小県の海野屋敷から西へ目を向けると、北国街道を挟んだ先に千曲川の流れがある。
下流は越後までに及び、そこから日本海へと注ぐこの日本最大の河川は、海野郷の辺りで中流にさしかかる。
さらさらと流れる河川より更に西へ目を上げると、迫るような勢いで尾根を連ねる蓼科連峰が視界一杯に広がっており、
この景観が、まさしく「信濃である」と感慨に浸る一つの象徴でもあった。
さておき、その峰々の手前側に、標高1100メートルほどの小高い山がある。
頂には伸びやかにねじけた松が青々と生い茂り、所々に生える高冷地独特の植物と緩い傾斜から、
ここは現代では、地元のハイキングコースとして知られている。
流石に舗装された車道が山の中腹あたりまで備えられてはいるものの、近代的な人工物は限りなく少なく、
自然を損なわない生身に近い山道は、この物語に語られる時代とほぼ変わらぬ・・・と言えよう。

そうして山頂に達すると、自然のうねりに取り込まれたようにある、板屋根の小さな建物が目につく。
この「小屋」が、山の名の由来ともなった、虚空蔵菩薩を祭ったお堂であることは、初めて訪れた人にはパッと一目では把握できまい。
おそらく一度は目にしたことがおありと思うが、現代のビルの屋上などに奉られている、稲荷の社をご存知だろうか?
それよりは大きく、堂の中に人一人くらいは寝泊り出来るが、しかしはつまりその程度だと解釈して貰えると有難い。
尤も、如何に素朴で粗末な造りだとて、比較的新しい供物が供わり、障子にもつぎはぎの跡があることから、
時折に近隣の村人たちが手を入れ、それなりの信仰を得ているのであろう。
今はもう堂はなくなっているが、当時はその証拠に、いつ、誰が名付けたかは知らないが、この山は「虚空蔵山」と呼ばれていた。

虚空蔵山の存在が注目されたのは、天文中期に佐久郡、小県郡を領した武田晴信(信玄)が、
ここに旗下の勇将・多田満頼を配し、上信の境を守る小城を築かせた時に始まる。
何といっても、信濃各地の要衝を眺望できるこの山に、武田信玄が目をつけない訳がない。
・・・とは言え、それは物語に語られる天文二年から数えて十年以上先の話なので、
その時分はまだ平穏な山であったように思える。
しかし、誰も知る人はいなかったことだが、その頃にこの山にある建築物は、山頂の虚空堂だけではなかった。
山の南麓から頂へと螺旋状に伸びる、獣道のような「参道」に沿って麓から百メートルほど登ると、
草むらにうずもれた不自然な「道」が山の傾斜側に見え、そこを掻き分けてしばらく進むと、
鬱蒼と繁る雑木林の中に、「広場のような」拓けた場所に抜け出る。
その緩やかなスロープの上に建つ一棟の屋敷は、山頂の虚空堂よりは大きかったが、
「屋敷」と呼ぶには狭く、玄関の板戸から裏口まで差し渡し12メートルほどの奥行きしかない。
宙空を覆うような樹々の隙間から申し訳程度にパラパラと降ってくる陽光と、
そこに忘れ去られたかのように存在する「屋敷」のコントラストは、何とも言えぬ不思議な光景に見えた。
この屋敷の主、「虚空平太郎」という男の名を、まず覚えておいて頂きたい。

                         <虚空平太郎>


天文二年四月十七日

「平太郎様、平太郎様はおわしますか」
虚空蔵山の虚空平太郎の家を、網傘をかぶった旅装束の坂上正秀が訪ねてきたのは、その日の昼のことである。
家屋は、決して豪壮でも豪華でもなく、小ぶりな造りの村落の地主の屋敷といった感じである。
「もし、もし」
強めに扉を叩き、大きな声で呼びかけてみたが、返事はない。
「裏に、おいでか…?」
諦めた坂上は、裏手へ回り雑木林の中を更に奥へと進んだ。
色褪せた粗末な茶渋色の着衣をまとった坂上は、一見して浪人者と見受けられたが、
背筋は真っ直ぐ伸び、挙動に卑屈さや粗暴さが漂っていないから、
まず、最近はびこる盗賊まがいの侍崩れでないことは分かる。
林の中を少し行くと、木立を揺らす風の音に交じり、空を切る鋭い金属音が響いた。
「あちらにおらるるか・・・」
ずんずん歩いた彼は程なく、求めていた人の姿を見つけ、さっと片膝を地面について頭を垂れた。
「坂上、只今帰着しました」
坂上が求めていた相手…虚空平太郎は、今まで鋭い気勢を発して居合打ちをしていたが、
早くも何者かの気配を感じて向き直っており、来訪者の正体が坂上正秀であると分かると、
刀を鞘へと納めて、格別の挨拶もなく言い放った。
「上総の兄上の方は、どうであった?」
坂上は少しだけ顔を上げ、上目にちらりとだけ平太郎を見た。
「は・・・特にお変わりなく。横尾殿と平田も、明日明後日には戻るかと」

