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―灸法の民間傳承―「二日灸(二十日灸)資料集成」

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逆子(骨盤位)の鍼灸治療

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切診(触診)のコツ

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ブレスレット・ネックレスのつけ方、使い方

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鍼灸外史ー文学芸術にみる鍼灸

 鍼灸は長い歴史を持ち、古くは平安貴族から江戸時代、現代に至るまで、庶民の健康保持のために役立ってきました。鍼灸の医学的な面を正史とすると、文学芸術面は外史ということができます。文学芸術書を紐解いていくと、人々の生活に根付いている鍼灸を知ることができます。文学芸術からも鍼灸に親しんでいただければ幸いです。
 なお、現在、編集途中ですが、追々加筆していきます。

『枕草子』 とお灸ーさせも草

【本文】三〇一段 まことにややがてはくだる(春・二七三)
         まことにや、やがてはくだる。」といひたる人に、
         おもひだにかからぬ山のさせも草(ぐさ) 誰か伊吹(いぶき)のさとはつげしぞ
通解】「ほんとうですか。あなたが、まもなく下ってゆくというのは。」と(わたしに)尋ねた人に、(次の歌をよんで答えた)全然思いもかけませんのに、いったい誰がそんなことを告げたのでしょうか。
【要旨】間もなく都を離れるというのは、ほんとうかと尋ねた人に答えた歌。
【語釈・文法】
◇まことにや―ほんとうでしょうか。下に「あらむ」省略。
◇やがてはくだる―間もなく下向するというのは。間もなく都を離れるというのは。引歌あるか。未詳。
◇「思ひだに」の歌―わたしが下向するとは、誰があなたに告げたのですか。全然思いがけないことですのに。「させも草」は、「さしも草」の転で、「もぐさ」ともいう。「よもぎ」のこと。下野国(栃木県)都賀県伊吹山に産するので、伊吹の序として用いる。「いぶき」は「伊吹」と「いふ」、「おもひ」は「思ひ」と「火
」、「さと」は「里は」と「然(さ)とは」、「つげし」は「告げし」と」「(火を)つけし」の掛詞。「させも草」「つけし」は「火」の縁語。後拾遺集、巻十一、恋い一、実方・実方朝臣集「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」
【解説】(成立) 「枕草子」の成立については、…三期に分かって考察するのが至当と思われる。第一期…「枕草子」は長徳二年(996)の末ごろまでに、成立、流布したとすべきであろう。第二期…長保二年(1000)12月16日以後の数年間を推定する説が生まれる。第三期…おそくとも治安元年(1021)までに成立していたと推定された。(作者) 清少納言という名は、宮仕え当時の呼称であって本名ではない。
【文献】『枕草子全釈』白子福右衛門著、加藤中道館発行、昭和46年7月5日初版発行、昭和52年9月20日重版発行

『古今和歌集』 とお灸ーさしも草(させも草)

【本文】巻第十一 恋歌一 1012 題知らず
今日(けふ)もまた かくやいぶきのさしも草(ぐさ) さらばわれのみ燃えやわたらん
【通釈】今日もまた、このように冷淡におっしゃるのですか。それならば、ひとりわたしだけ、心が燃えつづけることでしょうか。
【語釈】男の冷淡な手紙への返歌らしい。才気で恨みを生動させている。「かくや(言)ふ」の「言ふ」と、伊吹(いぶき山)の「いぶ」とをかけた。「かくや言ふ」は、このように冷淡にいうのかの意。「伊吹(山)」は、栃木県(下野国)下都賀郡の伊吹山(栃木市吹上)。もぐさの名所。もぐさは蓬のこと。「いぶきのさしも草」は、「さらば」の序詞。

【本文】巻第二十 1917 釈教歌(しゃくけうのうた)
なほ頼め 標茅(しめぢ)が原させも草 わが世の中に あらむ限りは
【通釈】やはりわたしを頼みにしなさい、そのようにも。わたしがこの世にいるであろう限りは。
【語釈】清水観音(きよみずかんのん)が慈悲の深さを示されたお歌ということになるが、悩みで衰弱した女に示されたお歌として味わうと、治療の灸がきかせられ、特集性が生かされて、暖かさの感が強まる。
 「袋草紙」に、「もの思ひける女の『はかばかしかるまじくなむ』と申けるに示し給ひける」と記している。悩みで身が衰弱し、治療の効果もあらわれないことを訴えた女に示された歌の意。「なほ」=やはり。「標茅が原」栃木市川原町。蓬の名所。伊吹山の麓(ふもと)の原。伝本中「さしも草」となっているものがある。蓬の事。灸の材料。「させも」にそのようにの意。「さしも」をきかせている。
【撰者】源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6人に撰者の院宣が下ったが、寂蓮は完成を待たずに死没した。和歌所設置に際し、撰者を含む11名の寄人と開闔源家長が任命された。また、後鳥羽上皇自らも深く関わり、15年にわたって改訂が続いた。
【成立年代】鎌倉時代初期。建仁元年(1201)7月和歌所を設置。元久元年(1204)に選定。翌元久二年(1205)完成。その後、建保4年(1216)12月まで切継作業が続いた。成立年代は次の4つの期間に分かれる。
第1期…建仁元年(1201)の下命時から、撰者達が歌を集めてくるまで。
第2期…後鳥羽上皇自ら歌の吟味、選別をした時代。
第3期…歌の部類、配列をした時期。撰者以外の寄人も作業に加わる。元久元年(1204)までに一旦完成した。
第4期…歌の修正、切継をした時期。承元4年(1210)~建保4年(1216)までの間に最終的に完成した。
【解説】『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の勅命によって編纂された勅撰和歌集で、古今和歌集以後の8勅撰和歌集、いわゆる「八代集」の最後を飾る。
【文献】『新古今和歌集』峯村文人校注・訳者、発行小学館、昭和49年3月20日初版発行

保元物語』 とお灸

【本文】新院左大臣殿落ち給ふ事(保元物語 中)
…此(この)まぎれに新院遙にのびさせ給ふ。左府(さふ)少(すこし)さがりまいらせ給ひけるが、いかなる者の放(はなち)けるや、白羽の矢一(ひとつ)ながれ来て、左府御頸(くび)の骨にたちにけり。成澄(なりずみ)矢をぬき奉(たてまつ)る。血の流出(ながれいづ)る事、竹の筒より水をいだすがごとし。白青(しらあを)の狩衣(かりぎぬ)紅(くれなゐ)にそめなせり。心神(きもたましひ)もくれまよひ、手綱(たずな)を捨(すて)て鐙(あぶみ)をもふませ給はず、鞍(くら)の前輪(まへわ)にかゞらせ給ひ、暫(しばらく)かゝへ奉れ共(ども)、馬ははやり、主はよはらせ給(たまひ)て、なだれおちさせ給ひけり。成澄もこぼれ落て、いだきかゝへ奉る。式部太夫成憲(しきぶのたいふなりのり)、飛(とん)で下(おり)、御頸を膝にかきのせまいらせ、御かほに袖をおほひ奉りて泣居(なきゐ)たり。目ははたらかせ給へども、物も仰(おほせ)られず、只今まではさしもゆゝしくみえさせ給へる御けしき、いひ甲斐なきやういみえさせ給ふ。浅増(あさまし)などもをろかなり。御前(さき)うちける家弘是(これ)をみたてたてまつり、猶さきにありける平馬助(へいますけ)が松か埼のかたへおちけるをよび返して、かくと告(つげ)たりければ、忠正(ただまさ)、「あなこゝろう。世は今はこうにこそ。」とて、急(いそぎ)とつてかへして、馬にかきのせたてまつらんとしけれ共(ども)、乗(のり)たまらせ給べしともみえざりければ、近辺(きんへん)なる所にかき入(いれ)たてまつりて、疵(きず)の口をあたゝめ奉るをみれば、左の耳のね(根)より咽のかたへ逆(さかさま)に立てり。……
【語釈】白青=薄い青色。心神もくれまよひ=心もくらみ魂もわからなくなって。式部太夫成憲=式部の丞で五位に叙せられた者。うちける=馬に乗って行った。松か埼=京都市左京区松ヶ崎。世は今はかうにこそ=世の中は今はこれまでなのだ、万事窮す。疵の口をあたゝめ=京本「御きすくちをやきなとしけれとも」、半本「灸治シ奉ナントテ」、活本「疵の口をし奉りけれ共」とあるにあたるものであろう。
【作者】保元・平治物語の作者については、古来、葉室時長・中原師梁・源喩僧正の三説がある。…かたがた以上三説は、近来いずれも顧みられなくなった。
【成立年代】…保元平治の日記と呼ばれた、物語の原形は、おそらく愚管抄の成立した承久二年(1220)以前に流布していたものではあるかいか。ただ、現存の保元・平治物語第一類本を、ただちにこの日記と考えることは正しくない。
【文献】『保元物語 平治物語』(日本古典文学大系31)校注者:永積安明・島田勇雄、岩波書店、1961年7月5日第1刷発行、1979年11月20日第20刷発行。

