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NO WAR! 映画コーナー 2013〜 (藤井建男)
■映画コーナー(2006〜07年)

アウシュヴィッツに消えた女性画家
シャルロッテ・サロモン/藤井建男・画家 (2014.2.21)
   〜1〜
 ナチスのアウシュヴィッツ収容所で1943年10月、26歳5ケ月の短い命を絶たれたシャル ロッテ・サロモンというユダヤ人の女性画家がいたことを知る人はあまり多くない。
 1988年の8月末から10月末にかけて東京、大阪、横浜、京都の高島屋デパートで巡回展が 開かれているが、その後画集も出版されていない。テレビなどで紹介された話もないから彼女を 知る人は少なのが実際のところだと思う。そういう私もこの巡回展の記憶がない。したがって、 数年前までシャロッテ・サロモンという女性画家がいたこともその作品も全く知らなかったので あった。[絵・シャルロッテ23歳の自画像]

 私がシャルロッテ・サロモンを知ったのは2008年、当時パートで勤めていた文京区本郷の職 場(映画演劇労働組合連合会事務所)の近くにあったドイツ書籍専門店で何気なく手に触れた画 集によってである。ドイツ現代美術家の画集が何冊か並ぶ棚に「Charlotte Salomon Leben? Oder Theater?」という分厚いハードカバーのA4版の画集が目についた、というより背表紙の カットに使われているドイツ表現主義風の女性の顔に引き付けられたのだった。手に取ってみる と巻頭文、解説、経歴の30数ページを除くと残る400頁に、身の回りだろうか、記憶だろう か、あたりかまわず見たもの、聞いたもの、思ったことのすべてをグアッシュ絵の具でときには 美しく彩られた文章で描き綴った大小膨大な数の絵が刷り込まれていたのであった。絵は全 て精魂が込められ、どの絵も生き生きと何かを語り掛けている…。
 巻頭のシャルロッテ・サロモンの経歴の最後はアウシュヴィッツ収容所の写真で終わっている。 アウシュヴィッツ収容所は第二次大戦でヒトラー・ナチスがユダヤ人を中心にドイツ、ポーラン ド、オランダのおよそ民主主義者と言われる人々を片っ端から送り込み凄惨・残虐の限りを尽く し虐殺した絶滅収容所だ。
 初めて見る名も知らぬ女性画家シャルロッテ・ソロモンがアウシュヴィッツ収容所で命を絶た れたことは確かだと直感した。「Leben? Oder Theater?」の日本語訳は「人生?あるいは劇場 ?」である。描き急ぐような1000点に近い絵は何を語っているのか。私はためらうことなく画集 を購入した。

 ナチスのユダヤ人の迫害を逃れて、祖父夫婦の逃れているフランス南部の保養地の隠れ家にい たシャルロッテは1943年の夏の終わり、ナチスの追跡が身に迫ったのを感じて近所付き合い の良かった医師モリディス博士を訪ね「これを大切にしてね。私の全人生なの」と彼に茶色のス ーツケースを渡した。その中には1000点に及ぶグアッシュで描かれた絵が入っており「人生 ?あるいは劇場?」と名前がついていた。
「人生?あるいは劇場?」はシャルロッテの誕生からナチスにとらわれてアウシュヴィッツ収容 所に送られる直前までのわが身を包んだすべてを描き綴った自伝的作品だった。しかし自分史と いう自己の記録ではない。ドイツに起きたナチズムの恐怖が見事に書き込まれている。文化を捻 じ曲げ、家族が引き裂さかれやがて人間を跡形もなく消してしまうヒトラー・チズムの絶望の中 で、そこに生きた人間の痕跡として描き切ったものであった。 第二次大戦を開始したドイツのユダヤ人社会が繰り広げた明日のない生きるための決死の格闘が そこにあり、若い女性画家の筆による目をそらせてはならない現代史といえるものだった。

