(1)概要
大正期の品川を特徴づけるのは工業である。機械器具・化学・紡織・金属などの工場が集中的に立地してきている。(3)戦後
とくに、東京電気工業は、次々と電球工場の拡張を図り、我が国電球製造を独占的に担っていく(マツダランプ)。
第一次大戦中に欧米諸国から豆電球・クリスマス電球の注文が殺到し、東京電気工業、品川硝子製造所との関連もあって区内で電球工場が飛躍的に発展していく。
豆電球は、生産が比較的容易で製造技術の習得も用意なことから中小企業が関連する硝子工場とともに続々と生まれ、連日連夜の夜なべ仕事で注文に応じていったそうである。
第一次大戦後の大正7年末頃からの深刻な不況も乗り越え、昭和7年以降は再び電球輸出の時代となり、昭和7年には2.7億個を輸出した。昭和10年の関東電球製造工業組合員数は153事業所で全数248事業所の61.7%を占める。
しかし、輸入国の対抗措置mも厳しくなって一気に不況風に見舞われ、昭和13年頃には生産量が約半数まで落ち込み、戦時体制に入ってさらに厳しい状況に追い込まれていく。
品川区工業は戦後急速に回復していくが、その中心となったのが電気機械工業で区内工場の1/3を占めていた。
電球工場も昭和22年に輸出が再開され順調に回復していく。昭和37年の電球工場の分布を下の添付図に示したが区の全域に及び、南品川4〜5丁目、東大井1〜2丁目、二葉町1〜3丁目、豊町3〜4丁目にとくに集中。
しかし、高度成長の中で低価格競争、東京の労働力不足、賃金の上昇など、低賃金を基盤として手工業で成立していた豆電球工業に大きな影響が生じるようになってきた。地方へ移転して乗り越えようとする企業もあったが零細が多いため、多くの工場が区内に残っていた(昭和40年に、162の組合加盟工場)。
その後、台湾、韓国、香港などの発展途上国の台頭により倒産、廃業する工場が続出。このように豆電球工場は、工業の高度成長、高度技術化に追随できず一気に衰退していくことになった。