再現できる魔法使い
に一番近い魔術師は、確かにこの世界に存在していたのだ。
―――――
偽神の書
(
ゴドーワード
)
。それが彼の魔術協会での名前だった。
彼は、決して他人を傷つけない。それは魔術師である者にとっては信じ難い事である。が、
彼が人を傷つけないのは当然だろう。
傷つけない、ではなく“傷つけられない”。
偽神の書
(
ゴドーワード
)
と呼ばれる彼は言葉しか口にする事の
出来ない、魔術師にあらざる魔術師なのだから。
彼は魔術師の家系に生まれたわけでもなく、両親の片方が魔術師であったわけでもない。ご
く稀に、生まれる事のある変異的な体質遺伝者である。
しかし、本来ならば彼は魔術に関わる事なく過ごす筈であった。幼い時から神童と呼ばれ、
親からも愛され幸せに暮らしていた彼が何故、魔術に関わる事になってしまったのか。
それは、彼が十歳の頃に伝承に伝わる幻想種……妖精に拐された為に彼は自分の『過去』を
『再認』できなくなってしまった。それを治療する為に、彼は魔術を習い
統一言語師
(
マスター・オブ・バベル
)
とい
う称号を受けた。
……だが、いかに魔術を極めようとも彼の『過去』の『再認』能力が治る事はなかった。
……人間の記憶とは、『銘記』、『保存』、『再生』、『再認』と言うの四大機能から成り
立っている。それをビデオテープとビデオデッキの機能に当てはめて考えると……
その人物が見た映像、物事を『脳』という名のビデオテープに録画しラベルを貼る。これが
『銘記』。
そして、それを紛失……忘れないようにテープ入れに入れるように大切に保管する。これが
『保存』。
もし、その記憶が必要になった時には脳の中にあるビデオデッキでその記憶を読み込む。こ
れが『再生』。
最後に、その記憶した内容が以前見た内容と一致するかを確認する。この最後の機能が『再
認』である。これが、人間の記憶の四大機能だ。
このどれか一つでも機能しなくなれば、それは一般社会の人々から見れば記憶喪失という一
つの病気と認識される。では、彼も記憶喪失であるのか?
そうとも言え、違うとも言える。彼の日常生活を見る限り、何も問題は見えないように見え
る。だが、そこに致命的な見落としがあるとすれば?
彼は人の姿を、言葉という情報でしか記憶出来ない。髪型、背丈、目、顔の配置、服装……
そういった事柄を全て『言葉』として彼は記憶している。
例えば……そう、仮に少年Aと言う人間が彼の目の前にいると仮定しよう。少年Aは髪を短
く切っており、服装は彼の通う学校の制服を着込み背丈は百八十と一般より高い。さらに、彼
は足を怪我しており左足をギプスで固めている。これらの情報を全て、
偽神の書
(
ゴドーワード
)
は言葉として
記憶した。
しかし、暫くの後に少年Aが現れると彼の足の怪我は完治し髪の毛を切らずにいたため肩ま
で伸びきっている。服装は変わらず制服だ。
丁度そこに少年Bと言う少年が現れる。彼の姿は少し前の少年Aの姿とまったく同じ。この
時点で、彼にとって『少年A』とは情報の変わった少年Aではなく新たに現れた『少年B』な
のである。少年Aは『少年B』として彼に記憶された。
無論、彼らによって情報が入れ替えられれば、本当の少年Aである彼は『少年A』に、偽り
の少年Aは『少年B』となる。
これらの事から分かるように、彼は別に『再認』能力が欠如しているわけではない。ただ、
彼は自分の持つ記憶が分からないだけ。
妖精に拐かされた、と先程述べたがそれには少々語弊があり、本当は彼は妖精を皆殺しにし
てしまい彼らの呪いをその身に宿してしまったのだ。
これは、その
偽神の書
(
ゴドーワード
)
と呼ばれた彼が、唯一自分自身の記憶と確信できるある出来事の回想
録であり、彼が人間らしくあれた出来事の回想録である。
正義の味方と統一言語師
――“自己”が欠けている二人が出会うとき、彼らは何を感じるのか……――
これは、冬木市にて第五回聖杯戦争が起こる一年前の出来事である。
「衛宮殿、また出会おうぞ」
「あぁ。気を付けて帰れよ〜?」
