品川硝子製造所


品川歴史館で開催された歴史講座「品川硝子製造所の盛衰」(講師;美術史家:由水常雄氏)を聴講した記録です(2000.06.17)。

****年表*******

・明治6年に「興業社」としてスタート
 明治政府の支援のもと英国の機械と技術者を導入して、日本初の板硝子製造会社として設立。それまでの日本ではガラス製の吹竿を使った小振りで驕奢な吹きガラスしかなく、洋館建設の板ガラスや海上保安用の舷灯(航海灯)の必要から国策として始められた。
 場所は、目黒川河口。山手通り大崎駅の近くに三共製薬がありますが、そこに記念碑が残っています。当時の煉瓦造りの建物は、明治村に保存。
・明治9年 板ガラス製造になかなか成功しないため、工部省は興業社を買収し官営「品川硝子製造所」とする。
・明治10年 工部省は品川硝子製造所を改め「品川工作分局」として、さらに用地の拡大、設備を導入し、ガラス製造技術を磨く。明治14年の第二回内国勧業博覧会には、約200種類のガラス製品を出品している(理化学用ガラス、照明、食器、薬用瓶など)。しかし、板ガラスは出来ず、洋食器の需要はまだ少なく赤字続き。
・明治17年 「品川硝子製造所」を西村勝三、稲葉正邦に賃下げするが、一度国に返却
・明治18年 政府は「品川硝子製造所」を西村勝三、稲葉正邦に払い下げ民営化。陸軍用瓶、薬用瓶、ランプ用壺、飲食器・理化学用品の4部門制で生産。
・明治21年 西村らは「有限会社品川硝子会社」を設立し積極的に業務拡張。とくに横浜のキリンビールからの受注により、日本で始めての大量生産によるビール瓶製造に乗り出す。他に、薬瓶や金型プレスによるガラス皿などを製造。
・明治25年 「有限会社品川硝子会社」解散
 世界恐慌、ビール瓶の製造過剰(他社との競合)、板ガラスの製造失敗により経営不振に陥り11月に解散。

*****伝習生が全国に散って創業******

・このように「品川硝子製造所」は、明治6年に始まり、政府の殖産興業政策を受けて、板ガラスの製造を目指したものの、一度も板ガラスを製造することがないまま約20年の幕を閉じた。
・当時、板ガラス製造には円筒で吹き切れ目を入れて板にする英式と平枠に鋳造する仏式があったが、英式は量産が難しく、スタートを間違えたことになる。現在の板ガラス製造は、仏式の発展系であるフロート式である。明治維新が、英国技術に多くを頼ったための失敗である。明治時代には板ガラスをベルギーや英国から買わされており、英国が本当に伝授しようとしたかも怪しい。島津藩は、鹿児島の集成館ですでに仏式板ガラスを製造していたが、薩英戦争の時破壊されている。(薩摩切り子、製鉄で有名な集成館は、是非見学を)
・しかし、英国、ドイツ、オーストリアなどがら技術者を招聘して伝習生を育成したわけで、ここで育った伝習生が日本各地に散って日本のガラス産業の草分けとなった。岩城滝次郎(岩城硝子)、徳永玉吉(徳永硝子)、谷田磐太郎(東京硝子)など40人近くに及ぶ。
・まさに「品川硝子製造所」は、板ガラスは世に出せなかったが、ガラス技術のインキュベータであった。
・日本で本格的に板ガラス製造を商品化したのは、明治35年に島田孫市が大阪で始めた「島田硝子」である。この島田孫市も伝修生の一人。

******硝子の技術を受け継ぐ品川の工業******

・品川における硝子製造所のその後の展開は、
・事業家西村勝三は、硝子製造所と同時期(M17)に、製鉄所高炉の炉材となる耐火煉瓦を製造する「品川白煉瓦」を設立。
・品川硝子の用地や製造設備は三共製薬(M41)に引き継がれ、日本ペイントも目黒川対岸に生まれている(M30)。
・日本光学(ニコン)大井町工場は、品川硝子製造所の伝習生が参加して設立(T6)し、レンズや光学機器を製造。
・明治35年には、「品川硝子製造所」跡地に、東京電気(株)が同名の「品川硝子製造所」を設置し、白熱灯のガラス球の製造開始。その後(M44)に大井町に用地を取得し本格的に電球製造に乗り出す(今の東芝で古い人には馴染みの「マツダ」電球)。
・この電球づくりの技術が、品川の地場産業であるクリスマス電球を産む。最盛期(S40頃)には、約160の電球工場が区内にあって欧米に輸出していたが、台湾等の台頭で一気に減少しS45頃には40社に減少、今は20社程度が残っているかどうか。

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・目黒川は窯業、化学、機械と様々な工業を次々と生み出したが消えるのも早かった。川崎臨海のように、コンビナート化に対応出来なかったからで、それが幸か不幸かは未だ判らない。



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