シャルロッテ・サロモンは1917年5月16日、ベルリンの医師アルベルト・サロモンとその 妻フランツイスカの娘として生まれた。家はドイツ社会に同化したユダヤ系の裕福な家庭。当時 のベルリンでは最も格が高い地域に住みインテリ、芸術家、実業家などがにぎやかに交流し合う、 光あふれる幸せに包まれた家庭に育った。9歳の時母が自殺し、父アルベルトは1930年9月 に歌手のパウラ・リントベルクと再婚する。パウラの人望、幅広い教養、豊かな人間関係が明る い光となってシャルロッテと家族を包だ。「人生?あるいは劇場?」のこの時期の描写は自由な 空気に満ちている。
   [絵・パウラと幸せな日々]

   〜2〜
 しかし、1933年3月1日、ヒトラーが政権を握るとサロモン家だけでなく周囲の空気も一 変する。この年の2月27日、ナチスは選挙の最中に国会議事堂の放火を演出。共産党の仕業と でっち上げ、これを理由にワイマール憲法で定められていた基本的人権を停止。多くの共産党員、 社会民主党員が逮捕され強制収容所に送られた。ヒトラーはユダヤ人を「最低の人種、除去され るべき悪魔の民」と決めつけ絶滅作戦を開始したのだった。
 父アルベルト・サロモンはユダヤ人であることを理由に職を追われ医師の資格も奪われる。シ ャルロッテは絵の裏に書いている。「政府の要職を占めている仕事のできるユダヤ人、彼らは通 告なしに解雇された」と。シャルロッテが通うことになった総合芸術大学校の担任教授は妻がユ ダヤ人ということで職を追われ、ファシズムに反対する教授はナチスの秘密警察(ゲシュタポ) に監視されるようになった。学校ではユダヤ人学生への嫌がらせが強まっていく。ナチスは、印 象派、表現主義、ダダイズム、合理主義など、ほぼすべてにわたる近代美術や近代の音楽、建築 などをドイツ文化と社会を退廃させるものとして攻撃、廃絶対象にし、少なくない画家、音楽家 が強制収容所に送られ命を絶たれた。総合芸術大学のカール・ホーファー、オスカー・シュレン マー、エドヴィン・シャーフといった著名な教職員が次々罷免された。 プロイセン芸術院(芸術アカデミー)文学部からナチスに反対するトーマスマン・などの小説家・詩人を追放、社会主義 関係の書物、ハイネ、レマルク、ブレヒト、ケストナーなどの書物を「非ドイツ的な著作物の焚 刑」の名で焼き捨てたのである。
 ベルリン市立歌劇場の支配人クルト・ジンガーは職を追われたが人脈を使って「ドイツ在住ユ ダヤ人文化連盟」設立の承諾を得る。ユダヤ人文化人の飢渇をしのぐ道を探り、国際的友人、 亡命した学者たちの様々な知恵と力を借り、工夫を凝らしユダヤ人文化人の海外脱出の便宜を はかったのであった。父アルベルト、妻のパウラはこのネットワークで重要な働き手だった。 [絵・ナチスにおもねて文化協会を設立することを逡巡するクルト・ジンガー]