軽く苦笑しながら、冬木市の中で一番大きく有名である穂群原学園の一年生……衛宮士郎と
いう青年はクラスメイトである後藤礼二と校門前で別れた。
彼の背丈は一般男子高校生より少々小さく、燃えるように赤い髪の毛が映えるごく普通の男
子生徒である。
「さて……商店街で夕飯の買出ししないと……」
今時の若者は自炊する事が少ない中、彼は下手をすれば主婦顔負けの家事スキルを身に付け
ている。掃除、洗濯、料理……果てに行けば、物の修理などもこなせるある意味貴重な存在の
青年だ。
「藤ねぇが暴れないように、最低限満足させられる夕飯にしなきゃな……」
衛宮士郎の姉代わりとも言うべき存在である、藤村大河。通称藤ねぇ。別名、冬木の虎とも
タイガーとも言われる穂群原学園の教師。
数年も前、大規模な火災によって全てを失い孤児となった士郎にとって唯一残っている家族
……と言っても過言ではない。
さらに、最近では後輩である間桐桜という少女も衛宮家に出入りするようになり夕飯を用意
する量が増えた。もっとも、別にそれが嫌というわけでもなく寧ろ誰かに料理を食べて貰える
ので嬉しかったりするのだが。
「そういえば、今日は桜来れないって言ってたな……。よし、藤ねぇと桜の為に江戸前屋のド
ラ焼きでも買い置きしといてやるか」
少年のような笑顔を浮かべて、士郎は深山商店街の道のりを歩いていく。
……しかし、彼にはその家族である二人にも秘密にしている事がある。決して打ち明ける事
はなく、自分が死ぬまで永遠に秘匿しつづける秘密。
(今日の魔術鍛錬は長い間出来そうだな……)
――――衛宮士郎は、魔術師である。
魔術師とは科学では到達し得ない神秘を扱う者、理を以って情を殺す者。裏の世界に生き、
決して表舞台に立つことはない日陰者。もし自らの存在が一般人にばれてしまえば、証拠隠匿
の為に記憶を消去するか殺すヒトデナシ。
「あ、親父さん。鴨肉あります?」
「よぉ、衛宮の坊主。夕飯の買出しか?」
「はい。今日は鍋にしようかと思って」
……なのだが、とてもこの青年がそんなヒトデナシの魔術師であるとは思えない。サービス
してもらい、通常よりも安く上質の鴨肉を手に入れられ上機嫌に次の買い物を続けようとして
いる彼を見る限り、彼が本当は血も涙も無い冷酷な人間なんだと言われても大部分の人間は信
じないだろう。
あらかた夕飯の為の買い物を済ませて、予定していた江戸前屋のドラ焼きを購入しようと店
にやってきた時、士郎は見慣れない男性と江戸前屋の主人が困っている姿を発見。
「お金が足りているかどうかぐらい、予め確認しときなよ……」
「はぁ……すいません。でも、如何しましょうか……」
どうやら、ドラ焼きを買いに来たお客さんのお金が足りない模様。困っている人を見捨てる
なんて、衛宮士郎と言う人間には出来ない。
二人へと近付き、士郎は――――
「あの、なんだったらその代金俺が立て替えましょうか?」
『え?』
驚きの表情をした二人の視線を真っ向から浴びた。しかし、江戸前屋の主人は士郎の姿を確
認すると納得したように頷く。
「ですが、よろしいのですか? 見ず知らずの私の為に、代金を立て替えるなんて……」
士郎の事を知らない客人は、申し訳無さそうに士郎の申し出を断ろうとしたが……彼の言葉
を江戸前屋の主人が遮る。
「お客さん、この子は一度言ったらがんとして自分の言葉を覆さないよ。ちゃんと返すんだろ
う? なら、人の好意は受け取っときな」
……それに説得されたのだろう、客人は微かに微笑みながら士郎の好意を受け取った。
代金を立て替えた後、士郎もドラ焼きを七つほど購入した。その男性と共に深山商店街を抜
ける。
「どうもすみません。ご迷惑をおかけして……」
「別に構いませんよ。困った時はお互い様って言いますし」
その場で二、三ほど言葉を交わした後に二人は別れた。
買ったばかりのドラ焼きを一つ頬張りながら、士郎は先程の男性の姿……正確には彼の浮か
べた笑顔を思い浮かべる。
(あの人の笑顔……どうして、親父と似ているなんて思ったんだ……?)
