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二日灸(二十日灸)資料集成

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逆子(骨盤位)の鍼灸治療

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切診(触診)のコツ

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ー灸法の民間傳承ー二日灸(二十日灸)資料集成

まえがき

 本邦では、二日灸や二十日灸、寒灸や土用灸などの歳時灸が保健養生法として長く伝承されてきました。このような歳時灸も古く中国から伝来したものですが、本邦において独自に展開されてきました。特に二日灸は二月二日と八月二日の両日行われ、二十日灸は一月二十日の小正月に行われました。二日灸は関東以西に多く、二十日灸は関東以北に多いなど、その土地の他の習俗と融合して伝承されてきたのがわかります。
 本稿の原著は、第12回間中賞(平成10年度)の応募論文です。残念ながら受賞はできませんでしたが、「歳時として歴史的に民間で灸法が根強く伝承されていた。それを資料として集められた貴重な業績と思います。」との選評をいただきました。その後、原著に改正を加えて平成19年1月に、―灸法の民間傳承―『二日灸(二十日灸)資料集成』 (2000年.私本.)を発刊しました。原著の構成は下記の通りですが、246頁にわたる大部のため、第一章~第三章は1~3月の3ヶ月間、第4章は4~6月の3ヶ月間、第5章は7~9月の3ヶ月間、第6章は10~12月の3ヶ月間に分割して掲載いたします。なお、切り替えのアップロード後、インターネットで検索できるまで若干の日にちがかかると思いますが、ご了解ください検索できない場合は、「艸寿堂」で検索して→著述Top→「二日灸(二十日灸)資料集成」へと進んでください。
 また、引用した【資料図絵】は著作権を侵害する恐れがあるため、掲載いたしません。

-灸法の民間傳承―「二日灸(二十日灸)資料集成」(4

第六章「二日灸(二十日灸)通論」

■[1]民俗学における二日灸

①年中行事の二重構造
 民俗学において二日灸に対する関心は、二月二日と八月二日の両日に、半年ごとに一年に二度も行われることに向けられている。田中宣一は「複雑な様相を呈しているわが国民間年中行事の構造を考えるにあたり、年間の行事の配置・構成の上で正月(一月)と盆(七月)の諸行事に多くの類似・対応の認められることは、はやくから指摘されている。さらに二月と八月、六月と十二月の行事にも類似するものの少なくないことから、現在のように一月から十二月までを一単位とするのではなく、一月から六月まで七月から十二月までというように、一年を両分し、同じ行事を半年ごとに繰り返すことが年中行事の基本的原理として存在していたのではないかとされている。これは、年中行事の二重構造とも、両分性、二期区分、二分性などとも呼ばれているもので、民俗学の年中行事研究でしばしば説かれてきたことである」といい、二重構造は年中行事の基本原理であると説明している(註1)。
 一年を二期分割する原理を最初に指摘したのは折口信夫といわれ、昭和四年信州での講演で、「六月の末から七月にかけては、年の改まる時である。日本では正月から十二月までを一つゞきに一年と考へないで、六月を境に、一年を二期に分けて考へた。江戸時代には、作物が思はしくなかつたり、世間の景気が悪かつたり、悪疫が流行したりした時には、村中が申し合せて、正月をし直すことがあつた。其を仮作正月と言ふのであるが、これは近世に起つたものではなくして、ずつと古くからあるのである。年に二度の収穫をする地方の人々には、一年に春が二度来るのである。」と主張している(註2)。
 昭和十七年に『民間暦』を著した宮本常一は、「正月が大切な一年の変り目として考えられているのに対して、盆の一五日もそういう日ではなかったかと思う。盆は今では仏を祭る月になっているけれども、その仏教的と思われる行事の中にも実はそうでないようなものが多い。正月の松迎えと盆の盆迎え、年徳棚と盆棚、正月のオミタマ様と盆の無縁仏、正月一五日のトンドと盆の柱松或は阿波地方の盆のトンド小屋の如き、名は違うけれどもその形式は甚しく相似ているのである。そして特に正月と盆を相近いものであると感じたのは薩南の宝島においてであった。今日一年として区切っているものも古くは或は盆及び正月の二つの区切りがあったのではなかろうかと思われる。…かくの如く見て行くと、日本における古い行事は、六月と一二月の晦日を境にして折半し、その各六カ月中に行なわれる行事も互いに相似ていたらしいのである。つまり、支那よりの暦によって春夏秋冬の四季の概念の入り来る以前においては、もともと夏と冬とに大きく分けられていたのではないかと考える。」と、暦法が導入される以前においては、六月と十二月の晦日、或は正月と盆で一年が区切られていたと述べている(註3)。
 二日灸を例に、二月と八月の両分性を説いたのは平山敏治郎で、昭和三十一年十月の第八回日本民俗学会で発表したものを、「年中行事の二重構造」としてまとめ、従来の正月と盆の類似に加えて、二月と八月の二日にエトスエ(灸をすえる)を行う地域のあること、社日や彼岸が二月と八月で類似対応することを説いた。「さて正月と盆によく似た行事があり、一年に二度も同様な習俗がくり返されることが明らかになると、このほかにもなおおなじ関係をもつ行事があることも次第に注意されるようになった。『歳時習俗語彙』などによって検出すると、以下のごとき諸例があった。肥前の島原半島の山田村では二月と八月との二日にエートスエといって灸をすえる日があった。すえぬ者にも一般に休日であった。またこの日は若者の寄合いの時でもあったという。肥後の下益城郡でも、この両度のキュウスエビは休みであった。長門の大島でも、二月と八月との二日をヤイトビといって、以前は必ず小児に灸をすえたといっている。」と二日灸に言及している(註4)。
 このように一年は、一・七月の正月と盆、二・八月の春秋の社日・彼岸、三・九月の雛祭りと重陽の節句などのように両分され、年中行事は半年を隔てて類似対応していることが多い。
(註1)『年中行事の研究』田中宣一著、桜楓社発行、平成4年7月20日発行、303頁。
(註2)『折口信夫全集十六』折口信夫著、中央公論社発行、昭和30年1月発行
(註3)『宮本常一著作集9「民間暦」』宮本常一著、未来社発行、1970年3月31日発行、97頁。
(註4)『歳時習俗考』平山敏治郎著、法政大学出版局発行、1984年2月10日発行,163頁 。
②正月の構造
 一般に正月といっても、元旦から三が日まで、七日の松の内まで、或は一月末までなどと、単純に正月を限定することはできない。さらに、正月には一月一日を中心にした「大正月」、一月十五日を中心にした「小正月」、一月二十日の「二十日正月」、二月一日の「二月正月」などがあり、正月の構造は重層していて簡単に区分することができない。こういった正月の重層構造はなぜ起こるのであろうか。暦法が発達する以前は、暑さ寒さをはじめとした自然の移ろいを肌や耳目で感じ、季節の変化としてとらえていた。自然の変化の中で大事なものは、一つは太陽であり、一つは月であった。特に祭りごとをを中心とした歳時習俗は月の満ち欠けを基準として発達したという。
 月の満ち欠けの中で、いちばん明瞭な月の形は満月であり、古くは一か月を満月から次の満月までの間として区切っていた。満月を〃望〃といい、月のかすかな初現を〃朔〃といっていた。柳田國男は「ツイタチは即ち月の初現であつて、強ひて見ようとすれば新月の縷の如きものを、西の山の端に望み得ぬことはなかつたが、尚満月のまん丸く、夜すがら空を行く著しさには如かなかつた。暦の推理には未だ習熟せず、主として天然の観測に依つて、季節の移り變りを知つた人々には、二者何れが標準に採り易かつたかは、深く論ずる迄もないことゝ思ふ。その上に作法の色々の點で一致した盆の月即ち秋の第一次の望の夜と、正月十五日の前夜ならば、ちやうど一歳を両分することになるのであった。會つては小正月のみが村の正月であつた時代であつたといふことは、もう假定してもよさそうである」と言って、小正月が本来の正月であることは、既に定説になっている(註1)。
 そして大正月の出現とともに、神事は大正月に移り、農事に繋がるものが十五日の小正月に残されていったとされている。さらに、「二十日は多分十五日正月に對するものであつたろう」と、小正月とのつながりを規定している(註2)。
 従って、一月一日の大正月を朔正月といい、十五日正月を望の正月ともいう。いわゆる小正月は、十四、五日から二十日までをいい、二十日正月はシマイ正月、或は正月の年肴の残り物の骨まで食べてしまうという意味で骨正月などともいわれ、正月じまいの行事がいろいろとある。
 一方、正月を一月末迄ということもあり、三十一日を晦日正月、二月一日を二月正月、送り正月、太郎の朔日、一日正月、古ふて正月、重ねの正月、二正月、小松正月など、実に多様な呼び名がある。これはめでたい正月をもう一度祝うという気持ちが込められているが、それ以上に前年厄年の者が新年を迎えて、厄落しを行うための取越正月の意味があったといわれている。平山敏治郎は「新年の儀式を臨時に重ねておこなう場合は上述の仏の正月のみには限らなかった。奥州八戸市附近では二月一日を二月年の年取りと称して、厄年の人びとはもう一度仮年をとる。正月と同じ支度をし、ことに四十二歳の大厄にあたると煤払いまでしてこの年祝いをおこなった。…二月一日を中心にして厄年の不安を祓い除く作法をおこなうものであった。すなはち厄年に入ってから速やかに営むものであったらしい。そのため新年の行事がすんで直後に、初めての朔日が選ばれたのであろう。一日は月たちかえる日として祭をおこなうに適していた。…厄年にあたる者が右に述べる諸例のごとく、二月一日に正月の儀礼を重ねて営んだことは、五九の祝い、年祝いなどと称しても、この年廻りを祝賀するものでは決してなかった。むしろ本儀は年取り直し年重ねにあり、この不運な年を仮に設けた正月作法によって早く送り、年歯を新たに加えたことを自他共に納得し承認することにあった。…その作法として正月の儀式が用いられたのである。」というように、二月一日は厄払いの日であった(註3)。
 和歌森太郎は『日本風俗史考』で「厄年などの迷信にとらわれた人は、数え年で新年に一つ年をかさねて厄年になった場合、さらに二十日にもう一つ年を取ることにして、早く厄年をのがれようともしてきた。だから二十日正月を年越しといったりしている。東日本では、そうしたことを二月一日にするところが多いが、九州には二十日正月を期に年越し、年がさねをする地方がある。」というように、二十日正月も厄払いの日であった(註4)。
 さらに、二月一日は、暦法以前に一月十五日を望の正月とした時の小正月に当るという説がある。「二月一日の行事…関東地方で広く行なわれている次郎朔日もまた、元日を太郎としての発想かと思われる。しかし、この日を太郎朔日とする地方が九州四国にある。これは所謂暦法伝来以前の望月を朔日とする慣習とそれ以降の朔日の観念が混同し、二月一日を以て初の朔日と考えたものであろう。暦法伝来以前にはこの日が、現在の小正月的祝日であったかも知れない。『綜合民俗語彙』によれば、岡山県児島郡・小田郡・浅口郡などでは、旧二月一日を小正月と呼んでいるそうである。速断はできないけれども、暦法以前の小正月の存在を思わせるものがある。また鹿児島県等では、この日を送り正月と呼んでいるが、対馬地方の送り正月が正月十五日(小正月)であることを考えると、一そうその感が強い。岩手県東部では三日正月と呼んで三日休む風習があり、その前夜をミソカ正月と呼ぶところが宮城・新潟等にある。昔ノ正月・旧正月などと呼ぶところは富山・石川にある。(日本民民俗地図)以上のことは暦法以前には二月朔日が小正月であったという可能性を極めて高いものとしている。要するに二月朔日のいろんな呼称は、望月(現正月十五日)を正月元日とした暦法以前の慣習の残存であり、それが暦法の伝来による混同となって生じたものと思われる。」というように、正月の構造は二重にも三重にも重層している(註5)。
 したがって二十日正月は正月じまいの日で、シマイ正月、或は正月の年肴の残り物の骨まで食べてしまうという意味で骨正月などともいわれている。二日灸は正月の終わる日を待って初灸を行った行事で、青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島・茨城・栃木・群馬・千葉・東京・山梨・長野・新潟・石川・鳥取・島根・愛媛・高知・鹿児島などの県地方で行われていた。お灸の方法も実際にお灸をすえる以外に皿灸やすり鉢灸、或いはお灸をすえる真似事をする地方もある。
特に岩手・宮城・秋田・山形・長野・新潟などの関東以北の地方では、人間だけでなく牛馬・家畜・炉の鈎・戸障子、入口の敷居の上・神棚、仏壇・農具などにもすえた。このことは、大正月の出現後に神事は大正月に移り、農事に繋がるものが小正月に残されていったということから考えると、牛馬や農具にまでお灸をすえる風習が米作農業を行う地方に伝承されてきた理由といえる。また、一月三十一日を晦日正月といい、二月一日は二月正月・送り正月・太郎の朔日・一日正月・古ふて正月・重ねの正月・二正月・小松正月など実に多様な呼び名がある。これはめでたい正月をもう一度祝うという気持ちが込められているが、それ以上に前年厄年の者が新年を迎えて、厄落しを行うための取越正月の意味があったといわれている。また、二月一日は、暦法以前に一月十五日を望の正月とした時の小正月に当るという説もある。従って、二月二日は二月正月の祝いを終えた次の日で、厄落としを兼ねてお灸をすえるのに良い日であった。滋賀県下の今津町・朽木村・安土町・山東町では、2月1日に厄のがれの初灸をした。
(註1)『定本柳田國男集 第十三巻』筑摩書房発行、昭和44年6月20日発行、285頁。
(註2)『定本柳田國男集 第十三巻』33頁。
(註3)『歳時習俗考』平山敏治郎著、259頁。
(註4)『日本風俗史考(潮新書60)』和歌森太郎著、潮出版社発行、1971年3月25日発行、107頁。
(註5)『北浦村三川内の歴史と民俗―研究資料第四集‐山村調査報告書』宮崎県総合博物館発行、昭和48年2月1日発行、31頁。

