NO WAR!  1,000字超文 
2016〜14年

2019年
金槌流エッセー #358
[# 1904]
ニ ヒ ル は 遠 く 加藤義郎(2019.8.8)

近ごろ自動車、銃、放火などによる不可解な殺人事件を見聞きし、昔を思い出した。
中学生のころ大佛次郎作「大菩薩峠」を読んだ(か映画で観た)。浪人・机龍之介が若い娘(か人 妻)を切り殺し、刀を鞘に納めながら薄ら笑いをする。読者(または観客)には、その理由が分から ない。これを「ニヒルな笑い」と、誰が言ったか映画の宣伝文句だったか、ニヒリズムという言葉の 通俗化を促したという。当時手元の辞書には「虚無主義」と訳されていた。虚無とは何もないこ と、転じて「人生も無意味」ということか。同時に「厭世主義」とも訳されていたと思う。しかし誰か に「意味もなく」殺されては堪らない。

もう一人、カミユを思い出す。こちらは「虚無」よりも「不条理」と訳され、理屈っぽい。小説「異邦 人」の主人公ムルソー君の顔は映画で観た記憶はないが、なぜか目鼻立ちは想像できる。彼は ラブレターの代筆を依頼してきた男の知人だか恋敵だかを真夏の海岸で見かけ、拳銃で射殺す る。その理由は何か?、取調官たちには彼の「殺意」が理解できない。読者のわたしは、ムル ソー君はニヒリストだからと、取りあえず小説の先を読む。裁判では、「犯人は彼の母親が死ん だ時にも悲しむ様子はなかった」と、非人間性を強調する証言も出て、結局死刑が宣告される。 ムルソー君は無論上告などしない。
…小説はここで終わるかと思ったら、最後にキリスト教の教誨師が登場し、死刑囚ムルソー君に 「主へ帰依し、安らかに天国へ行くように」と熱心に(執拗に)勧める。しかし死刑囚は読者の期待 通り、最後まで「神」を相手にせず、おとなしく処刑される。

前記2つの小説の主人公は、自己本位で他人を思いやることなく悪を犯した例だが、ニヒリズム が全て悪人だと言うわけでは無論ない。カミュの「ペスト」を高校生のころに読んだ。昼間、通りの 家の前に飛び出してきたネズミがきりきり舞いして死ぬ。なんだこれは?と惹きつけられるプロ ローグだった。主人公の若い医師リウ―は、外国に滞在中に法定伝染病ペストに侵された町に 滞在していて、出国禁止にされてしまう。自分に責任がないのに伝染病に罹って死ぬかもしれな い危険な場所に閉じ込められる。世間はこの不運を不条理と名付けた(のか)。

しかし医師リウ―は現状を受け入れ(るしかない)、ペストから人命を守ろうと治療を始める。もう 一人の足止めされた外国の新聞記者ランベルは、突然の不幸を嘆き、脱出しようと気は急くが、 具体的には何もしない。この2人の対応を観たものか(否か)、或る研究者が積極的ニヒリズム@ と消極的ニヒリズムAとに分けていた。たしかに「ペスト」の医師は@、記者はAのように見える が、よく考えると医師リウ―はニヒリストではなく、ペストの滅亡する未来を信じていたと思う。
しかしこの分類は世間や周囲に該当する例があって分かり易い。例えば済んだばかりの参院選だが、投票率は約50%! 不投票者は「政治に失望して参加しな い」とは限らないが、A型の失望者も含まれるのではないか。反対に、政治に失望しながらも 「しかし今よりは少しでも良くなるように」と投票した@型の人もいると思う。

話は変わる。21世紀は米国に対するイスラム・テロ(と言われる)から始まり、米国は報復のビンラ ディン捜しのアフガン戦争、次にイラクに「核隠し」の濡れ衣を着せて米英軍主体のイラク破壊攻 撃が行われた。この年、世界中に「 NO WAR!」の市民運動が起こり、横浜でも美術家たちが 「戦争するな。自衛隊を派遣するな。憲法を守れ!」と「ノー・ウォー横浜展」を開催した。参加者 の中にも、「我々が声を挙げても戦争は止められない」という意見もあった。年配の或る画家は 「反戦運動はやるが、世界から戦争はなくならない」と言った。これもニヒリズムの@型だとわたし は思った。確かにイラク戦争は止められなかったが、まだ諦めるには早い。

それから約15年、米国は武力をバックに北朝鮮の核開発を抑え、中国と貿易摩擦を起こしなが ら、“悪の枢軸”と決めた残りのイランを敵対視し、ホルムズ海峡を守るとして有志連合(軍)に自 衛隊を誘っている。日本がこれに応じて自衛隊を派兵し、イランを敵にして戦争することにして はいけない。戦争は軍隊だけでなく、多くの国民が殺された歴史は誰でも知っている(筈)。なの に「安倍改憲には反対するが、改憲はとめられない」とは、近ごろ聞かなくなったがニヒルリスト のようだ。戦争を止められるか、止められないか?と考えている時間はない。改憲を止めなけ れば国民が不幸になることは、わたしなどが重ねて言うまでもない。

[# 1903]
米・墨 の 隔 壁 か ら 加藤義郎(2019.7.6)
墨(墨西哥)=メキシコ
スペインによるメキシコ侵略が始まって500年目にあたるという今年。そんなに昔の事を理由に 「謝罪」を求めるとは! これまで戦勝国が敗戦国に対して、破壊や殺人、放火、略奪など平時 なら犯罪とされる非人道的な行為に対してさえ、戦後に謝罪したとは聞かない。戦争とはそうい うものであることは、戦争の首謀者たちは知っている。しかし、戦争しようとは思ってもいないのに外国の軍隊に突然侵略された一般民衆の悔しい思い は、言い伝えや教育によって後代まで受け継がれているのかも。

現在、米国のトランプ大統領は中米から北米への不法移民を防ごうと、メキシコとの堺に壁を造 っている。対して、メキシコのロペスオブラドール大統領は昨年、移民対策として国内での雇用 創出、地元への定着を進めるため、福祉充実など大型投資に総額300億ドル(約3兆4千億円)が 必要との考えを示し、米国の協力が不可欠だとトランプ大統領に書簡などで協力を呼び掛けてき た。(即ち、カネヲクレ。それに対する回答があったとは聞かないが) 3月27日の報道ではロペス大統領は当時宗主国であったスペイン国王と、ローマ法王に対し、 500年前のスペイン人による侵略、植民地時代における人権侵害などに謝罪するよう求める書簡を送った。 「和解を進めるため」と理由を付けたが、スペイン政府は反発している。  *以上 8行は既報ニュースの要約。

▲インカの木像(写生1972)
話は戻る。1494年にコロンブスがアメリカ大陸を“発見”した後、 銃を持つ軍隊が弓矢の原住民を征服し、黄金を献上させ、持たない者には酷い罰を与えたり死に至らしめた。 富を奪われ虐殺された人々の恨みが後世に残っても不思議はない。
中米に続いてヨーロッパ各国の人々は“新世界”北米大陸に侵攻して原住民を追い払い、 各自が鉄条網で囲って自分の土地として住み付いた。そこで農業、牧畜、鉱業などで富を蓄え 軍隊を持った“移民アメリカ人”たちは、英国に搾取されるのを嫌って戦争を起こし、1776年 独立を勝ち取った。その侵略者の子孫に対して今日も「土地を返せ」と要求する米大陸の先住民 の様子が時々報道されている。

中米から離れるが例をもう一つ。約2,000年前にローマ帝国から土地所有を禁じられ、追放され たユダヤ人たちが苦難の末にカネと政治力を蓄え、18世紀になって「シオニズム」を唱えた。時を 経て第二次大戦前に「イスラエル建国」を約束した仏国バルフォア宣言などもあり、大戦後の 1947年にパレスチナの地に自分たちの国イスラエルを建設した。これによって今までそこに住ん でいたアラブ人が追い出され、周辺のアラブ諸国も巻き込む中東戦争になった。しかし米国と 同盟を結んで軍事力に優るイスラエルは、アラブ諸国連合と戦争を繰り返し、入植地を増やし、 国の周りに石の壁を建設している(周知の歴史であるが)

この中東戦争は、核兵器を持つ米ソ2大国の代理戦争とも言われる。2大国の目的は、自らは戦 争をせずに武器を売って儲けること。戦争で勝敗が決まるのは望まない。もし使用すれば世界 人類に死をもたらす核兵器は威嚇するために持ち、それぞれの支援国に通常兵器を売って儲け る兵器商になった。戦争は武器だけでなく、兵士や民間人の命をも消耗させ、それに対する憎し みはテロリストを生む結果となった。

国外の「土地争い」の例を2つ挙げたが、日本も80年ほど前に隣国に侵攻して世界戦争になった ために、敗戦後に多額な賠償金を払ったと思うが、それ以外にも韓国との間には「慰安婦と徴 用工(a)」、北朝鮮との間には「拉致(b)」の問題が未だに残っている。aは政府間の賠償金とは別 に個人に対して「謝罪と賠償金」を求めるものであり、bは北朝鮮に拉致された日本人の返還を 求める交渉で、いづれも未解決のままである。

イラク戦争(米国のイラク侵略)も思い出される。
前世紀末、 21世紀はイスラムの時代だと言った人が幾人かいた記憶がある。
2001年9月11日の昼間、米国ニューヨークに2つ並ぶ高層ビルに旅客機が突っ込み、炎上し崩れ 行くビルから空中へ飛び出す人の姿をTVで見た。同時多発テロ事件。旅客機を奪って操縦して いたのはイスラム教徒らでいずれも高学歴と発表された。当初、犠牲者は約7,000名とされたが、 後日それは約半数に訂正された。なぜ? そのビルに勤めていた人数をマスコミは死者数と推 定したが、当日イスラム教徒たちは一斉に休暇を取っていたからと分かった。

この事件をイラク政府とアルカイダの企みと見る米国ブッシュ大統領は、翌年「悪の枢軸」として 「イラン、北朝鮮、イラク」を挙げ、「テロとの戦い」を宣言した。先ずイラクに核兵器開発の疑い、 或いは難癖を付け、やめなければ爆撃すると脅した。世界中に「戦争やめろ!」の声が起き、直 接戦争に参加する米国NYで100万人、英国ロンドンで50万人、東京で5万人の「NO WAR!」集会 が開かれ(私も友人たちと参加し)た。このイラク攻撃にフランス、ドイツ、ロシア、中国などが強硬 に反対を表明し、イラクに国連調査団を派遣した。しかしブッシュ大統領はその結果を待たず、 2003年3月、英軍などと共に多国籍軍を作り、「イラクの自由作戦」を開始した。

武力で圧倒的に勝る米軍は空爆によって主要地域を破壊し、続いて多国籍軍がイラクに侵攻し た。“正義の保安官”アメリカは邪悪なイラクを退治しなければならない。乗り物に馬と飛行機の 違いはあるが 300年前の西部劇た。イラクの要人をトランプカードに仕立て、“WANTED, DEAD or ALIVE”(求む。生・死どちらでも)と貼り紙をした。賞金額は書かれていないが勲功になる。 兵士たちを“賞金稼ぎ”のガンマン気分にさせようとしたのか。

   ▲イラク戦争(コラージュ)
イラクは軍隊も私服が多く、民間人と見分けがつかない。武器は手製の即席爆弾を多用して抗 戦した。侵略軍は標的が軍人か民間人か迷い、多くの民間人を殺したと後に分かった。しかし結 局イラク政府と軍は敗れた。一時は逃れたフセイン大統領も捕らえられ、どうなるのか?と思う間 もなく処刑されたと報道された。それ以前に、フセイン政権の要職にあった大統領の息子たちも 殺されていたとニュースで知らされた。

始まる以前から世界中に反対の声が上がっていたイラク戦争は、開始後の米国内では帰還兵を 中心に反戦運動が益々高まった。4年余り後 2008年にオバマ大統領が終結宣言をしたが、米軍 の死者は合計 4.065名(多国籍軍は別)。これでアメリカは“勝った”のか。傀儡政権を残して引き 上げたが、後にその地域に発生した「イスラム国」はテロを行い、日本人の会社員やジャーナリ ストも殺害した。フセイン政権の旧軍人たちが参加しているとは思いたくないが。(完)

[# 1902]
北方四島は…加藤義郎 (2019/1/31)

 ▲前回2018年9月の会談。露大統領の「思いつき」 
:やぁウラジミル、元気だった?
:やぁ晋三、ぼくはタフだよ。君も達者だね。
:いや、前回の会談の冒頭、「白紙で」と言われて即 反論しなかったので、国民から大いに叩かれたよ。
:ふーん、悪かったかな。それで、ぼくにどうしろっていうの?
:君にどうしろとは言わないが、あの「白紙で平和条約を」の提案はハッキリ断るよ。
:えっ、驚いたな。投票率50%で30%の票で政権を維持できる強能力者の君が…。
:実は国民の支持が少ないから、党や省庁の人事権を握って「独裁」やってるのよ。
:なる程。で、「白紙」にするのはやめて具体的に何から始める?