   〜3〜
ナチスの迫害が激しくなりシャルロッテ一家は父アルベルト・サロモンが逮捕されザクセンハウ ゼン収容所に入れられる。かろうじてレジスタンスの力を得て救出されたがもはや寸刻を争って 身を隠さなくてはならない状況に迫られていた。家族は父アルベルトと母パウラがオランダに身 を隠し、シャルロットは南フランスの保養地に祖父母を頼ることになった。1940年7月、保 養地ヴィルフランシュに滞在していた祖父母の友人のアメリカ人オッテイリィ・ムーア夫人の別 荘の一隅の小屋を隠れ家にして息を殺して暮らし始める。
「人生?または劇場?」の制作はこの隠れ家で着手された。「昼夜を問わず、ほとんど睡眠も食 事もとらず絵筆を握っていた」という友人の証言もある。ドイツが西ヨーロッパに侵攻開始。フ ランスが降伏し南フランスはドイツと同盟を結ぶイタリア軍に占領された。「ドイツ人住民はす べて即刻、市ならびに県から退去しなければならない」との布告が出されイタリアの秘密警察は ゲシュタポと共謀して密告者に褒章を与えてユダヤ人狩りを拡大していく。一刻の猶予もない、 文字通り“生き急ぐ”中での創作であった。
「人生?または劇場?」の最終章は祖父母との厳しい生活が多くを占めている。年老いた祖父母 には理解しがたい現実だった。祖母は神経衰弱になって自殺、祖父もやがて失意の中で息を引き 取りシャルロッテは隠れ家に一人残された。
 ここで、シャルロッテは夫になるアレクサンダー・ナーグラーと出会う。ムアー夫人の別荘で働 く誠実なオーストリア人でアメリカに帰国したムアー夫人の別荘の管理をしていた。助け合って いるうちに双方に愛が芽生え、二人は1943年5月結婚式を挙げるのだがその4ケ月後の10 月7日、隠れ家にゲシポが踏み込み二人は引きずり出され直ちにアウシュヴィッツ収容所に移送 されたのだった。その時シャルロッテは妊娠4か月。1943年10月12日、到着したその日 から数日後ガス室で生涯を閉じたのである。
   [絵・相次ぐ困難に打ちのめされるシャルロッテ]

   〜終わり〜
画集を手にして私は描かれているテーマの多様さ、全く形にとらわれない自由な表現に驚かされ た。時にはルドンのようにまたドイツ表現主義のココシュカ、シャガール、ノルデのようにテー マに従い自在に画面を構築し筆を走らせている。しばしば登場する連作はさながら映画作りの絵 コンテのようだ。しかし、シャルロッテがこれら美術史に名を残す作家と作品にどう向き合った かとなるとそれはわからない。なぜならシャルロッテが絵を描きだしたときはすでにこうした作 家と作品はヒトラーによって「退廃芸術」の烙印を押され追放されていたからだ。シャルロッテ の作品「人生?あるいは劇場人生?」は表現も色彩もさらには文章で挿入されている音楽も閉ざ された現実の中に生きる彼女の心、すべてだった。

1988年日本で催された「シャロッテ・サロモン愛の自画像展」の図録の「コレクションの歴 史」は次のように述べている『シャルロッテ・サロモンの作品は過去を主題としている。「人生 ?あるいは劇場?」の個人的で、自伝的な性格なため人々はしばしば日記という定義をこの作品 にあたえている。とりわけその第一印象として、彼女の作品はアンネ・フランクの日記にも比べ られる。しかし、これは少女の持つありのままの率直さと熟達した芸術家の創造性とを比べるこ とになり、両者にとっても不相応であろう。
 14歳のアンネ・フランクは地下に潜伏する生活の中で起こる日常的な心の問題を記述している が、抗することによって彼女は、耐え難い緊張感を緩和しようとしたのであった。シャルロッテ ・サロモンは「人生?あるいは劇場?」に着手したとき、23歳であり、彼女にはすすでにベル リンの芸術大学で受けたかなりしっかりした芸術家としての訓練がそなわっていた。アンネ・フ ランクの場合とは異なり、彼女の少女期はその現在でなく、過去であった。すっかり無意味にな ってしまった彼女の現在を今一度意味を与える一つの方法として取り扱っているのである。」 (アド・ベーターゼン)
   [絵・映画の絵コンテのような連作]

