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*このページは、「新美術新聞」2005年6月11日付より転載しました。

岡本敏子さん ・追悼 岡本敏子さん

わ が 意 中 の 人 村田慶之輔

岡本敏子さんの急逝。虫の知らせとは違うが、今年になって、何故かそれまでずっと気がかりだっ た敏子さんからの太郎の聞き書きをする計画を、これ以上延ばせないと思い立って、敏子さんを訪ね た。春から学芸員を通わせたいと頼んだら、即座に自分の方から美術館に出向いて資料を前に話そう との返事。願ってもないと早速とりかかる矢先のことだった。

敏子さんは見事なひとりぐらしで、いいお酒飲み。その日は会食のあと帰宅し、浴室で亡くなってい た。岡本太郎の父親一平も原稿書きに疲れたあとの熱い風呂で倒れている。敏子さんも連日の忙しさ で疲れていないはずはない。最後に会ったのは四月の初め、恵比寿で4、5人で夕食をし、例によって 陽気に酔ったハイヒールのレディをタクシーに乗せ、手を振って別れた。偶々その時の会話に敏子さ んの健康のことが出て、医者嫌いでも定期健診は受けていて、どこも悪くない、と声が弾んでいた。

今は事あるごとにあの笑顔と身振りが浮かんで仕様がない。僕には、いつの間にか敏子さんが意中の 人になっているのに気付く。それと数少ない大人のやりとりが出来る、かけがえのない人だった。か けがえのなさは個人レベルにとどまらない。岡本太郎美術館にとって、さきほどの聞き書き不可能は 致命傷に近い。開館して6年目、ようやく大量の太郎の資料整理に手を染めたところへ太郎の分身の 語り部を失って、作品も資料も化石化の危機に瀕している。敏子さんという軽快な戦車を盾に進んで きた我ら歩兵小隊は方向を見失いそうだ。

50年間、岡本太郎いるところ必ず敏子さんありきで、並みの美術家と違い滅法多彩な太郎の無二の言 動を記録するのに、用紙が無ければ箸の袋にでも書きとめるなどした。必死でまとめた原稿を太郎に 見せては世に生み出した数々の意気軒昂たる合作は、いつの時代をも貫く思想の根源になるだろう。 でもそれは太郎情報の一部に過ぎなくて、大部分の戦後文化の証言は、敏子さんの抜群の記憶の中に 丸ごと永久に封印されてしまった。いちばん取り返しが付かないと残念がっているのは本人に違いな い。これからの太郎像は残された所産の解釈や演繹、引用や比較、それと推察や仮定の上で構築され るほかないだろうが、太郎いのちの敏子さんは、きっと大好きな若い作家たちの果断な太郎実践を待 っている。

来年は岡本太郎が亡くなって10年になる。没後10年記念と銘打つのはどこもやめて貰おう。やるなら 生誕100年展をやろうね、と敏子さんと僕は約束してあった。それは2011年。そういうときの敏子さん の眼はうっとりしている。「同志であり、秘書、マネージャー、生意気を言えば戦友」として戦う岡 本太郎と走ってきて、「十分に、ギリギリに生きた。極限まで。」と珍しく振り返る発言をしたのは、 あらためて岡本敏子として太郎と生き直そうと自覚を深めていたからではないのか。

しかし、今になっては敏子さんの最大の心残りとなったのは、太郎がメキシコで描きあげたタテ5.5b、 ヨコ33bもの大壁画「明日の神話」を日本に持ってきて修復し、公開すること。さぞかし敏子さんは、 現し身を超えて思うさま太郎さんを「胸の谷間に、子宮の奥に抱きしめてともに生きてゆきたい」だ ろうけど、ここはプロジェクト達成の日まで、まだまだ死ねませんよ、敏子さん。
(川崎市・岡本太郎美術館館長)

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