■[2]二日灸の原由

①天灸
 二日灸の原由を中国の「天灸」に求める説がある。『荊楚歳時記』には、「八月十四日(歳華紀麗所引荊楚記には八月一日に作る)、民並びに朱水(墨)を以て(小)兒の頭額に點し、名づけて天炙となし、以て疾を厭ふ」とあり、『玉燭宝典』には、「附説に曰く、世俗、八月一日には、あるいは朱墨を以て小児の額に点ず。名づけて天灸と為し、以て疾を厭ふなり」とあるように、南北朝時代に既に行われていたという。藤原佐世の「日本国現在書目」によれば、清和天皇の時代というから、平安時代の858~876年代には、「玉燭宝典」が日本に伝わっていた(註1)。
 『荊楚歳時記』の日本伝来について、守屋美都雄はその著『中国古歳時記』の中で、川瀬一馬の論文「上代に於ける漢籍の伝来」と坂本博士の論文「荊楚歳時記と日本」から「荊楚歳時記」が奈良朝時代にすでに伝来していたことを紹介している(註2)。
  『日次紀事』八月十四日の項に、「天灸 中華歳時記謂。此日以朱印点小児額。名為天灸。以厭疾也。今京師祇園社頭老婆以朱印小児額。称狗子。然則免疫云。又倭俗、春二月・秋八月共二日、大人小児各点灸。是称二日灸。是亦天灸之微意乎。」と、天灸と二日灸との関係を述べているが、実のところ天灸と二日灸との関係は定かではない。鈴木棠三著『日本年中行事辞典』には「日次紀事によれば、中国の書物に八月朔日に針灸をするとよいと記してあるのを、誤って二日としたものだとあるが、いかがであろうか」と疑問を投げかけている(註3)。
  「天灸」については、『漢方用語大辞典』には、「薬物発泡灸、自灸、冷灸ともいう。毛莨(きつねのボタン)などの植物(毛莨、石竜苪、鉄綫蓮、鉄脚威霊仙など)の新鮮な全草を搗いて糊状にし、直径4cmのさかずきにいっぱいに入れ、おさえつけないで、一定の穴位上に貼布して固定すること約一時間、病人が局部に焼灼感または痛痒感を覚えたら取る。この時皮膚に大きな深黄色の水疱を生じる事があり、消毒したピンセットで水疱を破り、局部に消毒剤を塗って創口を保護する。この方法は多く瘧疾・哮喘・関節炎などの治療に用いられる」(註4)。
 明・季時珍撰『本草綱目〈巻五水部〉』の「露水」拾遺の項に、「百草頭上秋露.未晞時収取.愈百疾.止消渇.令人身輕不饑悦澤.別有化雲母作粉服法.臓器・八月朔日収取.摩墨點太陽穴.止頭痛.點膏肓穴.治癆瘵.謂之天灸.時珍」とあり、宋・王執中撰『針灸資生経〈目録下 第三〉』の「瘧 脾寒」の項に、「郷居人用旱蓮草椎碎。置在手掌上一夫四指間也・當兩筋中。以古文錢壓之。繋之以故帛。未久即起小泡。謂之天灸。」と記されている。堀元厚著『灸炳要覧』(享保九年刊)の「天灸法」の項には、「郷‐居ノ人截レ瘧用二旱蓮草ヲ一椎碎。置テ在二手‐掌ノ上一‐夫ニ一當二兩‐筋ニ一〈本草綱目作三男ハ左
女ハ右置ニ二寸‐口ノ上一〉以二古‐文‐錢ヲ一壓レ之繋ニレ之以ス二故‐帛ヲレ未ダレ久即起二小泡ヲ一謂二之ヲ天‐灸ト一甚‐効アリ〈資生経〉。山‐人截レ瘧采二毛莨草ヲ一按二‐貼寸‐口ニ一 一‐夜作レ泡如レ火燎カ故ニ呼テ爲二天‐灸自灸ト一〈本草綱目〉。八‐月朔‐日収二‐取百‐艸頭上ノ露水ヲ一摩レ墨ヲ點シテ二太‐陽ノ穴ニ一止ム二頭痛ヲ一點シテ二膏肓ノ穴ニ一治ス二労瘵ヲ一謂二之ヲ天‐灸ト一〈同上〉。」と記されている(註5)。
 このことから、「天灸」には、キンポウゲ科でアルカロイド毒を持つキンポウゲやキツネノボタンなどの毒刺激により水泡を発生させる〃薬物発泡灸〃と、露水を使って摺った墨を太陽穴や膏肓穴に点ずる〃露水墨灸〃の二つがあることがわかり、「本草綱目」にいう〃露水墨灸〃が「荊楚歳時記」に示す〃朱墨天灸〃に近いものといえる。また、現代中国においては、『針灸学(三)刺灸法』の「灸法の分類〈天灸〉」の項に、「毛莨灸、斑蟊灸、旱蓮灸、蒜泥灸」などの薬物発泡灸が記載されている(註6)。
 わが国においては、木下晴都著『鍼灸学原論』の「無痕灸の種類〈墨灸〉」の項に、「黄柏5匁を水180ccに入れて半分になるまで煎じ、これに和墨を入れて濃液とし、更に麝墨4g・竜脳8g・米の粉8gを混じ、皮膚に塗布して、その上に灸をする.あるいは麝香4g・煤煙適宜・ヒマシ油適宜・竜脳4gを混和して艾に浸し、大豆大に丸めて皮膚上に置き、その上に灸をする.応用は神経炎・リウマチ・扁桃炎など.(山本新梧:日本鍼灸学教科書,中篇、1913)」、〈紅灸〉として「べに(熱帯産が良いという)を両乳房 ・臍・環指の爪にぬる.囟会部を直径30mmくらい毛をそり、紅で天灸と書き、環指の爪半月に紅をぬる.爪半月がなければ爪全体にぬる.応用は小児病・腹膜炎・肋膜炎.(森本豊州:鍼灸治療雑誌、3-8,1957)」との報告があって、これらは「荊楚歳時記」及び「本草綱
目」で云う「天灸」の変形と理解できる(註7)。
 しかし、八月朔日或は八月十四日に行われる「天灸」が、二月二日及び八月二日に行われる「二日灸」の起源となるかどうかの疑問は解けていない。ところで、西角井正慶編著『年中行事辞典』には、「わが国でも、生児の初宮参りなどに、額に紅や鍋墨などで×・+などのしるしや、犬という字などを書く風が各地で行われていて、これをアヤツコ・ヤスコなどの名で呼んだ。」とある(註8)。
 また「犬」については、速水春暁斎著『諸國図絵年中行事大成』文化三年刻成、には「狗の子は天灸より起りて天の字の上迄横に付しを犬の字に見まがひしよりして恐らくは天灸の微意ならんかし。」と述べているように天灸は「犬の子」或は「狗の子」となり、二日灸とは別な形で伝承されていると考えた方がよいと思われる。(註9)
(註1)『玉燭宝典 中国古典新書続編8.』石川三佐男著、明徳出版社、昭和63年4月30日発行
(註2)『中国古歳時記の研究』守屋美都雄著、帝国書院、昭和38年3月31日発行、82頁。
(註3)『日本年中行事辞典』鈴木棠三著,角川書店発行、昭和52年12月20日発行
(註4)『漢方用語大辞典』創医会学術部編、燎原発行、1984年5月発行(「天灸」の出典は「中医名詞術語選釈」中医研究院・広東中医学院合編、1973年)
(註5)『灸炳要覧』堀元厚著、享保九(1724)年刊。(「臨床鍼灸古典全書 第十巻 江戸中期」篠原孝市監修、オリエント出版社発行に掲載)
(註6)『針灸学(三)刺灸法』上海中医学院編、人民衛生出版社発行、1963年12月発行
(註7)『鍼灸学原論』木下晴都著、医道の日本社発行、昭和51年11月10日発行
(註8)『年中行事辞典』西角井正慶編著、東京堂出版発行、昭和33年5月23日発行
(註9)『諸国図絵 年中行事大成』速水春暁斎著、文化三年春刻成。(「日本庶民生活史料集成 第二十二巻〈祭礼〉」編集委員代表 谷川健一、三一書房発行、1979年6月30日発行に掲載)

②社日
 二日灸の起源を中国の「社日」に求める説がある。玉田永教著『年中故事』(寛政十二年刊)には「昔は二、八月の社日に用ひしと云、社日は土地の神を祭る日にて、土と火は五行の相生也」とある(註1)。

 矢部善三著『年中行事考』には「昔は社日(今では暦の關係上三月と九月)にお灸をすゑたそうだが、何時の頃からか二日灸になつた。元來社日といふのは五行の方から云つた土地の神を祭る日で、土と火は五行相生として非常に合つてゐるので、特に灸をすゑる事になつてゐる。この社日の灸が二日灸に轉訛したものだらうが…」と記している(註2)。
 鈴木棠三著『日本年中行事辞典』には、「雑節の一。春分・秋分に最も近い前後の戊の日。…社日は社の祭を営む日の意で、社とは中国で土地の守護神ないしは部族の守護神、またはその祭祀をいった。…社の祭の意義には種々あるが、これを祖霊のよる所と考えて、あらゆる種類の祈願をこめる風もあったが、一般に后土の神として豊熟を祈る祭とされるよになった。期日も、時代や土地によって一様でなく、唐以前には、二月朔日または二月中の不定日、甲の日、丁未の日、盂月(四季の初めの月。この場合は立春と立秋の月)の酉日などの例があった。唐代には、立春・立秋後の第五の戌の日を当てた。」とある。
 中村喬著『続・中国の年中行事』の「土地神誕と社日」の項には、「土地神誕は、実は社の祭りの一変形であった。…土地神誕が社と関係のあることは、清の顧禄がすでに指摘しており、つぎのように説いている。―今日、国の祀典に社壇があり、民間に土地廟がある。社壇は古の国社であり、後世いうところの官社である。民間の土地廟は古の大夫以下が立てた社であり、後世の里社がこれに当る。社は本来、自然神を祀ったものであり、廟は功徳のあった人を祀ったものであるが、これが合体したのが土地廟である。…社の祭は古来、二月の吉日をえらんで行なわれるが、土地神誕の日取りはこれに近い。(『清嘉録』)―社の起源については、叢林崇拝説、土地神説、原始社会における社会的中心としての聖所説など諸説あるが、その初義はおくとして、すくなくとも漢の時代には、土地の神とする考えが行きわたっていた。…社の祭りは、古くより春秋二回行なわれていた。このうち、春の社祭は、顧禄もいうように、ほぼ二月にあった。その日取りは、後漢では二月の午の日、魏では二月の未の日、晉は一月の酉の日、北魏は二月の戌の日などと、時代によってことなり、隋・唐は北魏をついだ。宋は立春後の五番目の戌の日をもってその日とし、元もこれによった。明は二月の最初の戌の日であった。このように、なかには一月にずれ込む場合もあるが、だいたい二月に収まる。社祭の日取りは、上記のように、歴代、干支によっていたため、その月日は、年によってことなった。そのため、時代が下がると、これに不便を感じ、月日に固定させようとする動きが出てきた。そして取られたのが、二月の最初の戌の日に近い二月二日であった。その動きは、明時代にすでにあったとおもわれる。」と記されている(註3)。
 明の建国は1368年で、日本の南北朝時代の正平二三(応安一)年に当り、1644年(江戸時代、正保元年)に清に滅ぼされるまでの二百十七年もの間続いた。以上のことを考察すると、明から清にかけて社日(二月最初の戌の日)が二月二日に固定されるころ、日本においても明の影響を受けて、二月八月の二日に社日が固定された。元来社日というのは土地の神を祭る日で、五行説では土と火は五行相生として非常に合っているので、特に灸をすえると良いといわれるようになり、いつのころからかこの社日の灸が二日灸に転化したものと考えられる。
(註1)『年中故事』玉田永教著、寛政12年刊(「續日本随筆大成別巻―民間風俗年中行事」監修者 森銑三・北川博邦、吉川弘文館発行、昭和58年8月30日発行に掲載)
(註2)『年中行事考』矢部善三著、素人社書屋、昭和4年12月25日発行
(註3)『続・中国の年中行事〈平凡社選書 134〉』中村喬著、平凡社発行、1990年3月12日発行

③出替
 一方、「出替り」について、黒川道祐著『日次紀事』には、「奴僕出 易 。雲嶠類要云。」秦人得本家婢生一子。悪之乞与鄰家。鄰家大富貴、本家貧。後以二月二日取帰後復富、鄰家乃貧。倭俗、始以二月二日、為家僕交代之節。元本于此乎。 八月二日、准二月二日而用之者乎。近世用三月五日。」とあり、出替りが、子供の貸借で貧富を生じた、中国の故事にならって行なわれていることを示している。
 中国では、この風習を「迎富」といい、中村喬著『続・中国の年中行事』には、『なお、この隣家の子を借りる風習、および子によって富を得る伝説は、中和節の「献生子」の風習から、派生したものとおもわれる。唐代のなかばすぎより、二月一日を中和節と称し、その日、春の色にのっとった青い嚢に、穀類や果実をいれ、たがいに贈答しあうしきたりがあった。これを「献生子」という。献生子とは生子を献ずる意味で、生子は豊かさの象徴であり、生子を献ずることによって、その家の豊作を祈るものであった。しかし、献生子を読みかえると、生れた子を献ずる、という意味ともなる。また、豊作を祈ることは、富を祈ることでもあり、ここに迎富とて、隣家の子を借りる風習や、その伝説の生ずる素因があった。二月二日は中和節に近く、その影響を受けた可能性がきわめて高い。』と述べている。西角井正慶著『年中行事辞典』には、「奉公人が契約期間を終えて主家から帰って行き、新しく勤める者と入れ替ること。またその日。地方の事情により一様でないが、12月のはじめなどを出替りの時としている例は多い。…江戸では古くは2月2日が出替りの日であった。農業労働と違って、都会では半季の奉公の需要も盛んであったから8月2日を半季の出替り日とした。これを幕令によって後に3月5日と9月5日に変更したが、江戸の奉公人には信州越後などの遠国から出稼ぎに来る者も多かったので、旧来の慣習は一朝には改まらなかった。寛延ごろはその過渡期であったと見え、寛延4年(1751)版江戸惣鹿子大全には信州越後の出替りは、2月2日、別に3月5日も出替りと両方を挙げている。者は近在の奉公人に適用したのであろう。」とある。
 また、『日本民俗学大系4 社会と民俗2.「奉公人・雇い人・徒弟」』の項には、『年季雇いでは、一年切り替えの約束で、数カ年居続けるのが通例であった。その契約更新の時期が、いわゆる「出替り」日で、二月二日、四月八日、一二月二十五日など地方ごとに一定の慣例があった。なかには四月から一二月までの契約とし、農閑期は実家にもどす所もあった。』と記されている(註1)。

