太平洋戦争の日本海軍指揮官
山本五十六
明治17年4月、新潟県の旧長岡藩士高野家に生れ、後にその英才により請われて長岡藩の名家山本家の養子となった。
士官候補生時代に日露戦争に従軍し、日本海海戦では第一艦隊の巡洋艦「日進」に乗り組んだが、艦橋に直撃を受け艦長と幕僚は全員戦死し五十六も負傷した。
海軍大学校卒業後、米国駐在武官を努め、昭和4年のロンドン軍縮条約会議の随員、昭和9年の軍縮条約会議の代表として派遣されている。
山本は、一時空母「赤城」の艦長を努めた事も有り、航空機の将来性に着目し航空本部技術部長時代には航空兵力の整備育成に努めた。
三国同盟には海軍次官として、米内大臣、井上軍務局長らと3羽烏とよばれ強硬に反対を主張し、対米戦争の回避に努めたが、日中戦争にはまり込み三国同盟を締結したい陸軍と国論の突き上げにより連合艦隊司令長官に転出した。一説には米内大臣が山本の身を案じたとも言われている。
昭和14年に連合艦隊司令長官に就任してからは、緒戦で米海軍を叩き短期決戦で講和の道を開こうとした。
真珠湾攻撃はその緒戦であり、軍令部の反対にもかかわらず主力空母6隻を投入する作戦を承認させた。
以後、南方攻略、インド洋作戦と戦線は順調に推移したが、米空母から飛び立った陸軍機による帝都空襲に刺激され、米空母部隊と決戦を求めミッドウェーに進出したが敗北。4隻の主力空母を失い、機動部隊戦力の低下を招いた。
短期決戦の望みを失い戦局は日米の一進一退となったが、ソロモンの争奪戦を契機に戦機は米軍に傾いていった。
昭和18年4月、前線視察に飛び立った山本は途中、米陸軍戦闘機によって待ち伏せされ戦死した。60歳、元帥となり国葬が行われた。
山本は太平洋戦争では直接機動部隊を指揮した事は無いが、山本抜きには連合艦隊の機動部隊は考えられなかったと言える。複葉のか弱い飛行機が、重く射距離の短い魚雷を抱いてヨタヨタと飛び交っている頃に山本は航空機の可能性に着目していた。
山本に関する文献、書籍は列挙暇が無いので詳細はそれらに譲るとして、彼の経歴として特筆されるのは航空畑の経験が当時の提督の中では抜群に経験豊富なことである。
大正13年に大佐で霞ケ浦航空隊の教頭兼副長となったが、当時は空母「鳳翔」にようやく着艦が成功したばかりで航空戦力の前途は暗中模索の時代であった。
昭和3年末から10ヶ月は「赤城」の艦長を努め、着艦に失敗した飛行機が甲板から落ちそうになった時に飛びついて支えたエピソードが残っている。その後、約3年間航空本部技術部長、8ヶ月の第一航空戦隊司令官を努めている。
人情家であり、戦略的感覚を有した提督であった反面、好き嫌いが激しく、バクチ好きであり躁鬱質であったことを指摘する声も多い。
特に、連合艦隊参謀長の宇垣中将を信頼せず、変人参謀と言われた黒島先任参謀や三和作戦参謀を偏愛したことは指揮官として疑問が残る。また、人事面に関する虚脱感とも感じられる無気力さは機動部隊指揮官を信頼していない南雲中将に任せ、ミッドウェーの敗戦の後も再編した機動部隊の指揮官にすえるなどからもうかがえる。
真珠湾攻撃時の用意周到さがその後はどんどん失われ、作戦が粗雑になり情報管理も不徹底となっていくのは躁鬱気質の現れであろうか。
真珠湾攻撃においては、出港する艦の乗組員の大半は行き先も告げられずにヒトカップ湾に集結し一般航路を北に離れた経路によってハワイ諸島に迫り、開戦劈頭(外務省の怠慢により通告が遅れたが)二波にわたる攻撃隊を送って米太平洋艦隊の戦艦群を壊滅に追い込んだ。この時、第二次攻撃に関して「南雲はやらんよ…」と答えたと言われる。
その後、南方攻略、インド洋作戦と空母部隊を東奔西走させ、珊瑚海海戦では米空母に対して優勢な戦力を投入できず第5航空戦隊が損傷しミッドウェー海戦に不参加となった。
さらに、東方海上から侵入した「ホーネット」より爆撃機が東京を空襲したため急遽ミッドウェー島攻略を企画したが、作戦の目的が島の攻略と米空母の撃滅の二途を追う形となりさらに第4航空戦隊を北方に派遣し別の作戦を行なうなど戦力の分散をしたため主力空母4隻を喪失した。