 シャルロッテ・ソロモンを思い起こすことの私にとっての大切さはもう一つある。それは、「憲法 改正が私の歴史的使命」と公言してはばからない安倍政権の過去の戦争の反省を肯定するかの動き が強まっているからである。アジアの諸国民に耐え難い苦しみを押し付けた侵略戦争に対する反 省をないがしろにする空気がにわかに強まり、それを肯定する形で安倍首相の靖国神社参拝が行 われ、憲法改正論者の国務大臣が「ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を 握って出てきた。選挙でドイツ国民はヒトラーを選んだ」と公言。首相自らが「選挙で選ばれた 最高責任者は私だ」と国会で言い放つ今を、芸術と人間の命で見据えなければならないと思った からである。

写真(右)・2014年11月9日、多数のユダヤ人が迫害された「水晶の夜(クリスタルナハト) 」から75年になるのに合わせ、ドイツのヨアヒム・ガウク大統領は8日、ユダヤ人従業員を強 制収容所移送から救うためにたたかったオットー・ワイトさんの元工場を訪れその英雄的ヒュ ーマニズムを讃え署名するヨアヒム・ガウク大統領。(AFP11月9日)
 写真(上左)・シャルロッテが殺されたガス室の跡。ナチスはアウシュヴィッツ収容所を爆破し て証拠隠滅を図った。遠方に写る人物は現代史の学習のため冬休みを利用して訪れたドイツの 高校生たち(撮影・筆者2001年1月)。

これは一冊の画集から始まったアウシュヴィッツ収容所で命を絶たれたユダヤ人芸術家シャルロッ テ・ソロモンと私の心の会話でもある。語学がほとんどダメな私にとって絵が持つ力を今回ほど 感じたことはなかった。それは、芸術全般に通じるものだろう。幸い手に入った一冊の日本語の 図録が力を発揮した。この拙文はそこに記されたシャルロッテにまつわる断片を手掛かりにまと めたものである。極めて大雑把であるからさらに精査されるべきものである。シャルロッテの作 品はオランダのアムステルダムにあるユダヤ歴史博物館が管理しているようだ。ぜひ本格的な研 究がなされ多くの人々が手にすることができる画集が生まれることを期待したい。この作業中、 ナチスが「退廃芸術」として没収し隠ぺいしていた膨大な美術品を元の所有者に返す作業が始ま っているニュースが流れた。また、ハリウッドの大スター・監督のジョージ・クルーニーがドイ ツ軍の手からこれら美術品を連合軍が奪還する映画「ミケランジェロ・プロジェクト」を制作し、 これがこの秋に公開されるという。またこのジョージ・クルーニーがフイルムノアールでシャル ロッテを扱った映画を作っているという話も聞いた。どのような姿でシャルロッテの世界が蘇る か、これも楽しみである。


◆年の暮れに、すみません
カラス三題話/(2013.12.22)
 
5000万円を理由もなく受け取り「親切な人もいるものだ」とうそぶいた猪瀬都知事だったが、 徳洲会病院の東京進出の便宜を図ったお礼のような尻尾がちらつき、これに絡む右翼やら自民党 のお歴々の名前があぶり出される気配に至り、遂に政権がもみ消しに動き出した。政界のカラス がまたぞろ。闇夜のカラスにしてはいけません。

京都伏見稲荷の境内わきの雑木林で不審火が発見された、とTVニュース。はてな? 酔っぱらいの火のついた煙草の投げ捨てか。調べたところ不審火の上に突き出ている枝の股に ロウソクの燃え残りが発見された。また、火のついたロウソクをくわえたカラスを見たという人 もいた。境内のロウソクをカラスが失敬し雑木林の巣に持ち込んで、火のついた芯を落とし、その 火が枯草に移ったらしい。宵闇迫る神社の境内を火のついたろうそくをくわえたカラスが飛んで いるのを見た人はたまげたに違いない。100年前だったら天変地異の前触れだなどと噂が噂を呼ん だかもしれない。カラスの生態に詳しい動物園の飼育係が「和蝋燭は植物油を使い洋ロウソクは石 油系で、カラスが和蝋燭を食べても不思議ではない。おそらく嗜好品として食べたのでは…」と 解説した。伏見稲荷の不審火の一件はこれで一件落着、とはいえ火のついたロウソクをくわえて空 を飛ぶカラスを見た人は幸運だ、私も見てみたい。