平家物語  第四巻 橋合戦』 とお灸

【本文】爰(ここ)に乗円坊の阿じゃ(じゃ=門+者)梨慶秀(あじゃりきょうしゅう)が召し使(つか)ひける一来(いちらい)法師といふ太力(だいちから)の剛(かう)の者、浄妙坊が後(うしろ)に続(つづ)いて戦(たたか)ひけるが、行桁(ゆきけた)は狭(せば)し、側通(そばとほ)るべき様(よう)はなし。浄妙坊が甲(かぶと)の手さきに手を置(お)いて、「悪(あ)しう候、浄妙坊」とて、肩をづんど跳(おど)越(こ)えてぞ戦(たたか)ひける。一来法師つひに討(打)死にしてんげり。浄妙坊は這(は)ふ這(は)ふ帰つて、平等院の門(もん)の前なる芝の上に、物具(ものぐ)脱(ぬ)ぎ捨(す)て、矢目(やめ)を数(かぞ)へたりければ六十三、裏(うら)かう矢は五所(いつところ)、されども(共)大事の手ならねば所所(ところどころ)に灸治(きゅうぢ)頭(かしら)からげ浄衣(じゃうえ)著(き)て、弓切(き)り杖に突(つ)き、平履(ひらあしだ)はき、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞ罷(まか)りける。浄妙坊が渡りたるを手本にして、三井寺の大衆、渡辺党(わたなべたう)、走(はし)り続(つづ)き、我も我もと行桁(ゆきけた)をぞ渡(わた)りける。或は分取(ぶんど)りして帰る者もあり、或は痛手(いたで)負(お)うて腹かき切(き)り、河(かわ)へ飛び入る者もあり。橋の上の軍(いくさ)、火出づる程にぞたたかひける。
【通訳】するとここに乗円坊の阿じゃ(じゃ=門+者)梨慶秀が召し使っていた一来法師という、大力の剛の者、これが浄妙坊の後に続いて戦っていたが、行桁は狭いし、寄与四妙棒の傍を通りぬける手もない。そこで浄妙坊の兜の手さきに手をかけて、「失礼つかまろう、浄妙坊」と言いざま、肩をずんと跳り越えて戦ったのだが、一来法師はとうとうここで討死にしてしまった。一来法師は這わんばかりにして帰ってきて、平等院の門の前にある芝生の上に、鎧兜を脱ぎ捨て、矢の当たった後を数えてみると、六十三、鎧の裏まで徹った矢は五所(いつところ)あった。しかしさほどの傷でもないので、ところどころに灸をすえて応急の手当てをすまし、裹頭(かとう)をし、浄衣を着、弓を切り折って杖につき、平履(ひらあしだ)をはき、「阿弥陀仏」と称えて、奈良の方へと去った。さて、宇治橋では浄妙坊が渡ったのを手本として、三井寺の大衆や渡辺党の者があとからあとから走り続いて、われ劣らじと行桁を渡った。分捕品を持って帰る者もあり、重傷を負って腹を掻き切り、河へ飛び入る者もある。橋の上の戦いは火の出るような接戦であった。
【語釈】○手さき=兜のしころの端。○悪しう候=失礼しますの意。○物具=鎧と兜。○矢目=矢の当たった後。○裏かく=鎧の裏まで徹る意。○大事の手=手は傷のこと。急所の傷。○灸治=傷口に灸をすえること。消毒しまた出血を止めるための応急の療治である。○頭からげ=頭部に布を巻いたこと。兜を脱いで、僧兵の常にする裹頭(かとう)をした。裹頭(かとう)とは、大五条(五条袈裟)で頭をつつむこと。しかし時には長絹や袈裟の破れなどで代用してつつむこともある。○浄衣=白の狩衣。○平履=平足駄。僧兵の常用の履物。足駄の歯の低いもの。○渡辺党=前出(「競」)。○分取り=分捕り。敵の首をとり、その殺された者の太刀や刀や兜などを奪ってくること。○痛手=「手」は傷。急所の傷。○火出づる程に=接戦の激しい様をいう。
【解説】平家物語は、鎌倉時代に成立したといわれる平家の栄華と没落を描いた軍記物語。ここでは明秀が思うさま戦うと、まだ味方の勝敗も決定しないのに、本気で本来の浄衣姿にかえり、奈良に帰ってゆくところがおもしろいと思う。極端にいえば、彼にとっては合戦は一つの運動競技であり、立派に戦いおわれば、なお勝敗定まらぬ戦場を落ちて行くことに何らの遠慮もしていないのである。ただすべてが生命を賭けた激しい競技であることが異なるだけである。江戸時代になって、長唄の所作事に「橋合戦」がある。それは見て楽しい僧形の武人の舞踊である。美しいもの、朗らかなもの、力あるものとして『平家物語』の作者もまたこの時代の新しい人間の一つの姿を描いているといってよいのである。
【成立年代】(要略)平家物語の成立についての伝承資料としては、1.「徒然草」(1330年頃)に[イ]信濃前司行長と琵琶法師生仏との合作説。2.「醍醐雑抄」(醍醐寺の報恩院主隆源1342~1426の記で、琵琶法師如一の語)[ロ]中山時長と源光行合作説。ともに語りもの文芸としての「平家物語」について述べたものと判定すべきである。[ハ]資経の十二巻作者説。3.「平家勘文録」[二]六種の前平家物語の説。[ホ]三巻本から六巻本への成長説。[ヘ]十二巻本平家物語成立説などがある。「至徳元年(1384)3月4日の書上畢」の奥書のある写本、「貞治二年(1363)10月18日書」の奥書のある写本があるが、現存本には15世紀中頃以後の加書のある点からいって、応仁の乱(1467~73)の後、明応・文亀(1492~1503)の頃には現存の形のものになっていたと考えられるものである。
【文献】『平家物語全注釈』(上巻)富倉徳次郎著、角川書店、昭和41年5月20日初版、平成2年12月20日17版発行、『平家物語全注釈』(下巻 二)富倉徳次郎著、角川書店、昭和43年8月30日初版、昭和48年8月20日3版発行

『徒然草』 とお灸

【本文】徒然草 下 第百四十七段
灸治(きうぢ)あまた所になりぬれば、神事(しんじ)に穢(けが)れありといふ事、近く人の言ひ出(いだ)せるなり。格式(きゃくしき)等(とう)にも見えずとぞ。
【通釈】お灸をすえた所が多くなってしまうと、祭神の行事にけがれがあるということは、近年の人が言い出したものである。格式(きゃくしき)等の法令・細則などにも見えないということである。
【語釈】灸治=灸をすえて治療すること。あまた=灸をすえる場所が多くなるの意。神事=祭神の行事。格式=「格」は古代法令の一種で、律令のほかに臨時に発布された法規。「式」は律・令・格を施行するための細則・内規。ここは格や式などの古代法令の細則・内規の意。
【解説】王朝時代の権威ある法令に基づいて俗説を否定している。基準は古代貴族社会の権威であるが、否定のしかたは事実に基づくというところに兼好らしさがある。

【本文】徒然草 下 第百四十八段
 四十以後の人、身に灸(きう)を加えて三里を焼かざれば、上気(じょうき)事あり。必ず灸すべし。
【通釈】四十以後の人がからだに灸(きう)をすえて三里にもすえておかないと、のぼせることがある。かならず三里にすえなくてはならない。
【語釈】三里=灸点の名。ひざがしらの下、外側の少しくぼんだ所。ここに灸を万病にきくという。医書『万安方』にも、「三里灸セザレバ、気上ガリ目を衝カシム。三里は以て気ヲ下グル所也。
【解説】当時の医家の説に基づいて、灸治の助言をしている。「必ず灸すべし」と断定的に勧めているのは、兼好の経験にも基づいているかといるかと思われる。
【著作者】吉田兼好
【著作年代】元徳二年(1330)11月以降~元弘元年(1331)9月20日以前
【文献】『方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』神田秀夫・永積安明・安良岡康作校注・訳者、小学館発行、昭和46年8月10日初版第1刷発行

『好色一代男』 とお灸

【本文】巻五 一日かして何程が物ぞ
よろづかぢくろしく、あたら夜終(よもすがら)新三十石に乗合(のりあひ)のこゝ地するなり。足をのばせば寝道具みぢかく、蒲団(ふとん)はひえわたる。「なんと世之介様、旅の悲しさをよく御合点(ごがてん)あそばして、京(きょう)の女郎様の御気に入(いる)やうにあそばせ」といふ。「いかにも此浦(このうら)のしほを踏で、老(おい)ての咄(はな)しにもとおもふぞ。寝覚(ねざめ)のきづかひさに人にはだをゆるさず、帯仕(おびし)ながら寝入(ねいる)」とあれば、同じ枕の友ども、一人は硯引(すずりひき)よせ家の差図(さしず)を書(かい)て居る(い)る。又一人は只居(ただい)ようよりはと寝ながら編笠(あみがさ)の緒(を)こしらえける。独(ひとり)は象牙(ぞうげ)の掛羅(くはら)よりもぐさを取出し、三里にすえてかほ(白+ハ)をしかむる。女郎は女郎でかたより、更(ふけ)ゆくまで糸取(いととり)・手相撲(てずまふ)して、折ふしは眠(なぶり)、きのどくなる夜の明るを待(まつ)はそのまゝ籠(こも)り、堂(どう)のごとし。
【語釈】かぢくろしく=堅苦しい。窮屈なこと。新三十石=大阪・淀・伏見間の運輸にあたった過書船の内、三十石以上の船方が寛文十年に建造した二十石船。翌年淀二十石船方の抗議で三十石に極印を打ちかえられ新三十石船と称した。船足は軽快だったが、船体小さく客は窮屈であった。しほを踏で=塩を踏む。苦労を経、経験を積む意。老ての咄し=老後の話の種にもしようかと思う。寝覚のきづかひ=風邪を引かない用心のための意か。差図=設計図。掛羅=掛絡。根付または根付をつけた印籠・巾着の類。三里=膝頭の外側の凹んだ所にある灸点。手相撲=腕相撲。きのどくなる=気詰まりな。不愉快な。籠り堂=神社仏閣で通夜するする人の参籠する堂。
【著作者】井原西鶴
【著作年代】天和二年(1682)刊、41才の作。
【文献】『西鶴集 上』日本古典文学大系47、麻生磯路・板坂元・堤精二校注、岩波書店、1957年11月5日第1刷発行、1980年3月25日第22刷発行

