これが僕らの生きる道 〜ルック編〜
元々大した期待はしていなかったけど、それでも大幅に自分の人生が狂ったのは両親が離婚してからだとルックは
確信していた。
こんな風に言うと「お母さんが恋しいのね」とか「双子の兄弟がバラバラに育つなんて寂しいわよね」なんていう鬱陶し
い同情を引きそうだが、ルック自身は別に母親や兄のササライと離れて暮らすことは何とも思っていなかった。むしろ
頭が良いくせに詰めが甘くてどこかのほほんとしている兄に神経をイライラさせられるよりはずっとマシだと思っていたく
らいだ。
所詮人間は一人で生きていくものなのだ。
だからそれに関しては構わない。
ただ問題だったのは、母に対する意地から親権を主張してルックを強引に引き取った父親に子供の面倒を見る時間
がないことだった。(いや、本当の問題はその後からやってきたのだが……)
『別に一人暮らしだって全然構わなかったんだ。ちゃんとお金さえ振りこんどいてくれれば』
本当に、今でも当時のことを振り返るともう少し何とかならなかったのかと悔やまれてならない。
父は男手一つでルックを育てなければならなくなって正直どうしたものかと困り果てていたらしい。そりゃそうだろう。
海外勤務が多くてろくに家にも帰れないのだから(それが離婚の一因だったくせに)義務教育期間中の子供を引き取れ
ばどうなるかくらい分かりそうな物である。
『つまらない意地や見栄で振り回されたら堪らないよな』
しかも今度の赴任地はお世辞にも治安が良いとは言えない国なのだ。父も困るだろうが、付いてこいと言われる子供
の方も困るのである。もっとも治安が良かったとしても、気温と湿度のメチャメチャ高い国なんて頼まれたって行く気もし
ないルックなのだが。
『せめて高校生だったら一人暮らしも認めてもらえただろうに』
こんな煩わしい思いをするくらいならサッサと自立したかった。
本当に小さな頃からルックは周りに何の期待もしていなかった。一人暮らしも随分早くから考えていて、理想としては
大学の法学部に進み司法試験か国家公務員試験に合格し確実な経済基盤を手に入れることだった。経済的に保証さ
れることが晴れて自由の身になる一番近道で確実な方法だと思ったからだ。(それを聞いたササライはクスッと笑って
「堅実というか無難というか…」と言った。ルックはますます双子の兄が嫌いになった)
とにかく、そのために超一流と言われる大学の附属中学にも入ったのに、どこかの国で寄り道なんてしてられるわけ
がない。
お互い顔を見れば溜息しかでない行き詰まった状態に、救世主のように現れたのが父の妹レックナートだった。
父は「私がルックの面倒を見てあげるわ」と申し出たレックナートに心の底から感謝して、晴れ晴れとした顔で飛行機
に乗り込んでいった。
もちろんルックにとっても悪い話ではない。
レックナート叔母には年に2〜3回会う程度だったが、いつも優雅な佇まいでルックもほんのちょっとだけ、本当に強
いて言えばだけれども、憧れていたりもした。
それにああいうタイプは案外自分のことにしか興味がなかったりするから、適当に放っておいてくれるかもしれない。
そうだ、きっとレックナート叔母の元でなら自分も心穏やかに生活することが出来るだろう。
微かな期待で新しい住まいを訪れたルックは、だがそこでは思いも寄らない事態が待ち受けていた。
今ではレックナートを救世主だなんて一度でも思ってしまった自分が呪わしい。そう、レックナートは救世主どころか災
厄の塊だったのだ。
父はルックの生活費として毎月かなりの額を振り込んでいるらしいが、そんな物を叔母に渡す必要など全くない。だっ
てルックはレックナートに面倒を見てもらった記憶なんて一度としてないのだから。むしろレックナートの面倒をルックが
見ていると言った方が正しい。
初めてレックナートの家を訪れた時の衝撃は今でも忘れられない。
たまにテレビの特番で「片付けられない女達」などというのをやっていたのを見たことがあるが、まさかそのゴミ箱のよ
うな家に自分が入らなければならなくなるとは考えたこともなかった。
愕然として立ちすくんでいるルックにレックナートはにこやかに言ったものだ。
「さあ、遠慮しないで入って」
