品川の130年史


(1)江戸〜昭和初期

 目黒川河口に開かれた品川宿は、江戸から上方に旅立つ最初の宿場、各地から江戸に入る最後の宿場として賑わう。
 明治初期まで、この品川宿(品川、南品川の一帯)と高輪台地の屋敷町以外の区域(品川区の大部分)は、ほとんどが農地で、東京市の外に位置する荏原郡品川町、大井村、大崎村、平塚村であった(明治22年当時;東京市に編入されるのは昭和7年)。
 明治中期頃から本所や芝の工場が、目黒川沿岸に立地するようになってその従業者達も住み始め徐々に市街化が始まる。
 とくに第一次大戦の勃発による近代工業の発展は著しく、明電舎、日本酸素、荏原製作所、日本精工、大崎電気、東京電気、森永製菓、品川白煉瓦、明治護謨、藤倉、星製薬、真崎市川鉛筆(三菱鉛筆)を含め、大崎工場街が形成された。この大崎が、日本の重化学工業化の芽生えとも言われる。
 関東大震災(大正12年)で、品川は火災をまぬがれたが、東京の中心部、川崎・横浜は大被害を受け、被災者が品川に数多く流入した。 最も多い時に大井町に3万人、大崎町に2.5万人の避難民があふれた。地価が安く市街地建物法の適用区域外であった平塚村には、ぞくぞくと仮工場やバラックが建てられ急激な人口増となっている(平塚村では、大正9年8522人が昭和5年には132108人)。


江戸時代末の市街地の範囲

(2)戦後
 関東大震災後、台地部にも多くの人々が住み始めるようになったが、それも第二次大戦の戦災で品川の住宅のほとんどが焼失した。大井町駅前、五反田駅前には、青空市・闇市も多い。 その後、数多くの工場が勃興して、中小工場の町「品川」が形成されていく。
 最も品川区人口が多かったのは昭和39年の7415728人で、その後は過密問題、公害問題等もあって徐々に減少し、現在、約31万人となっている。
東京空襲罹災区域
 

   戦災後の品川(写真;中村立行)

(3)今〜未来
 工場、倉庫などの大規模跡地を利用して、大井町駅前開発、大崎駅前開発、品川駅新幹線停車、品川インターシティ開発、天王洲開発、東品川開発など、大型再開発が相次ぎ、都内で最も21世紀への発展が注目される区となっている。
 新たな立地環境に誘引されて、従来の工場都市から業務都市へと構造変化するやに見られるが、その足下には、従来からのコミュニティや商店、工場が、今も息づいていることを見逃してはならない。
 密な市街地が大部分の品川の町が、形成からおよそ半世紀を経て、機能更新を必要としているのは確かで、新たな時代に向けて、どのように転換していけば良いのだろうか。


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