  泣き出すを聞いて信濃はいとま乞  [柳多留一一37]

  相伴に信濃も三里すえて立ち     [柳多留一四7]

などの川柳は、奉公に来ていた信濃者が灸をすえられた子供の泣き声にいたたまれずいとまを言ったり、ついでに自分も三里に灸をすえてから旅立ちする姿がよく描かれている。島根県隠岐島では、二月二日に下男や下女には灸スエヒマだといって、玄米・大豆を一升ずつくらい持たして、暇をやった。
(註1)『奉公人・雇い人・徒弟』竹内利美著、(「日本民俗学大系4 社会と民俗2.」編集委員 大間知篤三・岡正雄・桜田勝徳・関啓吾・最上孝敬。、平凡社、昭和34年8月8日発行に掲載)

④若者寄合
 若者の寄合については、柳田国男著『歳時習俗語彙』に、「肥前島原半島でも、千々岩は二月と五月との二日だが、山田村では二月と八月との二日で、即ちちやうど半年置きになって居る。是をエートスヱと謂つて、すゑぬ者にも一般に休みである上に、又若者寄合ひの日であり、新入りが酒一升と素麺などを持つて加入する日でもあった(旅傳・盆號)」とある(註1)。
 中山太郎著『日本若者史』には、「京都府北桑田郡神吉村では、男子十五歳になれば元服し、正月十五日(この日は上元の吉日である)か、又は二月二日(この日は古く新舊雇人の出代り日である)を以て若者組に加盟した。これを若イ衆入と稱したが、その者が妻を娶れば年齢にかゝわらず脱退した。」とあ(註2)。
 田中熊雄著『日本の民俗 宮崎』には「フツカヤキ。二月二日。二日灸・初灸・ヤイトゾメともいう。この日お灸をすると丈夫になるとか、病気にならないと伝えて、部落落のおとなたち全員が一軒の家に集ってお灸をすえていた。お重に炒りあられを詰めて持ちより、お茶をいれて食事したり談話した。はじめて灸すえに参加したワケシ(若衆)はそのとき、おとなの仲間入りができたものとされた。」と記されている(註3)。
 若者寄合・若衆入りの習俗は長崎県や宮崎県に限らず、九州地方の各県で行われていたようである。
(註1)『歳時習俗語彙』柳田国男著、民間傳承の會発行、昭和14年1月25日発行
(註2)『日本若者史』中山太郎著、春陽堂発行、昭和5年7月12日発行
(註3)『日本の民俗 宮崎』田中熊雄著、第一法規出版社発行、昭和48年8月5日発行

⑤春遊
 中村喬著『中国祭時史の研究』によると、「…中唐のころになると、郊外に出て遊ぶいわゆる「春遊」が二月二日に見られるようになる。…またそこでは「採菜」とあるように菜摘みが行なわれた。…中唐期にみられる二月二日春遊の、最も早い例は中唐初代宗の大暦二年(767)のことである。…二月二日春遊の…機運を高めたのは二月一日の中和節ではなかったか。中和節は民間から起った節日ではなく代宗の後を継いだ徳宗の貞元五年(789)、詔によって制定された節日である。…この中和節の日には官民それぞれの諸行事が定められていたが、また臣下に「曲江の宴」を賜うのが恒例であった。…いずれにしても二月二日の春遊が中和節制定以後、盛んに見えはじめる…」と記されている(註1)(註2)。
(註1)『中国祭時史の研究』中村喬著、朋友書店発行、一九九三年八月二十日発行
(註2)〔著者注〕遣唐使の記録は630年に始まり、894年に廃止されるまで十数回遣わされたというから、「春遊」が日本に伝わっていても不思議ではないのだが、この中唐時代に行われた二月二日「春遊」を日本の諸書にまだ見出すことが出来ていない。

■[3]文学における二日灸

①文芸略史
〈連歌〉 室町時代に和歌が萎靡不振に陥った頃、従来専ら歌人の余技として行われた連歌が和歌に代わって上下都鄙に流行した。連歌は貴族社会に発生し、武士僧侶の間に発達を遂げ、やがて江戸時代の俳諧を導いたのであって、室町時代に於ける重要な文芸である。連歌はもと和歌の上の句と下の句を二人で唱和することから始まったもので、その起源は甚だ古い。『万葉集』の「佐保川の水をせきあげて植ゑし田を(尼作)苅早稲はひとりなるべし(家持續)」に始まると云われている。鎌倉時代の初期には和歌の会と共に連歌の会 も盛んに催され、形式としては五十韻百韻と長く続けるようになった。室町時代になって、宗祇(文龜二年、没八十二)を中心に連歌の発句を単独で詠む傾向が盛んになり、季や切字などの法則が設けられるようになった。室町末期になると、山崎宗鑑と荒木田守武が現われ、俳諧連歌、略称俳諧が流行となった。しかしまだまだ連歌中心の時代であった。
〈俳諧〉 江戸時代初期になり松永貞徳(承 應二年、没八十三)が俳諧を中興し、その古風な作風は貞門俳諧として盛んに行われた。しかしその保守的な俳風と煩瑣な方式に反対したのが西山宗因(天和二年、没七十八)の談林派で、奇警放逸な著想破格な調で吟ずることを主義とし、寛文延宝の頃には遂に古風の俳風を圧倒するようになった。しかし宗因の晩年には遊戯的な俳諧を高尚な文芸にしようとする自覚が起こり、ついに松尾芭蕉(元禄七年、没五十一)によって真の俳諧が完成され、貞亨元禄頃の俳壇は全く芭蕉によって統一せられ、蕉風は殆ど全国に行われたが、芭蕉の没後には祖翁の遺鉢を承けたと自称する宗匠が各地に割拠して、互いに流派を開いた為に四分五裂の状態となった。芭蕉の没後蕉門の俳風は漸く俗化した上、各地の門人も宝永から亨保にかけて世を去り、俳壇は一時衰退した。天明の俳壇復興で傑出していたのは与謝野蕪村(天明三年、没六十八)で、元禄の芭蕉と並んで俳諧史上最も重い位置を占めている。文化文政期の俳壇を飾ったのは小林一茶(文政十年、 没六十五)で、『おらが春』は文政二年、五十七歳の著作である。
〈狂歌〉 狂歌といふ名称が用い られるようになったのは鎌倉時代からであって、当時行われた落首や歌会の余興に作った諧歌で、室町時代末の天文年間には、山崎宗鑑と荒木田守武が俳諧の傍ら狂歌を詠み、これを広めた。江戸時代初期になり松永貞徳は近世狂歌の祖と称せられ、これより上方江戸共に狂歌師が輩出した。元禄享保期には大阪の鯛屋貞柳が浪速ぶり狂歌を唱導し隆盛を極めた。貞柳の没後上方の狂歌は衰え、その中心は他の文芸と共に江戸に移り、やがて天明の狂歌黄金時代を見るに至った。天明調の狂歌は浪速ぶりの狂歌とは別に、江戸の四方赤良などを中心に興隆した。
〈前句附と川柳〉 寶暦前後から主として平民社会に行われ た民衆文芸に、前句附とそれから独立した川柳がある。前句附は俳諧の附合から二句の附合だけを独立させたものである。もと貞門に於て附合練習の方便として奨励したもので、早く萬治頃から上方に於て行われ、次いで江戸にも行われるようになった。元禄の初め頃までの前句附は、未だ俳諧の附合と大差ないものであったが、教養の乏しい者にも普及させる為に、前句を簡易にする傾向を生じて、意味の漠然としたものにしたり、同語を繰返すようになった。後には必ずしも前句を必要としなくなって、所謂川柳の如き短詩形の文芸となった。十七文字から成る川柳は、柄井川柳(寛政二年、没七十三)を祖と して流行したのであるが、其の源流と見るべきものは江戸座の前句附である。即ち深川湖十や慶紀逸等は、享保の末頃から前句附の點者となつて、江戸獨特の輕妙洒脱な句を鼓吹したのであつて、彼等が撰んだ高點句集には、前句を省いて單に附句のみを挙げたのが多い。なお川柳は前句附から独立したものであるから、俳諧の発句と異なって、季や切字の束縛を受けていない。要するに川柳は狂歌・狂文・黄表紙・洒落本・滑稽本などと共に、江戸の太平が生んだ特殊の平民文芸である(註1)。
(註1)「日本文學通史」次田 潤著、明治書院版、昭和21年7月10日発行

②松永貞徳の没後における門下の論争
 筆者が知り得た範囲で、文学におけ る二日灸の初出は、松永貞徳門下の松江重頼が寛永十五年に著した『毛吹草』「二月同二日灸」の一文である。重頼は貞門にあって異端児といわれ、貞徳の死後あからさまに貞徳を批判した。乾裕幸氏が、「気づかれることの第二は、6(承応 二―明暦三)において、俳論の数が増加していることであった。これは多分承応二年(1653)における貞徳の他界と無縁ではあるまい。貞徳という俳壇的権威の死亡を契機として、紳士的な仮面を脱ぎ、俳壇への野心をむき出しにした門人たちが、争って独立を宣言し、それぞれ自家の法を樹てたことは周知である(榎坂浩尚氏『明暦二年の俳壇について』国語国文、昭33・9)。かかる時機に臨んで重頼があからさまに貞徳を誹謗し(明暦二年刊、『馬鹿集』)、季吟が師の貞室を批判(明暦元年成『埋木』)軈て独立を宣言した(明暦二年刊『祇園奉納誹諧連歌合』)としても訝むには当たるまいし、皆虚『せわ焼草』(明暦二年刊)・及加『嘲哢集(明暦三年)のごとき、むしろ異端の書と目される俳論が無政府的な気安さから自由に板行せられたのも頷かれることであった」(註1)。
このように、重頼は貞徳批判の筆頭であった。しかし、「重頼の『毛吹草』では俳言の範囲を著しく拡大し、そういう意味でも進歩的な俳諧観を示したのであるが、この期にはいっそうその方向を徹底した。取材範囲を謡曲・小唄・幸若・狂言・万歳楽・世話に至るまで拡大し、さらにその素材のいかんを問わず、表現のしかた、ものの見方によって俳諧ともなり連歌にもなるという〃心の俳諧〃の立場にまで至っている。」のであって、重頼だからこそ俳題に「二日灸」を加えられたことが窺える。(註2)
 貞徳門下でも保守的な腐俳 子(安原貞室)が寛永十九年に母、妙喜禅尼の二十五回忌追善のために催した独吟百韻に自ら注釈を加えた『俳諧註』一書がある。松江重頼は本書を批判する書を出したという。古風優雅を宗とする保守派が、鍼灸を比興(下品で卑しいこと)とする考え方が示されている。
   「脹満や 針も薬も きかざらん」
水腫の脹満や 滋生よりきざして水ばれに腫るものとぞ。此煩は針も薬もきゝ難きものと、ある藪薬師の 語侍りし也。
   「出花」をば煩の募もてきたる最中に取たるなり。かなしながらもやいとすゑけり
遣句也。總じて病に 薬・灸・針などを付る事は比興なり。墓ゆきにうかゝゝとし侍ればなり。又愚作のつたなき故也。今更なをすべき様なし。後悔々々」(註3)。
(註1)『古典俳文学大系2「貞門俳諧集 二」解説』校注者 小高敏郎・森川昭・乾裕幸、集英社発行、昭和46年3月10日発行
(註2)『増補版日本文学全史 4 近世 』編者代表 市石貞次、學燈社発行、平成2年3月10日発行
(註3)『俳諧 註』腐俳子(安原貞室)著、寛永19年刊、(『古典俳文学大系2「貞門俳諧集 二」 』校注者 小高敏郎・森川昭・乾裕幸、集英社発行、昭和46年3月10日発行に掲載)

③狂歌・俳諧・雜俳・川柳等五十音順一覧
 集成した資料には二日灸の句の外に、灸に関するいろいろな句が引合いに出されている。参考のために周辺の句も掲載した。
○愛敬の出る迄灸をすへる也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五鳥
○アツツツツツ。ヲヲ爺様(ととさん)の仰山な。 皮切(カハきり)は仕迴(しまい)でござんす。
   ・近松半二[新版歌祭文(お染久松)‐野崎村の段]浄瑠璃。安永九年大阪竹本座初演
○あひよみをするやいとかずゝゞ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松永貞徳[貞徳誹諧俳記]服部一貞編、寛文三年刊
○秋に泣くふるき病や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青々
○あくたいに腹をかゝえる灸見舞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・茂ル[柳多留七十5]文政元寅年刊
○あくたいにへそをかゝへるきう見廻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一五34]天明三卯年刊(安六・信2)
○胡座かゝせる痰の灸点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[付合手引草](江)文化4年刊
○味知つて・子がついてゆくやいと行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[あらひよね](上)文化6年刊
○あついめをしたのもしたでむだに成リ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[末摘花三22]寛政三年刊
○一日、去る女人來て浮心、張合の機の位を問。師答曰、『灸の皮切(カワキリ)を忍ゆる心也』 
                                    ・鈴木正三[反故集]仏教。寛文十一年(一六七一)刊