彼の浮かべた笑顔が、衛宮士郎の父親……養父であり魔術の師でもある衛宮切嗣が死ぬ間際
に彼に見せた笑顔と同質のものであると感じた。
小さな疑問を抱いたまま、衛宮士郎は家路に着き夕食を作りいつものように集りにきた藤村
大河と食事を取った後、日課である魔術の鍛錬をし風呂に入ってその日は眠りについた。
―――――――夢は、見なかった。
新都にあるホテル。その一室の部屋に、衛宮士郎と出会った彼の姿があった。手には読んで
いる途中と思われる本。題には『世界の言語……古代ギリシャ語』と書かれている。
「……」
ふ、と息を吐きぱたんと本を閉じる。目を閉じ静かに瞑想を始める。
……頭に思い浮かべるのは自らが記憶した言葉、言語、情報……それらだけであった。しか
し、今日に限り夕方にあったあの青年の事が片時も頭を離れない。
背丈は一般高校生より若干小さく、燃えるように赤い髪の毛を持ち、人が良さそうな青年。
ただ、それだけの筈なのにこんなにも印象に残るのは珍しい。
いや、それどころか自分が言葉という情報ではなく“彼”個人として脳に記憶する事など今
までに一度も無い。
「……ふむ、これは如何した事でしょう。別段、私の記憶能力が完治したわけでもないのです
が……」
疑問を解く術を、今の彼は持たない。全ての鍵を握るのは、今日出会ったあの青年だけ。し
かし、彼とは再会の約束を交わした訳ではないし人の出会いというのはそれこそ奇跡が起こる
ような確率で生まれるものだ。そうそう何の必然性もなく、今日出会ったばかりの人とまた出
会う事など起こり得ない。
―――しかし……今の彼は思う。否、確信していた。彼とは、必ずまた出会う事になるだろ
うと。
「借りたお金の事もありますし、ね」
誰に言うとも無く、苦笑しながら彼は笑う。
士郎や他の人に対して浮かべていたどこか空虚な笑みではなく、彼も気付かないような微か
に感情の篭った暖かい笑みを。それに気付かぬまま、彼は眠りについた。
―――――――夢は、見なかった。
翌朝。妙に早い時間に目を覚ました士郎は、朝食の時間まで魔術の鍛錬を行おうと毎日の鍛
錬場所である土蔵へと来ていた。土蔵の中に放置してあった鉄パイプを手に取り、精神を統一
し目を閉じる。
「
同調、開始
(
トレース・オン
)
―――」
自己に埋没する為の呪文を唱える。
父親であり、魔術師でもあった衛宮切嗣から反対されながらも士郎は魔術を習った。その時
からほぼ毎日休まず続けてきた鍛錬を開始する。
まずは、魔術回路の形成。魔術を行使する為にはこの魔術回路がなくては始まらない。体の
中に異物を流し込むような激痛と気持ち悪さが士郎を襲う。
「っ―――」
毎度の事ながらこれに慣れる事など出来そうに無い。気を抜けば狂いそうになるし、もし魔
術回路の形成に失敗しようものなら後に待つのは死のみ。
魔術師は、常に死と隣合わせに生きているのだ。
「――――基本骨子、解明」
無事に魔術回路の形成に成功し、鉄パイプの基本骨子を読み取り始める。手に持った部分か
ら、鉄パイプの先に至るまでの構造が設計図となって士郎の頭の中に浮かび上がる。
「――――構成材質、解明」
鉄パイプを構成している物質を解明する。しかし鉄パイプと言うのだから全てが鉄で出来て
いるのだ、解明するまでもない。今までの行動に、何も問題は無い。しかし、問題は“これか
ら”だ。
「――――構成材質、補強」
鉄パイプの強度をさらに引き上げる。これが衛宮士郎の使う……いや、使える魔術の一つで
ある『強化』だ。己の内に流れる魔力を対象へと流し込み、強度を補強する……のだが、士郎
はこの『強化』すらまともに出来た試しがない。
「―――っ、
同調、遮断
(
トレース・オフ
)
」
そして、今回もどうやら成功しなかったようだ。息も乱れ、体中には無理な魔術行使をした
為、多量の汗が流れている。
はぁ、はぁ、とマラソンを完走した後のように息を整えようとする士郎。
そんな士郎の耳に、屋敷の門が開く音が聞こえた。
「……やばっ、もうそんな時間か」
慌てて汗を拭き、自室へ戻り服を着替えて日常へと戻っていった。
夕暮れに光を浴びる深山商店街のすぐそこにある公園。その公園に一つだけあるベンチに、
彼の姿があった。何をするでもなく、目を瞑ったままそこに座っているだけ。その彼に、近付
く一人の青年。
衛宮士郎である。
「どうも」
「やぁ、君ですか。先日はどうも」
まるで待ち合わせをしていたかのように自然に会話を始める二人。別段、昨日ここで会おう
