NO WAR!  1,000字超文 
■ノー・ウォー美術家の集い横浜
2016〜14年
[# 12]
アメリカ大統領選 トランプが勝利小泉克弥 (2016.12.)

2016年11月8日、アメリカ大統領選でトランプが当選し、世界を驚かせた。滞在していたエスパー ニャ(英語ではスペイン)でもマスコミは、そのニュースで持ちきりになった。驚いたことは、トラン プを「ポピュリズム」と捉えていたことだ。
 ポピュリズムは通常「大衆迎合主義」と訳されるが、トランプを「大衆迎合主義」と言うことができ るだろうか。そもそも「大衆迎合主義」とはなにか。立ち止まって考える必要がありそうだ。
「ポピュリズム」は、広辞苑では「1890年代のアメリカのポピュリスト党(人民党)の主義」とある。 これでは何かよくわからない。ウィキペディアを見ると「確立された利益や主流政党に反対して、 反エリート主義の主張」とある。なんとなく「ハハーン」という気がする。

トランプの手法は、過激な言葉で、大衆の不満のはけ口になりそうなことを言い散らす、というこ とではないだろうか。「大衆の不満」は失業から低賃金、不安定雇用まで、枚挙にいとまがない。 トランプの勝利を予想したのは、映画監督のマイケル・ムーアだという。木村太郎はその検証に アメリカ自動車工業の中心地ミシガン湖地方へ赴き、工場が軒並み海外移転で空洞化し、いま は「ラスト・ベルト」(赤錆び地帯)と化したこの地方を巡り、マイケル・ムーアの予測を納得し、日 本人としては最初のトランプ勝利予想者になったと言う。予想はどうあれ、重要なのは結果だ。こ れからトランプはどんな政治をするのだろう。世界の平和と発展に寄与するのだろうか。

ベネズエラのウーゴ・チャーベスもポピュリストと捉えられているし、イタリアの「五つ星運動」も その系統とされる。これから判断すると、民衆が腹を立て、現在の政権に「ノー」を突き付ける運動 や、それに依拠する政党を、ポピュリズムと捉えているようだ。つまり「大衆の反逆」である。エス パーニャの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットに『大衆の反逆』という著書がある。邦訳が「ちくま 学芸文庫」からでている。早急に目を通そうと思っている。

日本の反原発、集団的自衛権行使容認反対、立憲主義を守れなどは、ポピュリズムとみなされ るのだろうか。日本の特徴は、ヨーロッパのように市民運動から独自の政党が生まれ、それが躍 進すると言う形ではなく、「野党は共闘+市民の組合せ」という運動形式である。2017年1月に解 散・総選挙が取りざたされる中、小選挙区中心の衆院選でどれだけ統一候補を擁立できるかが 目下の注目点である。「基本的な考え方を異にする政党とは政権は組めない」といっている民進 党が、どこまで誠実な共闘勢力に脱皮できるか、それが問題である。 ―未完―
  *ポピュリズムとは、「大衆の反逆」だろうと言う気がします。どのような展開をするのか、注目して います。


[# 11]
「オーストリア大統領選挙、極右候補敗北」のニュースに思う
藤井建男 (2016.12.5)
12月15日、朝「オーストリア大統領選挙、極右候補敗北」のニュースに正直ホット胸をなでおろし た。アメリカ大統領選挙で排外主義的、場当たり的ともいえる経済・外交政策を掲げるトランプ氏 が当選したことで、正直、この大統領選挙の結果によっては世界的規模で懸念されている大衆 迎合主義(ポピュリズム)の広がりに勢いがつくのではないかと言う不安があったからだ。

オーストリアと言えばウイーン、ウイーンと言えば美術家・音楽の都の印象が一般的であり、その 面からも親しみが深い。美しいアルプスを舞台にしたスキーや登山を愛する人も多く、優れたス キーヤー、クライマーも生まれている。1965年に公開された『サウンド・オブ・ミュージック』(ハリ ウッド制作)はナチスドイツのオーストリア併合直前、前妻に先立たれた退役軍人の家族と家庭 教師(ジュリー・アンドリュース)の自由奔放な子供達との付き合いを、ナチスドイツの支配とそれ に対する自由の賛美を美しい自然を背景に描いた、ファミリー映画、主題曲《エーデルワイス》《う た:ドレミのうた》も人気を呼び日本でも大ヒットし、映画を通してのファンも多い。加えれば、首都 ウイーンには世界の通信社が集中し中欧最大の通信拠点になっている。世界が今回の大統領 選挙の結果が世界から注目されたのは当然であった。(写真ヴィーンの街・著者撮影)

私が注目したのは“風力を強める”「ポピュリズム旋風」に重なる、いわゆる“欧州に広がる極右”に対する有権者の反応であった。それは歪んだナショナリズムに抗する、平たく言えば民主主義的空気の広がりの今日の強さが現在どのようになっているのかだった。それを推し量る材料になるだろうと。

加藤周一氏は『私にとっての20世紀―最後のメッセージ』(岩波現代文庫)で次のように述べている。「2000年の春、オーストリアでナチ信奉者、排外主義者のハイダーが内閣に参加したら14か国からボイコットされた。…中略…その根本的な問題は、戦争の事実をはっきりと認めることをしないでごまかしているどうかです。戦争の話をするのは昔の思い出ではなく、現在の問題なのです。…中略…水面下のオーストリアにはナチの残党がいる。オーストリアは、元ナチスの支持者を放逐していないから、いないはずがない。ヴイーンの建物の窓と言う窓からハーケンクロイツを掲げていた人たちは、どこへ行ったのか。今でも隣に住んでいるのです。」

オーストリアの社会深部を簡明に語っていると思う。それは戦争犯罪者が祭られる靖国神社を首相が賛辞し閣僚が列をなして参拝する日本の異常にも多くが共通する指摘である。しかし、経済の行きづまりに加え大量の難民流入という困難と不安を抱えるオーストリアの方がことは深刻という感じがする。そして、今回の大統領選挙の結果である。 この選挙でメディアの“極右の大統領誕生の可能性”の予想を覆してリベラルな大統領を誕生させたオーストリア大統領選挙に、今日的な意義の大きさを感じるのは私のみではないだろう。正直に言えば私はこの大統領選挙結果をかなり悲観的に見ていたのだから。教訓を学ばなくてはと思う。

メディアの予想に反してこの結果を生んだオーストリアの有権者に私は拍手を送る。しかし、競り合った大頭選挙での勝利を冷静に見れば議会選挙になれば極右にそれなりの議席が配分されるのであり、決して楽観はできない。とはいえ今回のオーストリア大統領選挙結果に大いに励まされたのは事実。問題はこの日本である、憲法破壊、戦争する国づくりに猛烈な勢いで突き進む安倍政権打倒への戦いをさらに幅広くすることが大切になっていることを、強く思っている。

付記したいのは、NHKはこのユースよりも同日に開票されたイタリア首相選挙でパフォーマーなタレント候補が勝利したことを大きく扱っていたように見えた。NHKは依然大衆迎合主義への期待がにじんでいたように感じられたのだが。


[# 10]
自 衛 隊、南 ス ー ダ ン か ら 撤 退 す べ し 加藤義郎 (2016.10.4)

 ▲2013年2月、南スーダンの韓国軍の緊急要請に、自衛隊が1万発の砲弾を貸した。 国連PKO協力軍は「中立」で、武器使用は極力禁じられているが、緊急“自衛”の場合は… (写真は陸自がマスコミに配布したるの)

独立(2011年)当時から、大統領派と副大統領派の間で武力紛争の続く南スーダンに、国連平和 維持活動 PKOの「施設部隊」として派遣されている自衛隊の期限は「10月まで」となっているが、 国会での議論を聞いていると、自衛隊駐留の再延期か、新たに増派されそうだ。現在彼の国の 首都ジュバに国連の施設や自衛隊キャンプもあるが、その近くでも銃撃戦があるらしく、国会で 野党の質問に稲田防衛相は、「衝突」はあったが「戦闘」ではないと逃げ答弁をした。

政府が「衝突」と交通事故の様に言い逃れようとするのは、戦闘地域には行かないという「PKO 5原則」の一項に反するからだろう。自衛隊だけでなく、他の国の PKO部隊も「中立」が条件の一 つなので、住民が襲撃んら逃れて助けを求めても、武力で反撃することができず、逆に住民を 追い返したり、PKOの隊員や国連職員にも死傷者が出ている。*1

これに対して国連安保理は8月12日、強い権限を持つ 4,000人の「地域防護部隊」を追加派遣す る決議案を採択した。米国が作成した「案」に、南スーダン代表は「拒絶」し、ロシア、中国は拒 否権は使わなかったが4カ国が棄権し、11カ国の賛成で採択された。 *1も■時事通信 より。

国連は南スーダンの内戦から「住民を保護するため」に、紛争当事者双方の要請で PKO軍を派 遣したが、治安を維持、回復できなかった。5原則によれば撤退すべきだが、そうはせず、再決議 をした。即ち今後、国連施設や市民への攻撃を準備していると分かれば、たとえ南スーダン政 府軍であっても、先制攻撃できる権限を与える、と。国連軍の武力で抑えられるのか。

日本政府は、5原則を守って自衛隊を撤退させるどころか、憲法違反の戦争法=安保法案を楯に 「駆け付け警護」として、いよいよ自衛隊に戦争をさせようとしている。自衛隊を「軍隊」と考える 人も多いが、その法律が無く、外国での戦争で人を殺したり、捕まえられたりした場合には「民間 人」として裁かれる。「殺人罪」であり、捕虜ではなく「犯罪(容疑)者」だ。これに日本国政府や派 遣賛成派が責任を持てるのか。

世界中に経済競争や国家間の戦争、国内戦争は数多あるが、仲裁するには相当な実力が要る。 各国の政府は、国土と住民を守ることを第一としなければならないのは言うまでもない。

[ウィキペディアなどから] スーダン共和国時代に北部勢力の石油独占に抗して2011年に独立 した南スーダンは、独立直後から 2大勢力の武力闘争があった。国内総生産の98%があまり豊 かでない「石油」とは、国民生活の窮乏を想像してしまう。政権を争う 2大勢力とは 2大部族間の 争いに政治権力争いが絡んで難しくなったと見られる。宗教は元々アニミズムで、キリスト教徒 が少数いるが、北スーダンと違ってイスラム教は殆どいないと言われる。争いというものはこじ れてくると原因はどこかに行ってしまう事はよくある。国連にも仲裁不可能な難題であるが、住民 の被害が増大するのを人道上放置できないと、多大な経済支援をしている。平和的支援は良い が、これが「争う片方」を支援することになっていないか。


[# 09]
オ バ マ の 本 気 度 加藤義郎 (2016.9.7)

70年前に原爆を投下した米国の大統領として初めて被災地広島を訪れたバラク・オバマ氏は、 慰霊碑の前で永い演説をしたが「謝罪」の言葉は無かった。事前にマスコミでも話題にはなったが、 戦勝国が謝罪すると思った人は少ないと思う。それよりも、核兵器廃絶を説く末尾の部分で、 「生きている間に達成できないかもしれないが、努力を続けることが必要だ」(右NHK-TV) という言葉が気になった。

前半「生きている…」の部分の主語は“I”だと思うが、後半「努力を続ける」のは「死後のオバマ 氏」には無理だから、主語は“You”(二人称複数形)か? つまり、
が生きている間に達成できないかもしれないが、君達が努力を続けることが必要だ」。
だとしたら、随分と他人事の様だ。英語の不得手な私は和訳の付いた原文を探してみた。
 以下■原文と和訳/
13) We may not realize this goal in my lifetime. But persistent effort can roll back the possibility of catastrophe. We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles. We can stop the spread to new nations, and secure deadly materials from fanatics.
[和訳] 13) この目標はの生きている間には実現しないかもしれません。しかし、粘り強く取り組 むことによって、惨劇の可能性を引き下げることができます。我々は、これらの保有核兵器を廃 絶に至らしめる道筋を決めることができます。我々は、新しい国への核拡散を阻止し、また、死 に至らしめる物質を狂信者の手から確保するができます。(和訳終り)

どーも、オバマ氏或いは米国人は、自分が死んで抜けた後でも“We”で構わないらしい。それは 些細なことかもしれないが、就任早々プラハ(チェコ)で「米国を含む核保有国は核兵器のない世 界を追求する勇気を持たねばならない」と宣言してノーベル平和賞を受けた米国大統領の7年後 の演説としては情けない。まあノーベル「平和賞」は政治臭が強いと世間の評判は良くないが、 と言ってもそれを受賞する人は余程エライ人だと思う人は多いと思う。