『好色一代女』 とお灸

【本文】巻五 小哥(こうた)の傳受(でんじゅ)女
あがれば莨宕盆(たばこぼん)片手にちらしを汲(くみ)て、ひとしほ水ぎはを立(たて)もてなす風情(ふぜい)、似(に)せ幽禅(ゆうぜん)絵の扇にして涼風(すゞかぜ)をまねき、後(うしろ)にまはりて灸の蓋(ふた)を仕替(しかえ)、鬢(びん)のそゝけをなでつけ、當座(たうざ)入の人は鼻であしらふなど、かりなる事ながら是(これ)を羨敷(うらやましく)、恋の中宿を求めて此(この)君達をよぶに、仕舞(しまい)風呂に入(いり)て身をあらため、色つくるまに茶漬食(ちゃつけめし)をこしらへ、箸(はし)したに置(おく)と借着(かしきる)物始末(しまつ)にかまはず引きしめ、久六(きゅうろく)灯挑(ちょうちん)ともせば、揚口(あがりくち)よりばた々々と歩み、宵は綿帽子(わたぼうし)、更(ふけ)ては地髪(ちがみ)、夜ありき足音かるく、其(その)宿に入(いり)て恥(はぢ)ず、座敷になをり、「ゆるさんせ、着(きる)物三つが過(すぎ)た」と、肌着(はだぎ)は残してぬぎ掛して、「是(これ)こなた、きれいにして水をひとつ飲(のま)さしやれ。今宵(よひ)程気のつまる事はない。屋ねに煙出しのない所ははわるい」と用捨(ようしゃ)もなく物好(ものこのみ)して、身を自由にくつろぎしは、さりとはそれと思ひながらあまりなり。
【語釈】ちらし=香煎。糯米・陳皮・山椒などの粉末をふり出した飲み物。水ぎは=際立って。特別に。似せ幽禅絵の扇=その頃はやった京の画工宮崎友禅の似せ絵をかいた扇。當座=馴染でないその日限りのふりの客。是を羨敷=ちやほやされるのが寂しくなり。恋の中宿=男女密会の出合宿。仕舞風呂=風呂屋は初夜を限りとし、最後に貝を吹いて、女召使いを入れることになっていた。借着物~=貸衣装を頓着なしに平気でまといつけ。久六灯挑=下男の通称。宵は綿帽子=宵のうちは様子を作って綿帽子をかぶるが。地髪=地髪は入髪対して生れつきの髪をいうのであるが、ここは頭巾なしで頭髪をあらわすをいう。着物三つ=着物三枚は着過ぎた。三襲を自慢する。ぬぎ掛け=抜き襟にする。是こなた=もしあなた。屋ねに煙出しのない所=屋根に煙出しのないところは、風の通りがわるくていけない。風呂屋には煙出しがあるので風呂屋女だからこういったのである。物好み=物ねだりして。さりとは=どの道風呂屋女とはいえ。あまりなり=あまりにもはしたない振舞でである。
【著作者】井原西鶴
【著作年代】貞亨三年六月(1686)刊
【文献】『西鶴集 上』日本古典文学大系47、麻生磯路・板坂元・堤精二校注、岩波書店、1957年11月5日第1刷発行、1980年3月25日第22刷発行

『奥の細道』 芭蕉とお灸

【本文】月日は百代(はくだい)の過(か)客(かく)にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も 多く旅に死せるあり。予も、いづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそわれて、漂 泊の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはら ひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物に つきて心くるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取るもの手につかず。股引(ももひき)の破れをつゞり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月先づ心にかゝりて、住める方は人に譲り杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
   草の戸も住み替る代ぞひなの家
面(おもて)八句を庵の柱に懸け置く。

【解説】新しい旅への出立:芭蕉が「奥の細道」の旅に出立したのは、元禄2年(1689)3月下旬のことだが、実際はもっと早く出発しようと考えていたらしい。すなわち芭蕉の世話をしていた杉風の詠草に「翁陸奥の歌枕見む事をおもひ立侍りて、日比(ひごろ)住ける芭蕉庵の庵を破り捨(すて)、しばらく我(わが)茶(だ)庵(あん)に移り侍る程、猶其節余寒ありて白川のたよりに告(つげ)こす人ありければ、多病心もとなしとして、弥生末つかたまで引きとゞめて、
   花の陰我草の戸や旅はじめ
とあり、さらに元禄2年1月17日ごろの卓袋(推定)宛芭蕉書簡に、(前略)去(きょ)秋(しゅう)は越人といふしれもの木曽路を伴ひ、桟のあやうきいのち、姨捨(おばすて)のなぐさみがたき折、きぬた、引板(ひた)の音、しゝ追(おふ)すたか(すがた)あはれも見つくして、御事のみ心におもひ出(いで)候。とし明ても猶旅の心ちやまず、
   元日は田毎の日こそ悲しけれ   芭蕉
弥生に至り、待侘び候塩竃の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみふくころより、北国にめぐり、秋の初、冬までには、みの、おはりへ出(いで)候。(中略)猶ことしの旅はたびは、やつしやつしてこもかぶるべきこころがけにて御座候。其上、能(よき)道連れ、堅固の修業、道の風雅の乞食(こつじき)尋出(たずねいだ)し、隣庵に朝夕かたり候而(て)、此(この)僧にさそはれ、ことしもわらぢにてとしをくらし可(もう)レ申(すべく)と、うれしくたのもしく、あたゝかになるを待ち侘びて居(おり)候。(中略)
これによって三月の節句過ぎに出発の予定だったところを、杉風らがとめて三月下旬になったことがわかる。なおこの手紙によっても芭蕉が江戸における安穏な宗匠生活にあきたりず、自分の新しい文学の再建のために、新しい旅を望んでいたことがわかる。『奥の細道』の、この冒頭の一節は、多少の文学的修辞は割引するとしても、芭蕉の本心でないことはない。そうして、門人もなく、知人も少なく、関西各地に比べれば十分開けていない東北の山野を旅しようとした志した心の底には、そういう旅こそが旅らしい旅なのだという心持ちがあったとみてよいだろう。……
【文献】『鑑賞 日本古典文学 第28巻 芭蕉』編者:井本農一、角川書店、昭和50年3月30日発行より引用

