最後の権利
■ 最後の権利 ■
久しぶりの、トランだった。
口うるさい父親は狙ったとおりの政務中で、まだ顔も合わせていない。母親は何か言いたげだっ
たが、それでも自分の帰宅を喜んでいるようだった。
解放戦争後に首都へと移った我が家は正直、ほとんど寄り付かないせいもあってあまり自分の
家だという気がしない。滅多に戻らないにも関わらず綺麗に掃除の行き届いた自分の部屋の窓か
らは、明るい陽射しが差し込んでいた。
ぐるりと見回した視界の端、机の上に、手紙の束が置いてあるのが見えた。
近寄ってひとつ手に取る。いつ戻るとも知れぬ自分をただ待つしかなかったこの紙切れたちを少
しだけ気の毒に思う。家を空けていた期間の割に、その数はそれほどでもなかった。自分の放浪
癖は皆が良く知っていることだ。
無造作に封筒を取り分けていた手がふと、止まった。小さな包み。見慣れた印章…そう、俺は、こ
れが捺される様を、よく眺めて、いた。
その主のものとは異なる手蹟を認めたシーナの腹の底が、ざわり、と粟立った。
+++
「…具合が悪いって聞いた」
その時の自分の声は少々棘があったかもしれない。しかしそれを向けられた当の本人は、ちらり
と首を傾けただけだった。
「何で寝てないわけ?」
「…大分気分が良くなりましたので」
落ち着き払った声でしらっと返し、先の戦でこの同盟軍の副軍師を務めた青年はたん、と軽く判
をついた。大体、何で病人の部屋にこんなに仕事が置いてあるのか。シーナは苛々とクラウスの座
る椅子の背を掴む。がた、と小さく揺れた世界にも動じることなくペンを滑らせる白い横顔に、頭の
奥が急速に冷えていくのが分かった。
窓の外の空は妙に濁った色をしていた。ついこの間までは暑いと騒いでいたのに、最近は上着
が欲しくなることもある。
急がなければ。そんな言葉がぽかりと浮かんだ。
「…なあ」
「はい」
思いがけず低くなった呼びかけに、クラウスは顔を上げる。いつも仕事をしているこの人の横で、
自分は手伝うわけでもなく話し掛けるわけでもなく、ただ時間を過ごしているのが常だった。穏やか
に差し込む陽の光…徐々に机の上を滑っていくそれに止まらぬ時の流れを教えられつつも、それ
でもこの優しい時間はずっと続くのだ、そんな幻想を抱く。抱いて、いた。
急がなければ。しかしその言葉とは裏腹に、身体はどこか重く痺れたようで、シーナはゆっくりと
口を開く。
「クラウスは、どうするんだよ」
唐突な言葉にもひたと据えられたままの瞳を、綺麗だと思う。
ひとを欺くことを生業とするひとだ。こちらを真っ直ぐに見返すその色が、かれの心をそのまま映
している筈もないことなど百も承知だ。
それでも、魅せられる、のだ。意志の力を湛える、その光に。
窓ががたがた、と鳴った。風が雲を連れてくる。雨の後はまた寒くなるだろう。石造りのこの城
は、とても冷える。先の冬、寒い寒いと零す自分に笑って、温かな茶をこの人は淹れてくれた。寒く
ないのかと尋ねた自分の言葉を軽く笑って肯定し、まだまだ、寒くなりますよ、そんなことを静かに
呟いた。
そう、冬がやってくる。
「私は…」
視線が、滑る。軌跡を最後まで追う、その前にシーナの唇を言葉が割った。
「俺、行くよ」
するりと零れた台詞はまるで他人事のように乾いて響いた。
「はい」
目の前でゆっくりと肯いた青年を、どこか遠い気持ちで見遣る。
『クラウスは』
『どうするんだよ』
先程自分が発した問いが、ぐるぐると回った。
このひとは、これから、これからもここで、こんなつめたいところで。
『私は』
喪ったもの、そのために、そのためだけに。
目の前のひとが、弱々しい咳をした。
分かりきっていたことではないか。
…それでも、問うてみずには、いられなかった。はっきりと答えを聞く、その覚悟が足りなかったに
せよ。
「良い、旅を。」
にこり、と微笑んだその眼には、魅せられてなお時に忌々しく思ったことさえある障壁は見えなか
った。
その眼が一番好きだ。そんなことを思った。
+++
要は自分は逃げ出したのかもしれない。
戦の後も、変わらずに穏やかな笑みを湛えるあの青年から。しかし迫り来る冬に呼ばれるように
…惹かれ、安堵するように、その笑顔がひどく澄んできているということに、彼は気付いていたのだ
ろうか。
『クラウスも、そのうちさ』
こちらを見上げた、その瞳が。
『トランに来ることがあれば、うちに来なよ』
その表面を滑り落ちた、いやに紅い、夕日の色が。
『もし俺がいなくても、これを見せれば大丈夫だから。言っておくから、さ』
肉の薄い頬の、その白さが。
ひやりとする胸の奥には目を瞑り、何かないかと探った手に当たったのは、古びた懐中時計だっ