と話し合ったわけでもなく、二人が出会ったのはまったくの偶然である。
しかし、互いに『必ずあの人と出会う事になる』と心の中で確信していた。
「まずは、昨日のドラ焼きの代金です。ありがとうございます」
「別に、あれぐらい良かったんですけどね。ご丁寧にどうも」
ドラ焼きの代金を士郎へと返し、彼の心残りはこれで全て終わった。しかし、このまま彼と
別れるのは酷く後ろ髪を引かれる。それに、個人的に士郎に興味が湧いているのも事実。
「不躾ですけど、君の名前を聞いてもいいですか?」
そして、気がつけばそんな事を言っていた。
彼から放たれた言葉に、士郎はきょとんとした表情を見せる。てっきり、このまま帰るもの
とばかり思っていた。だけど、心のどこかで彼ともう少し……先日感じたあの切嗣と同じよう
な笑顔の違和感の正体が分かるまで話していたいと思っていたのも事実。
「士郎、衛宮士郎と言います。あの、そちらのお名前は……?」
この青年の名は、衛宮士郎と言うのかと心の中で反芻する。衛宮、という姓に何か引っかか
りを感じたがそれを表に出す事なく彼はその質問に答える。
「玄霧皐月。それが、私の名前です」
そう言って彼……玄霧皐月はにこりと微笑んだ。どこか、何もない虚空を見つめているよう
な悲しい笑顔で。
それは衛宮士郎の養父であり魔術の師であった衛宮切嗣が死ぬ直前に士郎に見せた、笑顔と
限りなく似ており……同じだった。
――――皐月という人は、教師らしい。
何でも、各地の学校という学校を点々とし今度もまた、別の学校に赴任する事となったと言
う。興味が湧いた士郎が、その学校の名前を尋ねると『浅上礼園女学院』というお嬢様学校ら
しい。
訊いた事がない、名前だった。今日の夜にも、藤ねぇにでも訪ねるかと士郎は考える。
「それで、その学園に赴任するまでにまだ時間があるのでね。ふらりと旅行まがいの事をして
いるんですよ」
はぁ……と士郎は生返事を返す。自らの父親と少し似ている行動に、士郎は小さく笑う。い
や、その笑いは苦笑に近かった。
「衛宮君はこの近くの学生ですか?」
皐月の疑問に、士郎は頷く。納得したように、皐月が微笑んだ。
――――やはり、どこか空虚なままの笑みで。
「やはり穂群原学園の生徒でしたか……、それならばその学園に葛木宗一郎という教師がいま
せんか?」
ふと、訊く事がないと思っていた名前が皐月の口から出てきて士郎はへ、と一瞬呆ける。あ
まりに突発的に放たれたその言葉に、思考が一時固まった。
……葛木宗一郎。穂群原学園の教師で、倫理と世界史、さらに進路指導まで請け負っている
超人のような男だ。
「えぇ、葛木先生なら知ってますけど……知り合いなんですか?」
士郎の問いに、皐月はえぇと頷く。
世界というのは、広い様で狭いんだなぁと士郎は思う。まさか、偶然出会った人から身近な
人の名前を訊く事になるとは思いも寄らなかった。
「ちょっとした知り合いでしてね……昔、交流があっただけでそれほど親しい訳ではないです
が」
そうですか、彼がここに……と皐月は小さく頷く。そんな彼の行動に、士郎は軽く疑問符を
浮かべる。
だが、知り合いがそこにいるのだと認識しているのだと思いすぐに納得した。
「……衛宮君、君は妖精という幻想種を知っていますか?」
暫くの沈黙の後、突然そんな事を言い出す皐月に士郎はまともに反応する事が出来ない。驚
きが大きすぎて、反応が出来なかった。
―――幻想種。その単語は魔術師の間で使われる単語の一つだ。少なくとも、一般の人間が
知っている単語ではない。かく言う士郎も、それほど詳しい訳ではない。死んだ父親からその
ような話を聞いた事があるだけだ。
「……妖精って、その、御伽噺とかで良く聞く小さな人間の事ですか?」
妖精という名前は知っているが、詳しくは士郎も知らない。魔術の基礎もちゃんと出来てい
ないのに、そこまで気にする余裕がないのだ。
「そうです。具体例を挙げるとすれば、
小鬼
(
ゴブリン
)
や、
赤帽子
(
レッドキャップ
)
等が有名でしょうね。彼らは悪戯
が大好きで、昔は良く子供のすり替えや小さな子供がするような悪戯を度々行っていたそうで
す」
他にも、うさぎの死体を家の周りにばら撒くなど少し度が過ぎる悪戯も行っていたという伝
承が、西欧の方で語り継がれていると言う。
子供のすり替え、という所で士郎が軽く眉を顰める。悪戯にしては、ちょっと悪質すぎると
思ったようだ。そんな士郎の表情を読み取った皐月は、また薄く笑う。空虚な笑みで。