『今宮心中』とお灸ー雪駄に灸

【本文】中の巻
…重手代(おもてだい)口々に、「やい々々、戯(ほたえ)たな、それ向の出店から、旦那の在(わせ)る見(みえ)ぬか」と言ふ所へ、四郎右衛門は眼病に毒とは知れど渡世の世話、…ヤア卜庵老は未見(まだみえ)ぬか、卜庵が見たらを為(せ)う、女子(おなご)の手が薬ぢゃ、きさに(すえ)て貰(もら)うし、二郎兵衛に手伝しょ、手の顫(ふるは)ぬ様に仕事仕舞(しま)へ、残りの者は出店へ往(い)け」と言ふ所へ、「物申(ものまを)澁川(ふかは)卜庵御見舞申す」と突(つゝ)と入(いれ)ば、…どれ脈を見ませうか、愚老(わたくし)の申(もをし)た通り、薬喰(くすりぐひ)を被成(なさ)るか、ハァ甚(いか)う脈が好し(よう)なつた、玉子を食(まゐ)る験(しるし)に、左の脈が浮々(ふはふは)と打(うち)まする。」「ムヽ魚の中にも鰡(ぼら)などは大暈(だいうん)のもの、予(かね)て無用と申た、豈夫(よもや)食(くひ)は被成(なされ)まい、右の脈が頭勝(あたまがち)なは、若し摺子木(すりこぎ)などは食(まゐら)ぬか、風邪気も無し點(てん)と致さう、々(すずりすずり)」」と言ひければ、「奥で(てん)を頼みませう、コレきさ、二郎兵衛、油火(あぶらひ)灯(とぼ)て艾を揉み、先(まづ)二三百捻つて置(おき)や」と、打連(うちつ)れ奥に入(いり)にける。「諾(あつ)」と言(いふ)て二郎兵衛、行燈(あんどう)灯(とぼし)つ土器(かわらけ)(あぶ)り、出(いだ)してまんとするを、…卜庵奥より立出(たちいづ)る。「ヤ是はまうお帰り被成(なされ)ますか。」「然(され)ば帰(かへら)うか、ま些(そつ)と遊んで灸行(やいとぎゃう)の相伴(しゃうばん)せうか、やあぇぃ、」と煙草(たばこ)盆引寄(ひきよせ)る。二人は拵(こしら)へながら、此首尾(しゅび)に語度(かたりた)し、早(はやう)去(いね)がなと々々ともがけ(足+宛)と去(いぬ)る気色(けしき)なく、「何と灸行(やいとぎゃう)の吩咐(いひつけ)は無(なか)つたか、冷麦か素麺か、…」…「何ぢゃ茄子(なすび)の浅漬けぢゃ一段好(よか)ろ、それに出花(でばな)を付(つけ)たらば」と、茶臼形(ちゃうすがた)になるを見て、おきさも呆れ、「寧(いつ)そ泊(とまつ)て御座んせ」と仏頂面顔に二郎兵衛、艾に火を點(つ)け庭の隅(すみ)、卜庵が雪駄(せきだ)の裏、物は試(ためし)と煽(あふぎ)立(たて)々ぞ燻(くゆら)する。咒咀(まじなひ)は理外(りがい)にって卜庵気にや徹(てつ)しけん、「是は不思議千満(せんばん)、俄(にわか)に宿へ帰りたい、最早(もう)往(ゐに)ましょ、滅多に往度(ゐにた)う成(なつ)て来た。」「ハテ今些(まちつ)とお遊び被成(なされ)ませ。」「否々(いやいや)俄(にはか)に往度(ゐにた)う成(なつ)て足の裏がこそばい(手+楽)」と、畳に足を摺付(すりつけ)々々降(おり)ければ、二郎兵衛雪駄を直くと直(ちつ)し、「申(もをし)卜庵様、旦那の眼も癒(なほり)ませう、が早う験(きゝ)ました」と、言えども我身の上とは知らず、「ヲヽ卜庵が名人御覧あれ、一火(火+主)で験(けん)が見(みえ)ましょ」と、足の踵(きびす)の気味(きび)悪気(わるげ)に、雪駄(せきだ)摺らせて帰らるヽ。……と言ふ所へ四郎右衛門、「何ときさ二郎兵衛、艾が未だ出来ずば、向(むかひ)の出店へ往(い)て、女房共にも捻(ひね)つて」貰(もら)へ、更(ふけ)ぬ先に仕舞度(しまいた)い、何(どう)ぢゃ
々々気が急(せ)く。」「あい々々(やいと)も皆出来ました、御勝手に遊(あそば)しませ。」「其(そん)なら爰(ここ)に斯(こう)向いて、それ二郎兵衛菓子盆、霰(あられ)煎豆(いりまめ)山椒(さんしょう)煮、小蒲団(こぶとん)敷け」と袷(あわせ)廻(くる)りと(やいと)の馬場、前を後ろに眼は見(みえ)ず、何を為(せ)うとも頷(うなづい)て、黙笑(くすり)々々の炙箸(やいとばし)、痴話(ちわ)の便(たより)の薄煙(うすけぶり)、十四のに水が湧く、盛(さかり)の女盛の男、手を締め身を撫で口を寄せ、誰を忍ばん艾草(さしもぐさ)、是ぞ因果(いんぐわ)の皮切(かわきり)なり。辛(やうや)う點下(すえおろ)す、主人の帯の前巾着、後(うしろ)へ廻る紐解(ひぼとけ)て、繋(つなぎ)し鍵は巾着より、半分溢(こぼ)れかヽりたり。…「申(もをし)旦那様、熱くば些(ちと)抑(おさ)へましょか。」「いや熱うは無(ない)が精(せい)が盡(つき)た、好加減(よいかげん)に措(おき)たい。」「今些(まちつと)で御座んす、それ今些(まちつと)ぢゃ々々、そりや好(よい)わ」と鍵引出(ひきいだ)せば狼狽(うろたへ)て、箸の灸(やいと)を取り落す。「熱や々々々々、もう々々是で了(しまは)う、奥へ往(い)て些(ちと)寝やう、二人ながら休んで呉(く)れ、好(よ)う為(し)て呉(くれ)た過分(くわぶん)な」と、悪事と知らぬ主(しう)の慈悲、仇と成(なり)たる身の果(はて)の、冥加(みょうが)に盡(つき)しも道理(だうり)なり。…
【文献】『修訂 近松世話浄瑠璃集成』小林栄子著、東京大同館書店版、昭和23年12月25日発行
(註)『今宮心中』は正徳元年(1711)、近松門左衛門59歳の作。

『旅行用心集』とお灸

【本文】「道中にて草臥(くたびれ)を直す秘伝并奇方」
○草臥(くたびれ)足痛する時は、宿へ着き、風呂へ入りて後、塩を調(ととの)え、足のうらへしたたかになすり付、火にてあふるへし。妙なり。
○至極、草臥たる時は、風呂に入て後、焼酎の足の三里より下、足のうら迄吹付べし。手にてぬりてはきかぬなり。
○草臥たる時、足の三里、承山、通谷の三ヶ所、灸すべし。下に図あり。見合べし。
【本文】「道中所持すべき薬のこと」
○切りもくさ(しめらぬようにして貯うべし)

【解説】「旅行用心集」は、今日で云う旅行案内書(全国の関所や諸国温泉292ヶ所についても記してある)で、移動に厳しい制限があった当時、庶民に許されたのは「伊勢参り」などの信仰目的の旅でした。
現在のように飛行機や新幹線というわけにはいかないので、大変な足行だったと思われます。旅行の際には、切り艾を携え、足の三里などに灸をして早立ちをし、宿に着いたら疲れ取りに又お灸をすえていたのでしょう。図には足の三里(膝の下三寸外のかど)、承山(両足をつま先立てれば、ふくらはぎへ山のかたち出る也。その山の下を承山としるべし)、通谷(足のこゆびのよこのくぼみたる所なり。くたびれよく直る也)と記されています。
【文献】『旅行用心集』八隅蘆菴著、文化7年(1810)

三河の百姓満平194歳と三里の灸

【本文】…近日余が視聴を経(へ)しもの、亦三人あり。(三河ノ百姓満平)は、福艾の聞えあるものなり、東岡舎の筆記ニ云、三河ノ国、宝飯(ホヒノ)郡、水泉村ノ百姓満平、慶長七壬寅ノ年、右同国同村に生レ、寛政八丙辰ノ年、百九十四歳ナリ、享保年間、云云(シカジカ)ノ慶賀ニヨリ、徴(メサ)レテ江府ニ参(マイ)レリ、迺(スナハチ)白髪ヲ献(タテマツラ)セ、御米若干(ソコバク)賜(タマ)フ、[割註]一説ニ、月俸ヲ賜フトイヘリ。」今茲(コトシ)丙辰ノ年、復(マタ)マヰレリ、享保ノ故事ノ如シ、前後イヅレノ日ニヤ、吏人(ツカサヒト)満平ニ問(トハ)ク、汝ガ家、何ノ術アリテ、長生如レ此(カクノゴトク)ナルヤ、答テ言(マウサク)、他ノ技(ギ)ナシ、僕(ヤツコ)ガ家、先祖ヨリ相伝シテ、三里ニ灸、其灸方(キウハウ)、毎月朔(ツイタチ)ヨリ八日ニ至テ輟(ヤ)ム、年中月別(ツキゴト)ニ、間断(カンダン)アルコトナシ、其数同ジカラズ、如レ左(ヒダリノゴトシ)、
(右)朔八壮 二日九壮 三日十一壮 四日十一壮 五日九壮 六日九壮 七日八壮 八日八壮
(左)朔九壮 二日十一壮 三日十一壮 四日十一壮 五日十壮 六日九壮 七日九壮 八日八壮
寛政八年、満平百九十四歳、妻[割註]名氏逸ス。」百七十三歳、子[割註]名氏逸ス。」百五十三歳、孫[割註]名氏逸ス。」百五歳、曾孫(ヒコ)以下、尚百歳ニ満(ミタ)ザルモノ多クアリト云フ、或ハ云フ、満平が敷地ニ霊水アリ、其井底(セイテイ)悉(コトゴト)ク辰砂ナリ、古来ヨリコノ水ヲ汲(クミ)用ル故ニ、一家カクノ如ク長生ストイヘリ、但コノ事伝聞(デンブン)ニアリ、虚実ヲ詳(ツマビラカ)ニセザレドモ、異聞(イモン)ナルヲ以テ録ス、といへり、当年(ソノトシ)余が聞たるも、これにおなじ。
【文献】『玄同放言』滝澤馬琴著、「日本随筆大成」〈第一期〉第5巻、編者:日本随筆大成編纂部、発行:吉川弘文館、昭和50年6月10日発行。
(註)『玄同放言』は瀧澤馬琴の随筆集で、文政元年~3年(1818~20)刊。