た。幼いころに貰ったそれには、蓋の部分に、ナイフで刻んだ自家の紋章があった。時間にうるさ
いとはお世辞にも言えない自分が、それでもずっと身につけていたもの。むしろただの引っ掻き傷
だと言うべきかもしれない情けない出来の細工を見遣り、重さを確かめるように握り込むと、机の
上に滑らせた。
訝るように呼ばれた自分の名に、いいから、とだけ答えた。困ったように眉を寄せる仕草に、正直
なひとだ、と思う。黙って、それこそいつものようににこりと笑って受け取れば良いのだ。ただの口
約束にすぎなくても。こういう肝心なところで非情になりきれないあたりを甘さとするか優しさだとす
るか弱さとするか、いずれにせよそんな彼を見る機会に恵まれる人間がそう居よう筈もなく、どの
解釈が正しかろうがそんな些細なことにも優越感を抱いてしまう自分の不思議さに比べればどうで
もいいことだった。
続く咳に、下がらない微熱。
かの国を覆う冬が、雪が…埋めつくす白さが、彼の許に、迫っていた。
『あなたは、ずるい』
大分前、もう顔も思い出せないひとに、そんなことを言われた事がある。
その時はたいした感慨もなかった。そんなものかもしれない、その程度だった。
だが今は、分かる。そんな気がする。どこかに落ち着くのを厭うように、旅を続ける自分。"特別"
を作ることを拒むように…恐れるように、心をうつろわせる自分。
(だってそんなものをもってしまったら)
(永遠を夢見られるほど、もう子供ではないのに)
例えそれが無意識の上であるにせよ、いや、無意識であるからこそ、たちが悪いというものかもし
れなかった。
「ずるい、か」
小さく笑いがこみ上げる。そう、自分は、逃げ出したのだ。『一番』を、『特別』を、根幹から喪っ
た、あのひとから。それが全てで、それによって縛られ、しかし支えられていた、あのひとから。それ
を亡くした、その、姿から。
小鳥のさえずりが耳朶をくすぐる。翠が揺れる。世界は光に満ち満ちている。
「でも、俺には、無理だよ」
ひとところに縛られるのは…停滞するのは。父が母が、心をかけてくれている、部屋。皆で手を携
えて造った、国。あたたかな仲間たち。それらの心地良さは、もちろん知っている。
それに裏切られ、その手で壊し亡ぼしながらもなお、背筋を伸ばして信ずるものを貫くその姿に
羨望を抱かぬわけではない。いや、そこにこそ眼を奪われたのだ。
けれど。俺、は。
窓を押し開けると、さや、と暖かな風が頬を撫でる。
シーナは、天を仰ぐ。澄み渡った空を綿雲が翔けてゆく。軽やかに、知らない土地へも。
ポケットから時計を出す。身に馴染んだものよりも幾分小さめのそれは、どの国へとわたって行こ
うとも変わらぬ時を刻み続ける。
『それでは、代わりに私のこれを』
古いものですが無いと不便でしょうから、と手渡された時、彼の指先が少しだけ触れた。掌に落ち
た温度を、シーナはどうしても思い出すことができない。心に焼きついているのは、ただ、あの、
瞳。
「会いたい、な」
ぽつりと呟く。そして彼は眼を伏せて、手の中の金属にそっと唇を寄せた。
自分は"特別"など作らない。作れない。その、はずだ。
あいたい。もう一度唇だけで囁く。
体温が移り、ほのかにぬくみを帯びた、小さな機械。こちこちと伝わる絶え間ないふるえ。
確固とした意図もないままに行われた交換は、少し早めの形見分けになってしまったというわけ
だ。彼の少ない所持品の中から紋章入りの時計を見つけた時、師であり後見人であるあの正軍師
はどんな顔をしたのだろう。それを思うと何だか可笑しくて仕方がなかった。
シーナは晴れやかな瞳を上げる。
俺がかわりに、見てくるから。世界を。あたらしい、路を。
机の上のささやかな包みに手を伸ばす。転がり出たもうひとつの時計の傷が、鈍く光った。
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以前、緑月なのか様のサイトで「シーナとクラウスの超マジなのを」とリクエストしたところ
1周年のお祝いにこんなにステキなSSを頂いてしまいました。
ちょうどコミケの原稿でやさぐれていた時だったので本当に嬉しかったです。
クラウスがとても儚いのにどこか色っぽくて
シーナならずともクラクラしてしまいましたし
この時のシュウがどんなだったかを考えるだけで切なくて
海棠の方がジタバタと身もだえしておりました。
シュウクラバージョンもあるとのこと
是非とも書いてくださいませ。
あ、アップが遅くなったのはひとえに私の怠惰のなせる技…
皆様、独り占めしていてごめんなさい。えへ

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