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たけちゃんの映画時評(2) by 藤井建男
NO SMOKING ,NO WAR!!!!!!!!!!!!!非常口→

英雄史観の持つ面白さと怖さ
「レッドクリフ Part1」ジョン・ウー(呉宇森)監督/(2008.11.16)

ジョン・ウー(呉宇森)監督のスペクタクル「レッドクリフ Part1」は、西暦181年以降漢帝国の衰退 に乗じて割拠して覇権を競った〈魏〉〈蜀〉〈呉〉の三国時代を記録した中国の壮大な歴史書「三国 志」「三国志演義」に基づく壮大な国取り史話から、208年の魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が繰り広 げる「赤壁の戦い」を題材にしている。中国の国力を示す映画として中国政府が強力にバックアップ 人民解放軍兵士1000人、馬200頭が動員され、1000名を越えるエキストラ、地形を変える土木工事まで 行い、ハリウッド最高のCG技術を総動員して最大の見せ場である怒涛の戦闘シーンを再現、また巨 大なセットを作り出した。

 ストーリーは80万と言う圧倒的武力で天下統一に動く曹操(チャン・フォンイー)が最初の標的にし た劉備軍は、民衆を連れての撤退で窮地に陥る。劉備軍の軍師・諸葛孔明(金城武)が若き孫権の率 いる敵軍呉との同盟を提案、単独で呉に乗り込み司令官・周瑜(トニー・レオン)と好感を共有して 同盟を結び80万の曹操軍と対決する。劉備、孫権の同盟に激怒する曹操は圧倒的な力をもって長江、 赤壁に向けて200隻の大船団を差し向け同盟軍の壊滅に乗り出す。208年11月の赤壁の戦いを前にして、 陸路赤壁に向かう曹操軍と連合軍の戦い、亀の甲羅の模様陣で敵を迎え撃つ孔明の奇策“九官八卦の 陣”。「三国志演義」に名高い趙雲、張飛、関羽の超人的な戦場ヒーローが曹操軍の前に立ちはだか る。そして、「赤壁の戦い」へ。中国映画の人気俳優をずらりと並べ、日本の中村獅童なども含めた 俳優は中国、韓国、モンゴル、香港、日本とアジア人だけ、特異な陣容だ。

クライマックスは4月公開予定の「レッドクリフ Part2」となっているが、この映画のエンタテー メントな筋立て、壮大なスケールは“Part1”で十分味わえる。長編マンガもあり、中国製日本語 吹き替えの「三国志」のDVDも市販されている、歴史小説としては翻訳も含めれば戦前から何度も出 版されており、ゲームセンターにも「三国志」はあり、若者がしがみついている。その意味で若者 から高齢者にいたるまでファンは多い。ある意味で、待たれていた映画だ。それを、いまやハリウッ ドの頂点にいる中国人のアクション映画監督が手がけたとなれば、期待するのが当然だろう。

奇策、奇略、超人的英雄群像、織り成す権力争い、桁外れな人海戦術、個人演技にはここぞとばか りカンフー、京劇仕立てのアクションが盛り込まれ、これまでの西洋偏重の歴史エンタテーメント 映画と比べると、親近感もあり新鮮な見せ場も多くなんとも人間くさい。

しかし、この映画を「重要場面に挿入される白い鳩が平和への希求」「友情と反戦をうたいあげる」 とまで評価するのはどうだろうか。ジョン・ウー監督は映画に流れるテーマは「勇気、友情そして 愛」だと言う。だがやはり、あの強烈なハードボイルドの出世作「男たちの挽歌」から一貫して流 れる、アウトローな男の友情の果てにある、いわば“殺し方の非情の美”“殺され方の非情の美” が物量を伴った野戦シーンの中に遺憾なく発揮されている。その空しさへのこだわりがないところ が残念なことにこの映画を軽くしていると言い切れる。また、人間描写も大味、群集描写はほとん どない。「友情と反戦」を読み取るのは難しい。

孔明の奇策“九官八卦の陣”で逃げ場を失った数千と言う兵士を「殺せ!」と命じ、槍を突き立て て虐殺するシーンが一度ならずあったが、歴史上の事実であったとしても大量殺戮が倒れた兵士に 突き立てる槍の上下だけで描かれると命の軽さばかりが浮き立ってくる。大衆的歴史書の絶対必要 条件である「英雄史観」が持つ“面白さと怖さ”の両面をこの映画は備えている。その点を学ぶの も悪くない。4月公開の「レッドクリフ Part2」に期待しながら。(東京国際映画祭で拍手喝さい、 11月1日から全国拡大シネコンのロードショーで大人気中)〆