『狂言 「神鳴」または「雷」』と鍼

◇医師(次第の囃子で登場)「薬種(くすしゅ)も持たぬ藪医師(やぶくすし)、薬種(くすしゅ)も持たぬ藪医師(やぶくすし)、黄檗(きはだ)や頼みなるやん、〔地取〕な
るらん。これは都に住まひ住まひ致す医師(くすし)でござる。この頃都には典薬頭(てんやくのかみ)などと申して上手な医師(いし)が数多(あまた)ござるによって、我ら如きの藪医師(やぶくすし)には脈をも取らせませぬ。承(うけたまわ)れば東(あづま)は医師(いし)が払底なと申すによって、これより東へ下らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。(舞台一巡しながら)イヤまことに、皆人(みなひと)は花の都へ花の都へと上らせらるるに、某(それがし)は花の都を振り捨てて東へ下ると申すは、近頃本意(ほんに)なけれども、これも渡世のことなれば是非もないことである。イヤ何かと申すうち、広い渺々(びょうびょう)とした野へ出たが、これは何という野ぢゃ知らぬ。(あたりを見まわし)ハハア、この辺りまえ参れば俄(にわか)に空がかき曇り、その上、神鳴が鳴るやうな。ピッカリ、(とび上がり)アア桑原、桑原、桑原、このやうな所に長居(ながゐ)は無用ぢゃ。少しも里近(さとぢか)くへ参らう。何とぞ里へ出(づ)るまで何ごともなければようござるが。(橋がかりを揚幕の際まで行ったところへ、中から神鳴、鞨鼓〈かっこ〉を打ちながらとび出してくる)
◆神鳴「ピッカリ、グワラリグワラリ。
◇医師「(びっくりし、耳を押さえながら転倒して)アア悲しや、桑原、桑原、桑原。
◆神鳴「ピッカリ、グワラリグワラリ。
◇医師「桑原、桑原、桑原。(本舞台まで転がってくる)
◆神鳴「グワラリグワラリ、ドウドウドウ。(舞台で一回転して、どんとすわる。腰をたたきながら)ア痛、ア痛、ア痛。
◇医師「桑原、桑原、桑原。(耳を押さえながら震えている)
◆神鳴「ハハア、今日は心面白う鳴りわたったが、ふと風と雲間を踏みはずいて、このような広い渺々とした野へ落ち、腰の骨をしたたかに打った。辺りに駆け上がる木もなし、これはまづ何と致そう。(あたりを見まわし、医師をみつけ)ヤイ、それにゐるは何者じゃ。
◇医師「医師でござる。
◆神鳴「何ぢゃ、石ぢゃ。
◇医師「ヘェ。
◆神鳴「石がものを言ふか。
◇医師「イヤ、これは人間の病を直す医師(くすし)でござる。
◆神鳴「ハハア、すれば藪医者(やぶいしゃ)か。
◇医師「さやうでござる。
◆神鳴「身共(みども)はまた神鳴ぢゃいやい。
◇医師「ハア、廃忘(はいまう)致いでござる。 
◆神鳴「今日は心面白う鳴りわたったが、ふと風と雲間を踏みはづいてこの所へ落ち、腰の骨をしたたかに打った。汝(なんじ)人間の病を直す藪医師(やぶくすし)ならば、これへ来て某(それがし)の療治をせい。
◇医師「イヤ、私もこれまで人間の病は直いてはござれども、つひにお神鳴の療治を致いたことがござらぬ。
◆神鳴「おのれ、人間の神鳴のと言うて。そのつれを言うて療治をせずば、引き裂いてのけう。(両手を広げ、立ち上がろうとするが)ア痛、ア痛、ア痛。
◇医師(そのけんまくに恐れて)「アア、致しまする、致しまする。
◆神鳴「それならば早うせい。
◇医師「それならば、まづお脈を取りませう。
◆神鳴「脈とは。
◇医師「総じて人間の病は左右の手で取りまするが、お神鳴には頭脈(づみゃく)と申して頭(かしら)で取ることでござる。
◆神鳴「おのれ、それほどよう知ってゐながら。サアサア早う見てくれい。
◇医師「畏(かしこま)ってござる。(恐る恐る立ちながら)必ず鳴らせらるるな。
◆神鳴「オオ、鳴ることではない。
◇医師「必ず光らせらるるな。
◆神鳴「オオ、光ることではない。(医師、神鳴の頭に手をかけてぐるぐる回す)何とする。
◇医師「ヘェ、殊のほかの邪気でござる。
◆神鳴「ホーン。
◇医師「その上、お神鳴には御持病に中風(ちゅうぶ)がござる。
◆神鳴「オオ、中風中風。随分と落つるによって中風もあらう。サアサア早う直いてくれい。
◇医師「さてそれにつき、宿もとでならばよいお薬も数多ござるが、ここは途中のことでござるによって、をせねばなりませぬ
◆神鳴「とは
◇医師(腰に差していたを神鳴の鼻の先へ突き出し)「これでござる。
◆神鳴(びっくりして)「それは何ぢゃ。
◇医師「これを痛む所へ立てまする
◆神鳴「いかな、いかな、そのやうな恐ろしい物が何として受けらるるものか。
◇医師「イヤ人間でさへ受けまするに、お神鳴が受けさせられいでは、ちと御卑怯(ごひけふ)でござらう。
◆神鳴「なるほど、人間でさへ受くるものを、某ぢゃというて受けられぬこともあるまい。それならば痛まぬやうに立てい。
◇医師「畏(かしこ)まってござる。まづお横にならせられい。
◆神鳴「心得た。エイエイ、ヤットナ。(脇正面を向いて横になる)
◇医師「必ず光らせらるるな。
◆神鳴「オオ、光ることではない。
◇医師「必ず鳴らせらるるな。
◆神鳴「オオ、鳴ることではない。
◇医師(恐る恐るそばへ寄り、神鳴の腰をさすりながら)「この辺りでござるか。
◆神鳴「オオ、その辺りぢゃ。
◇医師「この辺りでござるか。
◆神鳴「オオ、その辺りぢゃ。
◇医師「立てまするぞ。
◆神鳴「早う立てい。
◇医師(を神鳴の腰に当て、槌で打つ)「クヮッシ、クヮッシ、クヮッシ神鳴「ア痛、ア痛、ア痛。早う取れ、早う取れ。(手足をばたつかせて暴れる)
◇医師「そのやうに動かせらるれば、が曲がりまするクヮッシ、クヮッシ、クヮッシ
◆神鳴「ア痛、ア痛、ア痛。早う取れ、早う取れ。
◇医師「只今取りまするぞ(両手でを抜き取る)エイエイ、ヤットナ。
◆神鳴「ア痛、ア痛。(腰をたたきながらすわる)
◇医師「して、何とでござる。
◆神鳴「ムム、大分心持ようなった。
◇医師「それならば、そちらへも立てませう。
◆神鳴「もはや嫌ぢゃ。
◇医師「イヤ、留針と申すことをせねばなりませぬ
◆神鳴「それならば、今のやうに痛まぬやうに立てい。
◇医師「畏まってござる。こなたもまた今のやうに動かせられてはが曲がりまする。必ず動かせらるるな。
◆神鳴「オオ、動くことではない。
◇医師「それならば、またお横にならせられい。
◆神鳴「心得た。エイエイ、ヤットナ。(こんどは地謡座の方を向いて横になる)
◇医師「必ず鳴らせらるるな。
◆神鳴「オオ、鳴ることではない。
◇医師「光らせらるるな。
◆神鳴「オオ、光ることではない。
◇医師(前と同様、神鳴の腰をさすりながら)「この辺りでござるか。
◆神鳴「オオ、その辺りぢゃ。
◇医師「この辺りでござるか。
◆神鳴「オオ、その辺りぢゃ。
◇医師「立てまするぞ。
◆神鳴「早う立てい。
◇医師「クヮッシ、クヮッシ、クヮッシ。(槌で針を打ち込み、神鳴が暴れること、前と同様)
◆神鳴「ア痛、ア痛、ア痛。ヤイヤイ早う取れ、早う取れ。
◇医師「そのやうに動かせらるると、が曲がりまする。クヮッシ、クヮッシ、クヮッシ
◆神鳴「ア痛、ア痛、ア痛。早う取れ、早う取れ。
◇医師「只今取りまするぞ。エイエイ、ヤットナ。(抜く)
◆神鳴「ア痛、ア痛。(腰をたたきながらすわる)
◇医師「して、何とでござる。
◆神鳴「ムム、殊のほか心持ようなった。
◇医師「それならば、まづ立ってみさせられい。
◆神鳴「慮外ながら手を取ってくれい。
◇医師「心得ました。(恐る恐る手を取り)サア立たせられい。
◆神鳴「エイ、静かにせい。
◆神鳴・◇医師「エイエイ、ヤットナ。(立ち上がる)
◇医師「何と、立てましたか。
◆神鳴「まんまと立てた。(両足を踏み鳴らし)アラ嬉しや、さらば天上致さう。(行こうとする)
◇医師「アア申し申し、(袖をとらえて)まづ待たせられい。
◆神鳴「何と、待てとは。
◇医師「代わりを置いて行かせられい。
◆神鳴「代わりとは。
◇医師「総じて人間の病を直しますれば、それぞれ薬礼をくれまする。お神鳴にも何とぞ薬礼を置いて行かせられい。
◆神鳴「ムム、これは尤もなれども、最前も言ふ通り、ふと風と雲間を踏みはづいて落ちたことぢゃにおって、何も持ち合はさぬ。許いてくれい。
◇医師「イヤ、私もこれを以て渡世致す者のことでござるによって、是非とも薬礼を下されい。
◆神鳴「さてさて、これは苦々しいことぢゃ。太鼓をやれば不自由なり、この撥を取らせう。(撥を差し出す)
◇医師「イヤ、撥も結構ではござれども、やはりソノ、おあしが欲しうござる。
◆神鳴「おあしとは。
◇医師「鳥目のことでござる。
◆神鳴「さてさて苦々しいことぢゃ。これはまづ何と致さう。(思案して)よいおい、そちの所を言うておけい。近日夕立の節、落ちて礼に行かう。
◇医師「イヤ、それはなほなほ迷惑でござる。
◆神鳴「それならば、総じて人間と申す者はそれぞれ望みがあるものぢゃが、汝は何も望みはないか。
◇医師「それならば、雨風はお神鳴の御自由になりまするか。
◆神鳴「オオ、降らさうと照らさうと身がままぢゃ。
◇医師「それならば、この頃人間は、旱損のと申しては薬礼をくれず、また水損のと申しては薬礼をくれませぬによって、この後は、何とぞ旱損・水損のないやうに守って下されい。
◆神鳴「それは一心安いことぢゃ。して、如何程守ってやらうぞ。
◇医師「いついつまでも守って下されい。
◆神鳴「そのやうに限りのないことはならぬ。一年か二年守ってやらう。
◇医師「イヤ、一年二年は夢の間でござる。何とぞ万々年が間守って下されい。
◆神鳴「イヤ、そのやうにおびただしうはならぬ。(思案して)よいよい、某(それがし)が心得を以て、八百年が間守ってとらせよう。
◇医師「それは有難うござる。
◆神鳴「とてものことに、汝を典薬頭に祝うてとらせよう。
◇医師「それはなほなほでござる。
◆神鳴「この由(よし)めでたう舞ひ上がりに致さう。
◇医師「ようござります。
◆神鳴「降っつ照らいつ、(以下の謡いに合わせて舞う)地謡「降っつ照らいつ、八百年がその間、早損・水損もあるまじや、御身(おんみ)は薬師の化現(かげん)かや。中風を直す医師(くすし)を典薬頭と言ひ捨てて、また鳴神はがりけり、また鳴神はがりけり。
◆神鳴「ピッカリ、グワラリピッカリグワラリ。ピッカリ、グワラリピッカリグワラリ。(とび上がりながら退場)
◇医師「アア、桑原、桑原、桑原。(耳を押さえながら神鳴に続いて退場)