遠慮したわけでは、もちろんない。床が見えなかったので日本式に靴を脱ぐのか、外国式に靴のまま上がって良いの
か分からなかったのだ。いや、正確に言うと靴が汚れそうで最初の一歩を踏み出せなかった。
『あの時そのまま家出しちゃえばよかったんだ』
今でこそそう思うが、さすがに中学2年にして将来の設計図を書き換える気にはならなくて(それが若気の至りだった
と思うルック17歳の春である)吐き気を堪えつつ、まず玄関から黙々と片づけを始めたのだ。
「アラ、そんな気を遣わなくて良いのに」
気を遣ってるのではなくて我慢できないだけである。
玄関をざっとかたして廊下に道をつけ(どうやら靴のまま上がって良い構造だったようだ)さすがに申し訳程度に片付
けてある(それでもルックには耐え難いものだったが)自分の部屋に案内されて一息つく間もなく(だってこんな部屋で寝
たらダニの餌にされてしまう)布団を干し雑然としている物を片付け埃を払って掃除機をかけ、とにかく何とか寝られる
状態にしたときには既に深夜になっていた。
さしものルックもこの先一体どうなるのだろうと少し胸が切なくなったが、翌日はそんなセンチメンタルな気持ちを思い
出す暇もなかった。何故なら、どこもかしこも同じような状態だと分かって(そりゃ、そうだろう。家の顔である玄関があ
の有様だったのだから)家中のクリーニングに取りかかったからである。
そうしていつしか家の掃除はルックの仕事となっていった。
甚だ不本意だったがしょうがない。ゴミに埋もれて死ぬなんてご免だったから。
それだけならまだ許せる、と思う。共同生活をしていく上でお互いに果たさなければならない義務というのは当然ある
のだから掃除を受け持つくらいは我慢しよう。
けれど、レックナートは料理も下手だった。
何を食べてもそれほど美味しいと思ったことのないルックだけど、それにしたってあんなに不味い物は口に入れたこと
がなかった。けれど、レックナートは美味しそうに食べているのである。
「もっとたくさん食べなさい。貴方は育ち盛りなんだから」
言葉だけは優しいが、これは拷問に等しかった。何しろ一口口に入れた瞬間、ペッと吐き出したくなる酷さなのだ。
それでもルックは我慢した。ある種の毒は少しずつ体内に取り入れれば耐性が出来るらしい。少なくともこれは食べ
物なのだから何とかこの味に慣れようと努力した。
けれど1ヶ月目に切れた。
「僕が作るから叔母さんは手を出さないで」
ルックだって料理が好きなわけではないし得意なわけでもない。けれど自分で作った方が、少なくとも人間らしい物が
食べられる。そうやってルックが作った物をレックナートは「まあ、なんておいしいのかしら」と言ってバクバク食うのであ
る。
「貴方には料理の才能がある。私には分かるわ」
見え透いたお世辞である。けれど結局料理もルックの仕事となった。
こればっかりはしょうがない。飢えて死ぬわけにはいかないのだから。
残るは洗濯である。
が、これはルックも断固拒否した。洗濯機を回すだけなのだから、レックナートにだってそれくらいは出来るはずだ。と
言っても、自分の物をレックナートに洗ってもらう気は更々なかった。
思春期の少年らしい恥じらいを見せたわけでは、もちろんない。
だってレックナートは色物だろうがドライクリーニングに出す物だろうが、全て一緒くたに洗うのである。「あら、縮んじ
ゃったわ」などと言ってるのはしょっちゅうで、ビーズやスパンコールが洗濯槽の底に落ちているのも日常茶飯事だ。
子供の頃はショールや大判のスカーフを纏ったエレガントな姿に見とれたりもしていたが、あれはお洒落でしてたので
はなくて、洗濯でボロボロになった服を隠していただけなのかもしれないとようやく分かってきた。
『みんな、どうしてレックナートみたいな人が独身なのか不思議がってるけど、世のため人のために結婚なんかするべ
きじゃないよ』
けれど自分一人が犠牲になっているのは、さすがに不条理だと思うルックなのであった。
そんなこんなで3年が過ぎた、ある日の午後。
「すごいわ、ルック、来てご覧なさい」
明るい日射しの差し込む居間で優雅に長椅子に寝そべったレックナートはマイセンのティーカップでお茶を飲みなが
ら女王様よろしくルックを呼びつけた。
「何、何か用?」