この時、山本は鈍足の戦艦部隊を率いて機動部隊のはるか後方に出てきていた。敵艦隊の無線情報を傍受していながら機動部隊に警告せず、明確な命令を行なっていない点は実戦指揮官としての限界が現れているのかも知れない。
一敗地にまみれた南雲司令部をそのままにし、再編した機動部隊の司令部としソロモン海戦、南太平洋海戦を戦っているが、南雲司令部の不徹底な戦いによって米空母は損傷はしても修理してすぐ戦線に復帰し日本軍を悩ませる結果となった。
ミッドウェーで劣速の戦艦部隊を率いたのも、戦艦部隊に対する人情的配慮であったとする声も多い。
後述する山口多聞、角田覚治、小沢治三郎などにもっと活躍の場を与えていれば…と思うのは私1人ではあるまい。人事面においての指導力は「情」に厚い山本にとっては不得手な面だったのかも知れない。
但し、山本以外誰も連合艦隊の屋台骨を支えて戦争を継続する力は無かったことも事実であり、山本戦死後の作戦は一層場当たり的なものとなって行く。
米国との国力の差を知り対米戦争の回避に奔走しながら、その戦いの指揮を執らざるを得なかった山本五十六大将は、実戦部隊指揮官と言うよりは海軍大臣向きの統率者であったのかも知れない。
南雲忠一
明治20年、山形県に生れ海兵36期として海軍に入隊した。本科は水雷であり、昭和 10年には第一水雷戦隊司令官、同12年には水雷学校長、同15年海軍大学校長となり、開戦の年の昭和16年4月に第一航空艦隊司令長官となった。
海軍派閥では艦隊派、対米開戦論者であり対米非戦論側の井上軍令部長に「お前なんぞ一刺しだ」と迫った逸話もある。
太平洋戦争では、機動部隊指揮官として第一、第二、第五航空戦隊を率いて真珠湾攻撃を行い、続いて南方攻略、インド洋作戦で連合軍の艦船多数を屠ったが、ミッドウェー海戦で敗北し主力空母4隻を失った。
その後、再編された第三艦隊(機動部隊)指揮官としてソロモン海戦、南太平洋海戦を指揮し、昭和17年佐世保鎮守府、同18年呉鎮守府司令官となったが戦局の悪化により再び前線に立ち、サイパン島防衛の任に就いたが衆寡敵せず昭和19年7月守備隊の玉砕とともに戦死した。
山本五十六が連合艦隊指揮官の善玉とすると悪役に回るのが南雲中将ではないだろうか。対米早期開戦論者であったこと、艦隊派であったこと、真珠湾の第2次攻撃をしなかったこと、ミッドウェーで敗れ空母4隻を喪失した事など悪役と見られる要素は多分にある。
はたしてそうであろうか。南雲は開戦する直前に序列により航空戦隊の指揮をとることとなったが、水雷の大家であり航空分野は素人であったと言われる。
真珠湾攻撃においても前代未聞の大艦隊を、洋上補給を繰り返しつつハワイ北方まで連れて行き、戦艦群を壊滅した戦果を挙げ、無事6隻の空母を連れてかえりその後の作戦においても危うい所はあったものの戦略目的は達成されている。
当時、補給所や燃料庫、ドックなどは攻撃目標の重点とはなっておらず、第一次攻撃により予想以上の戦果を挙げた上は虎の子の空母を無事持ち帰るのが責務と判断したのではないだろうか。
南雲の判断には常に「無事持ち帰る…」が感じられ、南太平洋海戦においても飛行甲板を大破し通信機能を喪失した翔鶴を持ち帰るために戦線から後退し角田少将に指揮権を委譲している。
貴重な艦を守るためには仕方ない処置ではあるが、今一つ闘志に欠けるとの印象を与えがちな指揮ぶりである。また、忍んで近づき必殺の一撃の後すばやく待避する攻撃は水雷戦隊の戦法であり、南雲はやはり水雷の考えを捨てられなかったのではなかろうか。
ミッドウェーでは、山口第2航空戦隊司令官からの意見具申を退けて雷爆装備変更を行い、米軍の先制攻撃を受けるけっかとなったが、山本連合艦隊司令長官が知り得た敵空母接近の情報が伝わっていれば、第2次攻撃隊は雷装のまま待機していた訳で、結果は違った物になっていたのではないだろうか。
また、当初の米軍の攻撃が陸軍機ばかりであり、戦闘機の援護の無い鈍重な攻撃機のみを先に出しても被害が大きいとの判断も戦爆連合にこだわった理由かも知れない。(米雷撃機はミッドウェーで日本側の迎撃と対空砲火で全滅に近い損害を出した)