「確かに、子供のすり替えというのは悪意があるように思えます。だけど、彼らにそんな感情
はないのですよ。損得勘定……と言えばいいのですかね、彼らはそういった概念を持たず、た
だ楽しそうというだけでそれを行うのです」
皐月の言葉に、士郎は少しだけ納得する。つまりは、まだ何も知らない純粋な……世界の全
てに悪人はいないと思っていた頃の子供のような心を持ってるのだ、その妖精達は。だから、
悪意も何もなくただ面白そうだというだけで、悪戯をする。
ただの悪戯小僧。それが妖精なのだろう。
「彼らはね、エイエンなんです」
「……エイエン?」
皐月が不意に呟いた、エイエンと言う言葉を聞いて士郎は疑問に思う。妖精がエイエンだと
はどういう事なのだろうか。何より、エイエンとは何なのだろう。
――永久に変わらない事象。変化がなく、ずっとそのままの状態である事。それがエイエン
だと思われる。人間は成長していく。幼年期、少年期、青年期、成人期、老年期……そして最
後には死を迎える。
これはエイエンではない。なら妖精は、とそこまで考えて士郎はある事に気付く。
――――妖精の心は、ずっと子供のような何も知らないように純粋のまま。ならば、それは
エイエンなのではないか。
皐月が言ったのは、きっとそういう事なのだろう。妖精はエイエン……つまり、永久に心は
子供のまま止まり続ける。だから、皐月は妖精をエイエンだと言った。
それを皐月に言ってみると、大部分が当たりだと述べる。大部分という事は、何か抜けてい
る事があるという事だ。しかし、何があるというのか。
「彼らは確かに無邪気ですが、自分達に危害を加えた者に対しては冷酷です。それは、私が身
を持って体験していますから」
……身をもって、体験しているとはどういう事だろうか。それではまるで、皐月が妖精に危
害を加えたような言い方ではないか。
否、もしかすればそれが本当の事なのか。
「皐月さん……」
士郎の戸惑いと訊いていいものかという迷いを含めた声に、皐月は薄く笑う。そして皐月は
静かに語りだす。かつて、神童と呼ばれた自分が行った殺戮の話を。
――おいで、おいで
呼ばれる。少し外に遊びに出ただけなのに、気がつけば見知らぬ森の中に自分はいた。どこ
をどう歩いたか、なんてまるで覚えていない。いや、そもそもそんな記憶などあったのかさえ
危うい。
彼はふと、これが良く耳にする『神隠し』という奴なのかなと思う。だが、神隠しにあった
のなら意識なんて残っているのだろうか。そもそも神なんて不確定な者、存在しているのかど
うかさえ分からないというのに、非科学的だ。
――おいで、こっちにおいで
また、呼ばれる。だけど、別にそういった神秘的な存在を全否定する気はない。世界には確
かにそういう神秘があったという確実な証拠が残っているのだ、頭ごなしに否定する要素は何
もない。
――さぁ、おいで。ボクたちといよう
何かがずっと、頭に語り掛けてくる。彼はそれに誘われるように、深い深い闇の中……木々
に覆われた森の中を一直線に歩き続ける。そして闇が晴れ、彼の目の前には……
光の中で踊る、小さな、小さな妖精達の姿が現れる。
無邪気に空中を飛び回るその姿は、幻想的の一言に尽きる。深い森の中だと言うのに、どう
いう仕組みなのか空から光が差し込み、妖精達が飛び回る場所を明るく照らし出す。それはと
てつもなく美しい光景であったが、彼は美しいと思う前に別の感情を抱いていた。
得体の知れない物を目にしている恐怖、という感情が。
――さぁ、君もボクたちとエイエンでいよう
誘うように、歌うように妖精達は彼に語りかける。蠱惑的な誘いに、彼は一瞬そのまま妖精
達とエイエンでありたいと思う。だが、彼には帰る家があるのだ。今も、彼の帰りを待ってい
る両親がいるはず。
だから、妖精達の誘いには乗る事は出来ない。
「ごめんなさい、君達のお誘いには乗れない」
僕には帰る家がある。だから、君達と一緒にいることはできないんだと彼は妖精達に説明す
る。これで妖精達も分かってくれる。後は、ここから家までの帰り道を訊けば―――
――ここはエイエンだよ。もう進む事はない。ずっと止まっていられる。
だが、妖精達は彼の言葉など聞こえていないように彼を誘い続ける。エイエンだ、ずっとこ
こにいよう。君もエイエンになるんだ。ほら、早くきなよ。
延々と、延々と彼を誘い続ける妖精達。いつしか、少ししか感じていなかった恐怖が彼の中
で大きく膨れ上がる。それが限界に達した時、彼は一気に今まで通ってきた道を走り戻った。
――何処へ行くの。君はエイエンになれるのに
