勝 海舟
1823年3月12日(文政6年1月30日)生、1899(明治32)年1月21日没。
江戸本所亀沢町(現、東京都墨田区両国4丁目25-3)出身。
幕末・明治の政治家。幕臣。幕末三舟の一人。明治維新後は明治政府に出仕。
勝小吉の長男。母、信子。
旗本小普請組の出。名は義邦。海舟は号。
佐久間象山の書いた「海舟書屋」という額から「海舟」の号をもらいうける。
安房守であったので安房と称し、のち安芳と改名。通称、麟太郎。
乗り物に弱く、船酔いした。
晩年は、洗足池湖畔に居。
墓所、洗足池(南千束2-14-5)
- 1829(文政12)年 親類筋の世話で徳川家慶の5男・初之丞の御学友として江戸城に召し出される
- 1831(天保2)年 多羅尾七郎三郎へ読書の勉強に通う帰りに野犬にかじられて片方の睾丸を失う(これ以来犬が大嫌い)
- 1838(天保9)年 島田虎之助の元で剣術を学ぶ
- 1841(天保12)年 直心影流免許皆伝(箕作阮甫にオランダ語を学ぼうとするが、「性急な江戸っ子には蘭学はむかない」とことわられた)
- 1845年(弘化2)ごろ 永井青崖に蘭学を学ぶ
- 1847(弘化4)年 蘭和辞書「ズーフハルマ」の筆写を始める。剣術の稽古着のまま机に向かい、眠たくなると机にもたれて寝ながら写した
- 1848年8月30日(嘉永元年8月2日) 「ズーフハルマ」の筆写を終える。2部作成し、1部は、30両で売って、賃借料(10両)、筆墨代、生活費に充てる。兵学を学ぶ。諸藩の発注をうけて鉄砲を製造
- 1852年(嘉永5年) 原書を頼りに大砲の製造をはじめる
- 1853年7月12日(嘉永6年7月12日) 海防意見書を作成
- 1855(安政2)年 長崎海軍伝習所伝習生
- 1855年3月6日(安政2年1月18日) 下田取締掛手付、異国応接掛手附蘭書翻訳御用に登用される
- 1858年4月28日(安政5年3月15日) 鹿児島訪問 「咸臨丸」上で島津斉彬に面会
- 6月23日(5月13日) 「咸臨丸」が再び山川を経て鹿児島に入港
- 1859年 江戸に帰府
- 1860年2月4日(安政7年1月13日) 「咸臨丸」で品川を出帆し浦賀に向かう。遣米使節護衛のため太平洋を横断
- 3月17日(安政7年2月25日) サン・フランシスコに上陸
- 4月8日(万延元年3月18日) 帰途に就く
- 4月16日(3月26日) 「咸臨丸」が修理のためメアアイランド海軍造船所のドックに入る
- 5月9日(閏3月19日) サン・フランシスコを出港
- 5月24日(4月4日) ハワイのホノルルに入港
- 5月27日(4月7日) ハワイを出港
- 6月23日(5月5日) 浦賀に帰港
- 講武所砲術師範
- 1862年7月30日(文久2年7月4日) 軍艦操連所頭取
- 10月10日(閏8月17日) 軍艦奉行並に任命される
- 1863年2月25日(文久3年1月8日) 土佐藩出身者多数を弟子にする
- 1863年6月9日(文久3年4月23日) 将軍徳川家茂より「神戸海軍操練所」の設立を許される
- 6月10日(4月24日) 神戸海軍所創設用掛
- 1864年 軍艦奉行
- 海軍操練所を設立し幕府海軍の育成に尽力
- 10月11日(9月11日) 西郷隆盛、吉井幸輔と大坂の旅館・近江屋で会合
- 11月24日(10月25日) 軍艦奉行を免職になる 江戸謹慎
- 1866年7月10日(慶應2年5月28日) 軍艦奉行に再任 大坂出張を命ぜられる
- 7月20日(6月9日) 休戦交渉のため江戸を出立
- 1868年1月27日(慶應4年1月3日) 鳥羽・伏見の戦い
- 2月10日(1月17日) 海軍奉行並
- 2月16日(1月23日) 陸軍総裁
- 3月18日(2月25日) 軍事取扱
- 3月28日(3月5日) はじめて山岡鉄太郎(山岡鉄舟)に会う
- 4月5日(3月13日) 薩摩藩邸(高輪)で西郷隆盛と会見
- 4月6日(3月14日) 薩摩藩邸(田町)で西郷隆盛と会見
- この会見で翌日に予定されていた新政府軍の江戸総攻撃は中止された
- 4月19日(3月27日) 英国公使パークスと海軍総督キップルを訪問
- 5月1日(4月9日) 大久保一翁と池上本門寺の東海道先鋒総督軍を訪問
- 4月26日(4月4日) 土方歳三と会う
- 5月3日(4月11日) 江戸無血開城
- 5月8日(4月16日) 榎本武揚と軍艦引渡し交渉のため館山へ出張
- 明治維新後、明治政府に出仕。参議兼海軍卿。元老院議官。伯爵。枢密顧問官。
- 1898(明治31)年3月3日 徳川慶喜が自宅を訪れる
- 1899(明治32)年1月19日1700ごろ 風呂あがりに胸が苦しいからとブランデーを家人に持ってこさせ、「今度はどうもいけないかもしれんぞ」といって一口飲み、脳溢血でそのまま意識を失う
- 1月21日1700 死亡。 最後の言葉は「コレデオシマイ」
- 1月25日0900より葬儀。 赤坂氷川町四番地の自邸正門から出棺
⇒勝 海舟
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新規作成日:2002年2月26日/最終更新日:2002年2月26日