【あらすじ】都で食いつめ、東国へ下る医師の前に神鳴(雷)が落ちてくる。しかし落ちたはずみに神鳴は腰を抜かしてしまった。そばにうずくまる男が医師だと知って治療をせよと言う。診察の結果針を立てることになるのだが、大きな針、手足をばたつかせる神鳴に誇張と倒錯のおもしろさがある。どうやら全治してめでたく神鳴は昇天していく。
【解説】大蔵流では「神鳴」といい、和泉流では「雷」という。また狂言記では「針立雷」という。針の長さは25㎝。もちろん実際の医療用のものよりはるかに大きい。
【文献】『日本古典文学全集35「狂言集」』校注:北川忠彦・安田章、小学館刊、昭和47年10月15日初版発行・外

島崎藤村『春』とお灸

 九十八:隣家(となり)の差配で、風呂を立てたから入りに来いと言はれて、岸本は汗を流しに行った。帰って見ると、母親は洋燈(らんぷ)の下(もと)に左の足を投出し乍ら、しきりと灸をすゑて居る。毎日お百度を踏む為であらう、母親の足には水気を持って、押せば指の跡が残る程に腫れて居る。「熱。」と母親は顔を顰(しか)めて、燃え尽きようとする火を打った。新規な艾(もぐさ)が復(ま)た其跡に盛られる。軈(やが)て線香のが移る。斯うして左の足がいくらか軽くなった頃、更に右の足を投げ出した。

【解説】『春』は島崎藤村が37才の時の長編自伝小説。当初書き下ろしの予定だったが、二葉亭四迷の勧めで、明治41年(1908)4月7日から8月19日まで東京朝日新聞に連載。10月に緑陰叢書第二篇として自費出版。
【あらすじ】教え子である勝子を愛したために職を捨てて旅に出た岸本捨吉だったが、同人雑誌の創刊の話を聞き、戻ってくる。だが、捨吉やその同人たちを待っていたのは、俗世からの打破と自由を求めようとする、苦闘や葛藤、そして挫折であった。そしてそんな中、捨吉が心から尊敬していた先輩である青木が自殺し、衝撃を受ける。
捨吉の勝子に対する愛は実を結ぶことはなく、勝子は結婚していってしまったが、まもなく他界する。捨吉は葛藤の末に作家として生きることを決意し、一切を捨てて東北の学校へ赴任する、

北原白秋と鍼灸

      函
過ぎし日は鍼医の手函
天鵝絨の紫の函、
柔らかに手を触れて、珍しく、
パッチリとひらいた函、舶来の函。

銀かな具のつめたさ、
SORI-BATTEN.びらうどのしとやかさ、
そのびらうどに
薄う光る針

顫える針をつまんで、
GONSHANの薄い肌を刺すこころ、
やるせない夏の真昼のその手つき。
つかれと、かなしみと、ものおもひ、
官能の欲……
こころにくいほど落ちついて
しんみりと刺す盲人の手。

過ぎし日は鍼医の手函
天鵝絨の紫の函、
柔らかに手を触れて、珍しく、
パッチリと閉めた函、舶来の函。

【解説】鍼医(はりい)、手函(てばこ)、天鵝絨(びらうど=びろうど)、SORI-BATTEN(ソリ-バッテン=しかしながら)、GONSHAN(ゴンシャン=良家の娘)、肌(はだへ=はだ)。詩集『思い出』は明治44年(1911)、北原白秋26才時の刊行。その年、明治十大文豪詩人の部第一位に入選、最年少者であった。
【文献】『白秋全集 2 「幼児の思い出」』北原白秋著、第五回配本(第1期、1~24巻)、岩波書店、1985年4月5日発行

      馬の灸
生馬(いきうま)のすゑどころ見ゆるなり光あまねき野つ原(ぱら)の中(うち)

馬は馬頭観世音なりはろばろに嘶き来たればかなしきものを

馬の頭をりをり光大人しくすゑられておはしけるかも

現身(うつしみ)の馬なりけれrば観世音灸すゑられておはしけるかも

生馬の命かしこみ旃陀羅(せんだら)が火を点(つ)けむとす空の高きに

あかあかと灸(きゅう)押しすゆる馬の腹馬はたまらず嘶きにけり

しみじみと馬に灸(やいと)をすうる時馬かわゆしと思ひけるかも

おのれまた灸(やいと)すゑられ死ぬごとし馬のこころにいつになりけむ

詮ずれば馬も仏の身なれども灸(やいと)すゑられ在(ま)せばかなしも

【解説】初出 大正4年1月1日「地上巡礼」第2巻1号。「地上巡礼」は北原白秋が詩歌結社として興した巡礼詩社から発行されました。巡礼詩社は白秋の門人である河野慎吾・村野次郎、また白秋に何らかの影響を受けた荻原朔太郎・大手拓次(吉川惣一郎)・室生犀星・矢野峰人・山村暮鳥、またアララギ派の島木赤彦・斎藤茂吉など執筆者の顔ぶれも壮観でしたが、通巻僅か6冊で終刊し、「ARS」に発展的に併合されたと見られています。
【文献】『白秋全集6』(第二回配本、第Ⅰ期一~二四巻)

【本文】[牡丹の木「黒檜」以後]
序 牡丹の季節が過ぎて、月余になった。みちのくは白河の関にちかく、須賀川の牡丹は木の古いので知られてゐるが、このほどその園主のしるべから焚木としてそのひとくくりを送って来た。冬夜牡丹の木を焚くといふ ことは、話には聞いてゐたが、それは何といふ高貴な雅びかと思はれる。眼を病む今の私にはいみじき贈りものでないことはない。
[魚眼]

鍼灸甲乙(181~183頁)[昭和16年6月1日「多磨」12巻6号],


  雲のむた天の真名井に我が降りて冷えたる脚を妹もみほぐす
       足心にたきつぎ火を増して眼は開くてふそのすう

の細み身筋にとほるしまらくは末消ゆるまで神適くがごとし
       骨髄にしみゆく時すらも楽しび繁に無しと云はなくに
       身の皮や熱きは痛き時過ぎて艾の火くづほろろ消につつ

   石桃の照りにくぐみて今読むは鍼灸甲乙経五臓六府官ぞこれ
       身にこたふ胆の痛処にうつと目(目+匡)は笑へ云ふこともなし
  医二首 人今ぞ思ふつぼにしうつと蓋しすぷりと痛処刺し当つ
      逆羽立つ家禽ならね頸伸すにうちはじき足の指攣る
      すぷすぷと皮肉つらぬくにして神にか徹る我の眼ひらく
      打つの繁にし思へば風蘭の花つきそめて幾日か経たる
      老にしていたり幽けきものあらし身はしろがねのを味ふ
 初出(雑誌・新聞)1938(昭和13)年より1943(昭和18)まで(245頁)[昭和13年6月1日「短歌研究」7巻6号]
 上巻 日光現象 初夏の灸点
        影黝む照やすからず夏山のこの靄立を我が眼衰ふ
        よく点きて当りかなしく柔らかきは妻が揉むべかるらし
        火のうつり繁に沁むるにはの汁を先濡らしてむ
        背は向けてこらふる若葉どき妻が手触の繁にしかなしも
        若葉照りいぶるは押しすゑて熱き三里がよくきくよくきく

