エチュード





 スタジオの扉を開けるとピアノが鳴っていた。 
(クラウスだ) 
 簡単な事務スペースに抱えてきた荷物を降ろす。時計を見ると一時半だった。そういえば今日は講義が
午前までだとか何とか言っていた。スタジオは何時から使えるのかと聞くから、さあ、と答えたらクルガンに
小突かれたのだったが、そもそも自分に聞くのが間違いだろうとシードは思う。他のメンバーの姿は見え
なかった。夕方からミーティングをすると言っていたからそれに合わせて三々五々現れるのだろう。そんな
ことを考えている間にもピアノの音は途切れることなく続いている。キーボードの電子音ではない、生ピアノ
での音階(スケール)が、調を変えながら延々と。緩急に変化があったり、スタッカートや符点のリズムを刻
んだりするものの、聴こえてくるのはただひたすらに、寄せては返す音の連なりだった。 
(何かまた眠くなってきた…) 
 自慢ではないが何せ起きたのはつい先程だ。とりあえず腹ごしらえをしてくるか、と立ち上がった防音扉
の向こう側に、鍵盤を見つめる新入りの大真面目な顔が見えた。 


 結局シードがスタジオに戻ってきたのは三時半だった。ファーストフードで簡単な朝食兼昼食を取った後
(呆れるほどに有能なマネージャー様はさぞかし嫌な顔をするだろう)ちょっと覗こうと思った楽器店で店主
に捕まり、こんな時間になってしまったのだった。扉を開けると一瞬の既視感を覚えたが、本当に先程と同
じなだけだとすぐに思い直す。 
(二時間かよ…) 
 スタジオに充満する音階の響きに思わず半眼になる。充満どころではない、溢れてパンクしてもおかしく
ないのではとすら思ってしまう。小窓から覗いてみると、先程と変わらぬ姿勢でピアノの前に座るクラウス
がいた。 
 正直なところ、弾くならキーボードにしろよ、と思わないでもない。そりゃあクラシックピアノに慣れ親しん
でいるのだろうが、もうクラウスはデュナンのメンバーなのだ。大分と扱いに習熟してきているとはいえ、ま
だまだ覚えることはたくさんあるだろう。そういえば先日、筆圧ならぬ打鍵圧(というのだろうか)が強くて鍵
盤がばたばたするのだと嘆いていたのはどうなったのだろう。(大体グランドピアノの鍵盤の重さが異常な
のだとシードなんかは思う)テンポがゆっくりから段々と早くに変化していく。音の上下に沿って強弱も滑ら
かに起伏を描く。明快で粒の揃った一音一音にシードは目を眇める。と、ぱたり、と音が途絶えた。 
 事務スペースから扉越しに眺めるシードの視線の先で、ぐるりと一度首を回したクラウスは、改めて鍵盤
の上に軽く肩を開いて指を乗せた。 
 瞬間、軽やかな音の奔流が羽根のような和音のスタッカートの上に溢れ出した。右手が奏でるメロディ
は無邪気と言ってもいいほどに丸くころころと左手の主旋律の上を転がっていく。どこかで聴いたことのあ
る曲だ、とシードは半ば呆然と考える。音が多い。やたら高速な右手の三音の連なりが白鍵の上に全く降
りて来ないことに、一体どんな譜面なんだと想像するだに頭が痛い。左右同音で音階を駆け下りてのフィ
ニッシュまで殆ど息をつく暇もないほどだった。 
(クラウスみたいな曲だな) 
 メンバーの後をちょろちょろとくっついて歩く少年の姿を曲にしてみたらきっとあんな感じだろう。よくぞま
あこんな選曲をするものだとシードの口元が緩む。そんな感想はつゆ知らず、軽く両手を握って開いた少
年は次の曲を鳴らし始めた。 
(これは知ってる) 
 怒涛のような左手の下降形に被さる情熱的な右手の主旋律。ショパンのエチュード「革命」だ。先程とは
逆の左の手が恐ろしい速度で重量感のある音を沸き立たせていく。軽やかに舞うようだった動きはなりを
ひそめ、這うように掻き鳴らされる分散和音は終盤どんどん柔らかに、消えそうになり、最後には両手で
感情を爆発させ、断ち切るような和音で終わる。 
 普段の控えめというか天然というかな物腰とはかけ離れた演奏に、これなら色々やらせてみる価値はあ
るかも、とシードは内心口笛を吹いた。まあバンドは独演会とは違うわけだが、それでも面白そうだと思
う。 