:そもそも日露の領土問題の発端は、第2次世界大戦の終る間際にソ連の指導者スターリン が「領土不拡大」という戦後処理の大原則を踏みにじって、日本の歴史的領土*である千島列島 と、北海道の一部である歯舞、色丹島を不法に自国領土に編入してしまったことだよね。
:不法に、は正しくない。戦争に勝ったのだから土地を支配するのは当然だ。
:それ古いなー、考え方が。
:何いってんの。無条件降伏した国は戦勝国の言うことに従うのが戦争を始めた時のルール、 社会通念では無いか。
:確かにスポーツではそうだ。
:バクチも戦争もそうだよ。終わった勝負を後からルールを変えることはできない。
:それはそうだが…。
:君はわがロシア(旧ソ連)だけに“領土返還”を言うが、他の国には沖縄などを軍事基地として 自国のように自由に使わせているではないか。
:それはまぁ、その…。
:政府として、国土返還を要求したことはあるの?
:70年間ありません。しかし、あの外国軍隊はわが国を守ってくれているから。
:どこの国から攻撃されるのを守っているの。あの火器や戦闘機は?
:仮想敵は想定していない。おっしゃる通り沖縄も「取り戻せ」との国民の声も聞こえるが、 それはそれでロシアとは別個に進めたいと思うので…。
:分かった。しかし51年サンフランシスコ条約で北方四島はロシアのものになった。
:それまったく誤解! 知ってて言ってるのかな、千島列島は手放したが、北方四島はそのま まだ。それに、ロシアは署名を拒否しているよ。 ★外務省web
:それはまぁ兎に角、ロシア人が大勢生活しているし、こんな状態までほっておいた日本政府 に責任を取ってもらいたい。
:確かに日本は国際的道理にたって領土交渉をやって来なかった。
:そうか、それが分ればいい。
:しかしぼくは首相として、日本が再び戦争できる憲法に改正できなくても、北方四島は必ず取 り戻したい。この願い、君なら解ってくれるだろう?
:うん、よく分かる。しかし大統領として、それはお断りする。
:それじゃ、何が分かっているんだ?
:まあまあ、今回はこの辺で。

[# 1901]
今年のゲルニカシアター(予告)小林はくどう (2019/1/21)
今年8月ノー・ウォー横浜展の「ビデオゲルニカシアター」には厳選した下記の6作品を用意するつもりです。 ご期待ください。

@ダモイ〜シベリア抑留者の証言 (北海道旭川工業高等学校、KBS旭工放送局) 18分49秒
シベリア抑留者の貴重な証言映像。太平洋戦争が終戦を迎えた時、証言者の門間さんは第七 師団の兵士として満州にいた。投降し捕虜となった兵士たちは突如ソ連軍によって、極寒のシベ リアへ移送され、過酷な条件での労働を強いられることになった。収容所での抑留生活と強制労 働によって捕虜65万人のうち約34万人以上が犠牲になったシベリア抑留生活が語られる。なん とか生き延びて帰国したが、“赤”と烙印を押され、生活は容易なものではなかった。

Aあなたは戦場で人を殺せますか (同朋高等学校放送部。愛知県) 9分40秒
安保関連法案が通り、自衛隊が武器を持って海外派遣されることが可能になった今、戦争がい つ始まってもおかしくない時代へ突入してしまったと感じた高校生たち。そこで高校放送部では校 内や学外で、アンケート調査を試みる。自分たちも予測を立てる。“兵士として「人」を殺すことは できますか?” バージョンを少し変えてみる。予測と違った結果となった。戦争体験者のインタ ビューも取材。

Bグローブマスター機墜落事故(和田ユリ花。中央大学FLP松野ゼミ。23歳。東京都) 20分
朝鮮戦争休戦間際の1953年6月18日、立川基地から飛び立った米軍輸送機グローブマスター が、小平市に墜落し、当時の航空事故史上最大の死者を出した。事故が米軍関係機であったこ とから、ほとんど明らかにされず、歴史に埋もれようとしている。事故を目撃した人たちの記憶を 探ろうとした作品。後半はこの取材動画がインターネットで配信されたことで、遺族からコンタクト があり、後輩たちがアメリカでの取材につながって行く。

C「私は何者であるのか...」−ある台湾人学徒の証言−(松本弥彩暉 大学FLP松野ゼミ 20歳。 東京都)19分18秒
太平洋戦争末期、日本の戦況が悪化し、政府は学徒勤労動員を行った。その対象は当時日本 の統治下にあった台湾の留学生も例外ではなかった。中央大学に在学していた梁さんは台湾人 でありながら、日本人として参戦する。終戦後、中国人として「戦勝国」の人間として特別な扱い を受けるようになる。戦争を機に日本と台湾の間で生きることになった梁さんは恋人の死に遭遇 し、「自分は何者なのか」苦しみ続ける。

Dわがフォトライフの原点 (鈴木賢士 86歳 東京都) 15分10秒
戦争映像を続ける作者の写真に関わる自分史。25年前、フィリピン旅行で出会った日系2世の男 性。戦前マニラ麻の栽培の成功で、3万人の日本人がいたという。戦後在留邦人は強制送還さ れ、残された3000人の日系2世は残虐行為の報いを浴びた。この地での2世を取材すること7回。 日本政府は戦争の後始末をしていないことを痛感した作者は、以後戦争の影を追うこととなる。 作者の波乱に満ちた生い立ちも触れている。

E笑いあればこそ (佐藤昌孝 74歳 神奈川県) 14分22秒
寝床屋道楽師匠はアマチュアだが、人気がある落語家。「朗読劇 東京大空襲」の舞台出演の 声がかかった。そこで語られたのは彼が宮城県の山奥に学童疎開している最中、家族が3月10 日の東京大空襲で5人全員が亡くなったという悲劇だった。その時、彼は小学5年生、遠い親戚 に引き取られ、予期しなかった人生が展開する。現在は落語と平和運動と2つの活動に力を注い でいる。以上/

2018年
[# 07]
アメリカに新しい風藤井建男 (2018.12.20)

暮れを間近にしてアメリカの中間選挙(現地時間11月6日)で、「米国ファースト」を掲げるトランプ 大統領の政治への厳しい審判が下された、というニュースが届きました。2年前トランプ大統領 誕生のときは、アメリカは一体これからどうなるのかと不安を持ったものです。選挙はトランプ大 統領が背を向ける医療保険、銃規制、教育の向上、環境保護、移民や女性、性的マイノリティ の権利向上などが争点になりました。結果は民主党が下院で42議席増、8年ぶりに下院で多数派を 奪還、州知事選挙でも16議席から23議席と躍進したのです。威嚇と恫喝の外交、移民へのあか らさまな差別発言、弱者の人格、モラルを否定するような態度、ソーシャルメディアを通じた 異常なマスコミ批判、愚劣な政敵攻撃、2年間に繰り広げられたトランプ大統領の暴君的な言動 と政治的パフォーマンスに有権者の批判が突き付けられました。

女性、若者たちが「レジスタンス」「革命」を合言葉に運動の輪を広げ、高校生は銃規制を掲げ選 挙権を持つ18歳以上の学友・友人に民主党候補への支持をよびかけました。「民主的社会主 義」を掲げるバニー・サンダース上院議員が当選。その活動家のオカシオコルテス氏(29)が ニューヨーク州で女性下院議員に議席を獲得するなど、トランプ大統領への厳しい審判となった のです。この選挙を追ったNHK・BSドキュメント「激動の世界を行く・アメリカ政治の新たな波」 (11月18日放映)は、大統領選でトランプ大統領の牙城だったウエストバージニアとテキサスの2 州で敗れたものの共和党を激しく追い上げた民主党の2候補、大物民主党議員の地盤ワシント ン州で民主党に新しい風を吹き込んだ女性新人の3候補が繰り広げたの激しいたたかいを追 い、見応えのあるドキュメントでした。

ウエストバージニアはラストベルト(さび付いた地域)の一つ、民主党候補のリチャード・オジェー ダ候補(得票43%)は地元産業(炭鉱)の多様な転換を訴えます。テキサス州のリンジー・フェイ 候補(得票40%)はシングルマザー、医療保険を守ることを子育ての体験から訴え、ワシントン州 のサラ・スミス候補(得票30%)はミレニアム世代。高層ビルの陰で拡大し続けるホームレス、格 差の拡大に怒り、若い世代で政治を変えたいとバニー・サンダース議員訴える「民主的社会主 義」の主張に共感、富裕層への減税を厳しく批判する若者の輪をつくって運動を展開。企業献金 を受け取る古い民主党ベテラン現職を厳しく批判、予想を覆し議席まであと一歩まで詰め寄った のです。

アメリカの中間選挙は、トランプ大統領の牙城と言われている各州でも共和党を大きく追い詰 め、同時に格差社会に手を貸してきた民主党を強く強く批判する若い力が登場していることも示 していました。番組は河野憲治NHKアメリカ総局長のつぎの言葉で結んでいました。

「厚い壁に阻まれたが、いずれも若者の支持を追い風に健闘した。アメリカ全体でもこれまでに なく若い世代が投票に参加したことが下院での民主党の奪還に繋がってきたと言われている。 政治を変えたいと言う若者たちの強い思いは反発や強い抵抗を受けながらもアメリカ社会の底 流となって静かに広がっていく、そんな予感がしました。」


[# 06]
沖 縄 解 放 へ 加藤義郎 (2018.10.16)

「解放へ」とは、「束縛」された状態には違いないが沖縄県民は今回の知事選挙で、長い間米国と 彼らに従う日本政府から奪われてきた人権を取り戻すたたかいへの着実な第2歩を進めたという 意味である。第1歩は言わずもがな、2014年末の知事選で政府の方針に従って米軍基地の工事 を急ぐ自民党推薦の前知事ではなく、着工に反対する翁長知事を当選させたこと。