南雲は、どちらかと言えば寡黙で作戦実行においても参謀に任せていた感がある。真珠湾攻撃においても草鹿参謀長の「手練の一太刀」論により作戦を打ち切っている。
見敵必戦、闘志烈々たる指揮ぶりでは無く「幕僚に任せる…」タイプの指揮官であった。惜しむらくは、参謀長が武士的格好はつけるが闘志に欠け航空戦の本質を掌握していない草鹿龍之介少将であり、彼とコンビを組んだ事が海軍人事の弊害であったのでは無いだろうか。
山口多聞
明治25年8月17日東京に生れ、同42年海軍兵学校40期に入学した。卒業後、第一次大戦に従軍し地中海でドイツ潜水艦と戦い、次いで水雷学校を卒業した。大正13年に海軍大学校に入り、駐米武官、軽巡洋艦「五十鈴」艦長を歴任した。
昭和15年11月、第2航空戦隊司令官として旗艦「飛竜」に将旗を翻した。真珠湾攻撃に際しては、小型で航続距離の短い第2航空戦隊の2艦「蒼竜」「飛竜」を洋上補給の困難さから作戦参加に難色を示した南雲中将に詰め寄って作戦参加した逸話を持っている。
攻撃目標の検討においても山口は港湾施設などの攻撃を主張したようであるが、結局米艦隊に一撃を加えて離脱する方針となった。
真珠湾攻撃後、ウエーキ島攻略、ポートダーウィン攻撃、インド洋作戦と常に機動部隊の主力となって作戦を展開した。
ミッドウェー海戦では、「赤城」「加賀」「蒼竜」が被弾した後、「飛竜」を指揮して米機動部隊に攻撃を敢行して「ヨークタウン」を屠ったが「飛竜」も命運が尽き山口は乗艦とともに波間に消えた。
平時の訓練は大変厳しく、「人殺し多聞丸」とまで異名をとった山口ではあるが、気軽に兵に声を掛け談笑するなど闊達にして明敏な将器であったと言われる。真珠湾攻撃における第二次攻撃の意見具申や、ミッドウェーにおける「現装備のまま、直ちに発進すべし…」の意見具申は寸暇を争う航空戦の本質を理解していた数少ない指揮官であったと言える。
山口の戦死の報に接した、アリューシャン攻略部隊の角田第4航空戦隊司令官は一学年下の山口を悼んで、「山口を機動部隊の指揮官にしてやりたかった、山口の下なら喜んで努める事ができたろうに…」と語ったと言われる。後述するが、空母部隊指揮官として指導力を発揮した角田少将が認めるほど、山口への指揮官としての期待は大きかったのである。
原忠一
明治44年海軍兵学校を卒業、同期に角田がいた。新造空母「翔鶴」「瑞鶴」の指揮官となったところを見るとハンモックナンバーは優秀だったのであろう。
開戦時は、第5航空戦隊「瑞鶴」「翔鶴」を率いて真珠湾攻撃に参加した。5航戦は陸上基地勤務者から選抜された搭乗員が中心であったが、原は良くまとめ上げ真珠湾周辺の基地攻撃に戦果をあげている。
初の空母対空母の戦いとなった珊瑚海海戦では、「レキシントン」を撃沈し「ヨークタウン」に損傷を与えたが、「翔鶴」が損傷し飛行隊も損害が大きかったためミッドウェー海戦に参加できなかった。
原はその後、第8戦隊(巡洋艦戦隊)に転出し再び機動部隊を指揮する事はなく最後は第4艦隊司令官として終戦を迎えた。
珊瑚海海戦では、緒戦で小型空母「祥鳳」を失い翌日の戦闘で「翔鶴」が損傷した。この時の原の指揮ぶりは、ミッドウェーで第二次攻撃隊として零戦6、艦攻10を発進させた山口少将や、南太平洋海戦で3波に及ぶ攻撃隊を送った角田少将に比べて引き際が良すぎたと言われる。
結果論ではあるが、珊瑚海で損傷した「ヨークタウン」は2日の応急修理でミッドウェーに出撃し自らも沈んだが、「赤城」「飛竜」を撃沈している。この海戦でもう一撃を「ヨークタウン」に浴びせていればミッドウェー海戦の様相も違った物になっていたかも知れない。
海戦後は、「祥鳳」喪失の責任と南雲司令部の横滑りによる空母部隊再編により空母部隊指揮官を追われ、巡洋艦戦隊の指揮官となったが、空母4隻を喪失した南雲に対する措置と比べて釈然としないものが感じられる。
角田覚治
明治23年新潟県に生まれた。明治44年に海軍兵学校を卒業したがトップクラスでは無く、太平洋戦争開戦時には少将となり第4航空戦隊司令官であったが、1年後輩の山口多聞少将はより有力な第2航空戦隊司令官であり、同期の伊藤整一は中将・軍令部次長であった。