大統領の任期はまだ1年間残っているのだから、死に物狂いで何とかしたら…と言いたいが、や はりその実力が無かったのか。がっかり、しかしお疲れさま。核兵器廃絶の問題では、米露協定 で自国の膨大な核の在庫を本の少し減らしただけ。おまけに北朝鮮を核保有国(米国は認めな いが)にしてしまった。任期を終える時に、米国民と世界中の国々に対して約束を果たせなかっ たことを謝罪しなければならないのではないか。オバマ氏個人の責任として。

…と、他人を批判することはできても、日本政府はオバマの核廃絶の呼びかけに応じて何かした 訳でもない。オバマが最近、「核兵器先制使用禁止宣言」を検討しているのを知って政府内で議 論を始めたが、「核の傘」弱体化への懸念から反対論が強く、米側に協議を申し入れていると報 じられた。国民の多くが望んでいることと逆方向だが、憲法九条というタガ(箍)が外れたら、唯一 の被爆国日本の核武装へと彼らの欲望が膨らんでくるのは目に見えている。


[# 08]
戦後70年―戦争と美術を考える藤井建男 (2016.2.10)
日本現代美術ー空白の中の根

一 「戦争の中の美術」と「美術の中の戦争」
「戦争の中の美術」と「美術の中の戦争」はコインの表と裏の関係といってよいだろう。 一つの美術作品を見る場合も、その作品を作ってきた一人の作家を見るにしろ、このコインの 表と裏の二つの側面から見る作業を伴わないと、結んだ像がしばしば歪んだりボケたりすること がある。そうはいっても、「戦争の中の美術」「美術の中の戦争」と言う両面から美術を見ることは たやすいことではない。事実、私も正直に言えばアジア・太平洋戦争の最中の「戦争画」などを 見る際には「戦争に協力した作家」ないし「戦争謳歌作品」と言う色眼鏡を通して見てきたこと を告白しなければならない。それは、戦争そのものが日本に侵略された中国、アジア諸国で 2000万人以上の死者を生んだ侵略戦争であったこと、その結果350万人もの日本軍および 民間人の命が失われたこと。さらにその真実を歴代の自民党政権が今日に至るまで歴史認識と して認めていないばかりか、肯定して復古機運を煽る動きを続けてきたことに対する怒りと抗議 の気持ちを通してしか、この時代の作品に向き合えなかったからである。そのことが「美術の中 の戦争」に描きこまれたメッセージを見逃してきたことも事実なのだ。これは「戦争画」を見る 場合表れる。特に「戦争画」を見る場合は「軍御用達アート」にひとくくりにして、「何が描か れているのか」「なぜ描いたのか」をさほど探ることもせず、ひとまとめに「戦争プロパガンダ」 「戦争美化」「戦争協力」とする見方をしてきたと言って過言ではない。

「戦争の中の美術」
当然、「戦争の中の美術」にも同じことが言える。それはアジア・太平洋戦争の性格、戦争遂行 のシステム、そして戦争の真実がどうであったのか、そしてその中における美術の位置はどの ようなものだったのかを把握して観てきたか、と言う問題である。その点で言えば、画家に とって制作する環境は戦争の進行によって大きく変化している。しかし、それも太平洋戦争に 入って軍に協力することでしか絵の具・キャンバスなどが手に入らない、制作資材の 統制・配給制度が敷かれ、配給を得るためには軍の要請に応えなければならなかった、という 程度の知識はあったが、国民を根こそぎ戦争に駆り立て、それによって支配に呑みこまれた 美術の苦悩に思いを馳せることは極めて弱かったのである。

「戦争の中の美術」と「美術の中の戦争」に光を当てその真実を突き止める作業は、日本の近・ 現代美術の「空白」を埋める作業であるが、それは少なくない美術研究者の中で、戦後美術が 何度も試みながら不十分に終わっていた感がある。「描かれた時代はどのような時代だったのか」 「どのように描かれているか」「なぜ描いたのか」などなど、極当たり前の疑問を総合的、 俯瞰的に明らかにする作業であるが、それが不十分だったと思えてならなかったのである。

「戦争の中の美術」ではまず「戦争画」という輪郭のはっきりしない範疇をどうつかむかと言う 問題があろう。『アジア・太平洋戦争辞典/吉川弘文館』は「戦争美術」という項目で次のように述 べている。『―戦争美術を手がける作家たちは、陸軍美術協会や大日本海洋美術協会といった 団体を結び、そうした団体が軍や新聞社の協力を得て開催する各種の戦争美術展覧会で作品を 公開した。公的な戦争美術の中心をなすのは陸海軍の依頼で描かれた「作戦記録画」と呼ばれ る大型の作品で、数次にわたる依頼によって敗戦までに陸海軍合わせて200点以上制作され、 各種展覧会に貸下げられて列島の内外を巡回した。―』。「戦争画」とくくらず「戦争美術」 としたのは正解だと思う。何しろ「戦争画」自体の輪郭がはっきりしない。しかも絵だけでは なく彫刻、国民を戦争に統合する象徴画、モニュメントも美術家の手によって様々作られて いたのだから。
◇   ◇   ◇

二 画家が描いた戦争
「戦争の中の美術」はそもそも画家が描いた戦争である。2015年夏、出版された『別冊 太陽/画家と 戦争-日本美術史の空白』(監修・河田明久 以下『太陽/画家と戦争』と記す)で河田明久は次のよう 述べる。「わが国の洋画には、大画面の群像作品があまりない。戦中の戦争画制作はこの欠落を取り 戻す絶好の機会でもあったようだ。…だがその画面は、戦争の各段階に応じてかなり表情が異なって いる。」だから戦争の「各段階」をつかまえなくてはならない。河田明久は続ける「昭和12(1937) 年の盧溝橋事件から昭和16(1941)年の真珠湾攻撃にいたる日中戦争の期の作品には、ほとんど敵兵の 姿が見られない。また主役であるはずの日本兵も後ろ姿で描かれることが多い。 これは戦争理念があいまいな日中戦争の性格によるものだろう日本の正義に確信が持てなければ敵兵を 悪役として描ききることは難しい。…この状況を一変させたのが、昭和16年に始まった太平洋戦争だった。アジアを西欧 列強から解放するという大義名分を掲げたことによって、明快な善悪の物語が立ち上がる。…昭和18年 (1943)年頃をさかいに日本は守勢に回り、敗戦に向かうのだが、それでもこの『正義の物語』は衰えない。 いきおい戦争末期の戦争画は、あたかも宗教画における殉教図のような『蹂躙される正義』のイメージ を描き出すことのなる。」
▲ドラクロワ/ポワティの戦い(ルーブル美術館)
 『太陽/画家と戦争』は1938年の盧溝橋事件翌年に開催された「大日本陸軍従軍画家協会展」から 太平洋戦争の日本降伏の4か月前に開かれた「第3回陸軍美術展」までの主要戦争美術展を出品作品 と共に紹介している。河田明久の指摘通り戦争の各段階で絵の表情は変化している。「戦争の中の美術」 を探る重要な手がかりだ。戦争に呑みこまれた日本の近代美術の苦悩も浮かび上がる。
 いわゆるアジア・太平洋戦争は、当初は半封建的な資本主義の狂暴な経済政策の矛盾を中国東北地域 の肥沃で広大な土地と資源の確保する目的の侵略戦争だった。これを支えたのは明治政府が日清・日露 戦争の勝利によって強固に形づくった「天皇制のもとでの富国強兵」と言う国民統合国家だった。
 「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」「天皇は神聖にして侵すべからず」と言う皇国史観で 編み上げられた教育・社会秩序は頑強で暴力的軍隊と警察の暴力装置で完全に守られ、公然と疑うこと さえ許されなかった。国民はこれに完全に従わざるを得なかった。こうした体制で繰り広げられた戦争 は当初から文字通り子供から老人まで、工業から農漁業、教育すべてを文字通り動員する総力戦だった が、日本の敗戦が色濃くなった太平洋戦争末期には国体の護持を優先しそのために国民に自決を求める 破滅的な総力戦になっていた。美術もその中にあった。異常が続いたアジア・太平洋戦争だったがその 期間には都市部に労働者階級の台頭やロシア革命の息吹の伝搬があり、学者、文化人、学生のなかに 共感が広がっり、大正デモクラシーとよばれる封建的社会に反発する近代主義が労働者、女性、文化 人に影響をもたらした時期もあった。
 アジア・太平洋戦争の推移が美術のテーマを変貌させてきたことは前述の河田明久の概略が分かり やすい。では、美術家に戦争はどのような形でのしかかったのか。
 美術に対する本格的な統制は昭和10年(1935)の松田源治文相による帝国美術院改組に始まる と言われている。関東大震災の復興を口実にして労働運動と民主的文化運動の“苗床”の役割を果た していた大正デモクラシーの空気が、治安維持法を改正(死刑罪・目的遂行罪を追加・昭和3)で息 の根を止められると急速に戦時の空気に包まれる。昭和4年(1929)世界恐慌は直ちに日本に 波及、昭和恐慌と労働者争議が広がり、プロレタリア文学、芸術も文化人に影響を与えるほどにひろ まった。その一方、昭和6年(1931)柳条湖事件、満州事変が始まる。満州事変のゆき詰まりは 侵略の拡大となり昭和12年(1937)盧溝橋事件・日中戦争開始。本格的な総力戦争の始まりで ある。
 国民の耳目は戦争に向けられる。美術の世界も当然その流れに従わないわけにはいように仕向けられた。 日中戦争がはじまると画家の従軍希望がふえ、軍が従軍を制限するほどだったという。こうして始ま った戦争美術が、戦時下の支配的な文化政策へと発展する推進力を前出の河田明久は陸海軍の報道部 と朝日新聞を中心とするマスメディアの協力だと見ている。「陸軍と海軍は競い合うようにして、 公式戦争画の委嘱数をつり上げていくことになる。…(略)陸軍美術協会とのパイプをてこに足場を 整えた朝日新聞は、その後の太平洋戦争期にかけて、戦争美術を牽引する大きな原動力の役割を果た した。」
 『画家たちの戦争』新潮社)朝日新聞社は聖戦美術展(1939年7月〜41年7月)、大東亜戦争 美術展(1942年2月〜43年12月)から各種陸海空美術団体の美術展にも深くかかわった。 軍とマスメディアが相携えて繰り広げる戦争美術の流れは、川の流れにたとえれば美術界の主流となり、 中堅画家がひきいるグループや各種美術団体は岸にできる渦に翻弄される水草の様になっていったの である。
◇   ◇   ◇