去る9月30日の沖縄県知事選挙で、県民は日本政府が辺野古に新しく米軍基地を造ることに反 対を表明する玉城デニー氏を当選させた。故・翁長前知事の方針を引き継ぎ、沖縄にこれ以上 の「軍害」を与えない様にと願う住民が玉城氏に49万票を託し、自民党(公明・維新・希望も)推薦 候補に8万票の差を付けた。この選挙に安倍政権は官房長官、自民党は幹事長、副幹事長など 多数の議員を応援に投じ、かえって沖縄県民から「日本政府との選挙戦か」と反発を招いた。ま た公明党も自民候補を強く応援したが、支持母体の「学会」員の3割が基地反対候補に投票した と、新聞各社の投票日出口調査の結果が報道されている。

玉城新知事は今月7日上京し、安倍首相に面会して「@辺野古移設は中止する。A沖縄だけに 負担させないで」と申し入れた。玉城支持の「オール沖縄」の中には「米軍は国外へ」という人も 少なくないが、玉城氏の要望Aの意味は「少なくとも県外へ」と、知事の分を心得たもの。対して 首相は「基地負担の軽減に努めるが、辺野古移設の方針は変えない」と拒否した。選挙直後に 「結果を真摯に受け止める」と言った首相だが、沖縄県民の過半数を相手に再び機動隊などを 使って工事を強行するつもりではあるまいが…。

在日米軍基地の4分の3もの土地を沖縄県に負担させたままでいいとは、(本土の)国民も思って いない(筈)。米軍機の騒音に学童生徒は授業ができない日常があり、事故や事件を起こした時 には、幾年前だったか、全国知事会でも「他府県も負担すべきだ」と“正論”を言った知事もいた。 しかし「基地候補」を名乗り出た都道府県知事はいなかった。歴代政府はと言えば、日米安保条 約を憲法よりも上に置き、米軍基地を守り続けてきた(*鳩山民主党政権の1年間だけは「沖縄米 軍基地は国外へ」と言っていたが)。

しかし沖縄基地を引き受ける他府県がなければ、沖縄が我慢するか断るかで中間はない。顧み れば、米軍が日本に基地を置く根拠とする日米安保条約は1960年に締結(1970年に改定)され、 当時は締結そりものに反対者が多く国論を2分したほどった。そして締結されたが、沖縄諸島は 米軍占領下にあり(日本復帰は1972年)、住民に発言権はなかった。約60年後の今、直接「条約」 に反対する大衆運動は影を潜めたが、一部の政党や国民は「条約廃止」を捨ててはいない。実 行可能な平和的な「選挙」という手段を選び年月をかけ、ようやく住民の力が目標に結集するに 至った。わたしも嬉しい。

しかし沖縄基地の事件や事故は減らない。今後も日本政府の軍事費増強・軍備拡大とともに、 辺野古に新基地ができたりしたら、住民にの受ける「軍害」も増しこそすれ減ることはない。沖縄 住民は我慢の限界を超えた、今後は日本政府とのたたかいで人権回復、豊かで楽しい生活を求 めて行く決意を見た。それは無論、国民の喜びでもある。


[# 05]
ティルマン・リーメンシュナイダー(1460〜1531)から ドイツ・ルネサンスを考える

素晴らしい景色の中の偉大な歴史藤井建男 (2018.6.19)

ドイツ中南部、フランケン地方を南北に走るロマンチック街道は、ドイツで最も知られた観光旅行 のコースである。ドイツ中世のドラマを繰り広げた大小の城塞都市と美しい田園を真珠の首飾り のように繋いだこの街道はブルツブルクを起点に、スイス国境に近いラッセンまで南に下ってい る。この街道をハイデルベルクからニュルンベルクへ東西に交差する幹線道路、

▲マリーエンベルク要塞から眺めるマイン川流域ブルツブルク市郊外
フランスから西に走りミュンヘン繋ぐ幹線道路が交差する。 ロマンチック街道の旅の案内には必ず、中世の街並みを残す城塞都市と美味しいワイン、 それとこの地域で数多くの彫刻を生んだリーメンシュナイダーが紹介されている。 中でもローテンブルク聖ヤコブ教会の「聖血の祭壇壁」、クレイクリンゲンヘルゴット教会の 「マリア祭壇壁」は必見≠ニされ、多くの日本から足を運ぶ観光客、美術愛好家が訪れている。

リーメンシュナイダーの彫刻は「愛と悲しみの彫刻」としばしば紹介される。彼と彼が親方を勤め る工房から生み出された彫刻は、工房の所在したロマンチック街道の北の起点ブルツブルク・マ リア礼拝堂南入口のアダム、エヴァの石像に始まり、少し南に下ったクレイクリンゲン、ヘルゴッ ト教会のマリア祭壇、更に下ったローテンブルク・聖ヤコブ教会の聖血の祭壇壁に代表される巨 大な聖壇・祭壇壁のほか領主の墓碑、十字架のキリスト像、悲しみのマリア像など、このフランケ ン地方に様々なところに様々な形で存在する。そればかりかミュンヘン、シュツットガルト、ウイ ーン、アメリカのメトロポリタン美術館などにもリーメンシュナイダーの作、あるいは彼が指導した 工房の作になる作品が多数存在している。
この膨大な作品の数は、リーメンシュナイダーの作品がいかに広く中世ドイツの人々の心をとら え愛されてきたことを雄弁に物語っている。

▲リーメンシュナイダー墓碑 (マインフランケン美術館)

言うまでもなくその大半はキリスト教を語り伝えるものであるが、彫像に現れる豊かな表情、個 性、ドラマ性を強く演出したかに見える群像は、この時代に多様な価値観が台頭してきたことを 告げている。それゆえにドイツ・ルネサンスを代表する美術家としてあげられている。だが、それ だけでは、リーメンシュナイダーという偉大な彫刻家のドイツ・ルネサンスの実態も浮かび上がら ない。さらに言えば、リーメンシュナイダーの世界を知ることによって絶対的な封建主義の世界か ら人間としてとしての個性、独立した文化が台頭する近世へ移行するドイツ・ルネサンスという 歴史の地殻変動を見逃すことになる。
後に触れなくてはならないのだが、リーメンシュナイダーは1525年を頂点にドイツ・フラ ンケン地方を包んだ農民戦争の中で農民の側に立ったために逮捕され、伝承によれば「腕を砕かれ」2 度と彫刻が出来なくされたと言う。リーメンシュナイダーに降りかかった悲劇的運命が彼の人間 像を浮かび上がらせ、それゆえ彼自身と作品は今日もドイツ人の誇りとも言われている。
残念ながら、多くの旅行ガイドは彫刻の素晴らしさを讃え、“必見”を強調するが、このドイツ・フラ ンケン地域の歴史とリーメンシュナイダーの悲劇への踏み込みは極めて浅く、ほとんど見られな いと言ってよい。特にここを訪ねる日本の旅行者はどちらかと言えば、中世の風景と美味しいワ インと地ビールの方に強くひかれてしまうようだ。

トーマス・マンの共感
その点で次のドイツの詩人で文芸批評家トーマス・マンが、第二次大戦が終結したその年にアメ リカで行った講演「ドイツとドイツ人」の中でリーメンシュナイダーついて語った言葉は彼の人格と 仕事、運命的な悲劇を簡潔、かつ感動的に述べており、トラベルガイドに欠けている部分を補っ て余りある。「ドイツとドイツ人」からその部分を紹介する。___
 「当時のドイツに私が完全な共感を覚える一人の男がいました。その名はティルマン・リーメン シュナイダーといい、敬虔な工芸の親方。彫刻家で木彫家でしたが、彼の作品=需要が多くドイツ 全土にわたって礼拝の場所をかざった、多数の像を刻み込んだ祭壇像や清らかな彫刻品=の誠 実で表現力豊かなその手堅さのために、高い名声を博しておりました。
この親方は、彼の最も身近な生活圏だったブルツブルクの町でも、人間として、市民として高い 声望をかちえて、市参事会員の一人でした。彼は高度な政治や世間的な争い事などに関与しよ うなどと考えたことは決してありませんでした。それは彼の生まれながらの謙虚さ、自由で平和な 創造を愛する心からは、そもそも全く縁遠いものだったのです。彼はデマゴーグの素質は皆無で した。しかし貧しい人や圧迫された人々のために脈打っていた彼の心は、彼が正義であり神意 にかなっていると認めた農民の立場に味方し、領主や司教や諸侯に反抗するように彼を強いた のです。
かれはその気になれば、これらの人々の人文主義時代流の愛顧をかちとることも容易にできた はずですが、彼の心がこの時代の大きな原理的対立に捉えられて、純粋に精神的審美的な工 芸家としての市民生活という彼の領域から踏み出して、自由と正義のための闘士になるよう、彼 に強いたのでした。彼自身の自由を、彼の生活の品位ある静穏さを、彼はこの大義のために、彼 にとって芸術や魂の平穏よりも優先するものであったこの大義のために、犠牲にしたのです。
ブルツブルク市が「城」に対して、つまり領主司教に対して、対農民軍への従軍を拒否し、また 一般に司教に対する革命的態度をとるように仕向けたのは、主として彼の影響力でした。彼はその ために、恐ろしい償いをしなければなりませんでした。というのは、農民一揆が鎮圧されたのち、 かれが反抗した勝ち誇る歴史的勢力は、残虐極まる復讐を彼に加えたからです。彼らは彼を投 獄し、拷問にかけました。そして彼は、木や石から美を呼び起こすことがもはやできない、打ち のめされた男となってそこから出てきたのであります。」___(岩波文庫「ドイツとドイツ人」より)

リーメンシュナイダーの作品の真実

▲ 悲しみのマリア像
マインフランケン博物館
リーメンシュナイダーを指してしばしば聞かれる「愛と悲しみの作家」とは何 を指しているのだろうか。
リーメンシュナイダーの作品に私が初めて出会った青年時代=1960年代、 私はこの歴史的作家をさして偉大とも思わず、完成度の高い、憂いのある 作品を生んだドイツ・ルネサンスの作家と言う程度にしか解せなかった。 それに紹介している本も写真も少なかった。いつ、どこでリーメンシュナイ ダーの作品を知ったのか思い出せないのだが、たぶんヘルゴット教会の 「昇天のマリア祭壇」のマリアの写真ではなかったか。その清楚で何とも 云われぬ憂いに強くひかれていた。
「愛と悲しみ」の意味を宗教に疎い私は 信じた弟子に裏切られ十字架 にはりつけられたキリストの悲劇、このキリストを信じ愛したマリアとキリス トの弟子たちの苦悩と哀惜を指すもの≠ナはないかとごく単純に思ってい たことを白状しなければならない。
その後、わかってきたのは、この「愛と悲しみ」の作品群がキリスト…十字 架…マリアと言った、いわゆるキリスト教の教義の枠内にとどまらないこ の時代に生きる民衆の抱える「愛と悲しみ」を具現したものであり、それゆ えに彫り作られた様々な像、聖壇はこの時代の人々が共通して持つ生活 感、人生観、希望の物証だった、ということだった。それゆえにこの地域に とどまらず広くドイツ・フランケン地方全域にリーメンシュナイダーの作品が求められ、愛され、守 られてきたのであろう。
  
社会の言う弱さ≠ニ悪≠ヨの疑問
たとえばローテンブルクの市参事会堂の前の聖ヤコブ教会にリーメンシュナイダーの「聖なる血 の祭壇」(1505年頃)がある。高さ3m中央の祭壇はキリストが晩餐の最中ユダを裏切り者と指摘 する「最後の晩餐」である。キリストが裏切り者は「私がひたしたパンを渡すその人である」と12人 の一人ユダにパンを渡す場のパネルである。使徒が驚き、狼狽し放心する様がダイナミックな緊 張感を漂わせて彫り上げられている。使徒一人一人の心の揺れ動きは、衣服の裾のひだ、指の 一本一本にまで行き届き、見る者を圧倒せずにおかない緊張感が伝わってくる。