【解説】後記 本巻には「歌集7として、『黒檜』と『牡丹の木』とを収めた。456頁には鍼灸甲乙は「六月二日の作」とある。
 『黒檜』は白秋生前に刊行された歌集としては最後のもので、白秋の歌集(長歌集『篁』を含めて)を収録作品の制作年代によって並べると、本全集11巻に収めた『渓流唱』『橡』に続く第十一番めの歌集に当たる。1935(昭和10)年6月、歌誌「多磨」を創刊・主宰した白秋は盛んな創作活動を展開するが、1937(昭和12)年11月に眼底出血に襲われた。『黒檜』は、その眼疾のために駿河台の杏雲堂病院に入院した 折から、1940(昭和15)年4月に住みなれた成城から最後の住居になった杉並区阿佐ヶ谷に転居するまでの作品を集成したものである。また、『牡丹の木』は文字通り『黒檜』以後の作品の集成だが、白秋生前に刊行の計画はあったものの、白秋自身によって編まれることなく終わったものである。二冊を通して、眼疾を押して生まれた、最晩年の白秋の歌風がう  かがえる。
  …『多磨』創刊後の作家活動の舞台は、当然『多磨』誌上が中心となる。「巻末」に記されているように、『黒檜』はそうした作品群から、「別に選ぶところ無く、作したほどのものは洩れなくここに蒐めた。」という態度で編集されている。全体を大きく「上巻」と「下巻」に分け、「上巻」には生活詠を、「下巻」には「時局の歌」を集める形になっている。駿河台の杏雲堂病院入院から阿佐ヶ谷への転居までという生活上の変化がくっきりと浮かび出る…

 1935(昭和10)年6月、歌誌「多磨」を創刊・主宰
 1937(昭和12)年11月に眼底出血、駿河台の杏雲堂病院に入院
 1940(昭和15)年4月、杉並区阿佐ヶ谷に転居
【文献】『白秋全集 12』北原白秋著、岩波書店発行、1986年11月10日発行

西郷隆盛(南州翁)とお灸

【本文】十七 西郷南州翁
 余は西郷南州翁とは、陸軍省で会議などの外に妙な機会で親しく逢うた、明治五年頃だと思ふが、余はその前年大学から陸軍に転じて後であるが、西郷翁が全身肥大(ふと)りて疾歩(しつほ)するにも堪えぬまでに肥(ふと)つたのを、明治天皇が御覧(みそな)はされ、この肥(ふと)りは尋常の肥りに非ず、病的ならんとて御案じ遊ばされ、時の大学医学部の内科教師独逸人ドクトルホフマンに診療せしめよとのせあつて、その時ホフマンに伴うて、大学大助教司馬盈之(しばえいし)君と余とが同行して浜町の薩摩屋敷に翁(をう)を訪(と)うた、その時翁は灸をすゑて居(い)るからとのことで、一室に暫時(ざんじ)待って居た。すると翁は衣流(きなが)しのまゝで、羽織も着(ちゃく)せず出て来た、此(この)ドクトルホフマンといふ人は中々(なかなか)駆引(かけひき)のある人だし、又独逸の海軍軍医だ、一方は陸軍大将であるのみならず、 
 天皇陛下の勅旨(ちょくし)によりて往診するのであるから、ホフマンは頗(すこぶ)る儀礼正しく応対した、翁は平気で直ちに手を伸べて握手した、すると司馬君が通訳で、ホフマンが、今日(こんにち)は 天皇陛下の仰(おふせ)によりて、貴閣下を診察するの光栄を有(いう)するといふやうな事を述べた、その時翁は尊来(そんらい)の段誠に有難いが、余はさへすれば健康で居ると信じ、今日(けふ)もを据ゑて居たので、別に先生の診察を受ける迄もないからとて、半分断りのやうな事を述べられ、司馬君がそれをホフマンに通訳すると、ホフマンは厳然として、拙者は 天皇陛下の仰(おふ)せを受けて診察に来たのだから、診察を済(すま)さぬ内は帰らぬ、閣下若し診察を受けぬといふなら 天皇陛下にその事を奏上されよ、余は閣下から断られる事を聞く耳を持たぬ、といふ意味を述べた、すると翁は直ちに是は全く拙者の誤りである、何とも恐れ入つた、直ちに診察を受けますというて、診察を受けられ、ホフマンは診察後服薬の方箋を与え養生法を示し、又自分が好むならをすゑても宜(よ)いとのことを話した、其処方はカールス塩を日々服用するのであった。診察終わりて、ホフマン氏は司馬君と共に帰り、余は後に残りて暫く話した、その時翁は、西洋のお医者はひどい、人を丸裸にした上で槌(つち)でコツコツと敲(たた)くとはひどい、といふて笑ひ語られた、これは、此(この)ホフマンといふ人は、独逸でも有名な大家タラウベの門人で、打診聴診は殊更(ことさら)得意であった。其後(そのご)二回ホフマンに伴(ともな)うて行つたが、翁は背に多くをすゑることを好み、両度ばかりは、の最中に見舞つたのであつた、其後越中島(えっちゅうじま)で陸軍の天覧演習を行(おこな)うた時に、翁は近衛都督として出場され司令官であり、余は軍医長であつた。その時包(糸+朋)帯所の位置について、司令官に距離や位置を申立(もうしたて)たら、専門の事は貴官に一託するから、一切相談に及ばぬ、よきように実行されよとて、一言も挿(はさ)まれなかった、陸軍省の会議などでも、一言も述べられた事はない、いかにも鷹揚であつたが、一見犯すべからず威と、親しむべき愛とがあつた。
【文献】『耄碌』子爵 石黒忠悳(ただのり)著、実業之日本社発行、大正13年8月20日発行、大正13年10月10日四版
[注]石黒忠悳。弘化2年(1845)~昭和16年(1941)年4月26日、明治時代の医師。日本陸軍軍医。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵。学位は医学博士。

長塚節(ながつかたかし)ー鍼の如く

【本文】鍼の如く 其四の三
構内にレールを敷きたるは浜へゆく「みちなり、雑草あまた茂りて月見草ところどころにむらがれり、一夜螽斯(きりぎりす)をきく

石炭の屑捨つるみちの草むらに秋はまだきのきりぎりすなく

きりぎりすきかまく暫(しば)し臀(しり)据(す)ゑて暮れきとばかり草もぬくめり

きりぎりすきこゆる夜の月見草おぼつかなくも只ほのかなり

白銀(しろがね)の鍼(はり)ごとききりぎりす幾夜(いくよ)はへなばしかるらむ

月見草けぶるが如くにほへれば松の木の間に月欠けて低し

【長塚節の人間像と文学】平輪光三
 …明治三十七年の「雑詠十六首」から、明治四十年の「初秋の歌」「晩秋雑詠」に至って、所謂節の写生の歌の確立を見たといってよい。…この頃から、節は作歌から遠ざかり、もっぱら散文、特に小説の執筆に専心した。短編小説「芋掘り」から「土」に至るまで、小説家としても後生に認められる作品を書いたが、この労作による無理がたたって、節は当時不治の病と言われた咽喉結核の病気診断による打撃が、再び節の作歌の動機となり「病中雑詠」(明治四十四年作)の得意な作品を産み、許嫁黒田てる子との悲恋が、節晩年の傑作「鍼の如く」(大正三年)を残す原因となって、歌人長塚節を不朽にしたのであった。…節はこの頃、後進の斎藤茂吉、古泉千樫、土屋文明、中村憲吉、島木赤彦などの歌を評して、「「冴え」とか「気品」とか、日本古代美術の啓示によって到達した芸術上の信念を主張して、それを節自身の作歌の上にも表現した。「鍼の如く」二百余首は、その意味で、節短歌の真髄を発揮した、代表作となったのである。
【文献】『正岡子規 伊藤左千夫 長塚節集』現代日本文学大系、著者正岡子規 伊藤左千夫 長塚節、筑摩書房、昭和46年10月20日初版第1刷発行、昭和49年10月30日初版第3刷発行