こどもの感性で貫けなかったこどもアニメ
宮崎駿監督「崖の上のポニョ」/(2008.8.14)

 宮崎駿が四年ぶりに挑んだ長編アニメ「崖の上のポニョ」。夏休み公開は予想通り快調に親 子連れを集めている。
 アニメは眼下に海、背景に高台を控え、やや古びた造船所を抱えるひなびた町。その高台の 崖の上に船乗りを父に、普段は母と暮らす五歳の宗介(そうすけ)が、ふとしたことで人間の 顔をした魚(ポニョ)を助けた事をきっかけに話が始まる。ポニョと宗介に友情が芽生え、海を 荒れ狂わせてポニョが人間になるという“人魚姫”を連想させるストーリー。波を巨大魚の群 のように描く荒れ海の迫力は、空を飛ばせれば抜群の宮崎アニメに新しい魅力を加えた。
 「単純すぎる」「親と子どもが楽しめるファンタジー」―見た人の感想は二つに分かれてい るようだが、私は少し違った感想を持った。それは宮崎監督がこの作品に言うところの「子ど もの感性にしたがった」という言葉と作品の距離だ。中心となるはずの五歳の宗介の世界観が、 言ってしまえば途中から大人の社会的な関心ごとに取って代わっていることへの失望だ。
 「風の谷のナウシカ」「となりのトロロ」「紅の豚」「もののけ姫」「魔女の宅急便」など の宮崎アニメあるいはジブリアニメは、大人が楽しめて子どもも面白いと、いわば親と子どもが 一緒に鑑賞出来る良質アニメの「手本」と評価されてきた。これらのアニメには今日の社会が 急速に失っている暮らしを作る人間関係と自然との共存を回復したいと言う、エコロジーなメッ セージを持って、アニメならではの想像力の飛躍と表現を駆使して子どもと親の共感を得てき たといってよい。「ポニョ」は5歳の子どもを主人公にすえてそこからさらにひとつ歩を進めて、 子ども本位のアニメになるはずだった。
 五歳の子供と言えば社会認識は急速に広がるときだ。その認識をどこまで広げて良いかを判 断するかは子どもの生きている社会の仕事だ。その枠をどう作るのかはメディア社会の中でい ま問われている大きな問題でもある。しかし、今回の作品「崖の上のポニョ」は「子どもの感性 にしたがった」と言う尺度でみると、最終的には“大人の感性”的なアニメに流れ込んでしま った。それも中途半端に。ストーリーの伏線となっている養護施設のおばあさんと宗介との交 流は同伴する大人への気配りと見るのは過剰な詮索だろうか。
 「風の谷のナウシカ」などの宮崎アニメ、ジブリ・アニメのファンの私としては、宮崎監督 がそこから抜け出し、母親が子どもに読んで聞かせるような、子ども本意のアニメを実は、事前 に流れてきた「ポニョ」の情報から期待していた事もあって、“外された”と言うのが本音な のである。
 子どもに絵本を読むとき親はその物語の世界で話し、その中に大人の社会をむやみに持ち込ん だりはしない。大人は子どもの認識とイメージ力に信頼と期待をよせて子どもの世界優先で聞か せるのである。子どもは大人たちが自分の世界を守ってくれていることに安心し、合わせて自分 の世界と大人の世界の違いを認識し、小さな自立が始まり、大人になる事への期待が生まれる。 私には子どもの成長ついてこのような考えがある。
 一言で言えば「ポニョ」で試みた宮崎駿監督のチャレンジは監督の言葉どおりには行かなかっ た。やはり、採算度外視のアニメは出来ないのだろう。本当に子どもの世界に応えるアニメは、 親が自分の娯楽とは切り離して無料の観客として子どもの横に座っていられるようなゆとり、 大小さまざまな上映が成功するような受け皿という条件、春夏冬の学校休みにヒットを当て込 む配給会社の思惑に寄りかからないでも作品が作れるような国や行政の補助も必要だろう。
 このところ「ポニョ」に関して「親と子どもが一緒に観ることが出来るアニメ」という評価 が多く見られるが、私としては、「ポニョ」は子どもアニメのあるべき姿を論じることを提起 した作品として受けとめたいと思っている。関心ある方のご意見を是非。


イラク戦争を“戦場の英雄”の目で問う
「勇者たちの戦場」/アメリカ(2008.1.14)