だが、その祭壇を見続けると一つの謎が浮かび上がる。その謎をリーメンシュナにイダーが全精 力注いだこの時代への「痛言」があると指摘する声は少なくない。それはこの「最後の晩餐」の中 心に配置されたているのはキリストでなくユダなのである。配置されたユダを通してリーメンシュ ナイダーの心を読み取ろうと言う試みは今も続いていると言って良いかもしれない。キリスト教の 造詣が深くリーメンシュナイダーの信仰の世界に寄り添う『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社 刊)を著した植田重雄は本のなかで、「ユダを憎むべき存在として描いている受難劇や美術は枚 挙にいとまがない。しかし、リーメンシュナイダーはユダを変貌させ、人間の弱さを示す一人物と して描いている」と述べている。

『リーメンシュナイダーの工房』の著者イーデス・カルデン・ローゼンフェルトフェルトはリーメン シュナイダーがユダに関する新しい解釈を持って仕事ができた背景を著書の冒頭でこう述べて いる。___
「彼が芸術家として活動し、市の政治的な要職についていたのはちょうど、特に南西ドイツにおい て社会を根本から変えるさまざまな勢力の勃興と変革が後々まで続いていく時期にあたる。この 時代には、芸術の領域においては、有能な芸術家、あるいは職人は中世的な匿名性を脱ぎ捨 て、いまだ特殊なケースではあったにしても、個人としての自覚と個性的な輪郭を、ついには、芸 術家としての個性をはっきりと示すようになっていた。また他方で、おそらくは避難すべき、人の 心を幻惑するような、ますます豪奢に生前の姿に似せて作られるようになっていく聖人像がそれ までにも増して批判の対象にさらされるようになっていた。この時代にはまた、それまでにもくす ぶっていたが、社会的、宗教的な対立が顕在化して行くことによって、社会的な営みはいよいよ 根本から揺さぶられていくことになっていく」___と。

ブルツブルクのマインフランケン美術館には各地で保存されてきたリーメンシュナイダーの作品 が並んでいる。アルフォルスハウゼン村の教会にあったと言われる「悲しみのマリア」は十字架 のわが子キリストを見上げ悲しみに身をよじるしかすすべがないマリアの心を見事に表している が、その体と顔の表情が醸し出す何とも言えぬ憂いある空間に、先の大戦に入る直前の作家、 国吉康夫、靉光、松本俊介、竹下夢二、ベンシャーン、モジリアーニらの作品に似た空気を感じ るのはなぜか?と自問した記憶がある。「悲しみのマリア」に代表される様々なマリア、聖母、十 字架の下の悲しむ女性たちの像が、ある種の希望を漂わせながら閉塞する社会に不安を隠せ ないことへの隠喩ではないかと思ったりしたのだが、はたして…。


ブルツブルク大聖堂に安置されているルドルフ・フォン・シェーレンベルク司教(1476-1495年)の 碑銘彫刻(左の写真)が放つオーラは極めて強いものがある。ブルツブルク司教領は、賭博と飲食に耽り司 教座聖堂会参事会の会議に賄い女を伴うのを常とする利己的で無能な、司祭たちの堕落しきっ た生活を改めることを求める司教は改善の命令を繰り返し出したと言われているが一向に改ま らず、その乱脈ぶりによって、司教領の財政は破産寸前に至っていた。この危機と対峙した努力 が語り継がれる司教だが、堕落の改善はできないまま95歳で世を去った。残されたものは異常 に高い租税であり、かつ租税が聖職者の懐に入ることに対する市民、農民の教会への不満と憤 りだった。司教領主とは地上の領主権と教会の司る権力を兼ねそなえる完璧な権力者である。こ の碑銘彫刻はシェーレンベルク司教の見事な実像と言ってよい。眼光鋭く前を見据え一文字に 結んだ口は揺るがぬ意志を感じさせる。左手に政権の象徴である司教杖、右手で足元から腰ま であろう大剣を突き立てている。しかし、名司教にふさわしい容貌だが、その表情には疲労、孤 独、権力を守る戦いを繰り広げてきた疲れがはっきりと見て取れる。聖人と言う衣を身にまとって いるが聖俗合わせ持つこの時代の権力者の実像である。豪奢に着飾られ威厳に満ちた聖人で なく、やがて来る時代の大激動の到来を覚悟するかのような司教像である。


▲エヴァ像(左)/アダム像(右)頭部
しかし、リーメンシュナイダーが時代の 空気を「愛と悲しみ」だけで包摂していたわけではなかっ た。マインフランケン博物館のアダム、エヴァの像、クレイクリンゲンのヘルゴット教会の「昇天の マリア祭壇」のマリアに代表される何体もの若い聖像は、それまでの聖書の教えに縛られない、 人間としての存在感と生命感を発散させている。アダムとエヴァ像に至っては、ミケランジェロに 代表される「堕落と楽園からの追放」という、原罪の教えとは大きく離れた人間の姿で若々しく美 しい。次の時代を告げる若者の姿である。

歴史の地殻変動と美術

美術史ではリーメンシュナイダーが生き、作品を生み出した1400年中期から1500年中期を北方 ルネッサンス、あるいはドイツ・ルネサンスと時代区分している。美術出版社刊(1997年)の西洋 美術史の年表ではこの時期の作家としてグリューネヴァルト、デューラ、クラーナッハ、ハンス・ホ ルバイン、アルトルドフアーなどの名前があげられている。どういうわけかリーメンシュナイダーの 名前はない。しかしドイツ・ルネサンスが美術史を振り返るときいかに大切かということを土方定 一(美術史家・元鎌倉近代美術館館長)は著書『ドイツ・ルネサンスの画家たち』(美術出版社刊)の 冒頭で次のように述べている。
___ヒーロニムス・ボス、ペーテル・ブリューゲルをスペインの植民地化と異端迫害の時代の激動 の背景無しに考えられないように、ドイツ・ルネサンスの画家たちをドイツ宗教改革とドイツ農民 戦争の時代背景なしには考えられない。と言うのは、ブリューゲルが時代と民衆の中に生き続け たように、ドイツ・ルネサンスの巨匠たちも時代と民衆の中に生き続けたからである。そして、そ れは時代の性格に規定されながら、それを超えて、現在のわれわれを激しく打つのである。(「ド イツ・ルネサンスの画家たち」美術出版社)土方はこう述べてクラーナハ、ディユーラ・グリューネ ヴァルト、ホルバインなどと共にリーメンシュナイダーを加えている。
「ドイツ宗教改革」と「ドイツ農民戦争」は時代の地殻変動ともいえる大激動のであるが、そこに生 きた美術家たちをしっかりと捉えることの重要性を強調しているのである。

ドイツ・ルネサンスの時代とは
生産・流通の飛躍的向上とキリスト教支配の制度疲労
中世のドイツを形づくっていた神聖ローマ帝国は大小の諸侯の支配する領邦国家の連合体で あったが、キリスト教の教義に基づいてそれぞれの領主がカトリック教会との連合で聖職者を官 吏として用いながら支配を行っていた。その上にあったのがイタリア半島のローマ教皇領のバチ カンに君臨する教皇であり、教皇にとりドイツ=神聖ローマ帝国は「ローマの牝牛」と揶揄される ほどローマにとって欠かせない蓄財の源泉だった。そのしわ寄せは、農民層、ドイツの商工業 者、の上に領主の過酷な搾取に加えてのしかかり、その手先となっている司祭や司教、修道士 に対する反感は広がり続けていた。
おりしもこの時期、時代の根底を揺さぶる社会的大事件が相次ぐのである。この時期を述べる歴 史書の多くがまず農業技術の向上とそれに伴う市場経済の発展を挙げている。これまで長く続 いていた、耕地を二つに分け一方を休耕地として家畜を囲って糞を肥料とし地味の回復を待つ 二圃(にほ)耕作に変わり、耕作地を三つに分ける三圃工作が取り入れられると、多種な収穫が できるうえ農作業も軽減され、生産量も地味の保守・回復も飛躍的に向上した。穀物では馬の飼 料になるオート麦の生産が普及し、農業に馬を利用することで重い有輪鋤(すき)の利用ができ るようになり生産量が増えた。農産物が流通に乗るようになると領主たちは市場経済に対応する ため、こぞって直営地経営を採用し土地を貸し付けた隷農を増やしたのである。

流通経済の発展に伴い各地に都市ができ、城壁に囲まれた都市空間の中に新しい人間関係が育ち商人を中 心にする都市法もつくられ、伝統的な人間関係でつながっていた中世社会に新しい流通経済の 世界が登場するにしたがい膨れ上がり続ける常備軍の維持管理費、宮廷の諸経費と贅沢の費 用が高級聖職者、高級貴族・騎士以外の諸侯に押し付けられた。それが更に残酷な形で諸侯領 地の農民・隷農、臣属騎士(体僕)にのしかかっていた。領主、貴族は従来の農民を縛り付けて いた生産物の10%相当の献納、貢租は譲らず、逆に賦役、貢租、地代、など農民と交わしたあ らゆる古い契約を引き上げ、家畜と同様に扱われる農奴制も併用しながらいっそう暴力的な搾取 に乗り出したのである。
反面、市場経済の発展は貨幣経済を定着させ、流通の拡大は、それまでの狭い地域の経済が 外に世界とのつながりを作り、文化・芸術に個性を呼び込み、人々の生活と価値観にも変化が 生まれることになった。この時期の社会で際立っていたのが絶対的支配機構キリスト教会の腐敗 と制度疲労の顕在化だった。


▲教会の窓から説教するハンス・ベーム
リーメンシュナイダーの少年期、家族で暮らしてい たブルツブルクから西に30kmほどの小さな村で 起きた「笛吹ハンスの事件」はそれを物語る話で、 今も語りつがれている。村人(隷農)がささやかな 羊を放牧しているところに、太鼓や笛を吹きながら やってきて村人との楽しい時間をつくるハンス・ ベームと名乗る不思議な青年がいた。誰言うとも なく「笛吹ハンス」と呼んでいた。
そんなある日の夜、ハンスが寝ているときこの村 の教会の聖母マリアが現れ、この国で起きている 人々の苦悩を見せ、「笛や太鼓のような人の心を 享楽に誘う無意味なものを焼き捨てて、人の心に寄り添って生きなさい」と告げたと言う。ハンス は笛、太鼓、身を飾る羽飾りを捨てて預言者になり、「すべての人間は兄弟姉妹であり、主人は 召使い(農奴)にその分け前を公平に分けあたえるべきである」「森、畑はすべて人間共有であ り、苺、キノコの出る森も、水の中の魚も、空の鳥も僕(しもべ)たちのもの。地主だけのものでは ない」と語りかけた。
ハンスの説教は貧しい暮らしを強いられていた農民の心をとらえ、説教を聞きに遠くの村からも 農民たちが訪れるようになり、ハンスは教会の前で荷車の上にたって説教をするようになったと 言う。これを知った司教領主はハンスが説教をするニクラスハウゼンのマリア教会への巡礼を禁 止。ハンスはこれに対して「次の聖キリアン際の前の日曜日、礼拝堂の前に男たちは剣と槍を 持って集まれ。マリアのいうことを聞かせたい」とよびかけた。このハンスの呼びかけを知った司 教は、1476年6月12日の夜、寝ているハンスを捕えブルツブルクの居城に投獄し、それから1か 月後の7月19日裁判もないまま焚刑を執行、その灰をマイン川の撒いたのであった。
ハンス・ベームの悲劇は今も伝えられており、ニクラウスハウゼンには記念碑がある。リーメン シュナイダーが17歳のとき目の前で起きた大事件である。