三 戦争美術が美術の主流に
昭和10年10月(1940)挙国一致のため政党が解散され大政翼賛会がつくられた。翌年4月27日、 美術文化協会の瀧口修三、福沢一郎が治安維持法違反の疑いで逮捕される。12月8日真珠湾 攻撃で太平洋戦争開戦となると、国民はラジオも新聞も雑誌、映画も軍の許可されたもの以外 は見ることも聞くこともできなくなった。美術界では画材などを配給する美術及工芸統制会創立さ れ、表現の傾向によって配給を決めたため、多くの画家が戦争画に手を染めなくてはならなく なった。
 この時代の空気を井上長三郎は次のように述べている「太平洋戦争前夜の瀧口修造らの長期 拘留は美術界をふるえあがらせるに十分であった。当時のアンドレ・ブルトン(1986〜1966:詩人) と亡命中のトロツキー(1879〜1940:政治家)の接触は、日本の超現実主義といわれる作品と無 縁と思うが、弾圧の口実にしたようである。その展覧会は開会前私服が来検閲した。人の大勢い る絵はプロレタリア美術を取り締まった習慣からご法度、日本でこれほどシュールレアリストが増 産されたことはないだろう。」(『ドキュメント・戦後美術の断面・作家の足跡から』笹木繁男著)
 この時期から終戦までの期間、軍とメディアが繰り広げた「戦争画・戦争記録画展」は昭和16年 (1941)「第二回聖戦美術展」<、航空美術展」、昭和17年(1942)「大東亜戦争従軍報告展」「大東 亜共栄圏美術展」9月と12月二回)「戦史不滅大東亜戦争献納大壁画展」『第六回大日本海洋美 術展』「大東亜戦争従軍画展」「第二回航空美術展」、昭和18年「第一回陸軍美術展」「第二回大 東亜戦争美術展」「生産美術展」、「第一回陸軍美術展」「国民総力決戦美術展」「戦ふ少年兵 展」「第三回航空美術展」昭和19年「第二回陸軍美術展」「第八回大日本海洋美術展」「勝利の少 年兵展」「文部省戦時特別美術展」、昭和20年「戦争記録画展」、「第三回陸軍美術展」などな ど、すさまじい規模と回数である。(平凡社新書『女性画家たちの戦争』同出版社『画家と戦争』を 参考にした)しかも、いくつかは地方を巡回している。
 吉良智子著の「女性画家たちの戦争」(平凡社新書)は、あのアジア太平洋戦争に呑みこまれた 美術の姿を女性画家に焦点を当て当時の女性美術家の状況を俯瞰的に浮かびあがらせている。
本書は女性の美術家グループの歴史を1918年(大正7年)の「朱葉会」から、団体の性格、中心 的作家作家たちの置かれた生活と制作環境を追っている。東京に次いで大阪にも女子美術学 校の女性の美術界への参加が制度的基盤を持って進みはじめ、画壇にも女性作家が登場する ようになる。在野の美術団体である独立美術協会に出品している女性画家11人によって「女艸 会」(じょそうかい)が立ち上げられ、画壇の垣根を超えた「七彩会」も結成される。また、プロレタ リア美術運動への参加など活動の円周は広がっていく。だが、こうした広がりを見せるものの女 性の美術家としての自立は社会的に不可能に近かった。『女性画家たちの戦争』は「女性画家に とってその出自が中流階級以上であることは、男性に比べて画家であるための決定的な必要条件 だった」と述べている。しかし、この状況は戦争によって大きく変わる。中でも注目されるのは 1943年(昭和18年)に結成された女流美術家奉公隊の結成で、この年9月から12月にかけて、母親 たちに息子を少年兵として国家にささげることを啓蒙することを目的にした「戦ふ少年兵」展を 開いている。この奉公隊は陸軍報道部の指導のもとで長谷川春子、藤川栄子、三岸節子、日本画 の谷口富美枝などを役員にして発足、結成式には各美術団体の会友以上の女性美術家役50名が 参加している。美術家として生きようとした女性画家たちも、総力戦の中で生きる道を探るの であった。女流美術家奉公隊は《大東亜戦皇国婦女皆動之図》昭和19年(1944)を描いている。 いわゆる銃後の女性の姿である。
 大パノラマで「春夏」(186×300p)は福岡県筥崎宮蔵、「秋冬」(187.1×299.7cm)は靖国神 社蔵。この2枚の絵には出征した男性に代わって働く女性が描かれている。私はこの絵を前出の 「太陽/画家と戦争」で初めて見た。描かれている職業は吉良智子によれば2枚の絵に42種に及ぶ という。農村の田植え、野菜の選定、茶摘み、漁業では塩田、海女、魚の仕分け、機械工場での 旋盤加工、縫製作業、各種商店、大工仕事、鍛冶作業、そして坑内の石炭掘りとおよそ当時の 主要な産業の労働現場である。吉良智子は「戦時であっても平時の延長線上のモティーフを描く ことで」女性画家たちは戦争美術への参与していったと述べている。しかし、極力明るく、快活 にどの職業も描かれている。そこから太平洋末期の凄惨な戦場を想像することはできないが、 どの職業、作業にも男性が いない光景は見ていると実に不気味だ。キャンバスの裏に制作目的は「後々の記録の一助」と書 かれているという。《大東亜戦皇国婦女皆動之図》を戦争協力美術と決めつけることは容易だ。 しかし妙に明るいだけに不気味な男性不在の社会。この絵は明らかに戦争の真実を描いている。 “美術の中の戦争”なのである。これに関しては吉良智子が著書の「女性画家たちの戦争」で詳しく分析している。(挿入画は「春夏」の部分)
「戦争の中の美術」となるとまず浮かぶのが「戦争画」であるが、画家たちすべてが感性や考え ることを投げ捨てて、軍をはじめとする戦争遂行者の言うままに絵を描いていたのだろうか。
◇   ◇   ◇

四 描かれた戦争
1977年『美術手帖』は「戦争と美術」の特集を組んだ。巻頭論文中で針生一郎は次のように述べ ている。「43年に児玉希望、高村豊周らを幹部として発足した美術及工芸資材統制会は、軍部の 意向を呈して配給権を独占し、思想や表現の傾向によって割り当てを決めたため、無名作家や 青年前衛作家たちは材料の入手がほとんど断たれることになった。これが多くの美術家が浮足 だって戦争画になだれ込んだ、最後の脅迫となったのである。」
 確かにそういう状況であったであろう。だが、“戦争画になだれ込んだ”作家たちの全てが戦争 謳歌、銃後の滅私奉公奨励、玉砕・自決賛美の絵を描いたかと言えば決してそうではなかった。 「多くの美術家が浮足だって戦争画になだれ込んだ」と言ってしまえば、美術家の苦悩、スライス された時局が見えなくなる。私もそう言ってきたので戦時中の美術家の仕事を大変粗末に見てき た、と反省しなくてはならない。画家たちの絵の中の戦争を見ることが大切だ。
 前出の「太陽/画家と戦争」は戦争中、美術に関連した主要展覧会を列挙して、出品作品を紹介 する貴重な企画「戦争美術展へようこそ!」を立てている。昭和13年(1938)結成の大日本 陸軍従軍画家協会展から最後の陸軍美術展まで、日中戦争戦争から太平洋戦争末期に至る過程 で描かれたその大半が軍と戦争賛美、戦争協力奨励だがこの時代の画家の戦争に向き合う立ち 位置が感じられる作品もある。「太陽/画家と戦争」に紹介される作品とそのほか、私が選ん だ数点を挙げてみる。(解説は「太陽/画家と戦争」の解説を尊重しつつ私の思いも述べさせて もらった)

 清水登之「難民群」(上段左)昭和16(1941)年 162.1×130.3cm 第11回独立美日中戦争により 大陸に多くの難民が出た。日本軍がこれを保護していることをアピールする写真や報道ばかりが 内地に流布してたなか、清水が描く虚ろな表情の難民たちのすがたは、その苦しい信条を浮き 彫りにしている。(迫内祐司)
 安部合成「見送る人々(上段中)」昭和13(1944)年 117.0×73.0cm 第25回二科展・事変室。 興奮して絶叫する群衆の中には、落ち着いた表情の帽子の男がいる。それは画家の自画像 だ。…本作は時局を率直に反映した主題にもかかわらず、阿部は「反戦画家の烙印を押されて しまう。(足立元)

 北川民次「鉛の兵隊―銃後の少女」(上段右)昭和13(1938)年 54.7×70.0cm 第一回聖戦美術展 に北川が招待作家として出品した作品。発表時の題名は《銃後の少女》。娘多美子をモデルに 西洋人形を背負った少女が玩具で遊ぶ様子を描いた。子供にとって楽しいひと時にもかかわら ず少女が「無表情」なのは北川と戦争との間に「距離感」があったからかもししれない。(吉良智 子)
 北川民次「出征軍人を送る」(左)昭和19年(1944)年 79,0×64.0cm(福富太郎所蔵)戦地に赴く 兵士を家族だろうか、近所の人だろうか。皆で送っている様子を力強いタッチで描く。左手に奉公 袋を持ち、日章旗を襷掛けする兵士の視線は遙か空を見上げ、この先起こることを案じているよ うだ。福富氏曰く「北川民次の珍しい作品」(「太陽/画家と戦争」編集部)
 名井満亀「爆撃」(中)昭和16(1942)年 第一回航空美術展出品作。「太陽/画家と戦争」で初めて 知った作品である「爆撃」と題がついているが、空襲のような感じの絵である。米軍の大型爆撃 機が撃ち落とされようとしている。落下傘は乗員だろうか、市街地は空襲のため炎に包まれてい る。米軍の大型爆撃機撃墜の戦果よりもその下で逃げ惑う人々、阿鼻叫喚が夜の闇にモノクロで 浮かび上る。その後の主要都市に行われた米軍の無差別空襲を十分予感させている。(藤井 建男)
 靉光「梢のある自画像」(右)昭和19(1944)年 靉光は昭和18年、松本俊介、井上長三郎、麻生三 郎、鶴岡正男らと8人で新人会を結成し、戦時色を強くする画壇に対する反発する。翌年37歳で 応召され敗戦後21年1月、アメーバ―赤痢に罹患し上海の陸軍兵站病院で絶命する。この自画像 は戦地に向かう前に描かれた5枚の自画像の1枚。絵を描くこと以外に自己を主張することのない 靉光にとり召集は生の終焉だった。この時期に描かれた自画像はどれも襲いかかる時代の強制 を逃げずに受け止める気迫と合わせ、忍び寄る絶望を描いている。(藤井建男)
◇   ◇   ◇

五 「戦争画」
「美術の中の戦争」で最も重要な位置にあるのが「戦争画」である。が、“戦争理念があいまいな 日中戦争”と“アジアを西欧列強から解放し大東亜共栄圏をつくる”という明快な大義名分を掲げ た太平洋戦争では画家に求められたものが劇的に変わっている。日中戦争から太平洋戦争の 当初まで、勝利に次ぐ勝利、順調な侵攻、イギリス、オランダ軍の壊滅、敗走が描かれる。従軍 画家が描く戦場は兵士の休憩や遠方に繰り広げられる戦闘の黒煙、行軍なども多く見ようによっ てはどこかのどかでさえある。だが圧倒的物量で襲いかかる米軍との太平洋上、諸島の戦い は、制海、制空権を奪われると、時間を置かずに玉砕を散華と強制する凄絶なものが主流となっ ていた。戦争の実態は報道管制によって国民には知らされず、徹底した皇国史観と幼少時期か ら徹底された忠君愛国の思想は、新聞を中心にしたマスメディアを通して届けられる戦況、勇猛 果敢なたたかいをさらに生々しく描く戦争画で確認にすること以外になかった。
 軍の狙いと国民の殉教的散華を讃える心情と、自他ともに認める巨匠たちの、油絵の本家ヨー ロッパの美術館、聖堂、礼拝堂に掲げられるティントレット、ルーベンス、レンブラント、ドラクロア、ジェリコーなどの群衆歴史画のような、ドラマのある群像を描きたい願望が見事に絡み合っ て戦争画の時代をつくりあげたと言えよう。フラスで学んだ者はもちろん画壇の重鎮の技量が余 すことなく注ぎ込まれた。こうして戦争画は戦争末期でさえ空襲の合間を縫って全国で開示され 続け「昭和20(1945)年7月22日、つまり終戦の3週間前にまでは青森県弘前で陸軍記録画展が開かれ戦時下の国民を引き付けていた。」(「太陽/画家と戦争」)と言う。しかし、終戦の直 前まで国民を引き付ける力を持っていたと言われる戦争画は、戦争の実態を写すものではな かった。南洋諸島の密林で繰り広げられる米軍との凄惨な死闘を生々しく描くのだが、殺される のは全て米兵であり肉弾となって銃剣で突きかかっているのは全て日本兵であった。皇国史観 と軍人勅語の「死は鴻毛(こうもう)よりも軽し」、日本軍の戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」の精神を納得させるバーチャルな大画面づくりに美術界の巨匠たちが精魂込めて筆を振るった のである。
 昭和20年8月15日、日本は国土を焦土にして降伏する。昭和20年10月アメリカ合衆国の戦争省が藤田嗣治(戦時中陸軍美術協会会長)、山田新一(戦時中朝鮮軍報道部美術班長)らに 作品収集を委嘱、東京都美術館に収集された153点が収納された後、米国との返還交渉が長く 続くが、1968年夏、「返還」ではなく「無期限貸与」されて、1969年完成の国立近代美術館に 翌70年収蔵された。その後作品の公開は政情、アジア諸国への配慮など様々な理由で行われ ず、数点ずつ五月雨式に公開されてきた。

 2015年秋、藤田嗣治の「戦争画」14点を含む全収蔵作品26点の公開と言う形で藤田嗣治 の展覧会が開かれ「戦争画」の代表作が一堂に公開された。絵は「サイパン島玉砕私もこの展 覧会に足を運んだ。初めていわゆる“藤田嗣治の戦争画”の全貌を目の当たりにしたが、藤田の 心胆を強く表すのは「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパ同胞サイパン臣節全うす」(1945年)であった。「アッツ島玉砕」は太平洋末期、アリューシャン列島アッツ島で見捨てられた日本軍守 備隊(2650人)が全滅した万歳突撃を描いたもの。「サイパ同胞サイパン臣節全うす」は昭和 19(1944)年7月7日、本土防衛の要としていたサイパン島で起きた日本軍残存兵力3000名 の万歳突撃後、島の北端マッピ岬で米軍に追い詰めれれた婦女子を含む住民と生き残った日 本軍兵士の集団自決をパノラマ的に描いたものである。