○居つゞけへ女使ひや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[閏の梅]五重軒露月編。享保12年刊

○いよう是は難じう第一ばん皮切だ。自己(おいら)のは二ばんだい・・・・・・・・・・・梅亭金鵞作、梅の本鶯斎画[七偏人‐四・下]滑稽本。初編安政四年

○伊豫の温泉のさらし艾や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青々[春夏春冬]明治34年刊

○うかれ女のはだへに細見のくろ星すうる二日炙かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芽山樓守近[吉原形四季細見]文政8年刊

○うき人に肌見られけり二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・活潭生[春夏秋冬]明治34年刊

○鶯といふ鳥の羽箒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・随古[平安二十歌仙]嘯山等編、蕪村序、明和6年刊

○鶯の声へよく効く二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水谷鮎美

○うけがたきにんじんの二日灸哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・判田葡安[時勢粧]維舟編、寛文十二年刊

○うしろから・五臓の修復する灸ヒ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・媒口(江)元禄16年

○打ち佗びて膝抱へ居る二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乙字[乙字句集]大須賀乙字、大正十年刊

○乳母の灸そばに泣き人がついてゐる

○馬で來て灸師だのみや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・碧梧桐[春夏秋冬]明治34年刊

○閏に艾の烟る二月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[俳諧觽十八]明和五年刊

○えこらへぬ灸かみのひの御秡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・住田政信[崑山集]鶏冠井良徳編、慶安四年刊

○笈磨れの尊き肩や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田蛇笏[山廬集]明治四十年記

○大いなる昔目鏡や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・抱魚[俳諧新潮]明治36年刊

○大仕事した思ひなり二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・和水[小栗山大悲閣奉納]弘化2年

○大峯に三度の足や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・師竹[続春夏秋冬]明治40年刊

○奥歯かみても皮切灸(カワキリヤイト)の心にも堪らるべけれ・・・・・・・・・・・・・・・増穂残口[艶道通鑑‐三・二〇]神道談義本。正徳五年序

○幼くて虫の病や二日灸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・炎天[春夏秋冬]明治34年刊

○鴛の衾に二日やいとかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・召波[春泥句集]維駒編、安永六年刊

○男の灸女もすゆる也二月二日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千春[洛陽集]自悦編、延宝八年刊

○お内儀に灸をたのめば笑ッて居・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三39]明和五子年刊(明二・仁2)

○お前マア晝間の灸をわすれたか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・里松[柳多留三九13]文化四卯年刊

○思ひ出でぬ二日灸を恋の種言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・言水[     ]池田言水、維舟門下

○思ひ者の炬燵に二日灸かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湍[春夏秋冬]明治34年刊

○親の恩忘れぬ二日灸哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・兎士[類題発句集]安永三年刊

○親の慈悲鬼にも成ッて伊吹山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金勝[柳多留一六七10]天保十一子年刊

○親の慈悲四季に伊吹の山を見せ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・庭美[柳多留七十10]文生元寅年刊

○親の善傘灸子の時雨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・左棟[柳多留一三三26]天保五午年刊

○かあいさのあまり泣かせる二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・志夕[柳多留五九16]文化九申年刊?

○可愛さがあまり泣せる二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・醜郎[柳多留一四四8]天保七申年刊?

○会話の皮切(カワキリ)に清子の夫を問題にする事の可否は・・・・・・・・・・・・・・・夏目漱石[明暗]大正五年未完の遺作

○かわいさが余り泣かせる孫の灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・老來[柳多留八五10]文政八酉年刊

○かく〔れ〕家や梅にもすへる二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶[風間本八番日記]文政二年二月

○かくれ家や猫にもすへる二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶[八番日記(おらが春)]文政二年

○かくれ家や猫にもいはふ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶『文政版』中七

○風並の兄へ廻るや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・兄[四季發句牒]反故斎果然編、明和八年刊

○風の子や裸で逃げる寒灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶[八番日記(風間本 十一月)]文政三年

○風の子やはらつて逃る寒灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶[八番日記(山岸梅塵筆写)]文政三年

○風の子よ障子破らば初やいと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩村茂則[誹諧東日記]才。磨序。延宝九年成

○頑なに薬嫌ひや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浅野白山

○肩の凝り燒いて仕舞ひぬ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寺尾守水老[続春夏秋冬]明治40年刊

○釜屋艾で山を見る時鳥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笹鯉[柳多留一一五38ウ]天保二卯年刊

○龜の尾も殘さず二日灸かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・華水[続春夏秋冬]明治40年刊

○雁の羽や腨(すね)の初灸国かへり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐原政信[誹諧東日記]才。磨序。延宝九年成

○かわきりが濟ムと上るり本を出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三31]明和五子年刊(明二・櫻2)

○かわきりがすむと娘をくとき出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さくら木待人[柳多留三五9]文化三寅年刊

○皮切りといふ面で見る遠目鏡・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・卍[柳多留九七22、九九102]文政十一子年刊

○かわきりに姉ィは口へねぢをかい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留七〇34]文政元寅年刊

○皮きりにつばきを附る伊吹山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉守[柳多留一一三16]天保二卯年刊

○皮切のすんだ處へ嫁の禮

○皮切の三ッハあつひ父母の恩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・釣好[柳多留五九4]文化九申年刊?

○皮切りのやうにおさへる小麥燒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千之[柳多留一一九30]天保三辰年刊

○かわきりハ女に見せる顔でなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三41]明和五子年刊(明二・仁5)(拾初・13)

○皮きりは女に見せる面てなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一五〇15]天保九戌~十一子年刊?

○かわきりやお乳を呼ハ飴の事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四目[柳多留八四14]文政八酉年刊

○皮切やお乳母を呼ハ飴の事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・花遊[柳多留一五六30]天保九戌~十一子年刊?

○皮切りハ釜屋ハいやとお七言ヒ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・貞亀[柳多留九七22・一〇〇128]文政十一子年刊

○かわ切は釜屋はいやとお七いゝ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・貞亀[柳多留九八66]文政十一子年刊

○かわらけのひねり艾誰にすゆらん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・許六[四季の辭]

○かんぜなさ泣て二日の山をみる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四目[柳多留七九21甲]文政七申年刊

○堪忍チテを追い回す二日灸

○堪忍と灸ハはこらへた跡かよし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麹丸[柳多留一四七11]天保九戌~十一子年刊?

○疳の出る子の虫の根を切艾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舛丸[柳多留一一四22]天保二卯年刊

○きゝますまいぞへと笑ふ聟の灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[末摘花四30]寛政三年刊(天二・仁4ウ)

○二月や二日酔ぬる花見ざけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松永貞徳[貞徳誹諧俳記]服部一貞編、寛文三年刊

○きさらきの二日のふしに立煙麓は三里髭の松原 たさん・・・・・・・・・・・・・・・・・・[狂歌糸の錦]百子堂藩山編、享保十九年刊

○衣更着の二日やいとの蓬よりすへる三日のもちゐ祝はん・・・・・・・・・・・・・・・・・[置みやげ]由縁斎貞柳編、享保十九年刊

○きさらぎや身は思はねど押やいと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千那[韻塞]季由・許六共編、元禄九年自序

○来にくかるむすこたのんで四花をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (安四礼2)

○きのふやくは二日やいとか三日の原・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・是誰[初元結]万治元年刊

○君がため又身のためや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小沢衆下[桜川]玖也編。延宝二年成

○きみがよい。灸すへられて赤コ成った・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[笠付類題集]雑俳。(上)天保五年刊

○灸をすゑ跡で紋日の山を見せ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・迚茂[柳多留八一17]文政七申年刊

○灸をすへさせて土器隠居わり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東鳥[柳多留三六11・13・16]文化四卯年刊

○灸すゑむ去年の古跡に古蓬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高故[時勢粧]維舟編、寛文十二年刊

○灸をすへるも孝行の一ツ也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・門柳[柳多留二六9]寛政八辰年刊

○灸をむになされますかとゑりを折・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三34]明和五子年刊(明二・松2)(拾八・四)

○灸を無になされますなと襟を折・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・扇橋[柳多留一三四5]天保五年刊(三34)(拾八4)

○灸ぎうといつて女房にしかられる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・草麥[柳多留四九34]文化七午年刊

○灸ぎらい火のたちぎはにせめ念仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・淺族[柳多留一〇五2]文政十一子年刊

○灸穴で無ひ皮切リが娵くろう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青露[柳多留四四25]文化五辰年刊

○灸所を押シて樽買ハ直を付ル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高麗[柳多留一六六21]天保九戌~十一子年刊?

○灸すゑを二日に隠居うなり初め・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帆布[柳多留一一〇13]天保元寅年刊

○灸すへた子を明ケ番のひざへのせ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留二8]明和四亥年刊(寶十三・義1)

○灸すゑていでや眺めん春の山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蛙声[新類題発句集]蝶夢編、寛政五年刊

○灸すへて着たハいふきの艾嶋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・有幸[柳多留一二一乙(夏柳)8]

○きうすへて一寸見に出るするが丁・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・匕助[柳多留五七33]文化八未年刊

○灸すへて根ッ切りとなるけちな客・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蛙子[柳多留八八9]文政八酉年刊

○灸すゑて一廻りほど客を振り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(安六義5)

○灸すへて湖を見ニ出る山法師・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佃[柳多留一四四14]天保七申年刊

○灸すゑて見つける山や初ざくら・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麦舟[古今俳諧明題集]凉帒編、寶暦十三年刊

○灸すへながら山を見る原の宿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佃リ[柳多留一一二33]天保二卯年刊

○灸すへる禿の皃を見にたかり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留四30]明和六丑年刊(明三・櫻2)(拾六・29)

○灸すえる側え出しとく菓子袋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舛丸[柳多留一三五34・35]天保五午年刊

○灸すがる側へ出しとく菓子袋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[廓の明け暮]

○灸すんで善き茶を煎ず二日かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・格堂[春夏秋冬]明治34年刊

○灸ですへきるのハおしい命なり ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一峨[柳多留八二14]文政八酉年刊

○灸点を大屋ハ腹へすへかねる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三朝[五五9]文化八未年刊

○灸点を胡彩でおろすくろん坊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・萬仁[柳多留二八13]寛政十一未年刊

○灸点を字消ておろす黒ん坊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吐空[柳多留一五三18]天保九戌~十一子年刊?

○灸点を字消でおろす黒ン坊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吐空(18)[柳多留一五三23]天保九戌~十一子年刊?

○灸点かふえてへぼ碁ハあつく成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・津和[柳多留九〇7]文政九戌年刊

○灸点とあるハ地獄の道しるべ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・太陵[柳多留一一五29]天保二卯年刊

○灸点に斗り後ロを勇士見せ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・壽山[柳多留一六三12]天保九戌~十一子年刊?

○灸点に無筆よぎなく筆を取・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菅衷[柳多留三四31]文化三寅年刊

○灸点に勇士後ロを見せる也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・卍[柳多留八六28・29]文政八酉年刊

○灸点に娵首の座へ直るやう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春駒[柳多留三九10]文化四卯年刊

○灸点の飛色になる金太郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・友呼[柳多留二七14]寛政十午年刊

○灸点のふじも膝から七合目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一〇〇132]文政十一子年刊

○灸点の娘は腹へ人をすゑ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・菅子[柳多留九四2]文政十亥年刊

○灸と針戀の死活ハ医書にもれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芋洗[柳多留一四四27]天保七申年刊?

○灸に羽箒心ある繪師の母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・錦重[柳多留一四四17]天保七申年刊?

○灸の雨見る山の端もはれまぶち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飛鳥[柳多留一一七7]天保三辰年刊

○灸の落武者竹馬に鞭を当テ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高麗[柳多留一四五21]天保八酉年刊

○灸の紙丸メてじやらからす猫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留八36]安永二巳年刊(明八・松3)

○灸の皮切を忍ゆる心也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木正三[反故集‐下・聞書]仏教。寛文十一年初刊

○灸の脊中を野馬臺の詩で洗イ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木馬[柳多留八七14]文政八酉年刊

○灸の点干ぬ間も寒し春の風・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・許六[韻塞]季由・許六共編、元禄九年自序

○灸の時くわんおん頼む鬼子母神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麓[柳多留一五八3]天保九戌~十一子年刊?