マルティン・ルターが教会に異議を申し立て、論争を挑んだ「95箇条の提題」がウッテンベルクの 教会の扉に張り出されたのが1517年(張り出されたかどうかは不明だが発表されたことは事 実)。ハンス・ベームの悲劇はその41年前だ。キリスト教支配の深部で起きている矛盾の深さを 浮かび上がらせる事件と言ってよいだろう。

 ▲立ち上がった農民(左)と皇帝と教皇たち
そしてこれらの矛盾に火をつけたのが教会の贖宥状= 免罪符の販売に対する怒りだった。死亡率の高かったこ の時代の民衆にとり最大の関心事は「死」だった。安ら かな死、そして死後自分が導かれる世界にかかわる問 題は全ての民衆に共通する不安だったのである。生ま れて教会で洗礼を受けたのち犯した過ちにどう対処すべ きか、天国へ行くためには司祭の前で自らの罪を告白 し、司祭から「汝の罪を許す」と言う宣言を受けなくては ならないが、そのためには教会への対価が必要だった。

そこで教会が考え出したのが贖宥状=免罪符=だっ た。簡単に言えば教会が発売する「天国行の予約切 符」。表向きローマのサン・ピエトロ寺院の改修の資金な どと口実が付けられたものの、その実態は司教、司祭の懐を潤すものとなっていた。ドイツの司 教、司祭は競うように贖宥状を販売し、売上の一部をバチカンへ賄賂として送り、残りに領域の 聖職者が群がり快楽をむさぼる構図がドイツ全域に広まったのである。教会が考え出したこの 「新たな搾取」に、民衆が教会内部に関心を持ち批判を強めたのは当然だが、教会はその動き に極めて鈍感だった。
司祭はミサ典書をラテン語で読み、一般民衆はその内容を全く理解できなかった。この当時の聖 職者の多くは神学の教育を受けていなかった、教義や聖書についての説明などはほとんどでき なかった。教会がその土地の支配者の私有物であったことから、貴族や諸侯の次男や三男がそ の職を聖職禄と共に受け継いでいることが多く、地方の聖職者の多くは聖書を読んだこともな く、ミサの順番さえ知らなかった。そのため多くの人々はキリスト教の信者でありながらキリスト教 を知らなかった。よく理解できたのはわかりやすいお金で買える天国行きの切符∵ワ宥状= 免罪符、の仕組みだったのである。

キリスト教のリフォーム
この問題にキリスト教の教義=聖書=からの逸脱である、と批判したのがアウグスチノ修道会に 属するドイツ人神学教授マルティン・ルターである。ルターは修道士として学ぶ中で贖宥状=免 罪符=の頒布≠ヘキリスト教の聖書の教えに反しているとの結論に達し、1517年、ザクセンで頒 布されていた贖宥状=免罪符=に対して反対する「95箇条の提題」を示してローマ教会に聖書 による討論をよびかけたのであった。

  ▲農民軍
これをきっかけにキリスト教の制度疲労が様々なかたちで浮 かび上がりキリスト教のリフォーム=宗教改革=が動き出す のである。ルターが聖職者に「聖書の教えに戻れ」と呼びか け、ラテン語が唯一だった聖書をドイツ語で訳し誰でも読める ようにしたことで、聖職者のでたらめな説教と堕落が明らかに なり、「95箇条の提題」の伝播はグーテンベルクの活版印刷の 発明と重なって急速に広がっていった。
ルターの「聖書に戻れ」の訴えはドイツ語で印刷され、その広 がりと波紋の大きさは詩人で文芸批評家のハインリヒ・ハイネ が1830年代に(ルターのドイツ語聖書編纂から約330年後だ が)ドイツ語訳の聖書のドイツ全土に伝搬によって神聖ロー マ帝国の共通語・ドイツ語ができた≠ノ続けて、
「私は知っている。魔法ともいうべき新しい印刷術によって何 千冊も人民のあいだにまきちらされたこの本訳聖書によってルターの用語が2,3年のうちにドイ ツ中に広がり、ドイツ人に共通の文語になったということを」(ハイネ著「ドイツ古典哲学の本質」 岩波文庫)___と述べているほどの文化の大事件だったのである。一説には1500年から1530年 の間に10,000種ものパンフが出版され、各1,000部印刷されていたと言う。全体で1000万部と言 うすさまじい数である。
農民の多くは字が読めなかったが、居酒屋であるいは寄り合いで字の読める者が読み聞かせる ことで、農民たちは教会堕落の事実をあばく重要な武器を手にしたのである。活版印刷登場は 聖書の普及にとどまらず、文学、教育など文化全体を大きく底上げしたのである。当然、広がる キリスト教への懐疑と批判、過酷な収奪と無権利な暮らしの改善要求が様々に結び合った。農 民が相呼応して立ち上がり、ドイツ中南部フランケン地方を包む大規模な農民のたたかい=ドイ ツ農民戦争に繋がっていったのである。

農民たちは自分たちの要求を12箇条にまとめ上げた。
@司祭の選出、否認権の実現 A十分の一税の廃止 B農奴制の廃止 C狩猟、漁獲権の 共同体への還元 D森林などの農村への返還 E賦役は忍耐可能までとする F農民への 貸与地の緒既定の順守 G貸与の農地地代は生活ができるまで下げる H裁判領主の量刑 の軽減 I購買契約のない共同牧草地は共同体のものとする J農民財産を強制的に没収す る死亡税の廃止 K以下の要求は福音の中心的命題である平和、愛、協調、忍耐に基づくもの である。___と、きわめて当然で平和的なものであった。
この要求が支持され広がり封建領主、教会などに不安が広がる中で農民運動の帰趨を決めたと 言われているのが、マルティン・ルターが出した農民運動弾圧の指示「農民の殺人・強盗団、 シュヴァーベン農民の12箇条に対して平和を勧告する」だった。「公権力にそむいて蜂起し、そ の忌まわしい罪を福音で覆い隠し、キリスト教の兄弟と自称している以上、いま必要なのは忍 耐、慈悲ではない、誰であろうとたたき殺し、絞殺し、刺し殺すべきである」という内容である。
マルティン・ルターは聖書の実践を訴えるが自己の内面を重視し国家への抵抗を認めない、基 本的には体制維持の考えの持ち主であった。
生産・流通大きな変化、活版印刷による情報伝搬の進歩、一向に改まらない貴族・聖職者の堕 落、益々強化される庶民に対する搾取など、時代の変化と制度疲労のないまぜになった空気に ルターの主張が重なってドイツ中南部を包む大闘争に広がったと言ってよいだろう。
急速に広がった農民戦争だが領邦たちは体制を立て直して反撃。領邦連合の前で1525年の夏 の戦いで農民戦争は農民の側の死者10万人以上(17万人の死者と言う説もある)の敗北で終 わった。これらの地域の成人男子全体の10〜15%が数週間に命を落としたことになる。助かっ た指導者はわずかだった。要求にキリスト教の改革に社会変革を合わせて掲げた神学者トーマ ス・ミンツアーをはじめ、それぞれの地域の農民軍指導者も容赦なく処刑され、牢獄で命を落と した。

ドイツ・ルネサンスの画家たちの格闘
芸術家の犠牲もリーメンシュナイダーだけでない。シュツットガルトで農民軍の軍事顧問で妻が 隷農だった臣属騎士で画家のイェルク・ラートゲープ(「ヘーレンベルクの祭壇画」をシュツットガ ルト美術館が所蔵)は1525年、諸侯の同盟軍と戦い農民軍の敗北に終わり、ブフォルツハイムで4頭の馬で 手足を引き裂く刑で処刑され、また当時、ドイツ最大の司教アルブレヒト・ブランデンブルクの宮廷画家で ドイツ絵画史上最も重要と言われる「イーゼンハイム祭壇画」を描き、ディユーラ、クラーナハと並ぶ画家 と称されたグリューネヴァルトはルターと農民への共感を掲げたことで宮廷画家を追放され、ニュルンベルク に「亡命」、皇帝の追跡をかわしながら職人に身をやつし、1528年8月31日に病死しているが、葬鐘も鳴ら されず市外に密かに葬られていた。グリューネヴァルトはその後歴史から消え、再評価されたのは19世紀末 だった。また巨匠ディユーラの三人の弟子ともいわれニュルンベルクで人気を博したバルテル、ベーハイム兄弟、 ゲオルク・ベンツもニュルンベルクを追放されている。


 ▲イーゼンハイムの祭壇画(部分)
グリューネヴァルトの代表作として名高い「イーゼンハイ ムの祭壇画」はリーメンシュナイダーの「愛と悲しみ」の 造形表現とは大きく異なっている。磔刑のキリストは肉 体労働者の体格で全身傷だらけの上、垂れ下がるよう に膝をのばし、打ち付けられた手は開かれ、がっくりと 首を垂れている。このキリストの姿を指して“当時の農民 の姿を重ねている”と言う人は多い。文字通り強くこの 時代を告発している。
「イーゼンハイムの祭壇画」は制作された当時はフラン ケン地方の南に位置するイーゼンハイムの修道院付属 の礼拝堂にあったものだが、現在はそこからコルマル に移されている。しかもグリューネヴァルトはリーメン シュナイダーが工房を構えていたブルツブルクで生まれ ており晩年は再び生まれ故郷に戻り農民戦争の中で農 民たちの面倒を見ていたと言う。更に、ディユーラが1502年夫婦でこの地域一帯を旅している が、その際ブルツブルク、フランクフルトでグリューネヴァルトと会っていたのではないかと言う推 測もある。ディユーラの日記には無いが、リーメンシュナイダーともどこかで会っていたのでは? と想像したくなる。


何故かと言えば、ディユーラが残している唯一の農民戦争を扱った仕事 「農民戦争のための記念碑のプラン」と言うモニュメントの設計図(右→) は塔の頂点に剣に貫かれてうずくまる農民を配している、農民戦争に立 ち上がった農民たちに批判的だったルターの「宣告」の中にある「農民軍 に忍耐、慈悲はいらない、誰であろうとたたき殺し、刺し殺し、絞殺すべき である」とのべた言葉が重なるのである。ディユーラの周辺には農民たち の戦いに共感する者=福音派が少なくなかった。この記念碑のプランを農 民の戦いを戒めるため、とする意見もあるようだがとてもそのようにこの 絵を読むことはできない。ディユーラの心も農民、民衆の側にあったという 解釈に同感する。
ドイツ・ルネサンスの画家の仕事について冒頭に引用した『リーメンシュナ イダーの工房』の著者・ローゼンフェルトの言葉「おそらくは避難すべき、 人の心を幻惑するような、ますます豪奢に生前の姿に似せて作られるよ うになっていく聖人像がそれまでにも増して批判の対象にさらされるよう になっていた」をあえて借りるが、信仰の対象として奉られてきたキリスト 像に、真実を重ねる制作も行われてもいる。
グリューネヴァルトの「イーゼンハイムの聖壇」のキリスト像もそうだが、宮 廷画家、肖像画家としてこの時代を代表する一人ハンス・ホルバイン (1497-1543)の「墓の中のキリスト」は、豪奢をそぎ落-としたばかりかその後ロシアの文豪ドフト エフスキーに「この絵を見たらとても復活は信じられない」と言わせたほど、真に迫っているキリス ト像である。