もうかれこれ10年も前になるがカラスを描こうと思ったことがある。横浜・鶴見の自宅(マンショ ン)の近くに曹洞宗の大本山総持寺がある。巨大な本殿(大祖堂)の瓦屋根のてっぺんにはいつ もカラスがずらりと並び下を行き来する人間を睥睨していた。本殿の前は広々として子供を連れた 母親が鳩にパンくずなどをまいている和やかな光景がいつも見られる。そこで私がスケッチブック を広げ筆ペンを持ってポケットから刻んだウインナーソーセージをばらまいた。別に事件を起こす 気は全くなく、ただひたすらカラスが描きたかっただけだが、カラスはそんなことはおかまいなし、 20羽ぐらいが戦闘機のように目の前に舞い降りてそこにいた鳩を蹴散らして砂埃をあげてウイン ナーを奪い合い、再び本殿の瓦屋根に戻っていった。その間30秒あっただろうか。ふと見ると鳩が 倒れているではないか。      (画は「総持寺のカラス」の一枚↑)

そんなことを二日続けたところ、ちょっと位の高そうな坊さんが出てきて「カラスを餌づけしてど うするんですか。やめてください」と。もちろん即了解、謝罪をして総持寺のカラス写生は終った。 ところがこの終わり方をカラスが納得しなかった。それを知ったのは翌日。仕事に出る朝のこと。 マンションを出て鶴見駅に向かって歩いているのだがなんだか変だ。誰かに見られている感じ がする。振り向いても誰もいない、が、ふと上を見るとカラスが電線を伝わって私を追ってきてい た。5羽はいた。さすが駅舎の中まで入って来なかったが、この何とも不気味な見送りは翌日も続 いた。ストーカーだ。どうしたらこのカラスのストーカーから解放されるか、気が付いたのはカラ スの餌付けの時と同じジーンズ地のジャケットを着ていることだ。次の日から別色のジャケットに 着替えたところカラスはマンションの出口の前の電線かにいたがついてこなかった。この件はこれ で終わったけれど、私の中肉中背猫背のスタイルをカラスの脳にインプットされなくて本当に良か った(マンションに同じジーンズ生地の上着の人、いらしたらすみません)。

しかしなんですね〜、火のついたロウソクをくわえたカラスが宵闇を飛ぶところは見たい。見た くありませんか?


◆山田洋次が選んだ日本の名作100終了に思う
強い国より素敵な文化を生み出す国を/(2013.3.7)
 