暗闇の中から、妖精達の声が響く。声の調子は先程までと変わらないが、恐怖に襲われてい
る彼には自分を責めているように聴こえ、それが恐怖に拍車をかける。
がむしゃらに、周りにいるうるさい虫を追い払うように両手を大きく振り回しながら彼は止
まる事なく走り続ける。
――もう無理だよ、君は戻れない。君が戻りたかった場所へは、もう二度と、戻れない
そんな声が聞こえた。
そして、いつしか妖精の声も聞こえなくなり、彼の目の前には自分の家があった。安堵感に
包まれながら、彼は家のドアのノブに手をかける。
ぬるっとした感触がした。
「……?」
ドアノブから手を離し、彼は手を裏返す。鉄製のドアノブには、真っ赤なペンキが塗りたく
られており、彼の手にも同じように赤いペンキが塗られていた。
――――否、それは赤いペンキではなく、真紅の血。彼の両手は真っ赤な血に染まり、ぬら
ぬらと光っている。後ろを恐る恐る振り返る。
そこには無残に血に伏せる妖精達の死骸。数え切れないほどの数が、彼が今まで通ってきた
道に築かれていた。地面には、妖精の体から流れ出た夥しい量の血液が散乱している。
妖精達が最後に言った言葉が脳内に響き渡る。
“もう無理だよ、君は戻れない。君が戻りたかった場所へは、もう二度と、戻れない”
――あぁ、確かにそうだった。家から出てきた彼の両親たちは、得体の知れない血で両手を
真っ赤に染めた息子の事を、気味が悪い者を見つめるように見ていた。妖精達が言ったように
彼はもう、『彼が帰りたかった』場所へは戻れなかった。
戻ってきたのは、彼を化け物のように見つめる冷たい眼差しの両親がいる、まったく知らな
い家だったのだから。
皐月の話を聞き終わった士郎は、何と言っていいのか分からず沈黙し続ける。そんな士郎を
皐月は、じっと眺めていた。
この話には、まだ続きがある。皐月は、その後神童であった時の頭脳を失くし記憶障害を煩
った。そして両親から捨てられ日本のある夫婦の元へと引き取られ、そこで自分の記憶障害を
治癒する方法として魔術を学び、神童としての知能を取り戻し魔術協会から
統一言語師
(
マスター・オブ・バベル
)
と
いう通り名を授かった。それでも、記憶障害が完治する事はなかったのである。
ここまで来て、皐月は衛宮と言う言葉から『
魔術師達の天敵
(
マジシャン・キラー
)
』の情報を引き出した。聞き覚
えがあると思えば、有名な魔術師殺しの衛宮切嗣の姓だったのかと納得する。という事は、目
の前にいるこの青年は魔術師なのだろうか。それにしては、血の匂いがまったくしない。皐月
の
情報
(
知る
)
限り、魔術師というモノは血の匂いをさせているものだ。
「衛宮君、君は魔術師なのかい?」
「……っ!?」
嘘がつけない人だ、と皐月は思う。こちらを驚いたように見つめる士郎の表情は、雄弁に自
分が魔術師であるという事を語っている。衛宮士郎、魔術師、優しい人……そんな情報が自分
の中に刻まれていく。
「……皐月さん、貴方は……」
「はい、君や衛宮切嗣と同じ魔術師です。尤も、私は一般の魔術師とは違う、はぐれものです
けどね」
切嗣以外の魔術師と初めて出会った士郎は、そんな皐月をまじまじと見詰めてしまう。こん
な人の良さそうな人が、魔術師……魔術師というのは、ロクデナシばかりだと切嗣は言ってい
たが信憑性がなくなってきた。
それにしても、切嗣は魔術師としては有名だったのだろうか。皐月は切嗣の事を知っている
様子。しかし、悪い気はあまりしない。誇るべき父親が、有名だと少しばかり嬉しいと思うの
は息子として当然の感情だろう。
「私は魔術を自分を直す為に習いました。しかし、結局直す事は叶いませんでしたが」
にこりと皐月は笑う。その笑みが、またもや衛宮切嗣と笑顔と重なる。何かが士郎の中で詰
まっている。この笑顔は……そう、何かを諦めてしまった笑顔だ。
「衛宮君。君は、衛宮切嗣の息子さんですか?」
「……いいえ、俺は切嗣の本当の息子じゃなくて、養子なんです」
先程と入れ替わるように、今度は士郎が自らの過去を話し始める。決して許されることはな
い、自分が永遠に背負い続ける事になる罪の話を。
――――辺り一面、赤い色で埋め尽くされている。そんな中、少年は満足に動かす事の出来
ない体を引き摺りながら、ただ前に向かって歩き続ける。
平穏だった日常は、一瞬にして地獄のような非日常と化した。辺りは一面、火の海。数多く
建っていた家は全て炎で燃え上がり、家の残骸の下からは呻き声が響いてくる。助けてくれ、