▲ホルバインの「墓の中のキリスト」

終りにあたり
時代に生き、時代を表現するということの意味をドイツ・ルネサンス時代の美術は様々な角度で 示唆しているように思う。時代を変える深部の力が生産、流通、情報と言った経済面、それらが 作り出す民衆との共同そして矛盾によって生み出されるとすれば、そのどれもが激動期の中で 次の時代を呼び込もうとしたドイツ中世の末期にはっきりと見て取れる。そして、このドイツ・ルネ サンス期と今日の日本の状況は似てはいないか。そんな感じがしてならないのだが思い過ごし だろうか。
文化は人々の営みの中からしか生まれないと私は思っている。ドイツ・ルネサンスの画家・彫刻 家はいずれもその時代に生き、激動に洗われながらそこで繰り広げられるドラマの中で更に格 闘しており、その姿は鮮烈だ。そこから生まれた作品だから、いまに生きる私たちに語りかけてく る言葉があり見る者の心をとらえるのではないか、そんな風にも思っている。そう思うとあまりに も今日の美術、美術の教育は手軽なものになってしまった、という気持ちが湧いてくる。「歴史は 明日を示唆する地図」とよく言われる。そうだとすれば、美術家も立ち位置を確かめ、歴史と言う 地図に目を落として考えるときに来ているのではないか、この10年ほど思い続けてきたことであ る。リーメンシュナイダーに強く関心を抱くようになったのもそこにあった。幸い昨年リーメンシュナ イダーを訪ねる機会に恵まれた。そのことがこの文をまとめる上で大きなきっかけとなった。

-----参考にした書籍・テキスト・出版社-----
「ドイツ・ルネサンスの画家たち」土方定一著 美術出版社
「リーメンシュナイダーとその工房」イーリス・アルデン・ローゼンフェルド著 文理閣
「リーメンシュナイダーの世界」 植田重雄著 恒文社
「ドイツロマンチック街道」 阿部謹也ほか共著 新潮社
「ドイツ農民戦争」 ギュンター・フランツ著 未来社
「1525年の革命」 P・ブリックレ著 刀水書房
「中世の秋」 ヨハン・ホイジンガ著 創文社
「アートバイブル」 日本聖書協会
「物語ドイツの歴史」 阿部謹也著 中公新書
「中世の窓から」阿部謹也著 毎日新聞社
「プロティスタンティズム」 深井朗著 中公新書
「ドイツ農民戦争」 エンゲルス著 岩波文庫
「ドイツ古典哲学の本質」ハインリヒ・ハイネ著 岩波文庫
「流刑の神々・精霊物語」 ハインリヒ・ハイネ著 岩波文庫
「ドイツとドイツ人」 トーマス・マン著 岩波文庫
「資本主義の終焉と歴史の危機」 水野和夫著 集英社新書
「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也著 平凡社

[# 04]
  俗 憲 法 談 (2) 加藤義郎 (2018.3.30.)

= 熊さんか、挨拶はいいからまぁお上がり。なにか訊きたい事がおありだとか…。
= へぇ、ご隠居は町内一番のコチコチの護憲派だと言われてますから…、
= 町内とは狭いな。コチコチではないが、フニャフニャでもない。これなーんだ?
= はて、バナナかな。いや冗談はそのくらいにして、さっそく伺いますが、憲法違反の自衛隊が 存在しなかったとして、今もし北朝鮮が攻めて来たらどうしますか?
= 直球で来たな。だが特定の国を勝手に敵と決めては礼を欠くな。
= あっそうか。先だって首相が「北朝鮮が攻めて来たらどうしますか」って言ってたもので。
= 北は米国に言ったので、日本に言ったわけではない。何か条件が付いていたね。
= たしか「米国がわが国を攻撃するなら、日本の米軍基地を叩き潰す」とか。
= 言い換えれば「米国が北を攻撃しなければ、北は日本を攻撃しない」ってことだね。
= なるほど。しかしアメリカはイラクを壊滅させちゃったし、やっぱり危ねえや。

= 現代と混同しちゃってるな、熊さん。初めの問いは「非武装の日本がどこかの国に攻められ たらどうするか?」だったろ。
= へえ、自衛隊も日米安保条約も無しの…。
= 軍備を持たない国が軍事同盟を結べるわけはない。どこの国とも仲良く平和にやって行こう と宣言して武器を捨てた日本を、何故いきなり武力で攻めて来るの?
= えっ、そこまで考えなかった。取り敢えず「カネを出せ!」…ですかね。
= それじゃ強盗だ。国際警察か国連に知らせるよ。
= サツに知らせたら命は無いぞ!
= 抵抗はしないよ。お前さんを殺すための武器は持っていないのだから。
= 自衛権は無いんですか?
= 無くも無いが人殺しの武器は持たない。それで、攻めて来た理由は何?
= 理由は分からないが欲はあります。カネ、土地(資源)、労働力、なんでも欲しい。
= つまり搾取したいってことだね。人間だれにも欲はある。それはいいが、他人の物を欲しが り、相手が弱ければ奪い取り、殺したりする悪い奴が少なくないのも歴史的事実だが。
= その強欲なヤツらが政治を支配し、貧乏人から無いカネを搾り取っても良いという何々主 義ってのが幅を利かしてますから、こちとら庶民は困っちまう。
= “末法の世”だから人間社会にリーダーは必要だ。それを選ぶときに間違えないようにしない といけない。彼が不適任と分かっても辞めさせるのは簡単ではないからね。

= ところで再度伺いますが、非武装の丸腰で国が守れますか?
= その“国”という言葉は悪用されるから気を付けないと。オリンピックは「国のため」ではなく、リンカーンのように“人々”=people と言わなければ。
= 国の…ではなく、人々の幸福のためか…、当然ですね。
= 米国は戦争で儲けて発展してきたが、戦争で死んだ将兵に「幸福だと思う人、手を挙げて」と 訊いてみたい。
= 極めて希でしょう。儲ける奴らは戦地になんか行きませんが、イラク戦争に強く反対していた のは確かマクナマラって国防長官でした。
= ベトナム戦争で米軍将兵が多く死に、徴兵制が廃止された。イラク戦争には若者に「戦地に は行かせない」と騙して新兵を集めたことが後で問題になったな。
= 戦死した兵士やその家族が気の毒だ。米国のやることは日本の憲法とは真逆ですね。
= 米露中をはじめカネのある国は互いに仮想敵にして軍拡競争し、どこかで代理戦争をさせ、 武器を消費させ、儲けたカネで核兵器まで作った。が、予想被害が大き過ぎて使えない。
= 巨額な無駄金ですね。難民を救うために使えばいいのに。

= 今、世界の多くの人々に希望を与えて輝いているのが戦争を放棄した日本の憲法だ。出自 は米国の優れた知識人グループだが、日本国民はその真価を認め、幾度も政権党による改憲 という妨害に遇いながらも反撃し、日本人の宝物として大事に育て上げた。
= それを政権党が今度こそ戦争できる憲法に変えようとしています。どうします?
= 国民の多数は望んでいないのに、敵は議員数を頼りに無理やり押し通そうと仕掛けてきた 戦争だ。無関心な人々にも色々な方法で知らせ、反撃して潰す。選挙も同様に。
= 現実は難しそうですが、実現しますか?
= 人間は知性の動物だから、私たちが心底から望めば必ず実現します。
= 花見も明るくなってきました。


[# 03]  第五福竜丸展示館レポート島森 功 (2018.3.26.)

第五福竜丸は、1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁 でアメリカがおこなった水爆実験により被ばくした静岡県焼 津港所属の遠洋マグロ延縄漁船です。
爆心地より 160Km 東方の海上で操業中、突如西に閃光を 見、地鳴りのような爆発音が船をおそいました。やがて、実 験により生じた「死の灰」(放射性降下物)が第五福竜丸に 降りそそぎ、乗組員 23 人は全員被ばくしました。その後、第 五福竜丸は放射能が減るのを待って東京水産大学(現・東 京海洋大学)の学生の航海の練習船「はやぶさ丸」となりま した。■東京都立第五福竜丸展示館webより(編集係・注)
――――――――――――――――――――――――
・写真は島森功→  
以下、島森功 レポ。
戦後の食糧難対策で、GHQ の遠洋漁業禁止が解かれると多くの木造船が建造され、北はカム チャッカ半島から南はオーストラリア近海まで太平洋全域に出漁していった。第五福竜丸は全 長30m弱。140 トン。船体は大きいが、エンジンは 250 馬力。普通の乗用車より少し大きい程度。 今は残っていない大型木造船は文化遺産・技術遺産でもある。
当初、米軍が第五福竜丸を横須賀基地で除染後、解体処分するという申し出を日本政府が拒否 して買い取り、国有に。当時の政府は今の政権よりはまとも。そして廃船寸前の福竜丸を、カナ ダの複数の大学の学者達が、保存すべきと声を上げたのがきっかけで国際的な保存の動きに 発展していったそうです。

焼津に帰港後、甲板に残っていた死の灰が保存されていた。珊瑚礁 で核実験を行ったため、粉砕された珊瑚の殻が汚染されて降ってき たらしい。写真→

死亡した久保山さんが使っていた無線機。久保山さんは米軍からの暗殺 を危惧し、母港へ救助要請の無線を打たなかったが、和文電信を使 えば米軍に解読されなかったのでは、と考えてしまう。

「第五福竜丸は生きている」と書かれた新藤兼人監督の書がかかげられている。 別の場所には「第五福竜丸は、原水爆のない未来へと、航海を続けています。」とあった。
各種書籍や資料を販売している。米国人の画家ベン・シャーンの絵(晩年)「Lucky Dragon No.5」 (集英社)シリーズにアーサー・ビナード氏が文をつけたものなど。

核実験当時、周辺海域には1000 隻以上の日本漁船が操業していた。住居近くの海で魚を捕っていたマーシャル諸島住民の小舟も被曝していたに違いない。
第五福竜丸の被曝地点は爆心地から160 Km。東京から那須・諏訪湖・焼津などの距離に相当。 もちろん警告水域外。後にアメリカは卑怯にも核実験の何ヶ月か後に警告水域を拡張している。
話は変わるが、福島原発事故のとき、アメリカ政府は在日アメリカ人に200km 以遠への避難を指 示していたが、ビキニの教訓か。

第五福竜丸の他にも多くの日本漁船が被曝していた。パネルで被曝漁船と船長が紹介されて いる。主な船。ビキニ核実験だけではなく、その9年前の広島・長崎の原爆被害についてもパネ ル解説している。
熱で変形した瓶なども展示されていた。
核実験とその被害に関する年表には「ゴジラ映画完成・上映」が 記されていた。ゴジラ映画は核実験とは無縁ではない。
新ゴジラは原点を忘れているのでは。
資料販売コーナーの本箱の上にはゴジラの人形が置かれていた。(左の写真・非売品)
原水爆反対運動とゴジラは切っても切れない縁のようだ。
漁船以外に核実験海域を航行する商船やタンカー、軍艦は無かったのだろうか。

中学生たちが描いたゴジラの絵もあった。核実験反対や平和への願いがビッシリ。
太平洋を行く、第五福竜丸の想像画。
小学生が描いたポスターには「水爆は平和をつくらない」
トランプ、晋三、正恩、見ろ!(注・島守功の声)
折り鶴には「戦争がなくなりますように」