 NHK−BSTで2年続いた「山田洋次が選んだ日本の名作100」(家族編・喜劇編2部構成)が3月 5日「男はつらいよ」(1969年)で終了した。100本の中には私が15歳(高校)以降に見た作品も少な くないが、見そこなったうわさの作品、今回の100選ではじめて知った作品もかなりあった。100本 の作品はそれぞれ個性豊かに発言し、これほど多様に人間と社会を描けるものかと改めて映画と 言う文化の多様で奥の深さに感動したというのが率直な感想だ。どの作品からもその時代を掴み 取り、人間を描こうとする映画人の貪欲と思える感性に満ちた欲求と葛藤、鍛えられた技量を強く 感じたのは私だけではなかった。小野文恵アナウンサーが毎回読む寄せられた感想にもそれはあら われていた。家族、喜劇と言うジャンルにしてこれだけ幅広く奥が深い作品があるのだからジャ ンルを広げたらどれほど素晴らしいい映画に出会えるのだろうか。
 驚いたのは1945年、あの戦争が終わった年に素晴らしい映画がつくられていた。しかもそれが喜劇 だった。「東京5人男」は1945年11月にクランクインし翌46年1月に公開されている。(写真)
 “神国不滅”の価値観の喪失。無一文になった国民が焼け野原の塗炭の苦しみ中でようやく前を見つ め始めた時期、焼け跡の暮らしを背景に喜劇「東京五人男」はスクリーンに登場している。67年前に 渋谷道玄坂の東宝でこの映画を観た女性が番組に寄せた手紙は「映画館は屋根がありませんでした。 前の方に縁台があるだけ、みんな立ち見でした…」。国民が塗炭の苦しみの真只中で前を見ようとし ていた時期、当代人気コメディアンの古川ロッパ、エンタツ・アチャコ、石田一松、柳家権太楼の演 じた「喜劇」の“銀幕”はまぶしく、笑いは確実に生きる力になっていたことを物語っている。戦後、 一番初めに復興した産業は映画産業だったと言いたくなる映画の頑張りだ。やがて国民はあの戦争を 考え、なぜ?と振り返り、繰り返さないために、と平和のための文化を作り出し、世界に誇る名画を 数多く送り出した。
 「日本の名画100」は改めて庶民の宝、映画の素晴らしさ、持っている「力」を感じさせてくれた のだが、今、日本「映画」が直面しているのは映画産業それ自体の危機である。それには様々な問題 があるがそれは置く。
 番組の最終回に登場した山田洋次監督は次のように語っている。
「撮影所の時代があった。それを再開すればいいかはともかく、映画を作る新人を養成するシス テムがまるでなくなってしまった。映画を作る若者がこの先一生映画に生きてゆけるかと思うと 非常に不安になる。監督だけでなくあらゆる分野の人がちゃんと育っていける仕組みを作らない と。それは国の仕事だと思う。この国は1950年代世界一の映画を作った国です。これからもう一度 世界一の映画を作る意気込みで僕たちの後輩が頑張らなくてはいけない。そのためには政府のサ ポートがなくてはいけません。ただ力強い、強い国をつくるんじゃなくて素敵な文化を生み出す 国、やさしい国をつくることの方がはるかに今重要なんじゃないか。この先10年、20年かかると 思います。だけど10年先、20年先を見越して映画を豊かにしてほしい。映画を含めた文化全体 を、と思います」。(ふじい)

◆エリザベス王朝まで巻き込む偉大な劇作家の虚実
もう1人のシェイクスピア/(2013.1.12)
 
 「本当のシェイクスピアは別にいる」は多少文学に関心の ある人は一度ならず耳にした話では。16世紀イングランド地方の なめし皮職人の息子に生まれ、地元のグラマースクール (公立中学校)しか出ていない無名に近い役者、ウイリアム・ シェイクスピアがわずか20年間(1592〜1612)に「ハムレット」 「マクベス」「オセロ」「リア王」をはじめ「ヘンリー6世三部作」 「ロミオとジュリエット」「ヴェニスの商人」「真夏の夜の夢」など 37の傑作戯曲、154作のソネット(定型詩)を生み得たであろうか。 庶民の知ることのできない宮廷内の生活と機微、商人の金銭感覚など 見事に書き上げるにはそれ相応な地位と教養を必要とするはず。シィクスピアは別にいる。だと すればそれは誰だ。これがいわゆる「シェイクスピアの謎」である。
 映画は別人説で最も有力候補とされる実在した人物オックスフォード伯エドワード・ド・ヴァイア がシィクスピアであるという説に立っている。だから、物語の展開は極めて実在感が強い。では エドワードとはどんな人物なのか、なぜ一介の俳優シェイクスピアに作者を名乗らせ自分は姿を 消したのか。
 16世紀末のロンドン、街では演劇に庶民から貴族までが熱狂していた。詩人でもあり戯曲も書く エドワード(リス・エヴァンス)はサウサンプトン伯と劇場に行く。そこで見た聴衆の熱気は強烈 だった。だが民衆の熱気を危険思想と敵視する人物もいる。エリザベス1世の宰相ウィリアム・セ] シル卿だ。公演中セシルの衛兵が弾圧にのりだし役者もろとも作者ベン・ジョン(セバスチャン・ アルメストロ)まで逮捕される。しかし演劇の持つ力を強烈に印象付けられたエドワードは再び ペンをとる。ベンを通じて上演した「ヘンリー5世」が観衆の喝采を浴び作者の登場を叫ぶ声に応え て俳優シェイクスピアが登場して作者を名乗る。偉大な劇作家シェイクスピアの誕生だ。
 宮廷ではバージン・クイーン、エリザベス1世の後継をめぐる確執が激しくなりその渦中にエドワ ードがいた。ランプの灯りで羽ペンを走らせるエドワード、その戯曲を民衆が喝采する。世界文学 史に挑戦するような映像。「なぜ名を伏せた」にもそれにふさわしい驚愕な展開が待っている。単 にシェイクスピアの謎に迫るだけでなく、イギリスの権威とも言えるエリザベス王朝の乱脈まで 巻き込まないともう一人のシェイクスピアの像は浮かび上がらない。そこがシェイクスピアの偉大 さといえようか。16世紀末のロンドンの町並み、劇場の熱気と群衆は素晴らしい。ローランド・ エメリッヒ監督。各地で封切り上映中