しかし、角田は実戦指揮官としては卓越した手腕を発揮し、主力空母が全て真珠湾攻撃に向う中、小型空母「龍驤」を率いて南方作戦を成功に導いた。
新造の改装空母「隼鷹」を加えた第4航空戦隊は、ミッドウェー作戦の陽動作戦となるアリューシャン作戦に出撃しダッチハーバーを空襲した。
ミッドウェー海戦の敗北の後、「飛鷹」を加えて再編された第2航空戦隊司令官となったが、「飛鷹」の機関故障により「隼鷹」1隻を率いて南太平洋海戦に臨んだ。
海戦の経緯は拙著ワンワン戦記「南太平洋海戦」に譲るが、角田は三次にわたる攻撃を敢行して遂に「ホーネット」をしとめたのである。
海戦後、中将となり陸上基地航空戦力を統合した第一航空艦隊司令官となったが、書類上の戦力と実力の差は大きく、また米機動部隊の奇襲により大半の戦力を失い、テニアン陥落時に戦死した。
戦争での指揮官は、部下を死地に送らねばならない立場であり、損害を恐れては戦略目標の達成はおぼつかないのであるが、反面人間として部下を慈しみ無駄死にさせない配慮が必要になる。
口で言うのは容易いが、部下に命じ、部下を慈しむことはなかなか出来る物ではない。
アリューシャン作戦の時、角田は攻撃隊を発進させるとさらに母艦を前進させ帰還する攻撃隊を早期に回収することに努めたと言う。一つには反復して攻撃する時間短縮のため、もう一つは少しでも早く着艦させるためであった。北海の激浪の中、角田部隊は米軍機の攻撃に遭いながらも三次にわたりダッチハーバーを空襲した。
南太平洋海戦においても、敵艦発見の報に触れるや随伴の駆逐艦を引き連れて全速25ノットの改装空母「隼鷹」を駆って前進し、「必ず迎えに行く」と攻撃圏外から第一次攻撃を敢行し三次にわたる攻撃を行なっている。
闘志と決断力と部下を思いやる愛情を持った、海軍随一の勇将であったと私は思う。
小沢治三郎
明治19年宮崎県に生まれた。海軍兵学校は37期卒業であり、専科は水雷であった。一時、第一航空戦隊司令官も努めたが、開戦時には南遣艦隊司令官となりマレー半島上陸作戦などを指揮した。
南太平洋海戦後、再編された第三艦隊(機動部隊)司令官となり消耗した搭乗員の補充を行なったが「い」号作戦に転用され、再び整備した戦力も「ろ」号作戦により失われた。
三度再建した機動部隊戦力はすでに枯渇しており、母艦着艦ができない搭乗員まで駆り出して戦わなくてはならなかった。
戦力未整備のまま、マリアナ沖に迫った米機動部隊との決戦はアウト・レンジ作戦を企画したが完敗の終わり、搭乗員の大半を喪失し、空母「大鳳」「「翔鶴」「飛鷹」が沈没し、「隼鷹」「龍鳳」戦艦「榛名」が損傷した。
レイテ沖海戦では、囮艦隊として空母部隊を指揮しハルゼー艦隊を引き付け目的は達したが、栗田艦隊が戦意喪失して反転したため作戦は失敗に終わった。この海戦により歴戦の「瑞鶴」を始め「千歳」「瑞鳳」「千代田」を喪失し連合艦隊の空母部隊は壊滅したのである。
小沢はレイテ沖海戦時の囮艦隊指揮官としての悲劇性と、大将になるのを拒んだ潔さから、遅れてきた機動部隊指揮官としての評価が高い。
確かにマレー半島上陸作戦における指揮ぶりは責任感溢れるものであるが、対艦戦闘における指揮ぶりはいささか巧緻に流れるきらいが感じられる。早くから航空戦隊の着想を持ち、部下からも慕われた良将ではあったが、慎重すぎる指揮ぶりではあった。
マリアナ沖海戦のアウト・レンジ失敗に関し「他にどんな手があったと言うのか」と答えたと言われているが、前述の山口、角田の両指揮官の指揮ぶりに比べると物足りない感じがする。
但し、敗色濃厚な昭和20年中将のまま連合艦隊司令長官となり海軍をまとめて終戦とした統率力は十分評価すべき将器であろう。機動部隊指揮官と言うよりは、連合艦隊司令長官の器だったのかも知れない。
⇒ 第二次世界大戦の歴史
⇒ 太平洋戦争の日本海軍指揮官
⇒ 太平洋戦争のアメリカ海軍指揮官
新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2002年2月25日