 戦後70年後、新聞、テレビ、戦争映画、劇画などで数多く“戦争画”を見て育ってきた私の 「アッツ島玉砕」「サイパ同胞サイパン臣節全うす」の率直な感想は、第一に藤田嗣治がこの二つ の大画面を、自分の画量を存分に発揮できるテーマとして捉えて画面にほとばしるようなある種 熱いものであり、第二がその熱に陶酔するように藤田は絵筆を振るった―だった。この展覧会で 気になったのは主宰した近代美術館の姿勢である。普通なら“戦後70年の特別企画”と取れる 展覧会であるにもかかわらず、一切館としての企画の意図が示されていなかった。特別企画にも かかわらず、制作された時期、何が描かれているか、なぜ描かれたのか、どこの企画展でも 当然展示される鑑賞者に向けた解説もなかった。この全体をあいまいな形で展示したところに、 藤田嗣治の「戦争画」の置かれている位置がうかがわれた。
 そして、数年前だが藤田嗣治の戦争画を私が尊敬する戦争を知る先輩に、「どう見ても戦争劇 画だ」と述べたところ、「実に良く描けている。この画は戦意高揚、好戦的な絵には見えないし、 厭戦的な絵画だと思う」とやんわり批判されたことを思い出したのだった。
 1972年夏、NHKTVが放映した「究極の戦争画―藤田嗣治」は《「アッツ島玉砕」は全国を巡 回し、『玉砕を美化する』という軍部のプロパガンダの一翼を担った》と述べているが、見る人によ りその評価は大きく異なる。番組で美術家の菊畑茂久馬は「プロパガンダを突き抜けた名画」と のべ、戦中に東京芸大卒業と同時に召集され中国に出兵した経験を持つ画家野見山暁治は画 を見て、「自分が描いたら、憲兵に引っ張られるような反戦的な画だと感じた」と言う。また美術研 究家の笹木繁男は。「アッツ島玉砕」について「何かそこに光がないと、利用できないので、軍神 に祀り上げ、さらなる戦意を鼓舞したのであり、その意味で、藤田のこの絵は戦意高揚を企図し た教科書的な絵となった」と述べており、画家の司修は「“悲惨なものを”“勇気あるもの”と捉えさ せ、“一億玉砕”の信念をうえつけた」述べている。私もこの意見に同感であるが番組は結論のな いまま終わった。
 この点で、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節全うす」について次のような指摘もある。「その悲惨さゆえに、ときに藤田の厭戦意識の表れと言われることがあれば、いやこれらは戦中期には殉教図として拝まれていたと反論がなされる。つまるところ、藤田の戦争画が見ようによって戦意高揚にも反戦画にもなりうるのは、これらが軍からの課題に屈しておらず、作品として自立しているからだろう。」(迫内祐司「太陽/画家と戦争」)
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六  なぜ?そしてなぜ
 ともあれ、昭和の日本美術は柳条湖事件→満州事変→日中戦争→太平洋戦争→無条件降伏 までのあしかけ15年に及ぶ戦争に完璧ともいえる形で呑みこまれた。藤田嗣治、中村研一、宮 本三郎、向井潤吉、小磯良平、清水登之、猪熊弦一郎など昭和を代表する画家が次々と戦争画 作成を軍から委嘱され、あるいは進んで従軍画家となり、又与えられたテーマで戦争画に腕を振 るった。美術及工芸資材統制により軍の意向に沿わなくては画材が手に入らない卑劣な圧力や グループの意志状況もあったかもしれないが、文学と違って“脆すぎる”という思いが強くある。

歴史的名著・家永三郎著『太平洋戦争』」はこの暗黒の時代に抗した良心を、沈黙を含む「消極 的抵抗」とし、(A) 沈黙した作家で筆を折った文筆人に、石川三四郎、転業した服部之総をあげ、 (B) 非便乗の良心的活動と評価できる 文筆人に島崎藤村、石川淳、志賀直哉、永井荷風、川端康成、中野重治、安倍知二など20人近く の作家と作品をあげたほか、学界における身辺の危険を覚悟した勇気のある研究が数々あったことも あげている。家永三郎に言わせれば「日本国民がほとんど理性を失い、こぞって発狂状態に陥った かのような状態を呈していた時代に、心ある人の曇らされることのなかった事実があった」のである。 *(絵・向井潤吉「バリッドスロン殲滅戦」→

文部省戦時特別美術展・昭和19(1944)年多くの画家たちは大正デモクラシーの空気に羽を 広げた時期もあったと思う。封建的な家社会、男尊女卑に抗する自我と自立をテーマとした近代 文学にも触れたであろう。さらに言えば少なくない画家は ヨーロッパに留学し、ローマ、パリ、ベルリンでヨーロッパの ルネサンスから近代、工業化する社会と社会主義の息吹、現代美術の萌芽に洗われている。 翻って、日本国内でも「15年戦争」の当初、全国で労働運動が激しく戦われ、 プロレタリア文芸運動も激しい弾圧の中で繰り広げられ潮流となって多くの人に届いていた のだった。それだけに、その時代にあった日本の近代美術の主な作家が群れるように、こうまで 皇国史観の戦争美術へ完璧と言えるほどに、流れ込んでしまったのか。それは、私が一貫してこ だわっている「何故?」なのである。 *(絵・ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」ルーブル美術館)

この「何故?」は時に“日本美術の空白”とも言われ「戦争画」をめぐって論じられてきたが、私は納得できていない。そしてこの「何故?」の解明の不十分さが、1960年代初頭に始まる「現代美術」が現在陥っている「袋小路」に対する「何故?」に通じる「空白」にどこか似ているような気がしてならないのである。

この小論は1970年、憲法改正を公言してはばからないアベ政権の暴走に対して、国民主権、憲法破壊を許すなの国民的運動が戦後最大の規模で広がる中、ふと、「戦争と美術」「美術と戦争」を考えることが大切ではないかと思ったことがきっかけになった。国会前の大群衆の中にみた美術大学有志の「戦争法反対」のぼり、全国津々浦々で広がる青年の「民主主義に生きたい」、ママたち「だれの子どももころさせない」の横断幕に励まされたと言ってもよいだろう。先輩、友人の運動の中からの厳しく、また心ある助言に感謝しています。

吉良智子は前掲書「女性画家たちの戦争」の「おわりに」で次のように述べている。
「ここで翻って現代日本社会を見のてほしい。戦争とは意気盛んな人々が巻き起こす『普通でな い』狂信的行為だという、ここにもまた『思い込み』がないだろうか。しかし、女流美術家奉公隊に 参加した女性画家の大部分は、意気軒昂というわけではなく、誘われたから何となく加わった者 たちであった。このような当時の女性画家と現代の私たちとの間には、大きな隔たりはないので はないだろうか。戦争とは、晴天の霹靂のようにあるとき突然やってくるものではなく、『普通』に 暮らしている私たちの生活に少しずつ忍び込み、気がついたときにはもう後戻りできないほど進 行しているものである。今日の日本の政治的社会的状況を考えるとき、あの時代と似通った空気 が漂っていることに大変な危機感を感じざるを得ない」
まったく同感である。〆

[# 07]
丸山あつしさんご苦労様でした藤井建男 (2015.11.10)

 丸山あつしさんがなくなりました。2003年の第一回ノー・ウォー展以来、毎年出品し続け、昨年 と今年は会場ホールにマルさん作の8メートルの「集団的自衛権反対」「憲法九条を守れ」の横 断幕が掲げられ、安倍政権のファッショ的暴挙に怒る共有空間が生まれました。この展覧会から わずか二月後の10月10日、文字通りの急逝、享年77でした。いまでも信じられないというのが 率直な気持ちです。
 私の丸さんとの付き合いはほとんどがノー・ウォー展でした。時間にすれば短いものですが 飄々としていながらどこか掟破りの表現をのぞかせる作品を、毎年ひそかに期待していたので す。
 実はマルさんが詩人であることを知ったのは数年前でした。大手新聞社の校閲の仕事をしてい たと人づてに聞いていたこともあって、スーツに文字を書いた紙をびっしり貼り付けた立体の連 作がありましたが、かつての仕事の名残などと…、今思えばそのスーツと文字が何を言わんとし ていたか、もう少しじっくり見ておくべきでした。
 2015年1月、人生晩年のライフワークとして3年がかりで取り組んできた全国の128人の画家、 128人の詩人による『詩画集大成』が出版されました。この詩画集は文字通り「マルさんの世界― 総覧」とでも言うべきもの。この本のはじめの「あいさつ」で「私は今日まで何をしてきたのだろう」 「自分の為に、自分が楽しめるものを何か創りたい」と述べていますが、この本はマルさんにしか できない大変な仕事に違いないと私は思っています(「あいさつ」全文は「みんなの伝言板」に)。
 茨城県の鹿島灘に近い大洋村に転居し「大洋出版・М企画」を立ち上げ奥様と二人でミニコミ文 化情報紙「大洋村通信」を発行、10月号が発行されたばかりでした。その中の奥様のコラムに 「マルさんが昔『森女』を主人公にした戯曲を書いて、横浜の石川町駅前の運河に浮かぶ船上で 芝居の公演をしたことがありました」を見つけました、映画評も書籍紹介も何でも来い、マルさん は昔からの忙しいマルチ文化人でもあったのです。そして、目の前の時局も、抗する動きも油断 なくフォーカスするジャーナリストでもありました。
『詩画大成』にあるマルさんの詩に次のような一節が。
 ―手紙には「一つ目の角を右に曲がって 次の角をまた右に曲がり その角をさらに右に曲 がってください」と書いてある。そこが 当面 ぼくの行き着く先」―
そこがどこだか…マルさんはそこで一息ついて、またそこから、先に行ってしまいまったのでしょ うか? マルさんの絶筆になった『大平村通信』10月号の表紙「筑波峰に雲遊び」(挿入画)がい い。 丸山あつしさんお疲れさまでした。


[# 06]
今 革命のとき?小泉克弥 (2015.10.13)

 安倍政権が戦争法案を国会に提出したことで、憲法破壊だと、怒りが日本中に沸き立ってい る。まるで、革命前夜を思わせる。死語になった革命が、復活するのかもしれない。
 革命が死語になった原因は、1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年ソ連の消滅である。それ 以来世界は、東西冷戦を勝ち抜いた、アメリカ資本主義の一極支配になった。
 革命と言えば、基本図式は労働者対資本。19世紀中葉以来、多くの革命が闘われてきた。そ して1917年10月(ロシア新暦11月)、ついにロシアで、レーニン率いる社会主義革命が勝利し た。第二次世界大戦後、中国にも、東欧にも、社会主義政権が樹立された。世界中で、社会主 義が目指すゴールとなった。マルクスの革命理論の勝利、と思われた。労働者たちは、世界中 で盛り上がった。労働者が革命に燃えたのには、それなりの訳がある。
 「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業でなければならない」。この使命に、労働者階 級は燃えたのである。右の一文は、『共産党宣言』の1989年英語版へのエンゲルスの序文にあ る言葉である。この文章は、『マルクス エンゲルス全集』第21巻では、「労働者階級の解放は労 働者階級自身の仕事でなければならない」となっている。武井武夫訳・編の英和対訳本では 「…労働者階級自身の行動でなければならない」と訳されている。「行動」にあたる英語は”action” である。
 Actionは、行為、行動、活動などと、手許の講談社『英和中辞典』にある。したがって、actionを 「事業」と訳すことは、この文の内容としては間違っていないと思うし、より適切だろう。
 さて、この「労働者階級自身の事業」が、現代日本の労働者にとってどれだけ現実味があるか は、はなはだ疑問だ。現在、日本の労働者の組織率は、17%台である。つまり、1950年代の 50%から凋落し、資本の全面的勝利が打ち立てられているのである。非正規の増加、雇い止 め、生涯派遣、残業代廃止の法制などなど、資本の勝手放題が罷り通ることになった。労働者 が自分たちの闘う組織、労働組合をなくすとどうなるかを、よく表わしている。

 ところが、戦争法案反対を契機に、市民が立ちあがった。「平和を守れ」「9条を壊すな」「立憲 主義をとりもどそう」。日本中津々浦々で、市民が声をあげた。自発的に、自分の意志で。最後は 「安倍を倒せ」の政治スローガンまで出て来た。労働組合より一回り幅広い組織、政党と呼応し ながら、市民が政治的に結集を始めたのである。
 これは、労働者である国民が、労働組合が脆弱なために、労働者としてではなく、「生活者市 民」として表舞台に立ち現れたと言えよう。労働組合を一回りも二回りも大きくした組織、政治集 団へ接近し、それと共同し始めたのである。平穏な生活すら、自ら声をあげないと護れないこと を、国民が学んだのだ。
 つまり、戦争か平和か、その岐路の前で、平和憲法を守れ、立憲主義を守れと立ちあがったの である。
 国民一人ひとりが自主的、自覚的に立ち上がったこの動きは、組織された労働者の運動にとっ て代わる事ができるのだろうか? 果たして、「労働者階級の解放の事業」は、「労働者市民」の 手にバトンタッチされたのだろうか? 哲学研究者の眼から見るとどう映っているのか。マルクス が労働者の運動を先導したように、現代の哲学者はこの運動の前で、どのような声をあげようと しているのか?