そう答えた坂上の目に、片肌を脱ぎ、うっすら汗をかいた半身を春風に晒した平太郎が映った。
(それにしても不思議な・・・あの御父上から、ようも平太郎様のような・・・)
これほどの美男子は、記憶の中に二人といない。
坂上は、密かに思った。
平太郎の父親の顔を、彼はぼんやりと覚えている。
その二人を脳裏で比べてみれば、ゾッとするほど似ておらぬ。
どちらかと言えば「醜男」と呼ばれても仕方のない、矮躯で痘痕面の顔の男の血を引きながら、
虚空平太郎の容色は「美しい」、その一言に尽きる。
(おそらく母君の血を濃く継がれたらしい…しかし、これほど実の父と似ぬとは、不思議なものだ)
坂上正秀は、平太郎の母親の顔は知らぬ。知らぬが、そうでない限り説明がつかない。
細く整った眉に、やや釣り上がった切れ長の目、形よく通った鼻筋と桜色をした薄い唇が白い顔に具合よく収まり、
均整の取れた長身に無駄なく筋肉が施され、立ち居ぶるまいも良い。
その「完璧」に近い美貌を引き裂くように、ただ、左の眉の上から頬にかけて刀傷が目に入るが、
それがあるからこそ、むしろ「近づきがたい」妖異な美しさを漂わせている。


「そうか」
坂上の言葉に、平太郎は、抑揚も訛りもなく淡々と短く答えた。
彼はいつもこのように喋り、およそ感情の発露というものを微塵も顕さない。
当の坂上は、こういう対応をされるのがひどく苦手だったが、
少なくとも虚空平太郎という男が、生来、そういう性質の人間であった訳ではないと思っている。
その生い立ち故に、重暗い経験を重ねるうちに、「そうならざるを得なかった」ように坂上には思えてならない。
だから「苦手」ではあっても、その”物哀しさ”を「嫌い」にはなれなかった。
「感情を歯の内側で抑し止め、或は皮膚の一寸下で抑えて他人と接しているのでは?」
と、朋輩の平田太郎左に語った時には「どうでも良いことじゃ」と一蹴されたが・・・。

「はい…私は一足先に帰り参たので…」
「…ふふ…」
何となしに気後れして顔を伏せた坂上の頭上で、平太郎が右の口端だけ少し緩め、
苦笑いとも薄笑いともつかぬ笑みを漏らした。
「何故お主は、横尾たちより先に戻った?」
「何故と・・・平太郎様を、長く一人にしておけませぬ故」
「さほどに俺が心配か? いや、俺の血が目当てであったよな」
途端、坂上の顔に険しさが現れ、言い放った平太郎を睨み据えた。
「・・・なんと申される?」
普段は、どちらかと言えば「温厚」な態度を崩さぬ坂上にしては珍しいことで、その表情にさすがの平太郎も一瞬驚き、口ごもった。
激昂したわけでも冷厳なものでもなく、口調は沈着そのものであったが、言葉の裏には有無を言わさぬ強さがあった。
「この正秀を、見損なわれたか」
「・・・」
「拙者らは、"平太郎様の血"にも"平太郎様御本人"にも望みを託しておるのです」
「うむ・・・」
「あなたは、主となれることをお許しになられた。その上で無用の疑念を口になさるのは、大事を成す男子の態度ではありませぬ」
平太郎は、感情の色のない目で、坂上を見据えていたが、
やおら無言のまま身を翻し、跪く坂上の横を、屋敷に向かって足を動かした。
「・・・つまらぬことを言った・・・すまぬ」
平太郎の呟くような声が、背中越しに坂上正秀に聞こえた。

                                                                    つづく