アメリカではこれからイラク戦争を取り上げる映画が相次いで登場するという。いずれもこの 戦争がもたらしたものを問い直そうというもの。その第一弾といわれるのが帰還兵の苦悩を扱 いながら兵士の目線でイラク戦争を問う「勇者たちの戦場」である。

イラクの砂漠に施設された米軍の基地。ここに配置されたアメリカワシントン州の州兵に、間も なく帰還できるとの報告が届いた。だがその直前に人道支援の医薬品を基地から町に届ける最 後の任務が言い渡される。喜びもつかの間。ウイル・マーシュ軍医(サミュエル・L・ジャク ソン)、トミー・イエーツ一等兵(ブライアン・プレスリー)、ジャマール・アイケン(カー ティス・ジャクソン)、ヴァネッサ・プライス女性軍曹(ジェシカ・ビール)らは数台の軍用 車両に荷物を積み護衛、通訳とともに小部隊の車列をつくり出発する。
目的の町の狭い路地に入った車列に猛然と反米勢力の銃撃が襲いかかる。市街地の凄惨な銃撃 戦。瞬く間に数人の米兵が死亡する。トミーは敵の追撃中足を打たれ、変わって先頭に立った 親友が目の前で狙撃される。ジャマールは民家に飛び込み、間違って女性を射殺する。美しいヴ ァネッサ軍曹は車で脱出中に路上の仕掛け爆弾が炸裂して手首を吹き飛ばされる。

約束通り帰還は実現する。戦友の遺体と共に。しかし、英雄であるはずの彼らを迎えた町の空 気はよそよそしい。しかし、まもなく彼等は気がつくのである。町は変わっていない、変わっ たのは自分達だと。多くの若い兵士の最後を看取って来たウイル軍医は、家族とも心が通わな くなり酒びたりに。女性を射殺したジャマールは恋人に去られ、人間関係が作れなくなってい た。ヴァネッサの心もざらざらとしたものに。彼等の心は深く傷ついていた。そして再就職で きなかったトミーは、再びイラク行きを志願する。

彼等も周囲も傷つき、途方にくれるなかで、それでも何とか立ち直ろうとする姿が胸を打つ。 息子の反戦的な行動が問題だと学校に呼ばれたウイルは、校長に「ブッシュはバカ野郎だ」と はき捨てる。戦場の英雄の大統領に対する感情が吐露される。

凄惨な戦闘場面に始まって重たい心の葛藤、それでいて見終わって爽やかなのは、戦場の英雄 たちが傷の深さを自ら確認しながら強くこの戦争を問うているからであり、そこから新しい 人間関係がつくられようとしていることを示唆しているから、と見た。今のアメリカのリアリ ズムの力強さに拍手。

映画を観た人からは「小規模な公開とはもったいない」「戦争の多面性を鋭く批判」「次期大 統領必見の映画」と評価は高い。
★銀座シネパトスでロードショー中。順次全国上映予定。


迷子の警察音楽隊/イスラエル、フランス合作(2007.12.28)

1990年代、エジプトのアレキサンドリア警察音楽隊8人が文化交流のために仲のよくない国イ スラエルにやってきた。空港に着いたが誰も迎えに来ていない、映画はここから始まる。団長サ ーベイ(サッソン・ガーベイ)は、はじめ自力で目的地に向かおうと若いハンサムな隊員に目的 地に向かうバスを探させる。しかし、目的地を一文字間違えたために、砂埃にかすんだ見るか らに貧しい小さな町に着いてしまった。

バス停の前のうらぶれた一軒のカフェ。女主人ディナ(ロニ・エルカベッツ)に「今日のバスは すべて終わった、ここにはホテルもない」と告げられたが、アラビア語とヘブライ語で、意味は 通じない。大使館に電話をするにも出て来た交換手に話が通じない。それでなくてもこの町に 制服姿のエジプト警察は居心地が悪い。

団長サーベイは、隊員が空腹を訴えたため片言の英語を交えて女主人に泊めてくれるところを 紹介して欲しいと頼む。7人の隊員にアレキサンドリア警察音楽隊のプライドを語りながら途方 にくれる団長がなんともユーモラス。