「戦争法」(安保法制)が未明に強行成立された2015年9月19日の午後、日本A党は、 「『戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府』の実現」の呼びかけを発表した。間髪を いれぬ素早い対応に感心し、時宜を得た提案と意を強くした。同提案で言うように、これは自 主的、自発的に声をあげ、立ち上がった国民の願いに応えるものである。
 同党機関紙は、同党がいろいろな団体、政党、個人を回って、この構想の実現に 向けて展開している活動を報じている。その動きの中で感じられるのは、野党共闘を土台にした 選挙協力を中心に、組織、団体、個人の幅広い結集を実現することへの、真摯な探求である。
 この呼びかけは、政党の範囲を越えた新しい組織を必要としているのではないだろうか。つま り来年の参議院選挙、それに次ぐ総選挙での「国民連合勢力」の勝利のためには、従来の政 党の枠にとらわれない、「国民連合」のような一点共闘の選挙母体を作って闘うことが必要なの ではないだろうか。一致できる政党をはじめ、組織、団体、グループ、個人に広く呼び掛け、一点 共闘の確認団体「国民連合」をつくることが必要なのではないだろうか。候補者も、その中での 討議で決めて行く。政党から候補者を出してもいいし、シールズのような学生団体、色々な市民 団体、組織から選んでもいい。みんなの合意で候補者を決めて打って出るのがいいのではない だろうか。「国民連合のOOです。9条を守り、戦争法案を廃止しましょう!」の訴えは、一政党名 を越えた力を発揮するのではないかと思われる。
 早急に選挙母体作りを呼びかけ、各党にもそこへの結集を促し、候補者選考を進める、という 段取りが必要なのではないだろうか。参院選は来年7月だから、のんびりしてはいられない。
 この反対運動は全国各地で展開されたわけだから、選挙母体作りも全国各地でおこなわれなけれ ばならないだろう。なんとしても、この「戦争法制」を発動させない、そしてできるだけ速やかに 廃止する。そのための方途の一つとして出てきたアイデアだから、「野党共闘」という枠を大切に しながらも、幅広く市民を結集する組織を立ち上げることが急がれるように思われてならない。 「国民連合政府」ができれば、それがさらに発展し、日本の民主主義を推進していく力になるだ ろう。「市民革命」が、労働者革命にとって代わると言う事も起るのかもしれない。
 特定秘密保護法の廃止、小選挙区制の廃止も、この政府の任務の一つになるだろう。

 現代革命が、資本主義のくびきから抜け出す方途として、高福祉社会のような北欧型社会変 革が提起されたりしたが、今日本で起っている動きは、立憲主義を守ること、平和憲法を護るこ とが中心課題になっている。つまり、生活よりも、「人権」という理念革命の観を呈している。これ は、「長いものには巻かれろ」的な日本人としては、異例の行動と言えそうだ。今日2015年10月3 日のA党機関紙には、同党委員長と鳥越俊太郎氏、A党副委員長と浜矩子同志社 大学大学院教授との懇談が報じられている。どちらのケースでも「一種の『市民革命』につなが るもの」(志位)、「私たちが目の当たりにしているのは21世紀型の市民革命です」(浜)と述べられ ている。つまり、「日本革命」が動き出したのである。その流れに自らを投じるのかどうか、市民 レベルではそれが問われている。
 この日の同紙の日比谷野音での「安倍政権ノー」の集会の記事は、仕事帰りに参加した埼玉県に 住む滝本えりかさん(27歳)の、「何もしないのはもう嫌です」という声を伝えている。無関心の 「無党派」から、安倍政権打倒の「関心派」への進化である。こういう思いの変化は、そこここで 起っている。
 A党機関紙に登場する多くの人の話に共通するのは、「何としても安倍政権を倒し、政治 を変えたい」、「みんなが自分で考え、行動している」「政治の原点で眼を覚ました」などである。 これをまとめれば、「無党派層」が「党派層」に変わったと言うことである。
 日本の政治は、大きく動こうとしている。国民のあらゆる階層が参加してきているところに、 「革命運動」的な側面を見ることができる。この国民の意志が平和と立憲主義を護る政府に結実 すれば、そこからさらに発展し、生活のあらゆる部面の改革へと向かって行くだろう。
 若者の要求でいえば、高利貸的奨学金の重荷をどう解消するか、ブラックバイトを初め非正規 労働から正規労働へどのように切り替えて行くか、勉学を阻害する就活をどのように改善する か、出産後も働き続けるための保育所の問題、老人福祉、特に特別養護老人ホームの拡充、 医療費、消費税、選挙制度、教育問題、課題はいくらでもある。それを一つ一つ解決していけ ば、「革命」になるのではないだろうか。

 右に見た「革命」は、「民主主義的変革」をその内容としており、資本主義の枠内での民主主義 的変革を意味している。そこにおいても、資本家と労働者という二大階級の支配と被支配の関 係は続くのである。従って、政治的な政策課題の一致があっても、賃労働と資本の問題をどうす るかが課題として残る。これを解決しない限り、革命は完成しない。人間社会は生産活動によっ て存立しているから、生産の現場における民主主義が確立しない限り、社会の健全性は完成し ない。現代の「社会主義理論」は、どのような処方を提案するのだろうか?
 従来の処方箋は生産手段の社会的所有だったが、これだけ巨大化した生産手段をどのように 社会化するのか? 資本の階級支配を終わらせるためには、生産手段の所有関係を根底から 変革しなければならないのであり、それがつまり社会主義、共産主義への前進なのだろう。しか し、現代の資本主義の巨大な生産力を前に労働者階級は、その生産手段をどのように社会化 するのか、その方途が見つからないでいるのである。しかし、現代の資本主義が、利潤の源泉 を生産よりはマネーゲーム(投機)に切り替えてきているところに、資本主義が腐りきってしまっ たことが明らかに示されている。
 巨大になり過ぎた生産手段の社会化の方途がハッキリしないからと言って、資本主義の枠内で の民主的改革で事足れりとするのは、一つの日和見主義と思われてならない。

 今度の戦争法案の国会上程によって、国民の意識は大きく変わった。無関心者が「関心者」に なった。自分が声をあげないと政治は変わらない、と認識し出した。その彼らにとって、「A党」は べつに違和感を持つ対象ではない。むしろ、頼もしい味方と感じている。闘いの中で、人は変わ るのだ。
 私は思う、目指す社会が社会主義、共産主義の社会であって一向にかまわない。ただ、生産 力の途方もない巨大化の前で、社会主義、共産主義のイメージがハッキリ像を結ばないだけだ。 それが、社会主義ってなんだろうと言う懐疑を生む原因になっているのではないだろうか。だい たい、この巨大な生産力を、どのようにしたら社会化できるのか、全くわからない。社会化ではな く、労働者管理という方法もあるのではないか。ポーランドの自主管理労働組合の経験がどの ようなものであったのか、私は立ち入って調べたことはないので何とも言えないが、「所有」を移 すから、「労働者管理」に移すということが、一つのあり方として研究されていいのではないだろ うか。
 『現代思想』の10月臨時増刊号「安保法制」で、戦争法案反対の動きを色々な人が論じている。 教えられるところが多そうである。詳しく読んでみたい。


[# 05]   故 松三郎に思う―

“戦争いまだ終わらず、父の今際を追う”藤井建男 (2015.8.20)

 松三郎の作品との印象に残る出会いは2005年8月、神奈川県民ホールギャラリーで開かれた 第3回ノー・ウォー横浜展だった。第4室の中ほどに目立つことを避けるかのようにかけられた 40号ほどのグアッシュよる「噛む馬」がその作品で印象は極めて強烈だった。皮を剥がれたような 馬が肉色の体をよじって自分の後ろ左足首を噛んでいるのである。絵の前にしばし立ち止まっ た記憶がある。
 馬が自分の後ろ足を噛むなどということがあろうはずがない。彼独自の「寓意」であろうか。馬 が馬であることに悔み、自分の足首を噛むなどということは想像しがたい。その発想が凄まじい、 そしてこの絵には何とも言えぬリアリティが渦巻いていた。
 松三郎は終始在野に立ち、そこで鍛えた筆力の荒々しさと市井に生きるやさしさをないまぜに した冷えた感触のある独特の美しい絵を描き、ノー・ウォー横浜展に10年近く出品し続けた。だ から私は毎年確実に彼の絵と出会うのだが、どの作品にもこの「噛む馬」に連なる諧謔、冷徹な 死の奥行きの深い光景が見られ、一体、画家・松三郎の世界とはなんだろうか、彼を突き動か すものは何か?見るたびに私をとらえた疑問であった。
 2009年の出品作は明らかに「日の丸」の旗らしきものと共に水中を沈みゆく頭部を破壊された 男と二つに折れて沈んだボートが見える絵だった。2011年の出品作「水の囚人」はさらに水中深 く錐揉みするかのように沈んで行く裸の男の姿であった。執拗に水中に沈みこむ人物は何者か、 海面から透かし見るようにして描かれているこの深い海はどこの海なのか、私は何度もそのこと を聞こうとして遂に聞く機会を失った。
 2011年のノー・ウォー横浜展のオープニングだったと思うが私は彼に「この展覧会に続けて出 品する理由は何ですか」と訊ねた。彼は短くぼそぼそと「父は絵を描いていて軍属としてフィリッ ピンに渡り、マニラの郊外で戦死しているのです」と語ってくれた。それで私は彼のノー・ウォー 横浜展への出品の動機を納得したのである。
 しかし、実のところ松三郎は父の死を受け入れていなかったのではなかったか。そんな気持ち がその後私の心どこかに引っかかり続けていたことも事実だった。
 本画集に寄せている兄の福島建夫氏の追悼文によれば、昭和20年(1945年)に、マニラの郊外 で父・傅治郎氏が戦死したという書類が、疎開先の北海道へ届いたという。戦死というものの実 情は『行方不明』ということで、母、建夫氏と松三郎の3人は東京へ父の位牌を受け取りに行くの だが、そこで渡されたのは中に何も入っていない白木の箱だけだったという。東京の生家も20年 の空襲で消失、父・傅次郎のアトリエも作品も灰燼と帰した。生家・福島家の終戦の様である。
 8歳にもなる少年が、空っぽな白木の箱を渡され『戦死した父』などと言われて納得できよう か。白木の箱の空虚、その中に浮かび上がるのは父の死、その中にこそ松三郎が描き続けた見え ない光景があり、漁師の箱メガネのように海の中に沈む男がそこから見えたのではなかろうか。 そう思えてならないのである。
 マニラで戦火に呑まれ、空襲で生きた痕跡のすべてを失った父親・傳治郎と言う画家だが絵描 きのDNAだけは息子・松三郎に確かに引き継がれた。無名ではあったが日曜画家・福島傅次郎 の息子であることを、松三郎はある時期からひそかに誇りに思うようになったのではないか。 空っぽな白木の箱の空虚を確かなものにしたい父の最後を描かねばならないと言う思いが憲法九 条の危うさが喧伝されるに従い強まったように思えてならないのだが思い過ごしだろうか。
 アジア太平洋戦争は間もなく敗戦70年を迎える。しかし松三郎の心の中ではこの戦争は終わ っていないのである。2000年代に入って松三郎が描き続けてきたものは、『戦死した父』として 渡された“白木の箱の空虚”の拒否なのである。本来ならこれらは松三郎から聞き確かめるべき 話であるがシャイな松三郎はそれを語ることもなく帰らぬ人となってしまった。
 松三郎はまだまだ描き続けるべきであった。「寓話」めいた「噛む馬」に込められたものについ ても私は聞いてみたかったのであるが…。

 本稿は「松三郎追悼画集」に寄せたものです。松三郎さんはノー・ウォー横浜展に2005年以来 出品を続けてきましたが2014年夏、突然倒れ帰らぬ人になりました。享年76。出版は戦後70年 の「ノー・ウォー横浜展」に間に合う予定でしたが、出版が遅れたので編集者の許可を得て当サ イトに掲載しました。(藤井)

[# 04] 
表現の自由 2件加藤義郎・美術家 (2015.04.23)