館内では「第五福竜丸を描こう展」が開かれていて、保存船体 のわきなど空きスペースにイーゼル等で展示されていた。展示 館隣に別館をつくって、このような展覧会・講演会・映画上映会 などを開催できるようにしたら良いと思う。土地はありそう。今 の都知事の元では無理か。
展示館近くの庭にあるマグロ塚。第五福竜丸以外にも多数の マグロ船が持ち帰ったマグロは放射線を測定後に廃棄。築地 でも多くのマグロが埋められた。この塚は築地に埋められたマグロの墓碑(上の写真)。

被曝半年後の9月に亡くなった第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんの追悼碑に、
「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」。
保存館の外観。 鉄板ではなく、アクリルとかポリカーボネイトなど光を通す素材にして坂茂設計のクライスト チャーチの教会のように内部が明るいと良かったのに。
沈没したカツオ船に積まれていた第五福竜丸の6気筒エンジン。錆びて腐食している。 風の谷のナウシカに出てくる巨神兵残骸を連想させる。本当はこれも屋内展示に。


[# 02]  核兵器禁止条約―進むべき道を確認した世界の中で
        2018.2. 1 藤井建男

昨年7月7日(日本時間7日深夜)、国連本部で核兵器禁止条約が採択されました。内容は核兵 器の使用、開発、実験、製造、取得、保有、貯蔵、移転など幅広く禁止する内容で、ヒロシマとナ ガサキへの原爆投下から72年の歳月を経て核兵器の全面禁止が人類の進むべき道としてうた われたのです。前文に「ヒバクシャの受け入れがたい苦痛と危害に留意」と、訴え続けてきた被 爆者の声を明記、核兵器の「終わりの始まり」を宣言し、世界の国々にこの条約を批准すること を呼びかけたのです。更に10月6日には核兵器廃絶国際キャンペーン(I CAN=アイキャン)の条 約採択への貢献が大きいとして、ノーベル平和賞が授与され、核兵器禁止に向けた世界の流 れがはっきり浮かび上がったのでした。

1984年、前年ヨーロッパ全域で広がった反核運動と交流する自主的なツアーの企画があり、そこ に参加し、ドイツ、オランダ、イギリスの反核運動を訪ねたことを思い出すと、国連での核兵器禁 止条約までの運動のたゆみない広がりと底の深さ、そのなかで大きな力となったヒバクシャの貢 献をあらためて感じないわけに行きませんでした。1983年にヨーロッパを包んだ反核運動は、米 ソ対決の中でアメリカが局地的な核戦争(限定核戦争)戦略に本格的に乗り出し、NATO基地に 巡航ミサイルを配備する動きに反対する、対抗してソ連が中距離核ミサイルを配備する動きに反対 する運動として急速に広がったのでした。

簡単に言えば、米ソのどちらかが中距離核ミサイルを発射した場合、目標地点到着までは1時間 とかからず、誤射であるかの確認もできず即反撃の核ミサイルの発射となることから、 それを引き金に全面的核戦争になる危険性が高く、米ソの対決とならない場合でもNATO、ワル シャワ条約軍の基地は核によって破壊される―。この、単純明快な核戦争の危険を前にして、 ヨーロッパ全域に反核の声が広がったのでした。

西ドイツのシュツットガルトの平和運動との交流会では、キリスト教会関係の団体が 「核兵器が使われれば天国も焼き尽くされる」、医者の運動団体の医師は「核兵器は死者も殺す」 と語るなど、核戦争の恐ろしさをそれぞれの言葉で語っていました。 またオランダ、西ドイツでは制服を着た現役のNATO軍の兵士が「巡航ミサイル、パーシング・ノー」 の横断幕を掲げて参加するなど、当時の私たちには想像もできないほどの広がりでした。(右写真)
基地を包む“人間の鎖”の運動もこのヨーロッパの反核運動から各地に広がりました。 そしてどこの運動でも人々を立ち上がらせ、参加を広げたのが被爆の実相を伝えるヒバクシャの訴え であり、被爆の写真であり、映画だったと言います。日本が地球のどこにあるか知らない小学生が 「日本は原爆を落とされた国だ」と語ったと言う話も聞きました。

この大きな反核の運動は文化にも様々な影響を与えています。 まず挙げられるのは創意に満ちたポスター、ワッペン、バッチ(冒頭の写真)、 そして集会を盛り上げるミュージシャンたちの演奏、平和・反核・生存、 等々を巧みに表現して運動をいっそう身近にしたと言います。
1983年10月29日に開かれた、オランダ・ハーグの反核集会は市人口46万人を上回る55万人が集まった と言われその熱気を語っていました。
その後、ソ連の崩壊がありEU(欧州連合)が生まれ、ヨーロッパにおける核戦争の危機は一見遠 のいたように見えますが、核兵器を抑止力として確保し製造し配備する動き、使用可能な小型核 兵器の研究、実験は続いています。そして核兵器使用一歩手前の危機的状況を突き付けている のが現在の「北朝鮮・アメリカの対決」と言わなくてはなりません。
核兵器禁止の世界的な動きは、1950年に「核兵器絶対禁止」を掲げたストックホルムアピール、 1954年の3・1ビキニ被爆を機に広がった原水爆禁止運動、国連軍縮特別総会と結んだ国際的な 反核運動、1983年にヨーロッパ全域を包んだ反核運動と広がりました。そして、常に唯一の被爆 国日本のヒバクシャを先頭にした運動があったのです。

しかし、残念なことに現在の安倍政権は、国連の核兵器禁止条約採択に参加しなかったのです。 そればかりか今年1月、日本を訪れた「アイキャン」のベアトリス・フィン事務局長が求めた首相と の面会さえ断ったのです。「アメリカさえよければ」と言って国際社会の共通課題を乱暴に踏み にじって暴走するトランプ大統領に、まったく無批判に追随する安倍首相の異常な振る舞いに、 日本政府の「核兵器禁止条約反対」の姿勢が浮かび上がります。
核兵器禁止条約は批准国数が50カ国に達した後、90日を経て発効します。
ノーベル平和賞授賞式で「アイキャン」のベアトリス・フィン事務局長は講演の中でこう述べました。 「核兵器の傘に守られていると信じている国々に問います。あなたたちは、自国の破壊と、 自らの名の下で他国を破壊する共犯者となるのですか。世界の国々に呼びかけます。 私たちの終わりではなく、核兵器の終わりを選びなさい! 世界の全ての市民に呼びかけます。 あなたたちの政府に対し、人類の側に立ち、核兵器禁止条約に署名するように求めてください」と。

また、13歳のとき広島で被爆したヒバクシャ、サーロー節子さんは同じく授賞式での講演を 「私たち被爆者は苦しみと、生きるための真の闘いを通じて、この世の終わりをもたらす核兵器 について世界に警告しなければならないと確信し、繰り返し証言してきました。 …核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です」とのべ最後を「今、私たちのひかりは核兵器禁止条約です。 …世界中のすべてのみなさんに対してヒロシマの廃墟の中で私が聞いた言葉を繰り返したいと思います。 『あきらめるな!(がれきを)押し続けろ!動き続けろ!光が見えるだろう? そこに向かってはって行け』…核の恐怖の闇夜からお互いを救い出しましょう」と結びました。

ヒロシマ・ナガサキへの原子爆弾投下から実に72年、その間核兵器禁止の運動は様々な困難を 乗り越えて粘り強く続けられ、ついに禁止条約を実現し、人類生存の道を指し示すところに 立ったのです。しかし全ての核保有国がこの条約採択に不参加、核の傘の下にあるNATO加盟国、 オーストラリア、唯一の被爆国日本が採択不参加、と言う現実はこの運動の進む先が平坦でない ことを示しました。

核兵器禁止条約を国連本会議で採択したことで進むべき道を確認した世界の中で、一刻も早く 条約に批准する政府を私たちは手にしたいものです。そのために、核兵器禁止ヒバクシャ国際署名を 集め、政府を禁止条約批准を求める運動で包囲しましょう。〆


[# 01]
今年、大きく踏み出す「映像ゲルニカシアター」
2918.1. 1 藤井建男(ノー・ウォー横浜展事務局担当)
昨年末、「映像ゲルニカシアター」を主宰する小林はくどう氏(美術家・成安造形大学名誉教授)か ら、1月にも季刊誌「ゲルニカシアター」が発刊されるというホットな知らせが届いた。合わせて来 年のノー・ウォー横浜展で上映する作品のラインアップ作りもはじまったとも。さらに、「出前・ゲル ニカシアター」の構想も。核ミサイルを小脇に抱え自国オンリーで暴走する米朝両国の危機的軍 事緊張の中で、話合いでの解決を求める世界の声を無視する米大統領に唯一忠実に従う安倍 政権の九条壊しに抗する大運動が呼びかけられている。こうした状況の中でしぶとく広がってき た「映像ゲルニカシアター」運動には映像文化の反戦・平和の地熱のようなものも感じられる。ノー・ウォー横浜展としてもこの静かな熱気を受け止め、更に協力・共同したいと思う。

ノー・ウォー横浜展で誕生

▲2015年、映像シアター案内↑拡大
「映像ゲルニカシアター」は2014年秋、神奈川県民ホールギャラリーで催されるノー・ウォー横 浜展の第二室で誕生した。この年は安倍政権のもとで「国家秘密保護法」制定の動きが強まり、 知る権利、表現の自由の危険が喧伝され、文化人、マスコミ界の中に反対の声が広がってい た。ちょうどノー・ウォー横浜展の企画を検討している時期に市民ビデオ研究会の小林はくどう氏 から話が持ち込まれ立ち上げとなった。以来毎年、展覧会の会期中、様々な市民映像作家、グ ループによる戦争掘り起し記録、告発映像作品を繋いでエンドレスで上映されてきた。
当初はどういったものになるか確たる自信もなかったがその後4年間続き、上映されてきた市民 目線の戦争の記録、平和を希求する映像は33作品。すでに2018年の企画も検討されている。 (上映された作品は他にアラン・レネ監督の名作「ゲルニカ」がある。)

ゲルニカに込められる反戦・平和
「映像ゲルニカシアター」のネーミングにも今日的な意味が込められている。冠付されているゲル ニカはスペイン北部フランスに近いバスク地方の小都市の名前であるが、ピカソの描いた「ゲル ニカ」で多くの人にその名は知られている。この平和で小さな町は1937年4月26日、突然スペ イン共和国の転覆を目指すファシスト・フランコの反乱軍を支援するナチスドイツによる見せしめ 的無差別な爆撃を受け市民多数が命を奪われ町は壊滅的に破壊され、そのニュースが世界を 走った。この年開かれるパリ万国博覧会のスペイン館の壁画を委託されていたピカソは故郷ス ペインに起きた惨劇のニュースを受け、怒りと悲しみを込めてわずか2ヵ月足らずで20世紀最大 の政治的絵画「ゲルニカ」を描き上げた。