こうして8人はディナのアパートとカフェに出入りする失業男の家庭に泊まり、それぞれの思 わぬ一夜の異文化交流がはじまった。どこにでもある家族の暮らし、失業、子育て、若者の恋、 辛い過去をほのぼのと体験する。エジプト・イスラエル戦争(中東戦争)の写真が飾られた失業 男の家庭の居心地の悪さは思わず口ずさんだ「サマー・タイム」が小さな合唱になってなごま せてくれ、失業をなじる妻の思いをベビーベッドで眠る子どもがそっと教えてくれる。

恋を打ち明けられない若者に手ほどきをするダンディな団員。サーベイとディナはしみじみと 過ぎ去った家族を語り明かす。やがて、朝が来て迎えの車が来る。イスラエルの市民の前で 8人の音楽隊による演奏をバックにアラビア語とイスラエル語で愛の歌が流れるシーンで終わる。

ほのぼのとしたぬくもり、通じない言葉を音楽がつむぐ、観終わった後で、人々の暮らしの 中に平和をつくるエネルギーがあることを信じたくなる映画。レストランでささやかな食事 をする家族、公衆電話にかかってくる恋人の声を待つ青年、イスラエルの底辺の暮らしをさ りげなく描き、人物の表情をしっかりとアップで捉えて、人間臭さをしっかりと押し出して みせる表現力にも脱帽。

★エラン・コリリン監督は34歳の新鋭。2007年カンヌ映画祭3部門受賞、東京サクラ・グラン プリ受賞、チェコ、ミュンヘン映画祭受賞。12月22日より有楽町シネカノン、川崎チネチ ッタで上映中。順次全国公開予定。


若者に格好の労動組合入門映画
「いまそこにあるユニオン」/全労連制作(2007.6.3)

 若者のワーキングプアが社会問題になっている。正規社員より厳しい仕事をしても給料は大幅 に安い。それでいて勝手に解雇される契約社員、派遣社員。労働者の無権利状態は目を覆うば かり。それが若者にのしかかっている。結婚はおろか1人暮らしも出来ない。若者が漫画喫茶、 ネットカフェから出勤する光景も広がっている。将来への夢も計画も持てなければ、ややもす れば社会へ向き合う姿勢も後ろめいたものになる。
 しかし若者のたたかいも始まった。映画はこうした若者の変化を背景に若い視点で「現実は変 えられる」と主張する。どうやって変えるのか。それは、「いまそこにある労働組合に入って 当然の権利を主張しよう」と。
 大都会のとある日、中企業の契約社員の栗原彩(康実紗)27歳は部長に、「あたし、丸三年 になるのに一円も給料上がっていないんです。なのに残業ばっかし。部長、給料を上げてくれ ないんなら、せめて残業代出してくれませんか」と声を上げた。これが部長に「契約社員は業 務請負契約なんだから、残業代なんて出るわけないだろう」「残業になるのは君に能力がない からじゃないか」と突っぱねられる。憤懣(ふんまん)やるかたない栗原彩は街で配られてい たティッシュに刷り込まれていた労動相談窓口にアクセス。
 相談員の神之田(大村波彦)は栗原の契約書を見て「これは派遣なのに請負契約だとする偽装 請負の一種。一年の有期契約だが間違いなく雇用契約だ。不払い残業も取り戻せるし、有給も 取れる。組合に入って交渉しよう」と栗原を励ます。そして、ユニオンの一員になった栗原を 支えて神之田ほかユニオンのメンバーと社長(笹野高史)出席の会社との団体交渉が行われ、 残業代の支払い有給が認められる。栗原たちの明るい笑顔が画面いっぱいに。労働組合をつく ることは難しい、それは偏った人たちのすること、きっかけがつかめない、やれば大変そう、 という「労働組合食わず嫌い」をあっさりと払拭する格好の入門映画だ。
 この映画の完成試写会で若い出演俳優の「この映画に出るまでは労働組合のことなどまったく 分からなかった」「脚本を最初に読んだときは『ン?』だった」といった挨拶を聞いて、あら ためてこの映画が時宜にかなう作品だと実感した。
 また、団体交渉の席で社長が「知らない人がぞろぞろ来て、そんな権利が君たちにあるのか」 と言うくだりは、今の中小企業の多くの経営者が法で定められた労使の関係に疎(うと)いと いうことを教えている。
 余談だが、昨今、学校では、中学、高校とも“働く者の権利”はまったく教えない。かつては 労働基準監督署の職員が出張して解説した時期もあったのに。その意味でも、1人でも多くの の若者に観てもらいたい。監督:田口仁、脚本:高橋邦夫(映画演劇労働組合連合会委員長)。26分。 CD:500円(送料別)注文は全労連 03-5842-5620 まで。