殺人を笑う文化
今年1月7日の「シャルリーエブド社テロ事件」では、パリに被害者の国フランス内外から追悼と 抗議に多くの人々が集まり、“イスラム過激組織”の暴力に怒り、「表現の自由」を叫んだ。この 殺人事件の陰に隠れてしまったが、昨年12月末ごろアメリカで米ソニー製作の映画「ジ・インタ ビュー」の予告編が公開され、北朝鮮からクレームが付いて“国際”問題になっていた。架空の 話とは言え、北朝鮮の現存する最高権力者を暗殺する、というシナリオだったから。

北朝鮮から、「わが制度を無くそうとする露骨なテロ、犯罪行為で絶対に容認できない」「米政府 が映画上映を黙認、擁護するなら、それ相応の無慈悲な対応措置が取られるだろう」と警告さ れ、全米で公開中止となった。すると米国内に「テロの脅しに屈するな!」という声が高まり、「テ ロには屈しない」とオバマ大統領がテレビに登場した。映画が政治問題? 「表現の自由」は 大事だが、その種の“娯楽映画”で私は笑えないし、観たいとも思わない。

北朝鮮の非公式報道官である金明哲氏が英紙「Telegraph」に「海外のリーダーを暗殺するという この映画の内容は、アメリカがアフガニスタン、イラク、シリアでやってきたことそのもの」と語った が、全く同感。日本の自衛隊が重装備で駆け付けたイラク戦争では、敵国の要人をトランプカー ドにして、「WANTED! Dead or Arive」などとやり、兵士や無辜の民をも殺傷し、大統領を捕えて 処刑した。戦争という現実の殺人に比べれば、映画の中での「架空の殺人」などは罪がない、と アメリカの一部の映画人も国民も、オバマ大統領もそう思っている…とは思えないが。

強者が弱者を差別し、嘲笑して喜ぶ様は「表現は自由」だなどと彼らと一緒には喜べない。精神 的“文化的”な虐待や不公平を押し付けられ、貧困状態に置かれたために怒りや反抗心が集団 的暴力と化した歴史も少なくない。“イスラム国”もその一例と言えるだろうか。大国アメリカが 不当な理由で石油産出国イラクに戦争を仕掛け、独裁フセイン政権を壊し“民主化”し、旧政権下 の政治家、軍人、民衆の多くが職を失い、家や家族、財産も戦争で失くした人たちが生きてゆく ために集まった。70年前に欧米強国が、そこに住む民族、宗教も無視して勝手に地図上に線を引き、 幾つかの“国”に分けたのを、元に戻して“イスラム国”としよう。現状では報復戦争という手段 しかない所まで追い詰められ、命懸けで始めた戦争の様に思える。

“イスラム国”劇場=殺人もあり
1月20日、“イスラム国による邦人人質事件”が突然TVに流された。日本人2名を脇に座らせた 覆面男がナイフを構え、日本政府に対し「身代金2億ドル」を要求した。安倍首相がエジプトで 「“イスラム国”と戦う国々に総額2億円の援助をする」と言ったので「日本も米英などと共同の 敵」として日本人を捕えた(らしい)。安倍首相は「人道支援で、戦争支援ではない」とマスコミに 言い訳し、「テロとは交渉しない」と断言した。人質の一人が著名な写真家でもあり、成り行きを 心配しながらTVを見た人も多かった。10日後、2名の人質が殺害された事実が判明した。

犠牲となった人質の遺族は悲しみ、世界中のイスラム教徒や、ヨルダンなど関係各国の政府関 係者、善意の人々の弔意もTVで報道される中で、イスラム国は昨年秋に人質写真家の家族に 身代金要求の手紙を幾度も送り、家族は日本政府にも相談していたことが分かった。身代金は 今年になってTVで要求した金額よりも低い額だったが家族に能力はなく、政府の援助はなかっ た。そしてエジプトでの「首相の援助発言」を機に“イスラム国”はTV公開で2億ドルを政府に要 求した。日本政府は想定内とばかりに「テロには屈しない」と、人質の命を見捨てた。

この事件における日本政府の対応にも、殺された写真家の行動にも賛否両論はあるものの、マス コミも国民(国会)もその声は小さかった。“イスラム国”の残虐さは大方の非難の的で、今度の 一件「小刀で殺す残酷さ」も言われる。傍観者には銃や無人機の方がマシかも知れないが、殺さ れる方にとっては残酷さは変わらないと思う。また「海外で日本人を救出するためにも憲法改正 が必要」と、この事件を援用する声もどこかから聞こえる。一旦始まると容易には終わらない 戦争を利用して、戦争する日本に戻してはいけない。


[# 03]
恒久平和の為に鵜澤明民・画家 (2014.10.23)

人類は今、第三次世界大戦に向かって、刻々と破局への道を突き進んでいる。
誰だって、「戦争と平和」どちらが良いかと聞かれたら、平和の方が良いと答えると 信じたい。
よく動物は残酷だと言うが、動物は自らや群れの食料・給餌行動、あるいは、種のヒエ ラルキーを守る為に、やもなく殺す事は確かにある。しかし人間のように近代に入っ てからでも第一次世界大戦で2600万人・第二次世界大戦で5355万人、そして現在も続く 戦争・テロによって、有に1億人を超す尊い人命が虐殺され、その大多数が無抵抗な 女性・子供を含む、民間人である事は絶対に許されるべき事ではない。
また日常的に繰り返す殺人。ましてや人間以外の動物は、死体を切り刻ざんだりは絶 対にしないのである。
したがって、この地上で1番残酷で残虐なのは、私達人類であると言わざるを得ない だろう。まさに狂った猿なのだ。
私達人類は、進化の過程で大自然の有機的株序からズレ<イメージ=欲動する>存在 となり、その事によって無際限の殺戮、倒錯した性、ありとあらゆる暴力が支配する 世界を出現させる事になった。
この危険極まりない力オスを封じこめる為に、第二の自然、すなわち言葉・言語による <文化の秩序>が絶対に必要だったのである。
しかし、この力オスの記憶は消えて無くなった訳ではない。
したがって人間は誰でも不可避的な契機さえあれば、どんな残虐な行為も殺人も犯す と言う事だ。
それを、人類精神のDNAに刻印された「殺戮の本能」と呼びたいのだ。
しかし、だからこそ人類はその事を強く自覚し、それがどんなに遠く困難な道であろう とも、世界の恒久平和、自由、平等、友愛に満ちた世界を、逆説的にこの地上に実現さ せなければと願うのであり、それは決して不可能な事ではないと信じる。
国家=国民=資本主義グロバーリィーゼエション。それらは、互に補完し合い、強力な 三位一体となって、全世界を支配している。このシステムが続くかぎり、第三次世界大 戦環境破壊、経済的絡差の危機によって45億年続いて来た生命の星、縁の地球は、か ならず崩壊するだろう。
したがって世界同時革命によって、それらを揚棄する事が絶対不可決なのだ。

ここでは、その一つの方法として国連について書こうと思う。
第二次世界大戦の悲惨な体験から設立された国連は、人類の偉大な達成である事に違い ない。現在、全世界の193ヶ国が加盟し、普遍性を有する大組織である。
しかし、安保理に見られるように、第二次世界大戦に勝利した連合国「米・英・中・ソ・ 仏」が拒否権を持ち、事実上この5国の独裁で世界の平和と全安が、支配されていると 言っても過言ではない。この「5大国一致の原則」拒否権などを廃止し、全ての加盟国 に民主的で平等な権利・公平な発言権を与えるべきである。
そして、国連を改革し、国家を揚棄した世界地球連合(名称は何でもよい)を設立し、そ の憲法に当たるものには、日本の平和憲法第九条・人道主義を置くべきである。
そして全世界各国の軍事的主権と、核兵器を含む大量殺戮兵器、武器を全て新しく出来 たその組織に譲渡させる事である。
また、国連憲章と対をなす国際司法裁判所は現在、戦争犯罪は裁け、拘束力も有するが、 何よりも矛質しているのは、国家間の戦争そのものは禁止していない事である。
正義の戦争など絶対に存在しない以上、戦争そのものが最大の悪であり、大罪なのだ。
したがって新しく設立された組織の司法裁判所に、諸国家を超えた強力な権限を与え、 実効性・強制力・拘束力を持たせ、全ての国家間の戦争、テロリズム、暴力を禁止さ せる事である。それ以外に第三次世界大戦を阻止する道はない。
2014年 秋   

[# 特] 事務局ニュース(2014.6.18)として送信したもの。
いま、イラクが突き付けていること藤井建男・画家 (2014.6.16)

先進国イラク崩壊の危機
イラクでイスラム・スンニ派の色彩が強いアルカイダ系武力勢力「イラク・シリア・イスラム国」(俗 称・ISIS)が北部のイラク第二の都市モスルを制圧し、さらに北部の主要都市を次々と抑え込 み首都バクダッドに近づいている。加えて、政権寄りのイスラム教シーア派が義勇軍を組織して これに対決するという。首都バクダッドをはじめ多くがシーア派、スンニ派の市民が混在する都 市、悲劇が拡大されることが心配されている。アメリカ、イギリスをはじめヨーロッパの主要テレ ビ局はこぞって「イラクが崩壊(分裂)の危機にある」と警鐘を鳴らしている。軍服を捨て市民に 紛れて逃げる軍人、奪った兵器で勝利を誇示する武力勢力、そして目を背けたい凄惨な映像 が届いている。緒方貞子国連人権委員会日本政府代表がイラク戦争開戦当時のべた「イラクは途 上国ではありません、先進国です」という言葉が私の記憶に鮮明だが、伝えられる今はその言葉 が嘘のように中世的な殺戮が公然と繰り広げられている。
発端はアメリカの仕掛けたイラク侵攻
今日のイラクの危機、悲劇の発端がアメリカの始めたイラク戦争にあることは誰もが認めるとこ ろだ。が、なぜかそのことが公に指摘されていないのが気になるのだ。もう一度2003年アメ リカが国連を無視して始めた進めたイラク戦争を思い出そう。アメリカが掲げたイラク戦争の 大義名分は「イラクが大量破壊兵器を持っている」その一点だった。しかしその確証を国連はつ いにつかめず、アメリカの独断と偏見のもと国連の決議のない形で戦争は開始された。イラク軍 は敗北、フセイン大統領は捕獲され死刑。この戦争で10万人以上の市民が殺され、400万人以上 が住むところを追われたと言われている。アメリカのイラク占領という形で戦争は終結を見たの だが、間もなくイラクに大量破壊兵器がなかったことが明らかになり、ブッシュ大統領が「大量 破壊兵器情報は誤りだった」と述べるに至ってイラク戦争はイラクの国土を破壊し疲弊させ憎悪 と憎しみのるつぼにしただけの歴史に汚点を残す不正義な戦争となった。
反省する国々、しない日本
アメリカのこの戦争に加担した各国指導者が反省を迫られるのは当然、ブレア英国元首相はイギ リス議会検証委員会で承認喚問され、オランダでは検証委員会が「政府のイラク戦争支持は間違 い」の判断を下している。アメリカのイラク戦争は不正義の戦争だけではない、完全な失敗だっ た。アメリカはイラク政府に権限を委譲したと言い米軍を撤退したが「投げ出した」の指摘が圧 倒的だ。だが、日本政府はこの戦争を検証せず、反省せず、不問にしたままアメリカの戦争に参 加せざるを得ない国づくり・集団的自衛権の容認に動いている。
「ノー・ウォー美術家の集い横浜」発足
アメリカがイラク戦争を始めたとき世界でこの戦争に反対する声が上がり、私たち美術家もこの 声に合流して「ノー・ウォー美術家の集い横浜」をたちあげ、ノー・ウォー横浜展を開始した。 その時掲げたアピールは 「.アメリカはイラクを『悪の枢軸』と決めつけ、先制攻撃を仕掛けよう としていますが、それを許せば暴力と憎悪の連鎖が拡大されるだけ」と述べている。いまイラク 周辺て起きている悲惨な事態は、残念なことにこの主張が正しかったことを示している。
「ノー・ウォー美術家の集い」のアピールは続けて「日本政府は平和憲法の精神を発揮し、国際 社会において、戦争に頼らない問題解決に全力 をあげることを求める」とも述べている。11年 前のアピールだがその精神はさらに重みを増している。
日本がアメリカの戦争の先兵になるための集団的自衛権
中東でイラクという国が存亡の危機に立たされている今、安倍政権はその現実を前にしてなお、 日本の自衛隊が同盟国アメリカの戦争に参戦できるように集団的自衛権を閣議で確認し、一気に 憲法九条を葬るクーデター的策動を続けている。イラクのことなど目に入らないようだ。
集団的自衛権の行使はアメリカの戦争が間違っていても自衛隊は参戦し、殺し、殺されなくて はならないことであることを、そしてそれが作り出す悲劇に対する責任は果てしなく重いという ことを現実からリアルに認識することができないのだ。
秋のノー・ウォー横浜展で美術家の意思表明を!
今年10月21日から始まるノー・ウォー横浜展の参加者を募集しています。11年前のイラク戦争では 自衛隊は一発も発射せず、一人も殺さなかったのが自慢でしたが、安倍政権の狙いは「敵を殺し、 見方が殺されても仕方がない」という70年も前の思想です。日本の新たな情勢をにらんで、戦争 反対・憲法守ろうという私たちの作品を持ち寄ろうではありませんか。