○灸の床拂うて安き二日かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・龍城[続春夏秋冬]明治40年刊

○灸のふたが世を恨む初手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[続折句袋](上)安永9年刊

○灸の蓋は仕廻けり扨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[中巻ばしら](上)享保

○灸箱の古きもくさや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八重櫻[春夏秋冬]明治34年刊

○灸程ハなかぬ子供のくわんぜなき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹子[柳多留七一28]文政二卯年刊

○灸程になかぬ子供のぐわんぜなき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留七一34]文政二卯年刊

○灸程も泣かぬ子とものぐわんぜなさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・文袋[柳多留七八18]文政六未年刊

○灸程も泣かぬ子供のぐわんぜなさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・文袋[柳多留七八35]文政六未年刊

○灸みせて禿の親に安堵させ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・若蝶[柳多留五八14]文化八未年刊

○灸もしらずいたゞいて履く〔下駄の灸〕・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[長ふくべ](上)享保16年

○灸屋の看板の容儀似たら掛け・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[折句袋](上)安永8年刊 

○灸やへ行くせなかにもうすげしょう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[秋の月](上)寛保3年刊 

○灸用の來べき霄だと袋蜘蛛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・醜郎[柳多留一三二23]天保五午年刊

○灸よりハ男が娘おそれなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・門柳

○灸よりも後七がこらへにくい也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹笆[柳多留五六39]文化八未年刊)

○切もくさ大ィハ大方うれのこり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一三4]安永七戌年刊(安五・宮2)

○切艾二度の節句にあぶれたの・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松歌[柳多留二七31]寛政十午年刊

○切もぐさ二日といふ夜男泣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春澄[洛陽集]延宝八年刊

○切り艾ほぐした売も獅子の襟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眠子[柳多留一一九5]天保三辰年刊

○公時の綱にすうるや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・村家[春夏秋冬]明治34年刊

○くさめして艾のがれたる二日灸

○くさめして又のがれたる二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[野の錦]越入道吉門編、明和4年序

○曇りしに居るな灸の師の教・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[江戸紫]雑俳。(江)享保十六年刊

○下女が灸ゆでそら豆を貮合かい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三37]明和五年子年刊(明二・松5)

○けふハな燒そと二日の灸嫌らひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・巨眼[柳多留九〇33]文政九戌年刊

○喧嘩半分で宿下り灸をすえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮二28

○小網町釜からおろす赤團子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一三九28オ]天保六未年刊

○戀衣抱きしめけり二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・愚佛[俳諧新潮]明治36年刊

○戀人の肌覗きけり二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仙子[俳諧新潮]明治36年刊

○糞草の煙るも二日灸かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・毛紈[韻塞]季由・許六共編、元禄九年自序

○光陰の暑さ寒さに艾売り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[たかつくり]安永九年刊

○碁打客さしもしらじな下駄の灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磯川[柳多留一二一乙7・16]天保四巳年刊?

○弘法の灸据ゑに行く二日かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芋村[春夏秋冬]明治34年刊

○子を負うて据ゑてくれたる二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あふひ

○碁會所へ灸がすんだと呼に来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一一18]安永五申年刊(安二・梅2)

○極無雅な羽箒灸の売を掃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・錦糸[柳多留一六五27](ス7)天保九戌~十一子年刊

○子心の忠義灸治の御相伴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・麹丸[柳多留一〇八33]文政十二丑年刊

○子心にいやハ伊吹のさし艾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金魚[柳多留一一二39オ]天保二卯年刊

○ごぜの灸跡で一だんのぞむぞへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三41]明和五子年刊(明二・義4)

                                               ・ [柳多留四2]明和六丑年刊(明二・義4)

○こたへたる・隣の灸なあ坊よ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[軽口頓作](上)宝永6年刊

○コチャ釜屋せぬと小性へお七言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青志[柳多留一二二29]天保四巳年刊

○子のきうをすへて四五日にくがられ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留七37](明和九)安永元辰年刊(明七・仁2)

○子のきうハあくたい笑ひゝゝすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳多留一八32]天明三卯年刊(安八・禮7)

○ごふくやを呼びに遣つたる灸ぎゃう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川柳評]寶暦8梅(江戸)

○ごほんごほんで灸かすへにくい也

○こらへつゝもの語らふや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・紫溟郎[春夏秋冬]明治34年刊

○婚禮に灸もしたくの數に入・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・偶中[柳多留五二34]文化八未年刊

○させろといはれ灸箸をすてゝ迯げ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[末摘花三26]寛政三亥年刊

○三會目灸の跡などいじらせる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一九26]天明四辰年刊(安九・信2)

○鹿を追ふ獵師も子にハ灸の山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杜蝶[柳多留七九22]文政七申年刊

○四火をすへ一火一火にあついかや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留四20]明和六丑年刊(明三・松3)

○四火をすりむくハ戀聟入レた晩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・狸声[柳多留一〇〇148]文政十一子年刊

○四火すゑるそばへ妹が抱いて來る

○四花すへる娘灸箸ほどほそり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千之[柳多留一三二33]天保五午年刊

○實悪兼る母親の二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・烏水[柳多留一六三1]天保九戌~十一子年刊?

○四書の中から灸箸が片し出る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[藐姑柳](江)天明5年(藐追6)

○四所が火だに居眠るむごい事

○痔の灸に釜屋艾ハいつちきゝ 集馬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一二一乙(夏柳)15]天保四巳年刊?

○痔の灸に釜屋艾がいつちきゝ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・集馬[柳多留一二一乙(夏柳)45]天保四巳年刊?

○死はいやぞ其きさらぎの二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・正岡子規

○しばらくは悪さの直る二日の後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[塵手水]文政5年刊

○正月しまへば節句朔日今日は二日の拂日なり。灸もすゑたし卯はら辰もも背中に腹、商賣にはかへられず皮切こらへて出る心。・

                                                ・近松門左衛門作[傾城反魂香]寛永五年狩野元信百五十回忌竹本座上場

○しやうばんにしなのもさんりすべて立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一四7]安永八亥年刊(安五・櫻3)

○釋迦が死んだ其如月の二日灸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○少壯老い易く二日灸かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・蝶衣[続春夏秋冬]明治40年刊

○浄瑠璃を讀で聞かせぬ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○初て三火ハふり袖に似ぬけちな顔・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留九4]安永三午年刊(明八・鶴1)

○白々ときめよき肌や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚舟[春夏秋冬]明治34年刊

○新世帯灸を無にする出來こゝろ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・覆露[柳多留三三8]文化三寅年刊

○すえた灸禿のおやに見せてみせてやり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大京[柳多留三三39]文化三寅年刊

○すえた子を明け番の膝にのせ

○頭巾著て肌脱ぐ老いや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・格堂[春夏秋冬]明治34年刊  

○墨點す玉の膚や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・柳家[春夏秋冬]明治34年刊

○瀬川艾てぬれ事の二世が消エ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金成[柳多留一一〇19]天保元寅年刊

○せきがきたのでおつことす四火のきう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留九36]安永三午年刊

○関屋の巻を読かけて灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(鼠3)

○せたぢにやいとすべし路地口・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・季吟[紅梅千句]

○せつかちの灸はときんの所へすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(二七12)

○せつなさに下女毛の中へ灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(天一信2)

○その跡やてん何を云初灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西似[天満千句]西山宗因編、延宝四年刊

○そのはらやふせりてすゆる初灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・成之[点摘集]編者不詳、延宝八年刊

○大神楽見せる髪にハやいとばし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留二11]明和四年亥年刊(寶十三・鶴3)

○大のもくさをくたさいとまゝ子来る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一七18]天明二寅年刊(安八・櫻1)

○たえかぬる二日灸の切もくさ我も昔もいとならなこに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・常女[狂歌糸の錦]百子堂藩山編、享保十九年刊

○高峰より麓下りゃ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安齏櫻磈子

○竹馬に乗てかけ出ス灸の沙汰・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・くしゐ[柳多留八〇17]文政七申年刊

○竹馬の落武者も有ル二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・都柳[柳多留三七24]文化四卯年刊

○ただ頼め薬をやめてさしも草・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[ケイ一九篇]

○立ちのぼる臀の煙や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・梅村[春夏秋冬]明治34年刊

○度たびに・爪をぬらする灸すへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[鳥おどし](上)元禄十四年刊

○垂れこめて二日炙や嫁御寮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘯山[平安二十歌仙]嘯山等編、明和六年刊

○ちんこへ火はねるといかけおどす也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雨夕[柳多留二七14]寛政十午年刊

○勤めのかはきりこらへた故、憂き塩うんだは身のやいと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・近松門左衛門[淀鯉出世滝徳-上]浄瑠璃。宝永五年(一七〇八)末(推定)大阪竹本座初演

○てめいもとんだぶにんそうなもんだ。かわきりのゑんまといふ顔だぜい・・・・・・・振鷺亭作、自画か[自惚鏡‐きをい]洒落本。寛政元年刊

○十すゑるうち九ツはあつくなし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮二23

○通り丁ゑやハいぶきのさしもぐさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安八仁6

○とりついて・灰につゝ込む灸ばし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[軽口頓作](上)宝永6年刊

○猶遠き行脚の足や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・句仏[    ]大谷句仏

○泣當た床で紋日の高笑ひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・巴丸[柳多留七九35]文政七申年刊

○泣き顔で笑う山見る二日灸

○泣キ出すを聞イてしなのハいとま乞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一一37]安永五申年刊

○撫で肩のさびしかりけり二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城(青芝)

○何病の其筋々や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・奇遇[続春夏秋冬]明治40年刊

○なまめかし艾の匂ふ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[俳諧觿十八]

○なよ竹の雪折れ妻や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・師竹[続春夏秋冬]明治40年刊

○ならべたり・やいとやの客二八月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[鳥おどし](上)元禄14年刊

○成田屋の利生もあつき艾賣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芝丸[柳多留一二一27](23)天保四巳年刊

○二月二日是迄なりや嬉しやな 塩やいとにはねきりはつきり・・・・・・・・・・・・・・・不卜[誹諧当世男]花樂軒蝶々子編、延宝四年序

○二月二日土釜屋様急用事不忘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一四四21]天保七申年刊?

○二月二日はうそのつきそめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[弐八9]

○二月三日から一升ずつ違い

○二火三穴蓬がもとのやんちゃ坊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・言水[江戸廣小路]不卜編、延宝六年刊

○貮三人見物のあるごぜの灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留二39]明和四亥年刊(明元・義5)

○にせ物の寅屋艾や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・傘谷[春夏秋冬]明治34年刊

○二の腕に蝌斗や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十歩老[続春夏秋冬]明治40年刊

○二八月に灸を据えて夜道を歩かず、町内の誼誮にも人より跡に出、平生身の養生疎かならねば、命の為にも徳あり。… 

                                                 ・江島其碩作[傾城禁短気]宝永八年刊

○女房の我慢の肩や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日野草城

○濡た名を瀬川艾で鳥部山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千之[柳多留一三六26](エ26)天保五午年刊

○野の寺へ後の二日灸の人に蹤く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・圭一

○のびました・二日灸の九月まで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[花笠](上)宝永2年刊

○野へぞろぞろ・嘘もつけまい灸賃・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[冠付五百題集2](上)安政4年

○はきものへきうすへられぬと高尾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・洗路[柳多留三一19]文化二丑年刊(寛元・地1)

○箱の中にて灸斗リすへて居る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(鼠3)

○八月の皮きりあつい紋日なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・礫川[柳多留三九20]文化四卯年刊

○八月のかわきり暑ひ紋日也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・礫川(20)[柳多留三九23]文化四卯年刊

○八月の二日灸でやき直す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[湯だらい]矩久撰。宝永3年刊

○初灸臆病神にけがるべし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 口青[誹諧東日記]才。磨序。延宝九年成

○母も手を燒くわんぱくの二日灸

○春かせとおもひそめけり二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イ セ官丈

○春すへやしやうと藪入したを出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一〇10]安永四未年刊

○春もはやいたむ頭や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○春もやゝふけゆく二月二日あたりはらにもぐさのもゆる若草・・・・・・・・・・・・・・・・大屋裏住[狂歌才蔵集]四方赤良編、天明七年刊

○日あたりの座敷に老いの二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月兎[春夏秋冬]明治34年刊

○ひたい口やいても同じおとみなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[末摘花初篇13]安永五年刊(明四・櫻4オ)

○一喧嘩すんで赤子に灸をすえ

○一づゝの灸も御所風・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[替狂言]雑俳。(上)元禄十五年刊

○一ツ身をうしろで合はスやかましさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鳳頭[柳多留二八11]寛政十一未年刊

○人の命千代にや千代と二月にも筆試る灸の天筆・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・貞柳[狂歌糸の錦]百子堂藩山編、享保十九年刊

○畫きければ杓子背中や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫻磈子[続春夏秋冬]明治40年刊

○百灸を落トして高が四文也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一〇29]安永四未年刊

○びやくがうの所コへすへても又孕ミ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[末摘花四15]亨和元年刊(安元・梅・4ウ一二)

○評判に信濃も三里すゑてたち

○富士淺間二日やいとの煙かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○不死はいざ不老に點ず二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫻磈子[続春夏秋冬]明治40年刊

○二つ三つ灸を落してさとられる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一〇40]安永四未年刊(安元・義5)

○二日灸跡目にすえる大事の子 

○二日灸いなむ子供に親親のすうるもあつきこゝろざしなり・・・・・・・・・・・・・・・・・六樹園序[狂歌年中行事]文政年間刊

○二日灸居るも明日のいのち哉・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・車蓋[題林集]

○二日灸鰒の友には隠しけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・子蘭[発句類従]了輔編、文化四年成

○二日灸をすゑられてゐる子供かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・格堂[春夏秋冬]明治34年刊

○二日灸きかぬ藥を枕元・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寒水[続春夏秋冬]明治40年刊

○二日灸きくかゝゝゝと母はすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・錦袋[柳多留別下10(2)]

○二日灸木辻の君もすゑに來る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・碧梧桐[春夏秋冬]明治34年刊

○二日灸子供一日取り逃し

○二日灸酒飲む膚の美しき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○二日灸仕舞う時刻に留め手が来

○二日灸すうる娘のさしもぐさ箱入もあり土器もあり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六樹園序[狂歌年中行事]文政年間刊

○二日灸すゑてしまひぬ椽に出る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・露子[春夏秋冬]明治34年刊

○二日炙すゑて見よかし細見の山がたにまであとの有りけり・・・・・・・・・・・・・・・・和調亭末永[吉原形四季細見 全]駿壺狂夫著、文政八年刊

○二日灸すへぬ隣リの子にも利キ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小正[柳多留一六五2(そ2)]天保九戌~十一子年刊?

○二日灸すへぬ隣リの子にも利ゝ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小正2.[柳多留一六五10(そ10)]天保九戌~十一子年刊?