朝からパンを焼き、今は廊下の床磨きに勤しんでいたルックは不機嫌そうな声を出した。
「もう、そんな機嫌の悪そうな声を出さないの。せっかくの可愛い顔が台無しよ」
誰のせいだ、誰の。
「ほら、見て。書類審査に合格したわ」
「何の」
おざなりに答えたルックにレックナートは晴れやかな微笑を見せた。
「オーディションに決まっているでしょう。美少年コンテスト」
イヤーな予感が走った。
ったく、今度は何をしようというのだろう、この叔母は。
「今度は面接ですって。大丈夫、貴方なら絶対合格するわ。だって私の占いにそう出ていたんだもの」
言い忘れたがレックナートは占い師である。結構人気があるらしく渋谷に「魔女の島」という胡散臭い名前の店を持っ
ていて毎日大盛況らしい。
だけど、レックナートの占いなんて当てにできたもんじゃない。なんたって両親が結婚するときに「相性はバッチリ。幸
せな生活が待ってるわ」などとのたまったのだ。もしこの占いが当たっているとしたら、それは両親の幸せな生活ではな
く、ルックを僕に使うレックナートの幸せな生活を指していたってことになる。
だとしたらますますオーディションなどとんでもない。これ以上自分の人生をレックナートの幸せのために使うつもりは
なかった。
「行かないよ、そんなの」
「どうして?どうしてそんなことを言うの?スターになりたくないの?」
レックナートは目をウルウルさせているが、そんな物に騙されるほどルックも甘くはない。
「スターなんて言ったって所詮水商売だろ。そういう人に媚びるのって性に合わないから」
「まあ、ルックったら結構古くさい頭をしてるのね」
小馬鹿にしたようにクスッと笑われてルックは少しばかりムッとした。挑発しようとしているのは見え見えで気をつけな
ければと思うのだが、それでもつい乗せられてしまうのだ。
「安心して。ただ綺麗な子を選ぶんじゃないの。共催の事務所がこんなにあるでしょ。入賞したら俳優とかモデルとか、
適正に合わせてスカウトされるシステムなのよ。ほら、これなんか有名なモデル事務所だし、こっちは……あら、ここの
音楽事務所って、確か貴方の先輩がいるところじゃない?」
芸能界にいる先輩と言えば一人しかいない。
「クラウスのこと?」
「そうそう、あの可愛い子。確かここの事務所よねぇ」
ルックは軽い溜息をもらした。そんなの最初から調べていたに決まってる。
以前からルックの先輩が何とかいうバンドに入って大人気だというのを聞いて羨ましそうな顔をしていたのだ。美少年
コンテストの存在を知って小躍りして喜んでいる姿が目に見えるようだ。
「クラウスのいる事務所ねぇ……」
二つ違いだし中学、高校と一緒だったのだから全く知らないというわけではない。むしろ高校ではルックが生徒会の
書記になったとき引き継ぎをしてくれたのが引退する側の副会長クラウスだったのだから他の同級生よりは接触があっ
た方だろう。(ちなみに生徒会長のシーナは引き継ぎには何の役にも立たなかった)
だから、あのぽややんとしたクラウスが生き馬の目を抜くような芸能界に入ったことには正直驚いていた。クラウスが
見た目以上に頭が切れて案外油断がならない(ルックにとっては全てが敵なのだ)ことは分かっていたが、まさか芸能
界で成功するとは思ってもいなかった。
「同じ事務所に入れたら貴方も安心ね」
安心ね、って冗談じゃないとルックは思っていた。
『あんなお坊ちゃまと一緒にしないで欲しいっ』
案外苦労人のルックは憤然とした。
「でも確かにスターなんて一握りの人しかなれないわよねぇ」
「クラウスに出来ることくらい僕にだってできるよ」
言ってから『しまった』と思った。
「じゃあ、オーディションに行くのね?良かったわぁ」
悔しいがレックナートはどうすればルックの闘争心に火をつけられるのか、よーく分かっているらしい。
満足そうなレックナートの様子を横で見ながら、だがこれは案外チャンスかもしれないと思い直していた。
チャンス。
そう、大学生になるまでは無理かと思っていた一人暮らしをする最大のチャンスになるかもしれない。
それに「無難な人生だな」などと言ったササライの鼻をあかすことも出来るだろう。
斯くしてルックに新たなる人生の指標「僕の生きる道」が出来たのである。
後編に続く

|