愛の真実から 歴史の真実へ
「パッチギ LOVE&PEACE」/(2007.5.22)
井筒和幸監督(シネカノン)

 前作はグループサウンズ全盛の1968年の京都を舞台に、府立高校空手部と朝鮮高校の対立の渦の 中に芽生えた府立高校生(塩谷瞬)と在日女子高生(塩尻エリカ)の純愛が、日本社会の見えな い部分、在日朝鮮人の歴史を浮かび上がらせて圧倒的な感動を呼んだ。二つの高校の激しい対立、 そこに根深くある日本の植民地主義の残滓。高校生の純真さで歴史の痛みをすくい上げ、観る人 に問いかけて傑作の評価も得た。
 5月に封切られた「パッチギLOVE&PEACE」はそれから7年後、京都から東京に移り住 んだかつての朝鮮高校の番長・アンソン(井坂俊哉)の一家を柱に展開される。
 アンソン一家は難病筋ジストロフィーに侵された幼い息子の治療先を求め、東京江戸川区の朝 鮮人コミュ二テイで零細サンダル工場を経営する伯父(風間杜夫)一家に身を寄せる。あれから 7年経たというのに相変わらず、右翼学生の朝鮮高校生いじめは続いていた。映画は、「朝鮮高校 生狩り」の右翼大学生にアンソンの従弟の高校生グループが遭遇、ボコボコにされているところ にたまたま居合わせたアンソンと伯父が助けに飛び込む大乱闘でスタートする。ピンチを迎えた アンソンを純真な国鉄労働者の佐藤(藤井隆)が強烈な体当たりで救い、それが友情となる。ア ンソンの妹キヨンジャ(中村ゆり)は近くのホルモン焼き屋でアルバイトをしているところを小 さな芸能プロダクションから声を掛けられ、朝鮮人であることを隠して芸能界入りする。
 息子の症状は進行し、アメリカの病院での検査を打診されるアンソン。伯父のサンダル工場は 相変わらず細々。
 一方、妹のキヨンジャは美貌と負けん気で着実に人気を獲得、男性週刊誌の表紙を飾り、TV バラエティ番組にも登場、映画界のドンと言われるプロデューサー三浦(ラサール石井)に注目 され、特攻隊の若者を描いた「太平洋のサムライ」のヒロインに朝鮮人であることを硬く口止め され、抜擢される。そして思わぬ形で、戦時中、朝鮮半島で日本軍に召集された父の生き方と 現実が交差する。
 日本の現実社会にしっかりと根を下ろした在日朝鮮人。しかし、わずか65年も遡れば彼等の圧 倒的多くが労働力として強制的に日本につれてこられた人たちだった。生きていくために在日で あることを隠さなければならない屈辱、二重三重の枷(かせ)とのたたかいが今も続いている。 しかも祖国朝鮮半島は南北に分けられ、北の家族は日本からの仕送りに頼らざるを得ない現実だ。 映画はその枷と在日が抱える怒りと悲しみをエンターテーメントに再構築したとも言える。井筒 和幸監督が2007年の今、映画業界に吹きつける戦死美化、靖国神社賛美の前ではっきりと自分の スタンスを示した作品と言いたい。
 私が過ごした品川の中学校の脇には朝鮮人の集落があり、金田、真原、釜田などの同級生は別 の朝鮮名を持っていた。結婚して次に住んだ川崎の川崎区は戦中、朝鮮、沖縄から強制的に連行 されて大企業で酷使され、戦後そのままそこで暮らす朝鮮の人、沖縄の人たち、そして出稼ぎ労 働者が入り混じって生活する巨大な街であった。そして、今住んでいる鶴見区の海側も川崎区と 同じ、ここに住む朝鮮と沖縄の人たちの戦中と戦後を抜きに町の歴史はない。
 右翼的な大学と高校が行った「朝鮮高校狩り」もしばしば見てきたし、電車の中でもてあそば れた朝鮮高校の女性徒がいたという話も聞いている。朝鮮高校の抵抗もあった。歴史がきちんと 清算されない限り、泣き寝入りは負の歴史を認めることであるぐらい高校生だって分かっていた。 映画で起きていることは決してオーバーなことではないし、それに決してくじけることなく朝鮮 高校に通い続けるチョゴリ姿の女性徒も見てきた。その意味で、やや、盛り沢山な中身の作品に なっているが、この映画がこうした在日の人たちにしっかりと心を寄せているだけに私には嬉し い作品である。