熱い、苦しい、痛い、腕がない……そんな声が少年の耳に途切れ途切れ聴こえる。
火の手は未だに衰えず。助けを求める声を振り払い、少年は歩き続ける。その背後で延々と
呻き声は響き続け、来るはずのない助けを呼び続けている。その声が、助けようとしなかった
自分を恨んでの怨嗟の声に少年には聴こえた。
そんな事はある筈がない。例え助けようとしても、このような小さな少年に大人や何百人と
いる人間を助ける事が出来るだろうか。出来る訳がない。誰にもこの少年を責める事などでき
はしないのだ。彼とて、自らの命を繋ぎとめる為に歩き続けている。本能で、死ぬ事を拒否し
ている。自分を助けて崩れ落ちる家に押し潰された、父親と母親と分まで生き続けなければな
らない。それが、自分に出来る唯一の事だから。
そして、彼は生き続ける限り、あの呻き声を自分を責め続ける怨嗟の声として背負い続ける
事になるだろう。それは少年の良心が生み出した、自らに課すべき罪。少年の目は、虚ろにな
りただただ前へ進んでいく人形になる。
そして少年は、空に浮かぶ黒き太陽を目にする。この災厄を引き起こした原因。今も全てを
焼き尽くさんとする炎を統べる、地獄の主。それが空に浮かび、少年のいる地上を見下ろして
いる。
目にして、初めて分かる。あれは、明確な意志を持ってこの惨状を引き起こしている。ぎり
っと少年の歯から歯軋りが鳴り響く。この惨状を引き起こしたあの原因に対して、明らかに怒
りを覚えている。
――ユルセナイ、ユルセナイ、ユルセナイ。あれがお母さんとお父さんを奪った。そして皆
を奪った。だけど、自分だけが生きている。それが、ユルセナイ。
いつしか、許せないと思うようになったのは自分。かくして、少年の思考は地面に溢れかえ
るようにして湧き出た黒い泥に飲み込まれて消えていった。
話を終え、士郎は黙り込む。自分の過去を話したのは、もしかすれば皐月が初めてかもしれ
ない。自分の過去を知っているのと、話すのとは別だ。こうやって自分からすすんで過去を話
すようになれたのも、もう随分と年月が経ったからかもしれないと士郎は思う。
「……そうして、俺は親父に――切嗣に拾われて、助けられました。あの災害で、助かった数
少ない人間の一人だそうです。俺は切嗣に引き取られて、無理を言って魔術を習って、親父の
夢だった正義の味方になる事を約束して親父が逝くのを見届けました」
今の尚、正義の味方になるという夢をつかめていない。だけど、切嗣の夢であった正義の味
方に憧れた。だから、切嗣の叶えられなかった夢を、息子である自分が果たす。それが、今の
自分の生きている意味。そして、過去の罪の贖罪にはならないとしても、助けられる人全てを
助けたい。士郎はそう皐月に零した。
「……」
空虚な笑みを浮かべていた皐月は、いつしか表情から笑みが消え、自分が何故この少年の事
を覚えられたのかの答えに辿り着いた。
――彼は、私と同じ。自分の中に、自分がない。私は自分の記憶が分からない。彼は、生き
る意味を失って、養父の夢を叶えることによって生きる意味を見出した。そこには、自分など
ない。
皐月は、この時初めて衛宮士郎という少年に共感を覚えた。彼は、自分と同じ。経緯は違え
ど、自分というモノがない人。衛宮士郎という少年の事を覚えたのは、ある意味必然だったの
かもしれない。
だけど、決定的に違うところも存在する。それは、“気付いているのと気付いていない”と
言う事だ。
皐月は自分がないことを知っているが、士郎は気付いていない。もしかすれば、気付かない
振りをしているのかもしれない。それを教える事も可能だ。しかし、自分から言うわけにはい
かない。自分で気付かなければ、意味が無いのだから。
「――いつか、その夢が叶えられるといいですね」
だから、皐月は士郎にそう言った。それを聞いた士郎は嬉しそうに、頷いた。そうして二人
は別れ、二度と会うことはなかった。
――皐月さんは、親父と同じだ。士郎は心の中でそう思った。
彼が浮かべていた笑み、あれは諦めている笑みに見えた。それは、切嗣が事ある毎に浮かべ
ていた笑みにとてもよく似ているのだ。もう、叶うことがないのだと思っているような笑み…
…士郎はそんな笑みが嫌いだった。
そんな笑みを見ると、切嗣の事を思い出し酷く悲しくなる。皐月が浮かべていた笑みも、諦
めの入った笑み……だが、中身がない。そう、中身がないのである。
笑っているのではなく、『ただ、そういう風に顔を動かしている』だけ。そこには感情も何