ゲルニカの惨劇は今日の大量殺戮戦争の幕開けとなったと言われている。以来戦争の様相も大 きく変わった。無差別爆撃には戦場、都市、農村、産業の境は無い。第一次大戦で戦争はすで に総力戦の時代に入っていた。総力戦では兵士はもとより女性、老人、場合によっては子どもま でも戦力に数えられ、命を羽毛のように軽んじる人づくりが必要になり、そのための教育が行わ れるようになった。総力戦は無差別爆撃に拍車をかけるものになったのである。その意味で「映 像ゲルニカシアター」の“ゲルニカ”という四文字には今日の戦争の姿を象徴する意味が込めら れている。と同時にこうした無差別殺りくに対し毅然と絵筆をもって立ち向かったピカソの姿を通 して文化人の立ち位置を問う意味も含まれている。
今日では戦争ではない紛争地においてさえおびただしい数の命が奪われ、数値で測れない有 形・無形の文化が破壊される。かつてわが日本の国民が味わい、アジア諸国に加えてきた塗炭 の苦しみのそれである。悲劇を繰り返さないために、それらを掘り起こし人々に届ける作業は今 日極めて大切になっている。そして、それができる力はその悲劇の当事者、その家族、次の世代 である国民、市民の目線の中にしかない。「映像ゲルニカシアター」はその一端を映像の分野で 担っているように思われる。

記録映像の原石
第一回「映像ゲルニカシアター」では2011年の東日本大地震で起きた福島原発事故を取り上 げた4作品が上映されている。原発は暴発すれば取り返せない被害を生むことが指摘されてい るにも関わらず繁栄のシンボルとして、地域振興に焦る地方に押し付けられてきた国家的事業 であり、福島原発事故でその危険が明らかになった。4作品は故郷を追われた避難民、放射能 の不安におびえる家族、人々の絆を通し、暮らしの実際で国と原発を告発している。
4年間で4回の「映像ゲルニカシアター」で上映された33作品はすべてが強く国民、被害者の目線 で映像化され心を打つものであり、それらはすべて記録映像の原石のように感じられた。
ノー・ウォー横浜展の上映では回を追うごとに来場者が増えて定着してきている。2018年の「映 像ゲルニカシアター」にどんな作品が登場するか、寄せられる期待も大きい。



2017年
[# 13] 憲法施行70年に思う
歴史に向き合う美術界の運動を広く、深く/2917.1.6 藤井建男

戦争する国づくりの実感
昨年2月、96歳で亡くなった母の遺品中からA4書類箱一つ分に匹敵する戦時中の手紙の束が 出てきた。主に親戚、家族とのやり取りに加え出征した父と交わした手紙だったが、その中に、 招集を受けた父が母に宛てた遺言(昭和19年6月30日の日付)が遺髪、遺爪と一緒に封に入って いた。
遺言は「此度名誉ノ御召ニ預リ日本男兒トシテコノ上モ無イ喜ビデス、文字通リ一死以テ君国ニ 盡ス覚悟デアリマス…」ではじまり、“したがって生きて帰ることを期しません故自分の亡き後の 心すべきことを左に記します”。と続く(原文はカタカナ)。母に自分の親戚との付き合い方、友人 たちとの付き合いについて、さらに間もなく一歳になる私の育て方に関しては言葉を選び遠まわし に“軍人にするな”、と述べている。1916年生まれの父は大学時代左翼思想で検束・留置され ており、遺言は他人に見られても良い文にするため言葉に気を使った跡が見られる。幸い父は 生きて終戦を迎えて長寿を全うしたが、何度か運に恵まれて生き延びたと述べていたことを思い 出す。

この遺言が母の遺品の中から出てきた時期は、「安保法案」(戦争法)のもと、戦闘参加を付与さ れた自衛隊の南スーダン派兵が様々報道されていた時と重なる。自衛隊員はもとより家族にも 厳しく口止めがされていたため、隊員、家族の言葉はメディアから伝わってこなかったが、おそら く父が遺言に残したようなことが話し交され、涙があったことは十分想像できる。安倍政権の憲法 破壊の暴走がこれほどひどくなければ、父の「遺言」は我が家族の歴史にとどまっていたかもし れない。しかし、今の事態は70年前の戦争の姿と直結する形で進行している。安倍政権の中枢 から「天皇を元首にし、自衛隊を国防軍へ」の声が聞かれ靖国神社への閣僚の参拝が相次ぐ事 態が父の遺言と自衛隊の南スーダン派兵を重ね合わせてしまうのである。

美術と反戦・平和にある距離
70年前、日本国民が手にした日本国憲法。そこにうたわれている主権在民、・基本的人権の尊 重・国際平和主義を指して、「日本の憲法は世界の宝」の声は広がっている。今年はさらに広が ることが予想されているし、またそうしなくてはならない。
だが、美術界を見たとき他の文化分野と比較してこの憲法を守る運動が弱く美術と反戦・平和の 運動にある種の距離があると感じるのは私だけではないようだ。
安倍政権は憲法違反の「特定秘密保護法」、自衛隊が海外で戦争に参加できる「安全保障法」を 本会議の強行採決によって成立させた。いずれも小選挙区制と言うペテン的選挙制度で得た多 数議席に物を言わせたものである。
この相次ぐ安倍政権の暴走に全国で怒りの声がわき起こり、暴走阻止の野党共闘が実現したの は当然であった。学者・研究者、文学、映画、演劇などの各ジャンルは分野の共通コンセプトをつ くり、声明を発表し、舞台をつくり、また講演などを行いそれは様々な形で広がり運動を励まして きた。
その点で言えば美術界の動きは残念ながら私が励まされるものではなかった。動きは鈍かっ た。美術界に関わる公共展示場での不当な展示制限や撤去など表現の危機についても、当然 発言、抗議されるべきところがなされていない場合が幾度かあった。
映画や文学、演劇の分野は70年前の戦争の新たな掘り下げ、戦争と平和について考える手が かりを与えてくれた。美術について言えばほかの分野と同等あるいは同等以上、先の戦争に組 み込まれ、その傷跡は深い。その点を考えれば、現在の日本を再び戦争をする国にしようとする 安倍政権のファッショ的な動きに美術界はもっと敏感で、もっと発言があってよいのではないだろ うか。(安保法制反対の学生のデモ 写真・藤田観龍)

  一つの例をあげる。昨年近代美術館で開かれた「藤田嗣治、全所蔵作品展示」(9月19〜12月 13日)に対する、日本の美術界の対応である。この「展示」につては美術評論家の北野輝氏が 「問題の『戦争画』14点のボリュームに対し、簡略な解説や多少の資料の展示という対応も軽す ぎよう。このような藤田『戦争画』の全面公開は、『戦争画』を描いた藤田らが未決のまますり抜 けた『戦争責任』問題を今日までそのまま放置してきた、日本の美術界の『戦争責任』回避の姿 を象徴していまいか。そのことを懸念する。」(しんぶん赤旗11月13日「文化の話題」)と述べてい るが同感である。私もこの展覧会足を運んでいるが、説明の少なさに驚いた。そして戸惑ったの が一群の女子高校生が巨大な戦争画が描かれた画布の前で感じたことをひそひそ話ながらメモ していた姿だった。この展覧会では何が描かれているか、描かれた時期など作品の説明が全くと 言うほど無く、会場で手にすることができる紙一枚の作品目録は作品名のほかに藤田嗣治の戦 争画制作に込めた思いや自慢話だけであった。
軍の命令、新聞社の強力な後押し、貧窮な制作条件などの中で戦争画を描いた画家、描かされ た画家についてはここでは触れないが、戦争末期に描かれた「戦争画」の評価の中には戦争の 実相と切り離してある種「殉教画」「宗教画」のように別格扱いする傾向がある。その典型が藤田 嗣治の作品であり、その代表が「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節全うす」と言ってよい。画家 が戦争「記録画」をどう描くかは画家の自由だが、歴史の実相は、絵と共に存在しなくてはなら ない、と言うのが私の考えだ。この展覧会にはそれが全くなかったのである。

戦争の実相の重視を
アッツ島における玉砕の実際は、今日では資料もかなりあり明らかになっている。それによれば アッツ島の日本軍(山崎安代守備隊長以下2667人)は1943年2月時点で船舶補給が断たれた。5 月13日米軍が空と海からの猛爆撃支援を受けて上陸、大本営の作戦がグアム島など南東海方 面の重視に移り。5月20日「アッツ島放棄」を決定。23日援軍を待つ守備隊に大本営から「玉砕命 令」が下る。戦闘に参加できず意識あるものは手りゅう弾で自爆、意識ないものは軍医が注射か 拳銃で始末。兵士は戦闘と疲労で幽鬼さながらの姿で米軍の降伏勧告を無視して突撃、米軍の 一斉射撃で全員死亡した。戦死者2638人、捕虜29人。「玉砕」の建前から“捕虜は無し”となり生 存者は非国民と扱われ、存在を無視された――である。
このアッツ島の酸鼻極まる日本軍の全滅を大本営は「玉砕」と言う言葉で美化してたたえ、以後 国民に殉じることを求めたのである。この玉砕から3か月後、藤田嗣治は“日本兵が一人も死ん でいない”「アッツ島玉砕」を描き上げ、「国民総力決戦美術展」に出品した。新聞、ラジオは一斉 に絵の出来を褒めたたえ、「アッツ島決戦勇士顕彰国民歌」まで作られる。以後「玉砕」は南方地 域で最後の「バンザイ突撃」として定着、サイパン島、ペリリュ―島、硫黄島、沖縄と続き、さらに 全国民に押し付けられ敗戦の前夜まで“一億玉砕”が叫ばれたのである。
戦争の歴史画なら当然、この戦争の実相が説明されるべきと思うのだが、いまだに出版されて いる画集においても、戦争の姿が解説されているものはごく少なく、多くが絵の解説にとどまって いる。私は戦争画を描いた画家の戦争責任を問うべきだと言っているのではない。しかし、「戦争 の中の美術」「美術の中の戦争」というコインの両面ははっきりさせなくてはならないと思う。戦争 の実相を明らかにすることは、美術界の重鎮の優れた技量で描かれた戦争画であっても、その 絵の存在のあり方を検証することになるからだ。

戦争の検証と反省の欠如
では、なぜ美術がこの時期、戦争と平和と言う本質的問題に強く打って出られないのか。なぜ、 このようなことが今もって続いているのだろうか。この時期だから問題を解き明かすことが重要に 思えるのである。
私は戦争の壊滅的な敗北によって美術界全体が戦争の検証も反省にも踏み込めなかった敗戦 直後の状況、加えて戦争画を描かされた画家、筆を振るった画家の多くが戦後すぐに美術画壇 の“祖”のような存在になって甦ったことと無縁ではないと思っている。「今さら70年前を俎上に載 せてどうなる」と言う声もあるだろう。「もはや画壇が美術をけん引する時代ではない」と言う声も ある。そうなのだが、日本の美術界の多くが反戦・平和に距離を置くのは戦争直後からあの戦争 の実相、戦争そのものに対する検証と反省(自己点検)を不十分にし続けてきたことと無関係で はないと思えてならないのだ。敗戦直後、確かに極東裁判において日本の戦争指導者は不十分 ながら断罪されているが、国民に対する軍国主義が犯した罪はいまだに裁かれていない(戦争 に反対した人間を弾圧した治安維持法が良い例)。言い換えれば戦争の検証と反省がなされて いないままであることが大きな“澱”となって沈殿しているのではないかと思うのである。この事は 日本全体にも言えることだが、文化の各ジャンルで見ると美術にその感を強くするのである。典 型が先に述べた「戦争画」の扱いだ。この“澱”を取り去らなければ「戦争画」は意味不明なまま 評価され続け、事あるごとに利用されることになるだろう。反面この“澱”を取り去る絶好の機会 が眼前にあることも指摘したい。いま全国で広がる「憲法守れ」の運動である。今日、美術は自ら が通過した犠牲と苦渋に満ちた戦争を検証、反省し、その視点で今の時代に積極的に発言する ことが求められている。そのチャンスを逃がしてはならないと思うのである。
歴史に向き合う美術界の運動を広く、深く。

2016〜14年