○ふつか灸僧の裸そ奇麗なる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・完来

○二日灸僧のはだかはきれいなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[空華集]対山編、文政二年刊

○二日灸互に末の松山も・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大江丸

○二日灸旅する足をいたはりぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○二日灸玉の膚を汚しけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・虚子[春夏秋冬]明治34年刊

○二日灸乳飲子ひしと・擁きぬ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田波郷

○二日灸涙がさきにこぼれけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠雨[続春夏秋冬]明治40年刊

○二日灸迯げた昔を語りけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・月丸[発句類従]了輔編、文化四年成

○二日灸花見る命大事なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・几董[五車反古]維駒編、天明三年刊

○二日灸屏風も外のさむさかな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・作者しらず・

○二日灸眉にひつゝく瞼かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・櫻磈子[続春夏秋冬]明治40年刊

○二日灸味方と思ふ乳母も敵

○二日灸もぐさ奮発されたるげ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・落合由季女

○二日灸養君の日ととなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五城[春夏秋冬]明治34年刊

○二日灸嫁も十九の土用前・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[ゆきの友](江)安政2年刊

○二日にハ母の手あつひ恩をうけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・留人[柳多留五二15]文化八未年刊

○二日にハ母も子のため鬼になり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・銕扇[柳多留七一34]文政二卯年刊

○ふつかやひとにだゝをいふきのさしもぐささしもに成ては気味かわるふて・・・・・・[狂歌ますかがみ]栗柯亭木端編、享保二十一年刊

○笔(まゝ)と墨(ふ)乳(で)母も二日はハ役・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一二四104]天保四巳年刊

○筆に墨をつけて坊やどれにしよう

○父母の慈悲四季にくわせる赤團子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・好成[柳多留五八17]文化九申年刊?

○へぼ學者やつたらきうのふたをする・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松山[柳多留四〇17]文化四卯年刊

○へぼ學者やつたらきうのふたをはり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松山[柳多留四〇24]文化四卯年刊

○箒たて草履灸はすうるとも千秋萬歳われは長尻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[萬紅千紫]

○炮畛ハ一類もなく、世にかゝづらふほだしももたず、廬仝が夜なべに茶をほうじて雨夜のさびに伴ひ、灸饗の豆のからゝゝとなる時ハ、隣のやもめの耳を悦ばすほうろくや棚か

  ら下りる秋の暮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[鶉衣]也有著、天明七年刊

○褒美の画先〔へ〕掴ンで二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶[八番日記]文政四年

○褒美の画先へ握て二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一茶[異]『自筆本』中七

○ほかほかと二日灸のいぼひ出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・坡[誹風末摘花三篇 並べ百員]寛政三年刊

○ほっこりと山の夕日や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木丹[句鑑]

○ぼの凹に治逆の點や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・師竹[続春夏秋冬]明治40年刊

○骨迄も焦げつく思ひ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・格堂[春夏秋冬]明治34年刊

○また嬉し二日灸の過し春・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乙二[をののえ草稿]

○またの灸あつくないのハ哀也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三3]明和五子年刊(明元・禮2)

○待つとなき二日炙の來りけり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大夢[俳諧新選集]嘯山編、安永二年刊

○継ッ子の灸おさへずにすへて遣り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舟駕[柳多留五〇14]文化八未年刊

○豆いりを大屋の内儀つかみそめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留七40](明和九)安永元辰年刊(明七・義2)

○豆いりをかぞへるやうに娵ハくひ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マイタ[柳多留四七15]文化六巳年刊(安元・禮1)

○豆煎りをかぞへるやうに娵ハたべ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・マイタ[柳多留四七18]文化六巳年刊

○豆いりをかみゝゝしなのいとま乞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・[柳多留四7]明和六丑年刊

○豆いりをかんだり陣をしかめたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留二二7]天明八申年刊(天三・智2)

○豆いりをくいゝゝ跡の數をきゝ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留三13]明和五子年刊(明六・信6)

○豆いりをするうちはいい機嫌なり

○豆いりの手ハ止ム事を得さる也・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・天龍[柳多留五九19]文化九申年刊

○豆磯のはじめ熱田と大社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・巨眼[柳多留八八33乙]文政八酉年刊

○豆いりの舟炮畛の用意する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・極泉[柳多留一〇九45]文政十二丑年刊

○豆磯の舟炮畛の用意する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・悟昔[柳多留一二二別12]天保四巳年刊

○豆煎りの名人店を度度おわれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・翠丈連[柳多留十一35]安永五申年刊(安二・禮3)

○豆いりハ醍醐北野ハ茶振舞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不卯[柳多留八四25]文政八酉年刊

○豆いりハにぎりこぶしを口にあて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・雨夕[柳多留三四30]文化三年刊

○豆いりハまづきやふをふのはじめなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・門柳[柳多留三一26]文化二丑年刊(寛元・袖2)

○豆を磯りゝゝふつ懸サゝゝ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乙テ[柳多留+別中18]天保四巳年刊

○豆をいるに豆がらをさすいそがしさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・木卯[柳多留八七36]文政八酉年刊

○豆炒をするうちはいい機嫌なり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(安)

○豆煎へ涙の落ちる二日灸

○饅頭にこぼすなみだや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・占翠[乙二七部集附録]天保六年刊

○身揚りも二月二日はうぬがため・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(寶)

○見世へ出る年迄ちりけすへて遣リ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留六5]明和八卯年刊(明五・櫻4)

○身にあつき親の恩なり二日灸

○身にしみて人の意見や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中火臣

○峯の寺灸土器を投て見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・木柳[一六六17](3ノ大17)天保九~十一子子年刊

○無量壽といふ一點や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田士英[続春夏秋冬]明治40年刊

○めう薬があるのに灸の猫のやれ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(安二桜2)

○目も口も筋違いして二日灸

○艾しまあつく成てもきうに出す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・如水[柳多留一二二別17]天保四巳年刊

○もぐさ嶋なとをこのむかやみ出し・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・美徳[柳多留二一ス4]天明六午年刊(天六・禮1)

○艾ついでに灸饗に草双紙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(三朝)

○艾にも餅にもならず花蓬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ケイ二一篇

○艾屋洗垢離中天狗抔を交セ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竜舎[柳多留一三三18]天保五午年刊

○艾屋洗垢離中天狗抔を入れ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・[柳多留一三三19]天保五午年刊

○艾屋ハ細き煙りで世をわたり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜柳[柳多留一二六46]天保四巳年刊

○餅にせにゃ艾(やいと)で食うと蓬摘み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[絵朗詠〈阪〉]安永二年

○桃が枝の直撰られて四花の箸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[うたゝね](江)元禄七年刊

○もやもやと・いっそ此ふみ灸のふた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[江戸雀](江)宝永元年刊

○紋日の積ハきのふ針けふハ灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青志[柳多留一一六8]天保三辰年刊

○紋日の病ひ虫の名を焼て治シ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鵞童[柳多留一四二23]天保六未年刊

○紋日まへ山を見越て灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三箱[柳多留一二四101・一二五20]天保四巳年刊

○紋日まへ山を見こして灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留一二五25]天保四巳年刊

○紋日ほど禿苦にする二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[新柳樽] 

○やいとぎうきばり声で礼をいゝ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[川柳評](江)(明二・義5)

○灸箸の草臥を訪ふ鬢の髪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[収月評](江)寛延元年刊

○やいと箸や頭に挿ば二月の雪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・自悦[洛陽集]自悦編、延宝八年刊

○瘠足に二日灸のあはれなり・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・格堂[春夏秋冬]明治34年刊

○痩脛や旅を願の二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片水[俳諧新潮]明治36年刊

○山江立前にふじへも灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・里梅[柳多留五九34・39]文化九申年刊?

○山を見かけておひらんハ灸をすゑ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・乙[柳多留一三二2・5]天保五午年刊

○病なき一家たのもし二日灸 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・把栗[春夏秋冬]明治34年刊

○山の娘にみられし二日灸かな・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・原石鼎

○山伏のあたまへ相模灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜水[柳多留二七12]寛政十午年刊

○雪風が鳴らす障子や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・青木月斗[    ]子規門下

○よいむきに花山みえて二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東里[浪化上人発句集]慶応元年刊

○よし野漆灸おろしが目に霞むとなん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一春[洛陽集]自悦編、延宝八年刊

○世の中の礎ならめ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[高点部類](江)安永4年刊

○嫁チョイと皮切に取るさしも草・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・株木[柳多留一四〇6]天保六未年刊

○娵顔をみんな隠して灸をすへ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・芝丸[柳多留別下23]天保四巳年刊

○兩肩の富士と淺間や二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・碧梧桐[春夏秋冬]明治34年刊

○癆瘵病えやは伊吹の初蓬艾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・有知[洛陽集]自悦編、延宝八年刊

○老足に足袋美しや二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・後藤夜半

○老納の胸の厚さよ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・倉橋羊村

○若草くれる馬の灸饗・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[龍の声](江)安永四年刊

○笑ひたるつもりの泪二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹秋人

○笑ひ止ム迄灸てんを待て居る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・[柳多留初33]明和二年酉年刊(寶十二・松1)

○腕白を肌かにむぎぬ二日灸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・碧梧桐[春夏秋冬]明治34年刊

○わんはくへ追手を懸る赤團子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・千之[柳多留一一四4]天保二卯年刊




■[4]養生医学における二日灸

①二八月に灸をすべき論

 苗村丈白著『年中重宝記』(元禄七年刊)には、「多年の養生には二八月を欠くべからず。二月は陽気さかんに旺ずるのとき也。八月は陰気さかんに旺ずるのときにして、ともに寒暑偏ならざる時節なれば灸治にさまたげなし。」

貝原益軒著『萬寶鄙事記』(宝永二年刊)には「をよそ灸するに、春は春分の末清明の初めよし。陽氣の發生をたすけ、餘寒にたえて、風寒に感ぜざるがためなり。をそければ、温くて體氣うむゆへ、こらへにくし、秋は白露(八月ノ節)の前後より、秋分の前迄よし。暖かなる故、戸障子をあけ、身體をあらはして、自由なる故退屈せず、風ひくべきうれへなし。熱痛をも堪へやすし。七月の末八月のはじめ、風寒に先立て、早く灸すれば、秋の涼風陰霧におかされず。夏月にあせ出、表氣ひらけて、やがて、秋の陰氣に感ずれば、感冒瘧痢等おこりやすし。病に先立て炙すれば、表氣つよく、腹中の陽氣もさかんになる故、病おこらず。是あらかじめふせぐ法なり。虚弱の人秋の灸をそければ、九月十月の比、風寒にはやく感じやすく、せつせつ風ひくものなり。はやく灸すべし。」

 貝原益軒著『養生訓』(正徳三年刊)には「脾胃虚弱にして、食滞りやすく、泄瀉しやすき人は、是、陽気不足なり。殊に灸治に宜し。火気を以(て)土気を補へば、脾胃の陽気発生し、よくめぐりてさかんになり、食滞らず、食すすみ、元気ます。毎年二八月に、天枢・水分・脾兪・腰眼・三里、を灸すべし。京門・章門もかはるがはる灸すべし。脾の兪・胃の兪も、かはるがはる灸すべし。天枢は尤(も)しるしあり。脾胃虚し、食滞りやすき人は、毎年二八月、灸すべし。臍中より両傍各々二寸、又、一寸五分もよし。かはるがはる灸すべし。灸炷の多少と大小は、其の気力に随ふべし。虚弱の人、老衰の人は、灸炷小にして、壮数もすくなかるべし。天枢などに灸するに、気虚弱の人は、一日に一穴、二日に一穴、四日に両穴、灸すべし。一時に多くして、熱痛を忍ぶべからず。日数をへて灸してもよし。」

 淺井南皋著『養生録』(文化九年刊)には「二月八月とも二日やいとヽいふてすへる人あり、是も畢竟春秋は其氣はげしからず中分故に時節宜にかなふを以て云たるなるべし、なるほと此比は灸して心持も別して宜しき故に先二日にかぎらす彼岸時分はすべて宜しかるべきなり。」「二月は陽気さかんに旺ずるの時、八月は陰気さかんに旺ずるの時」というのは、「周易」によるものであろう。「十二消息卦」では、二月は「雷天大壯」で「冥 乾下明震上、雷天大壯。大とは陽を謂ふなり、四陽盛んに長ず、故に大壯と爲す。二月の卦なり」。八月は「風地觀」で「 鳴坤下盟巽上、風地觀。此の卦は四陰爻長じて二陽爻消す。正に八月の卦」とある。「火気を以て土気を補へば、脾胃の陽気発生…」とは、前述した「社日」の項で、「元來社日といふのは五行の方から云つた土地の神を祭る日で、土と火は五行相生として非常に合つてゐるので、特に灸をすゑる事になつてゐる。この社日の灸が二日灸に轉訛したものだらうが…」といっていることの裏付けになるのであろうか。




②貝原益軒と二日灸

 貝原益軒は寛永七(1630)年、福岡城東邸で誕生し、正徳四(1714)年、84歳で没した。『養生訓』は益軒が没する前年の正徳三(1713)年の著作になる。養生訓の他、『頤生輯要』天和二(1683)年、『日本歳時記』貞亨四(1687)年、『萬寶鄙事記』宝永二(1705)年刊などが二日灸に関連した養生を示している。

 「頤生輯要」は一名貝原先生養生論ともいわれるが、門人竹田定直が著した「摂生輯要」に益軒自ら校訂を加え、「頤生輯要」と改題した上、出版したものといわれている。中国の養生説を中心とし、難解な漢文で書かれた「頤生輯要」を分かりやすく、読みやすい和文にし、長年にわたる自己の経験を加えて日本人の生活に即した養生法を解説したのが、「養生訓」である。『頤生輯要』には二月の項に、久保元叔著(寛文九年刊)の「壽養叢書ニ曰ク…」とあるだけで、他の月には灸法の記載はない。『日本歳時記』は「頤生輯要」の数年後に刊行され、「多病なる人は、二月五月八月十一月に灸して、陽気をたすけ、外邪をふせぐべし」、二月は「此月、日を択て灸治すべし」といい、八月は「上旬に日を択て灸治すべし」と記している。『萬寶鄙事記』には、「春は春分の末清明の初め…秋は白露(八月ノ節)の前後より、秋分の前迄よし。」また、『養生訓』には「毎年二八月」と示されている。