ハンガリーで考えた日本の明日(下) /(2013.1.5)
  夢から覚めて怒っても

 娘の暮らす街からオーストリアのウイーンまで車で6時間で行ける(ブダペストも6時間)。そん なわけで娘に頼んで帰りに車でウイーンに寄ることにした。歴史があり音楽があり美術がある 世界屈指の文化都市で観光地だ。着いて先ずは腹ごしらえ。天に突き刺さるゴシック建築のシュ テファン寺院の向かいの路地のレストランに入ったものの差し出されたメニューはドイツ語。 オーストリアは古くからドイツとの関係が深く同民族、同言語である。1938年にはファシズム 政権ができナチスドイツとの併合を果たしたこともある。映画「サンド・オブ・ミュージック」 はその時代を扱っている。しかし娘はドイツ語がだめだ。そんな時ふと耳に入ったウエイトレス のハンガリー語の会話。助かった。聞くところ彼女はハンガリーに仕事がないのでここ(ウイー ン)で働いているとか。この周辺にはハンガリーの出稼ぎ若者は多いという。娘の亭主の家族 にもオーストリアへの出稼ぎが何人かいることを思い出した。
 オーストリアの青年失業率は昨年10月時点で4・3%、ヨーロッパではオランダ、ドイツに次 いで低い方で3番目。これらの国へ行けば仕事がある。ハンガリーから最も近いのがオーストリ アだ。
写真:ウイーンにもあった1ユーロ(=100円)ショップ
 振り返ればハンガリーはEU(欧州連合)に入ることが夢だった。しかし今になれば夢は霞で しかなかった。圧倒的な国民はその夢の仕掛けを知らないまま西欧の経済手腕の餌食になった。 金融資本が甘い話で純情なハンガリーの国民を手玉に取るのは簡単だった。多くの家族が親戚 まで金を融通し合って金融商品を買った。そこをリーマンショックが襲った、金融被害がいたる ところで発生。 土地を手放す中流生活者が家を失い、家族離散が連鎖した。2004年のEU加盟では 盛大に花火をあげて祝ったというのに。それから8年、東欧の優等生と言われたハンガリーは坂 を転げ落ち今深刻な経済危機に見舞われている。
 今、日本を揺さぶり続けるTPP、私には“例外なき関税の撤廃後の日本”がどうしてもハンガ リーと重なって仕方がなかった。2012年12月、ノーベル賞の平和賞がEUのファンロンパイ大統領 に付与されることになったが、経済危機に見舞われたヨーロッパでは強い抗議の声が上がり授与 式が開かれるストックホルムではデモまで繰り広げられた。それでは遅いのだ。(おわり)
  写真:広く美しいハンガリーの草原