 そして二曲目を聴いて思い出した。一曲目はいつかクルガンの家で聴いた、同じショパンエチュードの
「黒鍵」だろう。山と積んである中から引っ張り出したCDの裏を眺めながら、まんまなタイトルだなあと言っ
たら苦笑とともに聴かせてくれたのだった。そうだあいつにも教えてやろう。 
 過去の思い出に意識を向けていると、クラウスが立ち上がるのが見えた。脇の譜面台に置いてあった数
枚の紙を手に取り、そっと表面を撫でる。にっこりと笑うとピアノの前にそれは丁寧な手つきで並べた。あ
れは…。 
 壊れ物でも扱うようなその仕草とは正反対の勢いで、思わずシードは防音扉を押し開けていた。クラウス
が文字通り飛び上がってこちらを振り向く。 
「あ、あの…こんにちは、シード」 
「何だ、その曲?!」 
 慌ててぴょこりと頭を下げるクラウスに構わず、シードは今しがた並べられた紙切れを掴んで、ざっと目
を通す。 
「あ、いえ、その、私はここにお昼頃に来たんですけど…そうしたら…」 
「……へーーーーー…んーー…うん…………シュウが置いてったのか?」 
 たっぷりと三回、見返してからギタリストの顔が上がる。クラウスは何故か真っ赤になった。 
「う、うん」 
「…お前、弾いてみたのか?」 
「いえ、まだ…」 
「…………」 
「…………」 
 信じられないようなものでも見るような目を向けられて、クラウスが黙った。シードは出来立てほやほや
の手書きの楽譜をひらりと振る。もう一度頭から目を通した後に、大きな溜息。 
「…今、三時四十五分」 
「あのっ!」 
 耳まで赤くしたクラウスが突然声を上げた、がまた口を噤む。 
「…スケール」 
「…あの、その、とても綺麗で素敵な曲だったので…初見を半端には絶対弾きたくなくて…それで…」 
「……ショパン」 
「聴いてたんだ」 
 ごめんなさい、と消え入りそうな声で呟くと、身体の前で両手を握り締める。自分がクラシックを弾く事に
シードがあまりいい顔をしないと思っているらしい。全く人の心の機微に疎いのか敏いのか。当たらずとも
遠からずなあたり、シードも大人気ないという自覚はある。わざわざスタジオで、と思ってしまうのだ。しかし
別に非難しようと見ていた訳ではなく、むしろもう少し聴いていたいと思っていたくらいで…。ああもううまく
言えない。 
 黙ってしまったシードをどう思ったのか、クラウスが顔を上げる。 
「…あの曲を弾くと、何と言うか、指慣らしの仕上がりが良く分かると言うか」 
 そこでひとつ息を吸い込んだ。 
「その、準備運動になると言うか…」 
 シードは思い切り脱力した。じゅんびうんどうに、にじかんよんじゅうごふん。 
 確かにピアニストは毎日基礎練習だけで何時間も費やすとは聞いたことがあるが、それにしても初見
の、早く鳴らしてみたいであろう新曲の、準備に三時間弱。 
 これはよっぽど我慢強いのか、単にとろいだけなのか、それとも…。 
(半端には弾きたくない、か) 
 横目で細っこい立ち姿を眺めてみる。じと目なのはわざとだ。 
 メンバーの誰よりも早くに新しい曲を受け取ったキーボーディストは、俯きながらもちらちらとシードの手
の中を気にしている。その指がわきわきと動いているのを見遣りながら、我がバンドの作曲家の仏頂面を
思い描いてシードはとうとう吹き出した。眼を丸くするクラウスの胸に、楽譜を押し付ける。 
「俺も早く聴きたいよ、弾いてくれ、クラウス」 
 


バンドのことは全く分からない、と言いつつこんなに素敵な作品をありがとうございます!
バンドもクラシックもよく分かっていない海棠には感動物でした。
ショパンの「黒鍵」と「革命」は指ならしの物凄く良い練習になるのだそうです。
クラウスのピアノの凄さを少しも具体的に表現できない海棠の代わりに
きちんと描いてくださって本当に有難いです。(^^ゞ
シードもホントにうちのシードらしくて
パラレルで勝手に書き散らしている物が海棠の意図を全く外れず
こんな風に派生していくというのは正直本当に嬉しかったです。
改めて、ありがとうございました。

あ、タイトルは海棠が勝手につけちゃいました。
作品の雰囲気と合ってますように。(^^ゞ