 このように、二八月を指定しながらも、二日を特定しなかったのは、益軒が二日灸の存在を知らなかったのではないと思われる。世上、二日灸は盛んに行われ、また「日本歳時記」が貞亨四(1687)年に刊行された翌年の元禄元年九月、日次紀事(貞亨二年刊)を著した黒川道祐と京都で合い、以後交際を始めていることからも、歳時習俗や禁忌・吉凶について意見交換があったと考えて不思議ではない。二日に特定しなかったのは「頤生輯要」巻之三(四時調攝摠論)の文末に「篤信案ずるに、…凡そ雑書の説、理に合はざる者は、妄りには信ずべからず。」というように、禁忌・吉凶に対する益軒自身の見識と考える。




■[5]二日灸(二十日灸)の地方特性

①二日灸と二十日灸

 日本各地に伝わる二日灸や二十日灸を整理してみると、一月二十日の二十日灸は東北・関東・信越の各地方に多く、二月二日の二日灸は東海・近畿・中国・四国・九州の各地方に多い。また、二八月の二日両日の二日灸は岡山(勝田郡勝田町梶並)、山口(長門市大島)、徳島(三好郡東祖谷山村)、香川(三豊郡財田町)、福岡(県下全般、田川郡添田町津野)、佐賀(神崎郡東背振村下不動・松隈、鳥栖市周辺)、長崎(山田村、県内、佐世保市大野地区・早岐地区・宮地区)、熊本(下益城郡、下益城郡当麻村)など限られた地域であった。八月二日のみの二日灸は青森(北津軽郡十三湖畔)、香川(仲多度郡琴平町・坂出市)だけであった。二月二日の二日灸が西日本に多く、二八月の二日両日の二日灸に岡山、山口、徳島、香川、福岡、佐賀、長崎、熊本など限られた地域なのは、折口信夫が「年に二度の収穫をする地方の人々には、一年に春が二度来るのである。」と指摘している通りである(註1)。

確かに、二期作(高知)や二毛作(関東・瀬戸内・南海・九州などの西日本地方)を行う温かい地方には基本的に一年両分性が備わっているのではないだろうか。逆に東北地方を中心に関東・信越などは、一年に一度の春しか来ないゆえに二十日灸が多いのかと思う。また同じく、関東以北は一月二十日が多く、関東以西は二月二日が多いということについては、柳田國男の「関西の方では、この小正月の行事を出來るだけ少なくし、それを節分即ち立春の前の晩に、持つて行つて居る地方の多いのは、恐らくは今日の月送り正月と、同じやうな心持であつたらうかと思ふ。大體に日本をほゞ中央で二分して、東日本の方では是非とも正月十五日の前の晩にすることになつて居る初春の行事、たとへば豆撒きや鳥追ひ、年占田神祭のやうなものを、西では節分の晩に營むことになつて居るやうである。」という言葉によって理解できる(註2)。

(註1)『折口信夫全集第十五巻』折口信夫著、中央公論社、昭和30年1月発行、65頁。

(註2)『定本柳田國男集第十三巻』206頁




②新旧暦の混乱

 明治になり太陽暦への改暦があったが、まだまだ年中行事や農漁村などには旧暦(陰暦、正確には太陰太陽暦)で行なった方が都合が良いことがある。旧暦でなくとも、一月遅れで行なう地方はいまだに多く、そのために新旧暦の混乱と見られることがある。

1.新潟県越後三面村では二十日灸を二月二十日に行なう。

2.福岡県早良郡早良町内野・脇山地区ではやいと日で二月二日と九月二日の組合せと、三月二日と九月二日という組合せがある。

3.長崎県大村市松原は二日ヤイトといい、三月二日に行なう。




③トンドと灸箸

 新暦が導入される以前、古くは一ヶ月を満月から次の満月までの間として区切っていた。十二月十五日は神迎えの日で、一月十五日に神送りを行った。一月一日の大正月の出現後は神事は大正月に移り、農事に繋がるものが十五日の小正月に残されていったが、正月飾りを燃やして神送りをする風習は、トンドの火祭り行事としてそのまま引き継がれていった。一月十四日または十五日の小正月の日に行う神送りの火祭り行事にトンドがある。正しくは〃左義長〃といい、日本各地で行われるが、地方によって、トンド・ドンド・どんどん焼き・さいとう焼き・ほっけんぎょうなどの呼び名がある。トンドまたはドンドと呼ぶのは中国・四国地方に多い。これは正月の松飾りを各戸から集めて焼き上げる行事で、この火を身体にあびると無病息災になるとか、書き初めを焼いて炎と共に高く揚がると字が上達するとか、団子や餅を焼いて食べたり、残り灰を家の回りに撒いて虫除けにしたり、またトンドの燃え方で年占いをする所もある。トンドの火をヤイト火に使ったり、トンドの焼き竹でヤイト箸を作って、灸をすえる時に使う地方もある。

 トンドの火をヤイト火に使ったり、焼き竹でヤイト箸を作って灸をすえる習俗についての古い記録は、文化文政(1804~1829)年代に各地で著された『風俗問状答』がある。『風俗問状答』は、江戸幕府の奥儒者屋代太郎弘賢が諸国の風俗や習禮を問い合わせた回答書といわれ、次のように記されている。

1.越後國長岡領…こげ餘れる青竹の根は灸治の箸にしてよろしといへり。

2.丹後國峯山領…右竹の燃え殘りをもつて灸箸に作り用ひ候得ば、百病を除灸熱発せず。

3.備後國福山領…又とんと竹のやけ殘りを家々へ分ち遣し是を灸筋に仕候。

 また、近年の民俗誌には、次のように福井・京都・兵庫・鳥取・島根・岡山など北陸近畿中国などの近隣地方に集中しているのは特徴的である。トンドの火を用いて灸をすえる

方法は、その内容から次のように分類できる。

(1)トンドの火を火種にして灸をすえる

1.福井県大飯郡高浜町子生…一月十五日の早朝に焼くドンドの火を持ち帰って、老人や子供に灸をすえると、その年一年中わずらわないという。

2.兵庫県城崎郡竹野町羽入・金原・中村・床瀬・下村…一月六・七日の神送りのドンドの松の燃えさしを持ち帰り、これをやいとの時に使う。

3.兵庫県城崎郡竹野町三原…一月十四日の神送りのトンドで焼いた後の焼き竹をお灸に使用して健康を祈る。

4.兵庫県城崎郡竹野町奥竹野…歳神さまはヤイトが嫌いでこの日にすえるとよく効くといってトンドの火を使用する。

5.岡山県真庭郡新庄村…一月十五日、「ヤイトウはじめ」といってトンドの火で灸をすえるとよく効く。

(2)トンドの神竹の焼け残りで、灸箸を作り、灸をすえる。

1.京都府船井郡瑞穂町橋爪…一月十五日(今は、七日)の小正月に大火を焚く、トンドの竹をエビスサンに祭り、ヤイト箸にする。

2.京都府大宮町新宮…「どうどや」で青竹を燃やし、燃え残りの竹を家に持ち帰って、「やいとばし」を作り灸をすえた。

3.京都府中郡峰山町…「どんどや」で、燃え残りの竹を持ち帰って「やいとばし」を作り、灸をすえた。体が丈夫になると言われた。

4.兵庫県朝来郡朝来町多々良木…一月十四日朝にトンドを行い、トンドの燃え残りの竹で十五日の小豆粥を食べ、夫婦箸やもぐさを挟むヤイト箸にする。

5.鳥取県伯耆中山間部…トンド火をヤイト火に用いるとよく効くといい、また火のついた竹をヤイト箸にするとよい。八頭郡川原町弓河内、東伯郡関金町田中・野添、日野郡御机・下蚊屋、日野郡溝口郡荘・畑池、西伯郡会見町三崎、西伯郡西伯町江原

6.鳥取県西伯郡西伯町清水川…一月七日のとんどさんで、神竹でやいとばしを作る。

7.鳥取県西伯郡西伯町倭…一月八日のとんどさんで、焼け残りの歳神の依代の竹で作った灸箸を用いると灸がよくきく。

8.鳥取県西伯郡西伯町大字法勝寺(藤田敦史さん)…トンドさんのシンボコ(トンドの真ん中に立っている竹)でヤイト箸を作り灸をすえる。

9.島根県隠岐郡海士町福井…トンドの焼け竹を灸をすえる時の箸に使う。

10.島根県平田市伊野…とんどさんの火の中で焼け残った門松の竹の枝を火箸にして持ち帰り、これで灸をすえた。

11.島根県松江市朝酌…一月十五日のトンドの神木竹の焼け残りでお灸の箸を作る。

(3)トンドの神竹で灸箸を作ったり、トンドの松の枝を線香代わりにして、二月二日の二日

灸の日に灸をすえる。

1.島根県隠岐郡知夫村…〈薄毛・古海・大江・郡・多沢地区〉一月十五日のトンド焼き竹を取って置き灸箸を作って、二月二日の二日やきでお灸をすえる。〈来居地区〉一月十五日のとんどさんの時に拾っておいた松の枝を取っておいて、二月二日の二日灸の日に、線香代わりにしてお灸をすえる。トンドの灸箸については、鳥取県や島根県の一部で現在も行われていて、鳥取県西伯郡西伯町大字法勝寺に在住の藤田敦史さんから、直接、灸箸の寄贈を受けている。灸箸の歴史は古く、平安時代末期から鎌倉初期に土佐光長が畫いた『病の草子』の「小舌の圖」に、口中の腫れ物に灸箸を使用している図絵がある(註1)。

江戸時代に入っても灸箸はトンドの歳時習俗に限らず、日常的に使われていたらしく、次のような句がある。

   桃が枝の直撰られて四花の箸     [うたたね](江戸)元禄七年

   とりついて・灰につゝ込む灸ばし    [軽口頓作](上方)宝永六年

   させろといわれ灸箸をすてゝ迯げ   [末摘花三26]寛政三年

   四書の中から灸箸が片し出る     [藐姑柳](江戸)天明5年

   灸箸の草臥を訪ふ鬢の髪       [収月評](江戸)寛延一年

   大神楽見せる髪には灸箸       [柳多留二11]明和四年

 また、灸箸の材料としては「竹」よりも「桃」がよいといわれている。「桃」は「邪気を祓う仙木」といわれ、三月三日の「雛祭り(桃の節供)」に桃を使うのも邪気祓いの意味が

あったのである。『灸法口訣指南』(貞亨二年刊)[灸箸ノ論第七]には「灸箸ノ法古昔ノ諸書ニ述記セズ…和朝ノ俗三月三日桃木ノ枝東ニ指タルヲ取テ粗皮ヲ刋去久ク枯シ置テ用レ之。此ヲ本草ニ考ルニ桃ヨク邪鬼中悪ヲ除ク。マタ類要ニ東ニ指シタル桃枝ヲ取テ湯ニ煎ジ常ニ洗浴スレバ天行疫癘ヲ除ノ法アリ然ルトキハ桃枝ノ箸ヲ用ルコトモ理アリ或ハ竹箸ヲ以テスル者アレドモ竹ノ性新舊共ニ火ニ近ヅクレバ油濕テ悪シ。桃枝モ又新キハ濕アリ陳舊ナルヲ良シトス。」と記されている。(註2)

十四または十五日のトンドと二日灸との関連については、島根県隠岐郡知夫村の薄毛・古海・大江・郡・多沢などの地区で、一月十五日のトンド焼きでトンドの竹を取って置き灸箸を作って、二月二日の二日やきでお灸をすえたり、来居地区では一月十五日のとんどさんの時に拾っておいた松の枝を取っておいて二月二日の二日灸の日に、線香代わりにしてお灸をすえるなど二日灸につながりが見受けられる。

(註1)『平安時代醫學の研究』服部敏良著、科学書院、昭和56年9月25日発行、圖版。

(註2)『灸法口訣指南』洛下隠士序、貞亨二年刊。43頁。(「続・鍼灸医学諺解書集成4」池田太喜男・首藤傳明監修、オリエント出版社、一九八八年二月二二日発行に掲載)




④呼称

 二日灸・二十日灸は一般的な名称で全国どこにでも通じるが、地方によって独特な呼び方もある。

1.キウヒマチ…青森県南部八戸地方ではキウヒマチ・キウス・キウスマチといい「灸日待」と書く。日本には、古来から日待月待習俗というものがあり、古い習俗に近づけようという気持ちが込められているのか、或は灸日待は二日灸より古い習俗であることを示唆しているのか興味がある。

2.芽出し…青森県北津軽郡板柳町。

3.ヨガカユブシ…岩手県遠野地方では松葉を束ね火をつけてヨガ・カ・ムカデ退治に歩く。ヤイトヤキともいい、二十日灸との関連でついたものか。

4.ヤイヒゾメ…秋田県男鹿地方。越後では灸をすえることをヤヒタテルという。ヤイヒ又はヤヒは焼火でヤイトよりも古い。高知でもヤイヒゾメという。

5.カゼノカミオクリ…千葉県銚子では、風邪に限らずすべての病を送るため麥稈で人形をこしらへ、夕方に笛太鼓を以て村の境まで送る「風の神送り」をする。

6.おきゅう正月…新潟県中魚沼郡津南町大字上郷・宮野原。南魚沼郡六日町五十沢地ではヤイビ正月(ジンキョという)、島根県仁多郡横田町ではエイト正月、愛媛県上浮穴郡柳谷村でもヤイト正月といい、二十日灸が正月行事の一環として行われていることがわかる。また、二月二日に二日灸をすえる広島県内や島根県那賀郡弥栄村大字長安本郷でもヤイト正月という。