5,000字スペース(仮題) 新設の主旨 /2014.4.5
皆さま、いつも「ノー・ウォー横浜展」にご参加、或いはご協力を有難うございます。
作品発表の場としては年1回の展覧会で満足される方が多いと思いますが、さらに出品者 同士の交流・親睦を図りたいと、“みんなの伝言板”(800字まで)も設けています。しかし、 800字では意を尽くせず多くの字数を要してしまい、しかも優れた内容であるとしたら、別の発表 の場を提供したくなります。とはいえ、まったく字数制限を無くし、一冊の本になるほど では困りますので、特に根拠はありませんが5,000字までではどうでしょうか。
この動機の一つとなったのは藤井建男氏の「女性画家シャルロッテ・サロモン」ですが、許容字数 が増えれば自分も書いてみたいという人もいるかと思います。テーマは、「ノー・ウォー横浜展」 と同じく“反戦・否戦”に関わらず「自由」です。一度お考えください。
他にご意見などありましたら、事務局までお寄せください。(ぎ)

[# 02]
その後の柳瀬正夢の「富士」藤井建男・画家 (2014.4.3)

1933年、柳瀬が治安維持法違反で逮捕され、懲役2年、執行猶予5年の刑を終えてからの事で ある。
柳瀬正夢の大規模な回顧巡回展が昨年12月から北九州市立美術館、鎌倉近代美術館・葉山 館で開かれ4月5日〜5月18日の愛媛県美術館の展覧会で終わる。
「その後の柳瀬正夢」について展覧会の共通図録は、「保釈中柳瀬は、政治活動にかかわるこ とができなかったので、職業画家の道を探るべく、油絵の研究をつづけた」とある。

この時期とその後の柳瀬については、村山知義と共に立ち上げた前衛的美術運動「マヴォ」や 逮捕される以前の労働者、農民運動と連携し軍国主義と真っ向勝負する戦闘的で政治的な諧謔 に満ちたマンガやアジテーションの効いたポスターなど多元的な仕事の印象が強烈だったせ いもあって、その後の作品と行動に“物足りない”と残念がるファンも少なくない。正直言え ば私にもその傾向はあった。果たして「その後の柳瀬正夢」は“ファンが残念に思うように” 戦う意思もエネルギーも失せたのか。

しかしそうではなかったと私は思うようになった。なぜなら、彼の作品と足跡を追ってみるうち、 戦わんとする柳瀬正夢の姿が見えてきたからだ。

1933年当時は、いわゆる治安維持法による左翼運動への弾圧は一層激しさを増し、表現の一つ 一つに厳しい監視の目が注がれ、労働運動も次第に力を失って大政翼賛会に向かって流れだし た時期だ。国民総動員体制、軍機保護法で国民の目、耳、口が完全に塞がれようとしていた 時期でもある。一方、戦局は中国に侵略した日本軍の長く伸びた戦線が疲弊し、軍部は勝算の ない南進論のもと無謀な太平洋戦争に急速に傾いていた。

保釈期間が終了した柳瀬だが、以前のように活動する場はすでになかった。しかも二人の子供 を養いながら生活を糊塗するのがやっとだった柳瀬正夢…。だが“戦う意思あり”だったのだ。 たとえば柳瀬正夢の仕事と時勢に向き合う姿勢を感じさせる一つがこの展覧会に展示されて いる小品の「富士」(油彩0号)である。
「富士」は1938年4月の作となっている。5年の執行猶予期間が終えて心の縛りが解かれたのか、 スケッチ旅行で描いたと思われる。青空のもとにゆったりと裾野を広げた富士。麦畑だろう秋 の空に山と積まれた穂の山がいくつか見られ、野菜畑はネギ畑に見え、緑爽やかに畝に並び育 っている。「富士」の正面に宝永山の火口が描かれているところから、今の裾野市あたりから の景色と思われる。注目されるのは富士を描く場合に多くの画家が嫌う、いわゆる「富士山の 痘痕(あばた)」と言われる宝永山を真正面にみて画面の中央部に配置していることである。

歌川広重、葛飾北斎をはじめ浮世絵が描いた庶民の暮らしの中に溶け込み親しまれてきた「富士 山」は明治以後姿を消し、やがて「富士山」は霊峰富士として崇められ奉られて「天皇の国日本」 の精神的なシンボルになっていく。この時期、日本国民は雲の上に朦朧と姿を現している無気味 な富士を“散る桜”と共に最も日本的な光景と思い込まされていたと言ってよいだろう。また、 日本政府は1938年5月には日本を訪れていたヒトラー・ユーゲントを通じてヒトラーに横山大観 の「富士に日の出桜」を贈っている。「富士」「桜」「靖国神社」「神風」は党国民精神を侵略 戦争に流し込む仕掛の中で重要な役を果たしていたのであり、国民の隅々にまで信じることを 強要された侵略的軍国主義文化の柱だったのである。

したがって「富士」をどう描くかは画家の富士山にいだく思いが問われることになる。その意味 では描きづらいテーマだったのだ。こうしたことを勘案すると、柳瀬にこの「富士」を描かせた ものは堅甲な反骨精神であったと見ることは可能だ。

この回顧展にもう一点、この小品「富士」の二か月前に描いた「早春の富士 西伊豆江梨ヨリ」が展示 されている。これも農家の屋根越しに眺めた富士である。やはり庶民の暮らす屋根の向こうに素朴に富 士は描かれているが、この作品には庶民の暮らす空気はそれほど強く感じられない。二か月後の小品 「富士」、これにはここに暮らす人の息づかいが感じられるほど農村の空気は濃密であり、富士山それ 自体にリアリティがある。柳瀬がこの時期、描いた富士を進化させている。そこには人間の息遣いを くみ上げる新たな試みが始まった、と私は見る。

柳瀬はその後中国の北京を旅行しているが、そこで写した写真もスケッチも人の暮らしと庶民の息づか いを丹念に追っている。新たなページを開いたばかりだった柳瀬は心の中で戦争が早晩終わると読んで いたのではなかろうか。「富士」を描いた1938年の一年後に戦局は一転、中国大陸で日本軍は泥沼に はまり、アジア太平洋で占領したすべての戦略拠点に米軍の猛反撃が始まり、兵站を絶たれた日本軍 は悲惨な敗走、あげく玉砕を続けることになる。

1945年5月25日、長野県上諏訪に疎開中の長女を見舞うため新宿に行き、午後11時ごろ新宿駅西口 広場で空襲に遭い死亡(享年45)。新たな展開に踏み出そうとしていた矢先の無念である。終戦まで あと91日だった。“霊峰富士”は東京を襲う米軍の爆撃機B29が東京上空に向け進路を変更する際 の目印にされたという。〆

■ノー・ウォー美術家の集い横浜

[# 01] アウシュヴィッツに消えた女性画家

シャルロッテ・サロモン

人生?あるいは劇場?
藤井建男・画家 (2014.4.8)   
  〜1〜
ナチスのアウシュヴィッツ収容所で1943年10月、26歳5ケ月の短い命を絶たれたシャル ロッテ・サロモンというユダヤ人の女性画家がいたことを知る人はあまり多くない。
1988年の8月末から10月末にかけて東京、大阪、横浜、京都の高島屋デパートで巡回展が 開かれているが、その後画集も出版されていない。テレビなどで紹介された話もないから彼女を 知る人は少なのが実際のところだと思う。そういう私も横浜に住みながらこの巡回展の記憶がな い。したがって、数年前までシャロッテ・サロモンという女性画家がいたこともその作品も全く 知らなかったのであった。    絵・シャルロッテ23歳の自画像
私がシャルロット・サロモンを知ったのは2008年、当時パートで勤めていた文京区本郷の職 場の近くにあったドイツ書籍専門店で何気なく手に触れた画集によってである。ドイツ現代美術 家の画集が何冊か並ぶ棚に「Charlotte Salomon Leben?Oder Theater?」というぶ厚いハード カバーのA4版の画集が目についた、というより背表紙のカットに使われているドイツ表現主義風 の女性の顔に引き付けられたのだった。手に取ってみると巻頭文、解説、経歴の30数ページを 除くと残る400頁に、身の回りの出来事だろうか、記憶だろうか、あたりかまわず見たもの、 聞いたもの、思ったことのすべてをグアッシュ絵の具でときには美しく彩られた文章で描き綴 った大小770点の絵が刷り込まれていたのであった。絵は全て精魂が込められ、どの絵も生 き生きと何かを語り掛けている…。
巻頭のシャルロッテ・サロモンの経歴の最後はアウシュヴィッツ収容所の写真で終わっている。 アウシュヴィッツ収容所は第二次大戦でヒトラー・ナチスがユダヤ人を中心にドイツ、ポーラン ド、オランダのおよそ民主主義者と言われる人々を片端から送り込み凄惨・残虐の限りを尽くし 虐殺した絶滅収容所だ。
初めて見る名も知らぬ女性画家シャルロッテ・サロモンがアウシュヴィッツ収容所で命を絶たれ たことは確かだと直感した。「Leben? Oder Theater?」の日本語訳は「人生?あるいは劇場?」 である。描き急ぐような1000点に近い絵は何を語っているのか。私はためらうことなく画集を購 入した。
    
ナチスのユダヤ人の迫害を逃れて、祖父夫婦の逃れているフランス南部の保養地の隠れ家にいた シャルロッテは1943年の夏の終わり、ナチスの追跡が身に迫ったのを感じて近所付き合いの 良かった医師モリディス博士を訪ね「これを大切にしてね。私の全人生なの」と彼に茶色のスー ツケースを渡した。その中には1000点に及ぶグアッシュで描かれた絵が入っており「人生? あるいは劇場?」と名前がついていた。
「人生?あるいは劇場?」はシャルロッテの誕生からナチスにとらわれてアウシュヴィッツ収容 所に送られる直前までのわが身を包んだすべてを描き綴った自伝的作品だった。しかし自分史と いう自己の記録ではない。ドイツに起きたナチズムの恐怖が見事に描かれている。文化を捻じ曲 げ、家族を引き裂きやがて人間を跡形もなく消してしまうヒトラーのナチズムの嵐の中で、そこ に生きた人間の痕跡として描き切ったものであった。第二次大戦を開始したドイツにおけるユダ ヤ人社会が繰り広げた明日のない生きるための決死の格闘がそこにあり、 若い女性画家の筆による目をそらせてはならない現代史といえるものだった。

シャルロッテ・サロモンは1917年5月16日、ベルリンの医師アルベルト・サロモンとその 妻フランツイスカの娘として生まれた。家はドイツ社会に同化したユダヤ系の裕福な家庭。当時 のベルリンでは最も格が高い地域に住みインテリ、芸術家、実業家などがにぎやかに交流し合う、 光あふれる幸せに包まれた家庭に育った。9歳の時母が自死し、父アルベルトは1930年9月 に歌手のパウラ・リントベルクと再婚する。パウラの豊かな人間関係、幅広い教養が明るい光と なってシャルロッテと家族を包だ。「人生?あるいは劇場?」のこの時期の描写は自由な空気に 満ちている。   絵・「人生?あるいは劇場?」の表紙⇒
下・パウラと幸せな日々(省略*)
 〜2〜
   1933年3月1日、ヒトラーが政権を握るとサロモン家だけでなく周囲の空気も一変する。こ の年の2月27日、ナチスは選挙の直前に国会議事堂の放火を演出。共産党の仕業とでっち上げ 共産党を抹消し、議席総数を減らし議会を支配すると「全権委任法」を制定してワイマール憲法 を改訂、憲法で定められていた基本的人権を停止。多くの共産党、社会民主党員が逮捕され強制 収容所に送られた。ヒトラーはドイツ人を優秀人種とする一方ユダヤ人を「最低の人種、除去さ れるべき悪魔の民」と決めつけ絶滅作戦を開始したのである。
父アルベルト・サロモンはユダヤ人であることを理由に職を追われ医師の資格も奪われる。シャ ルロッテは絵の裏に書いている。「政府の要職を占めている仕事のできるユダヤ人、彼らは通告 なしに解雇された」と。シャルロッテが通うことになった総合芸術大学校の担任教授は妻がユダ ヤ人ということで職を追われ、ファシズムに反対する教授はナチスの秘密警察(ゲシュタポ)に 監視されるようになった。学校ではユダヤ人学生への嫌がらせが強まっていった。ナチスは、印 象派、表現主義、ダダイズム、合理主義など、ほぼすべてにわたる近代美術や近代の音楽、建築 などをドイツ文化と社会を退廃させるものとして攻撃、廃絶対象にし、少なくない画家、音楽家 が強制収容所に送られ命を絶たれた。総合芸術大学のカール・ホーファー、オスカー・シュレン マー、エドヴィン・シャーフといった著名な教職員が次々罷免された。 プロイセン芸術院(芸術 アカデミー)文学部ではナチスに反対するトーマスマン・などの小説家・詩人が追放され、ドイ ツ各地で社会主義関係の書物、ハイネ、レマルク、ブレヒト、ケストナーなどの書物を「非ドイ ツ的な著作物の焚刑」の名で焼き捨てたのである。
ベルリン市立歌劇場の支配人クルト・ジンガーは職を追われたが人脈を使って「ドイツ在住ユダ ヤ人文化連盟」設立の承諾を得る。ユダヤ人文化人の飢渇をしのぐ道を探り、国際的友人、亡命 した学者たちの様々な知恵と力を借り、工夫を凝らしユダヤ人文化人の海外脱出の便宜をはかっ たのであった。父アルベルト、妻のパウラはこのネットワークで重要な働き手だった。
絵・ナチスにおもねて文化協会を設立することを逡巡するクルト・ジンガー。
下・1933年ヒトラー政権獲得を誇示するナチス突撃隊のデモ行進(省略*)