もなく、思いも意味も何もない。口を歪めて、目を細めている。他人からすれば、それは笑み
を浮かべているという事になるのだろう。
しかし、結局本人からすれば笑っている自覚などない。否、笑ってすらいない。皐月の笑顔
は、まさにそれに当て嵌まる。これが、衛宮切嗣と玄霧皐月の決定的な違い。同じ諦めた笑顔
を浮かべていながら、彼らは決定的に違う。
「……悲しいよな、そういうのって」
自室の畳に転がって天井を見上げながら呟く。玄霧皐月は、これからもずっと―――死ぬと
きまであんな虚ろな笑みを浮かべ続けるのだろうか。誰にも理解されず、誰にも気付いてもら
えない無表情の笑顔。
「あぁ――――それは」
なんて―――――孤独な事なのか。玄霧皐月は、誰の目からも微笑んでいるように見える。
それ故に、彼の本質には誰も気付けはしない。皐月はそれを受け入れて、これからもあの無表
情なままの笑顔を浮かべ続けるのだろう。そのまま、エイエンに。
皮肉なことだ。衛宮士郎は知らない……玄霧皐月が、エイエンを求めている事に。彼の求め
るエイエンなど、どこにでも溢れているというのに。彼はそれを知らぬまま、これからも生き
続ける。
「……………っ」
衛宮士郎は、玄霧皐月の行く末を思いながら静かに、静かに腕で顔を覆いながら涙する。そ
うして彼は眠りにつく。遠い先の未来――――自身の辿り着く理想の果てを、知らぬまま。
――――彼が玄霧皐月の、魔術師としての名――
偽神の書
(
ゴドーワード
)
――を知る事になるのは、彼が理
想に裏切られた暫くの後の事である。
衛宮士郎と玄霧皐月の出会いから一年後。
衛宮士郎は聖杯戦争へと巻き込まれ、自分の愛した金色の少女との永遠の離別を経験する。
玄霧皐月は浅上礼園女学院の一室にて、自分の求める答えを見つけて静かに死を迎える。
彼らはたった一度の邂逅を果たし、二度と出会うことはなかった。玄霧皐月は答えへと辿り
着き、満足げに……衛宮士郎は自身の理想を駆け抜け続け、裏切られ続けて絶望を味わいなが
ら死んだ。この邂逅が、彼らの心に何を思わせたかは彼らしか知りえない。だが、少なくとも
この出会いが無駄であった事はないだろう。
玄霧皐月と衛宮士郎は、互いに出会えて良かったと思っていたのだから。
END
後書き
Fateと空の境界のクロスオーバー。と言っても、登場人物は衛宮士郎と玄霧皐月の二人だけ
なのですが。萌えとはまったくほど遠く、ただただシリアスな雰囲気を作っていました。少し
ダークな所もあるかな、とは思いますがシリアスでしょう。
さて。この二人には共通点があると自分は思います。作中でも書いたように、自己の欠落。
衛宮士郎はそれを自覚せず、玄霧皐月はそれを自覚している。Fateをプレイし、空の境界を読
破した限りでは、自分はそう思うのです。もしかすると、ただの勘違いかもしれないのですが
……それだと話が成り立たないので気にしないように。
蛇足しておくと、Fateはセイバールートで終わっています。空の境界はまったく同じ。玄霧
皐月と葛木宗一郎がちょっとした知り合いというのはオリジナル設定です。詳しくは作ってい
ないので、聞かれても困ります。この作品を書き始めたのはもうかなり前なのですが、ずっと
放置していてこりゃまずいとという事で書きあげました。ちょっと無理矢理に書きすぎたかな
……という不安が残っていますが、面白いと思っていただければ幸い。
出来れば、感想欲しいです。では、次回の作品は何かは分かりませんがよろしくお願いいた
します。
管理人の感想
神薙 祐樹さんから短編SSを頂きました。
シリアスな話ですね。(何
私は「空の境界」を読んでいないので玄霧皐月なる人物についてはよく知らないのですが。
傍から見ていると、この自己の無い2人の邂逅は痛々しいですな。
士郎はそこらへん無自覚だから特に。
玄霧皐月が衛宮士郎から感じた事を、士郎自身も分かれば後の展開も変わったのかもしれませんね
まぁ正義の味方を目指したままの士郎じゃ分かるはずもありませんが。
業が深いな原作士郎。(苦笑 2人ともこの邂逅が幸いだと思えていた事だけは良かったのでしょうね。
神薙 祐樹さんSSありがとうございました。
また機会があれば、投稿していただけると幸いです。
感想は次の作品への原動力なので、送っていただけると作者の方も喜ばれると思いますよー。
感想は
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か
BBS
まで。