7.ジン焼き…新潟県東頸城郡松之山町松里地区。

8.灸どえ…福岡県鞍手郡鞍手町大字長谷。

9.エートスエ…福岡県大牟田市大字岬の内黒崎、長崎県県内。

10.ヤトヤキ…熊本県下益城郡当麻村。

11.春祈祷…大分県大分市羽屋。

12.ジゴク入り…大分県別府市内成。

13.二十日ンヤソ…鹿児島県大島郡竜郷村浦。二日灸を行う九州地方で、一月二十日に灸をすえるのはここだけである。




⑤灸の形式

 日本各地で行われる二十日灸或は二日灸は、その呼称と同じように実に様々である。東北・関東・信越地方は正月行事のように儀式化され、人間だけでなく、馬牛や家畜にまでする。また、囲炉裏の自在や戸口の敷居、諸道具にもするところが多い。お灸の方法にしても、直接すえるところも多いが、すえる真似をしたり、灸の煙だけをかけたり、頭にかぶりものをしてその上にすえる地方も多い。

(1)頭にかぶる

1.雑器…宮城県仙台市・刈田郡七ケ宿

2.皿灸…秋田県仙北郡・南秋田郡井川町・男鹿半島地方、山形県全域、新潟県岩船郡山北町

3.昆布…秋田県雄勝郡羽後町・雄勝郡雄勝町

4.ユズリハ…秋田県本庄市柳生

5.一升桝…秋田県由利郡

6.ほうろく灸…神奈川県相模原市法性寺、山梨県南巨摩郡南部町本郷寺

7.摺鉢…群馬県新田郡薮塚本町(シラジ)・栃木県足利市上渋垂、石橋鎌次郎氏邸(シラジ)・伊勢崎市(シラジ)・沢波郡東村(シラジ)・福井県鯖江市長泉寺町中道院・小浜市四分の一法雲寺・南条郡今庄町今庄清心寺、鳥取県米子市和田町、島根県八束郡美保関町(カガチ)

8.那賀郡弥栄村・鹿足郡畑村、岡山県阿哲郡神郷町新郷(カグツ)

(2)真似をする、煙をかける

1.岩手県東磐井郡室根村…注連縄の先に火をつけ撫でる真似をする

2.岩手県宮古市津軽石…粟穂の笹に火をつけ身体を撫でる真似をする

3.宮城県栗原郡栗駒町角ガ崎…蓬をもんで粉にし皿に盛って燃やし厄除けにする

4.宮城県黒川郡大和町南川ダム地域…蓬で艾を作りザッキに入れいぶし、体に煙をかける

5.宮城県桃生郡雄勝町大浜…艾を桝の底に盛って燃やし、煙をかける

6.宮城県栗原郡金成町…注縄の紙に火をつけ体にかざす

7.宮城県蔵王山麓釜房ダム水没地区…灸草をもみ火をつけ面々の頭をいぶす

8.新潟県岩船郡朝日村三面…蓬を椿の葉に載せ、灸をすえる真似をする

(3)お灸よりも効く、お灸をしなくてもよい、食べた数だけすえる。

1.福島県裏磐梯北塩原村…ダンゴを食べると灸をしなくて良い。桧原ではダンゴを汁に入れて食べると灸よりも効く。

2.茨城県西茨城郡岩瀬町…子供には食べた餅の数だけすえた

3.茨城県新治郡出島村…ナラセモチを取って雑煮にし、食べた数だけ灸をすえる。

4.新潟県東頸城郡松代町奴奈川地区竹所…オソナエの餅を食べた数だけすえる

5.新潟県二王寺山麓…朝食べた小豆粥の団子の数だけすえる

6.岡山県新成羽川ダム水没地区(小谷)…蓬の入った団子を食べると灸の代わりになる

(4)施灸の部位(経穴)

1.秋田県大曲市(本庄孝助先生)…百会・大椎・肝兪・命門・足三里に米粒五壮

2.島根県隠岐郡西ノ島町赤之江…肩の真ン中のチッケ(身柱)

3.岡山県真庭郡美甘村河田…大人は三里、子供はチリケ(身柱)

4.福岡県県下全般…足三里左右三火




⑥根切れ葉切れ病切れ

 二日灸や二十日灸を行うときに、「唱えごと」をする地方がある。「○○が痛まないように」「○○が良くなるように」と唱えるのは一般的であるが、他にも色々な唱えごとがある。

1.岩手県宮古市津軽石…「ヤンモウヤク」

2.愛媛県越智郡島嶼部地区…「二月二日よくきくように、アビラウンケンソワカ」

3.宮城県仙台市…「根切れ葉切れ病切れ」

4.栃木県足利市上渋垂(石橋鎌次郎氏宅)…「ねっきり、はっきり、やまいきり」

5.群馬県伊勢崎市…「ネッキリ、シャッキリ、ヤーマイキレロ」

 『灸法口訣指南』[俗説論第十八]には「本朝ノ世俗灸炷ノ後。必鐵小刀ヲ持テ。灸瘡ニ推アテ根切葉切ト唱エル者アリ。潜按ズルニ鐵刀ノ正ニ冷ナルヲ以テ。火毒ノ鬱ヲ散ジ。病ノ根切葉切ト唱テ邪悪ノ鬼ヲシテ。禁呪スルノ一法力ナリ。」と記されている。




⑦五月の節供

 お灸に使う艾は市販のものを使う場合もあっただろうが、自ら野山で蓬を採って乾燥させて艾を作った地方も多かったと思われる。採集時期の指定をする処もあって、秋田県雄勝郡稲川町大館や新潟県東頸城郡松之山町では、夏の土用の日に摘み乾燥させておいた蓬をもんで艾を作っている。特に興味深いのは、宮城・秋田・山形・群馬・新潟など関東以北に見られる「五月節句の蓬で艾を作る」地方のあることである。これは、南朝梁の宗懍の『荊楚歳時記』五月五日の項の「艾を採りて以て人為り、門戸上に懸けて以て毒気を禳う」に由来すると思われる。艾(ヨモギ)には身体にかかる邪気や毒気を祓い、身体を護る力がある。




⑧灸食

 灸すえ日には仕事を休んで、灸をすえた後に飲食する地方も多い。東日本では正月行事の儀式的要素が強いので、飲食といっても団子や餅、雑煮を食べる位だが、西日本では賑やかなところもあるようである。子供たちには灸すえのご褒美に灸饗(きゅうぎょう)或は灸食(きゅうじき)、豆煎りといって、かき餅やあられなどの煎りものを与えることが多かった。川柳などの題材にもなっている。

1.島根県隠岐郡海士町福井・知夫村字多沢…おとなしく灸をすえた子には灸ボコリといってカキモチなどをやった。

2.徳島県県内…子供には灸食といって煎餅や炒り物を与えた。

  豆いりはまず饗応のはじめなり   門柳[柳多留三一26]

  やいとぎょうきばり声で礼をいゝ  [川柳評](江)(明二・義5)




■[6]二日灸総括

①正月じまいの行事

 一月二十日は小正月の終わりで正月じまいの日にあたる。二月一日も二月正月というようにめでたい正月をもう一度祝ったり、前年厄年の者が新年を迎えて、厄落しを行うための取越正月を行った。また二月一日は暦法以前に一月十五日を望の正月とした時の小正月に当るということから、一月二十日も二月一日もともに正月の終わりの日であった。したがって、一月二十日に行う二十日灸も二月二日に行う二十日灸も正月じまいを待って初灸を行った歳時で、その効力は普段のお灸の倍から百倍あると信じられていた。中国の正月は昔から現在まで、陰暦の旧正月で祝い、陰暦の新年は丁度「立春」の前後にあたるので「春節」と呼んでいる。したがって、わが国で正月じまい行事の一環として行う二十日灸と二月二日の二日灸は日本独自の風習といえる。二月二日だけに限って二日灸を行うのは、秋田・新潟・東京・千葉・静岡・愛知・滋賀・奈良・大阪・岡山・鳥取・広島・島根・山口・徳島・愛媛・高知・福岡・大分・佐賀・長崎・熊本・宮崎など全国23県地方にわたっている。八月二日だけに二日灸を行うのは青森・香川の二県しかない。二月二日と八月二日の両方に行うのは、岡山・広島・山口・徳島・香川・福岡・佐賀・長崎・熊本などの中国・四国・九州地方に限られている。二月二日と八月二日の両方に行う岡山・広島・山口・徳島・香川・福岡・佐賀・長崎・熊本などの中国・四国・九州などの温暖な地方は、年中行事の二重構造で記したように「年に二度の収穫をする地方の人々には、一年に春が二度来る」ことと関係があるのだろう。これらのことから、わが国においては正月じまいの行事としての位置づけが強く、俳諧の季語になっている二日灸は二月二日の春の灸を用いていることからわかるように、二日灸は秋の灸よりも春の灸に重点がおかれている。




②二日灸の起源は社日の灸

二日灸は二月二日と八月二日の両日に行うが、一番の原由は「社日」であろう。社日は社の祭りであるが、中国では古く後漢時代から伝えられ春秋2回行われ、これを春

社・秋社といった。時代とともに日にちは変遷するが、明代(1368~1644)に入り二月の最初の戌の日になり、次第に二月二日と八月二日に固定されていった。わが国も明から清にかけて社日(二・八月最初の戌の日)が二・八月の二日に固定されるころ、明の影響を受けて二月八月の二日に社日の灸が行われるようになり、いつの頃からか二日灸になった。元来社日というのは土地の神を祭る日で、五行説では土と火は五行相生として非常に合っているので、特に灸をすえると良いといわれるようになった。この社日の灸が二日灸に転化したものと考えられる。二日灸が養生灸として特筆される根拠は上述した社日の五行相生にも基づくように、脾胃(土気)虚弱の人は灸(火気)をもって陽気を補えば脾胃の陽気が盛んになり、食欲不振・食滞・下痢泄瀉を予防し壮健になるというところにある。また、「十二消息卦」では、二月は「雷天大壯(冥乾下明震上、雷天大壯。大とは陽を謂い四陽が盛んに長ずる、故に大壯と爲す。二月の卦なり)」で、陽気がさかんに旺ずるときに灸をすえると、陽気の発生を助け余寒に耐えて風寒の邪に外感させないという。八月は「風地觀(鳴坤下盟巽上、風地觀。此の卦は四陰爻長じて二陽爻消す。正に八月の卦なり)」で、陰気がさかんに旺ずるときに風寒の季節に先立って早く灸をすえると秋の陰気に犯されず感冒瘧痢などを起こさないという。中国の養生書にも社日の影響なのか、二・八月には他の月にはない灸治療の記載がある。『養生月覧』宋・周守中編輯(『壽養叢書』明・傳景華著に採録されている)には、「二月には両足の三里・絶骨穴に各七壮灸をして、毒気を洩らせば夏になって脚氣衝心の疾がない」こと、「八月十日。四民並びて朱を以て小兒の頭に点ず、名づけて天灸と為し、以て疾を厭う也。荊楚歳時記」とある。『養余月令』(明・戴義著、1663年)には、「二月。是

の月初めに足三里・絶骨の対穴に各七壮灸をして、毒気を洩らせば夏になって脚氣衝心の病がない」こと、「八月。是の月の社日の早朝に、磁器に百草(ヨモギ)を入れて頭上におき、露で濃い墨をすれば百病を治す。頭痛には太陽穴に点じ、勞瘵には膏肓などに点ず。名づけて天灸という。」とある。

「天灸」は『荊楚歳時記』には八月一日または十四日に行うとあるが、明代になって秋社が八月二日に固定されるころに、天灸も八月二日に移行していったものとも考えられる。その意味では「天灸」も「二日灸」の原由となるであろう。




③養生灸と歳時灸

 養生とは「春たねをまきて夏よく養へば、必ず秋ありて、なりはひ多きが如し(養生訓)」という。これは、常日頃から健康に留意し養生に努めることではあるが、先々の自然の移ろいや体調の変化に応じた四季折々の摂生が養生の本旨であることを示している。また、「脾胃虚弱で食滞や泄瀉しやすい人には毎年二・八月に灸をすえる(養生訓)」こと

や「二月には両足の三里・絶骨穴に各七壮灸をして、毒気を洩らせば夏になって脚氣衝心の疾がない(養生月覧)」ということは、養生灸であるとともに既に歳時灸なのである。

 しかし、『荊楚歳時記』五月五日の項に「艾を採りて以て人に為り、門戸上に懸けて以て毒気を禳う」とあるように、人形(ひとがた)の艾(よもぎ)自体に毒気を祓うシャーマニズム的な霊力があると信じていた。前年の五月五日に採っておいたヨモギを軒に挿しておいたり別に保管しておいて、二十日灸や二日灸に使うことは、お灸の医学的効果だけでなく艾の持つシャーマニズム効果と一月二十日や二月二日という特別な日が重なって、倍も百倍も効くと伝えられた。実際にお灸をすえるだけでなく、すえる真似をしたり灸の煙をかけるだけだったり、皿灸やスリバチ灸だったり、蓬の入った団子を食べると灸の代わりになるとか、トンドの火で灸箸を作って初灸をすえる、また人間だけでなく牛馬や敷居・炉の鉤まですえる地方もある。これらのことは医学的な灸というより、儀式の中で健康や一年の無事を祈る呪術的な色彩が本来的にあったということを示している。

このように、歳時灸は実際にお灸をすえる一方で、特別な効果を信じたり儀式の象徴として艾(ヨモギ・モグサ)を用いている。これが実際にお灸をすえる養生としてのお灸と

違う歳時灸の特色となっている。