 〜3〜
息詰まるようなナチスの迫害の中でもアルベルト家と友人の間では様々な文化人が集まり交流を 重ねていた。物理学者のアルベルト・アインシュタイン、神学者でオルガにストのアルベルト。 シュヴァイツアー、画家のゲーテ・コルヴィッツなどが顔を見せては政治や今後の世界について 話し合っていた。
そしてこの時期シャルロッテの前に若い男性があらわれる。母パウラのオペラコーチとして雇わ れたアルフレード・ヴォルフゾーンである。ヒトラーの迫害で公共の場で演じることができなく なったユダヤ人芸術家を救済するユダヤ人芸術家支援協会からパウラのところに送られてきた青 年である。労働証明書がなければ即国外退去か収容所に送られる危険があるためパウラが正規の 合唱団員に加えたのであった。彼は声楽教育者であったが絵にも関心がありシャルロッテの絵を 初めて評価した人物となった。「人生?または劇場?」の中にヴォルフゾーンが集中して登場す る時期がある。シャルロッテにとって頼れる助言者でもあり、あこがれの男性であり大切な人と なった。シャルロッテ21歳の青春である。
絵 上・下 シャルロッテが心を寄せたヴォルフゾーン(省略*)
ナチスの迫害が強まりシャルロッテ一の家は父アルベルト・サロモンが逮捕されザクセンハウゼ ン収容所に入れられる。レジスタンスの力を得てかろうじて救出されたがもはや寸刻を争って身 を隠さなくてはならない状況に迫られていた。その頃のサロモン家の話題は亡命のことだけに終 始するようになっていたという。そして家族は父アルベルトと母パウラがオランダに身を隠し、 シャルロッテは南フランスの保養地に祖父母を頼ることになった。1940年7月、保養地ヴィ ルフランシュに滞在していた祖父母の友人のアメリカ人オッテイリィ・ムーア夫人の別荘の一隅 の小屋を隠れ家にして息を殺して暮らすことになる。
「人生?または劇場?」の制作はこの隠れ家で着手された。「昼夜を問わず、ほとんど睡眠も食 事もとらず絵筆を握っていた」という友人の証言もある。ドイツが西ヨーロッパに侵攻開始。フ ランスが降伏し南フランスはドイツと同盟を結ぶイタリア軍に占領された。「ドイツ人住民はす べて即刻、市ならびに県から退去しなければならない」との布告が出されイタリアの秘密警察は ゲシュタポと共謀して密告者に褒章を与えてユダヤ人狩りを拡大していく。一刻の猶予もない、 文字通り“生き急ぐ”中での創作であった。
「人生?または劇場?」の最終章は祖父母との厳しい生活が多くを占めている。年老いた祖父母 には理解しがたい現実だった。祖母は神経衰弱になって自死、祖父もやがて失意の中で息を引き 取りシャルロッテは隠れ家に一人残された。
ここで、シャルロッテは夫になるアレクサンダー・ナーグラーと出会う。ムアー夫人の別荘で働 く誠実なオーストリア人でアメリカに帰国したムアー夫人の別荘の管理をしていた。助け合って いるうちに双方に愛が芽生え、二人は1943年5月正式に結婚式を挙げるのだがその4ケ月後 の10月7日、隠れ家にゲシポが踏み込み二人は引きずり出され直ちにアウシュヴィッツ収容所 に移送されたのだった。その時シャルロッテは妊娠4か月。1943年10月12日、到着した その日ガス室で生涯を閉じたのである。
絵 シャルロッテ「神様、どうぞ私の気を狂わせないでください」
絵 亡命の話ばかりになったサロモン家。(省略*)
            〜4〜
   画集を手にして私は描かれているテーマの多様さ、全く形にとらわれない自由な表現に驚かされ た。時にはルドンのようにまたドイツ表現主義のココシュカ、キルヒナーのようにそしてシャガ ールのようにテーマに従い自在に画面を構築し筆を走らせている。シャルロッテが芸術大学に通 い始めたころドイツ美術は印象派の次の新しい波が怒涛のように押し寄せ渦巻いていた。ベルリ ン、フランクフルト、ドレスデンなどでは新しい波頭に立つ美術家が相次いで個展を開き美術界 の刺激となり、その後のナチスに追われるマックス・ベックマン、オットーディックス、カール ・ホーファー、カンディン・スキー、パウル・クレーが主要な都市の美術アカデミー(大学)の 教授であり、20世紀のインダストリアルデザインの苗床となったバウハウスが開校していた。舞 台芸術でもブレヒトなどが新しい舞台を創り上げて大衆が喝さいを叫んでいた。またこれらの動 きにナチスが苛立ち露骨に対決するなどこの時期、ドイツの文化状況は、進歩と享楽と絶望がな いまぜになった空気に満たされていたのであった。
シャルロッテがこれら美術史に名を残す作家と作品にどう向き合ったかとなるとそれはわからな い。なぜならシャルロッテが絵を描きだしたときはすでにこうした作家と作品はヒトラーによっ て「退廃芸術」の烙印を押され追放されはじめていたから。しかし総合芸術大学の美術関係の書 籍は奇跡的にナチスの「焚刑」を免れていた。シャルロッテの最も多感な時期、時代の暗転のき しむ音と共にこうした空気に包まれていたことは十分考えられる。これらの書籍を開き時代の先 端の作品に触れていた可能性も十分にある。
しばしば登場する連作はさながら映画作りの絵コンテのようだ。すでに映画は庶民の生活に浸透 していた。 情景を遠ざけたり部分をアップしたり明らかに映画の技術が取り入れられている。ま た、時には文字がびっしり書き込まれただけの作品がある。文字も美である、絵と文字をこれほ ど合体させた作品を私は知らない。日本の文人画のそれとは違う、生を伝えるための記号とし て文字は刻まれている。シャルロッテには文字と絵画の境界はなかった。1960年代日本で人 気を博したベン・シャーンのレタリングと同様、美しい。そして強い。
絵・映画の絵コンテのような連作。↑/下・文字が描きこま れた作品も多い(省略*)

画集では見ることができないがそれぞれの作品の裏にはシャルロットのその時々の思い、インス ピレーション、登場人物の台詞、その場面にふさわしい音楽が書き込まれているという。シャル ロッテの作品「人生?あるいは劇場人生?」は表現も色彩もさらには文章で挿入されている音楽 も閉ざされた現実の中に生きる彼女の心、すべてだったのである。
シャルロッテの作品を詳細に分析したユダヤ歴史博物館のエディユス・C・E・ベラフォンテ館 長が「人生?あるいは劇場?」を「一種のミュージカルである」と述べている。シャルロッテは 制作中常にクラシックの音楽をメドレーで口ずさんでいたという。 1988年日本で催された「シャロット・サロモン愛の自画像展」の図録の「コレクションの歴 史」は次のように述べている『シャルロッテ・サロモンの作品は過去を主題としている。「人生? あるいは劇場?」は個人的で、自伝的な性格なため人々はしばしば日記という定義をこの作品に あたえている。とりわけその第一印象として、彼女の作品はアンネ・フランクの日記にも比べら れる。しかし、これは少女の持つありのままの率直さと熟達した芸術家の創造性とを比べること になり、両者にとっても不相応であろう。
14歳のアンネ・フランクは地下に潜伏する生活の中で起こる日常的な心の問題を記述している が、抗することによって彼女は、耐え難い緊張感を緩和しようとしたのであった。シャルロッテ・ サロモンは「人生?あるいは劇場?」に着手したとき、23歳であり、彼女にはすすでにベルリ ンの芸術大学で受けたかなりしっかりした芸術家としての訓練がそなわっていた。
アンネ・フランクの場合とは異なり、彼女の少女期はその現在でなく過去であった。すっかり無 意味になってしまった彼女の現在を今一度意味を与える一つの方法として取り扱っているのであ る。」(アド・ベーターゼン)

                  終わりに
これは一冊の画集から始まったユダヤ人芸術家シャルロッテ・ソロモンと私の心の会話でもある。 画集の絵の数は大小1000点に近い。「人生?あるいは劇場?」のほぼ全てと思われる。語学 がほとんどダメな私にとって絵が持つ力を今回ほど感じたことはなかった。シャルロッテ・サロ モンの展覧会はオランダに始まりドイツ、アメリカと巡回して1988年秋に日本で開催された。 幸い手に入った日本語版の図録がこの拙文を書く上で力を発揮した。そこに記されたシャルロッ テにまつわる断片を手掛かりにまとめたものであるが、シャルロッテが絵に書き込んだ言葉と文 字はほとんど訳せず、残念ながら圧倒的部分が絵柄と色などに加え日本語の図録で想像を膨らま せるしかなかった。図録に記されているユディス・C・ベラフォンテユダヤ歴史博物館館長はじ め執筆者の諸巻頭文がなければこの本は生まれなかった。執筆者の方々に心より謝意を表するも のである。日本においてシャルロッテ・サロモンの研究はほとんどなされてない。それは「人生? あるいは劇場?」が完結した連作であるということと、これ以外の作品が極めて少ないことによ るものと思われる。シャルロッテの作品はオランダのアムステルダムにあるユダヤ歴史博物館が 管理していると聞く。ぜひ日本でも本格的な研究がなされ多くの人が手にすることができる画集 が生まれることを期待したい。

シャルロッテ・ソロモンを思い起こすことの私にとっての動機はもう一つある。それは、戦争を 放棄した日本国憲法九条を指して「憲法改正が私の歴史的使命」と公言してはばからない安倍政 権のもとで、日本の侵略戦争に対する反省をないがしろにする空気がにわかに強まり、それを助 長するような形で首相の靖国神社参拝が行われ、憲法改正論者の国務大臣が「ヒトラーは、民主 主義によって、議会で多数を握って出てきた。選挙でドイツ国民はヒトラーを選んだ」と公言。 首相自らが憲法九条を葬る集団自衛権解釈について内閣法制局を差し置いて「憲法解釈の最高責 任者は私だ」と国会で言い放つ今を、芸術と人の命で見据えシャルロッテの無念に心を寄せたい と思ったからである。
写真・右上・2014年11月9日、多数のユダヤ人が迫害された「水晶の夜(クリスタルナハト)」 から75年になるのに合わせて8日、ユダヤ人従業員を強制収容所移送から救うためにたたかった オットー・ワイトさんの元工場(ベルリン)を訪れその英雄的ヒューマニズムを讃え署名するドイ ツのヨアヒム・ガウク大統領。(AFP11月9日) 下・シャルロッテが殺されたガス室の跡。ナチ スはアウシュヴィッツ収容所を爆破して証拠隠滅を図った。遠方に写る人物は現代史の学習のため 冬休みを利用して訪れたドイツの高校生たち(撮影・筆者2001年1月)。

[編集係・注] 図録からの引用の多かった前稿に、自分の考えを入れて完成させた、と著者より更新の 要請がありました。図版11点を採用していますが、当電子版の事情により7点を掲載し、4点は(省略*)しま した。ご覧になりたい方は事務局まで Eメールでご連絡ください。

■ノー・ウォー美術家の集い横浜