落語とお灸ー強情灸

「(呼びかける)おぅ、どうしたい?」
「よう、どう・・・」
「うちの前ィ黙って通るなィ、寄っていけやこんちくしょう、こんとこ鼻の先みせなかったじゃねえか、えぇ?オゥどこへ潜ってたよゥ」
「俺かァ?」
「うん」
「俺ァ峰の灸、据えに行ったんだよゥ」
「えェ?峰の灸を?へぇ、この野郎また大変なものを据えにいきゃあがったなァ、え?俺は据えようと思ってたんだ。うん、なんたって熱いという評判だから、じゃァ俺は先行って一遍据えてやろうと、こう思ってたけどてめえに先を越されちゃったなァ、口惜しいなァ、えェだけども熱いったって大したことあるめえ、え?たいしたことあるめえ・・・?」
「大したことあるめえじゃねえ、大したこと、ある」
「あるか?」
「ある」
「大ありだ」
「そんな熱いのか?」
「そんな熱いのかたってねェ、お前なんぞそんなところへ行くんじゃないよ、えェ?恥を搔きに行くようなもんだから。おめえなんざ据えられっこねえから」
「本当なのかい・・・?」
「そうさァ」
「ふゥん、じゃあこっち上がってから、その話をしねえな、な?俺聞いてやるから、どんな熱いんだか、たかがじゃねえか・・・」
「たかがじゃねえかなんておめえは言うからいけねえんだよ、うん、誰だってそう思うんだ、たかがだァと思うだろう、えェ?そいつをおめえ、据えられてみなよ、えェ?小さなこんなだからなんでもねえと思うのが、ひゅッと火を点けられると(力んで大声で)その熱さなんてえのはおめえ、気の小せえやつなんかァ、きゃぁァ・・・あァって悲鳴をあげて、飛び上がって天井こわして何処か行っちゃったやつがあるんだから、もう・・・」
「ずいぶん熱いんだねェ」
「熱いのよォ、そいつの俺が据えてきたと言ってんだ、どうだ(威張る)」
「おめえがか・・・?」
「うん」
「じゃァなにかい?空いてんかい?」
「それが混ンでえるんだよ、ねえ、身体に効くから行くんだ、な?あすこィ入ってみるってえと、みんなこうゥ苦しんでるやつを見ると、やっぱり据えそびれちゃうんだなァ、溜まっちゃって仕様ふぁねえから、番号で据えることになってるんだ、うん、俺の番号をひょいと見るってえと、『への三十六番』ときてえる、え?俺が愚痴愚痴言ってるとな、俺のそばにいたな女がいるんだよ、年頃二十ゥ・・・そうだな、四、五だなァ、いい女だってぜえ」
「そんな女かァ?」
「そんな女かァッたって、こう髪の細い色の白い、おい、頭のてッぺんかた足の爪先まですうゥ・・・うゥッとこうなってやがってな、おめえ・・・」
「なんだ、うるせえな、おめえ」
「あァおめえ、そうなァ、うゥもう隙のねえ女ってんだ、空ィてんのは鼻の穴ぐれえのもんだ、うん、その女がな、俺が愚痴をこぼしてるってえと、ひょッと俺を見やァがって、『あなたはお急ぎなんでございますか?』ッてこう訊くからね、『ええ、ちょいと急ぐんですがねェ』『どうでございますか、私は先程から据えようと思ってるんですけども、熱いんで据えそびれているんでございますよ、もしなんなら、あなたさまとお札替りましょうか?』なんて言やがんの・・・『ええ、済ィませんが替ってあのゥくんなはいな』てんで替ってもらったから、俺の番になっちゃったなァ」
「うまくやりゃがったな、こん泥坊ァ」
「なあんだよ泥坊だなんて・・・うん、それから俺据えるとこへ入ってたんだ」
「おめえがか?」
「うん、するってえとな、こっちに八人、こっちに七人ぐらいずうゥッと待ってるやつがあるんだよォ、つまらねえ顔したやつがよ、ええ、そいつの真ん中を俺が手拭いをこういう様子に持って、『ごめんなはい、ごめんなはいよ、ちょっとごめなはい、ちょっとごめなはい』ッてずっと俺がこゥ入ってくてえと、みんなの眼が俺よりも背中をずうッと見てやんのよ、ええ?そィから俺ァみんながこゥなんか言ってやんのよ・・・『この人は我慢できますかなァ』『さあどうですかなァ』なん言ッてやんのよ、そいつが耳に入っちゃったから癪にさわっちゃった、うん、そィら俺はつうッと据えるとこィ行って、ぐうゥっと尻をまくった、胡坐けィて、ええ?そィから俺ァ肌ァ脱いてこゥ待ってた、え?するってえと据える野郎が、つッと入ってきやがった・・・『ええ、このはお熱うございますが、身体のためなんでございますから、どうぞ我慢なすって下さいまし、どうかすると途中で止める方がございますから、ひとつ我慢なすって頂けますでしょうな・・・』、こう言うン・・・『なんだい、そりゃァ?』『ですよ』『なにを言ってやんでェ、どィだけ熱いったってじゃねえか、べらぼォめェ、背中で焚火でもしやしめえし・・』、こゥ俺が言った、えェ?だもんでみんな驚きゃァがった、うん。
『どういうに据えるんだい?数ゥそ言ってくれ』『左様でございますな、十六ッつ両側、三十二据えるんでございます』『ふゥん、それっきりか、てやんでェ、じゃァいっぺんに据えて貰おうじゃねえか』とこう俺言ったんだ、ここをおめえよく聞いてくんなくちゃいけねえよ、『いっぺんに据えてくれェ』、ひとつでさえおめえ飛びあがっちゃうぐれえの物だ、三十二いっぺんに据えろってんだ・・・『そんな乱暴なことして、よろしいんですかな?』とこう言うから、『俺の身体だから据えてくれェ』、こう言ってやったんだ、まさか据えやしねえと思ってよ、うん・・・
『俺の身体だ、据えてくれェ』こう言ったら、『うわ、左様でございますかァ』ッてやがってね、この野郎また人の言うことをいやに信用する野郎でね、ええ?俺の背中へこゥくっつけ始めやがった、え?三十二、え?もうこっちも仕様がねえ、なァ、俎板の鯉だ、どうなるものかァ、と思って、え?手拭いをぐっとこゥ、ちょっとこう絞っといて、股の間へくうッと俺がこうぐうッと斜の構えになったなァ、いい恰好だッてそう言ってたよ、先代の羽左衛門に似てるとかなん言ッてたよ・・・そんなこたァどうだって構わねえけど、それをぐうッとこうやって、みィんながこう見てやがン、え?するってえと線香に火を点けやがって、え?すっかりくっつけて、『よろしいんですなァ・・・?』『いいよ』『はァ左様ですか・・・』、つうゥ・・・ううゥ(に火を点けて)、早ェんだそいつがまた慣れてやがる、ええ?ひとつでさえおめえ飛び上がっちゃうやつを、三十二いっぺんに火を点けたその熱さてえのはなかったね、俺、背中に爆弾が落っこちたかと思った・・・どうも仕様ァねえからさ、俺はこうゥと我慢してえるんだよゥ、ねえ、今更ンなって表へね逃げて行かれるかよォ、ええ?背中が煙が出て表へ逃げて歩いたりゃァ、かちかち山の狸みてえだから、そんなことができねえから俺が、うッと我慢してるてえと、不動様みてィに火ィ背負ッちゃってんだからな、え?うゥうとこうやってるってえと、もう大勢まわりを取り巻きやがって・・・『なんてこの人は我慢強い人なんでしょう』『まあ、こういう人が男の中の男ですな』なん言ッてやがんのよォ、俺ェ写真に撮ッときゃよかったと思ってン・・・俺におめえ番号とっ替えてくれた女なんざな、みんなの間からこゥ覗いて見てやがって、俺が据える恰好みて、にこと笑いやがって、『まあ、なんてこの人は我慢強い人でしょうねェ、本当に男らしいわよ、私だっていつまで独りじゃいられないんだから、こういうような人を我が夫に持ちたいわねェ・・・』なんて思ってやしねえかと思って・・・」
「なあァんだよ、いやな野郎だねこいつァ、これッばかりの据えてきやがって、てめえばかり据えんじゃねえぞォ、誰だってァ据えんだい、なァ?俺だっていま据えようと思ってたんだ、(上手奥へ)ァ持って来ォい・・・ちきしょうてめえ一人で据えてる気でェやがる、なにを言ってやんでェ、たかがおめえ、こんな豆ッ粒みてえな据えやがって、なあァんだィ、俺のの据えかた見ておけ、こうやって・・・(をほぐして前にひろげて)、みんな散らかしちゃうんだ、こうやってな・・・あ、こうやって据えるんだ、え?よく見ておけ、俺のを(ほぐしたやつを一つに固めて)なァ、こういうふうにこゥ、腕の上へこう盛るんだよ、こうやってね、こう、山のように・・・(右手で左腕の二の腕に盛って)どうだい、これだァ、なァ?」
「なんだい、アイスクリームにたいなもの拵えやがって・・・載ッけとくだけかァ?」
「載ッけとくだけじゃねやィ、これに火ィ点けるからッてんだ、うん、よく見ておけ、ッてやつはな、え?皮ァ焼いて肉を焼くんだ、うん、おぼえてやがれ本当にこゥ・・・(扇子の先で火をつけて口で吹く)見ろこゥ、こうこれァ火が点くだろうなァ、ずうッと煙が出てゆくだろう、浅間山みてえに・・・こィを俺が・・・なァ、へへへ、こいつを俺が、あはァこゥ、煽ぐんだから、こっちは・・・(扇子でばたばた煽いで)蒲焼だ本当にィ・・・なあんだ、これじゃなんともねえじゃねえか、えェ?こんな据えやがって、熱いのなんのッて言ッてやがる、俺なんざな、裸ンなって腹ン這いんなってな、背中でもって堅炭熾して、なんか煮られたって、驚かねえんだよ、俺ァ・・・なんだいこんななんぞ、笑わせやがら本当に、え?おい、えへへへ、なァおゥ、え?石川五右衛門という人を知ってるかァ?五右衛門という人はな、釜ン中へ油ァ煮たッてて、その中へどぼゥんと飛び込ンで、にこッと笑って、辞世を詠ンでらァ・・・『石川や浜の真砂は尽きるとも、むべ山風を嵐というらん』なんて、てめえなんぞそういうこと知るめえ本当に・・・(次第に熱くなって)こゥううゥ・・・なァ八百屋お七をみろ、八百屋お七を、え?島田鬌でもって火焙りになってらァ本当に、なにをッて、たかがこれッばかりのじゃねえか、て、てめえなんざ・・・(熱いのを必死にこらえて)うゥうゥ・・・なんだッてんだい、えェ?たかかが・・・えへえ、たかがだろう本当にィ、これッばかりの据えやがって・・・なにを言いやがる・・・うゥうゥ、やおおやや・・・八百屋お七をみろ本当に・・・石川五右衛門や・・・(遂に我慢できなくなりを払いのけて)あァあははははは・・・はァ、うわあッ、石川五右衛門・・・うえァあァ・・・あァッ、石川五右衛門・・・」
「なあァんだィ、石川五右衛門どういう・・・」
「石川五右衛門も熱かったろうなァ・・・」
【文献】『五代目古今亭志ん生全集第1巻』編者:川戸貞吉・桃原弘、弘文出版発行、1977年発行
(註)『強情灸』は古典落語の演目であるが、元々は上方落語『やいと丁稚』の演目です。