航研機

航研機
昭和2年(1927年)5月、アメリカのリンドバークがニューヨーク−パリ闘を3時間29分で無着陸飛行して以来、世界の航空界は、直線・周回での航続距離の世界記録をねらった飛行が盛んに行われるようになった。そんな世界航空界の動向に合わせるように、東京帝国大学(現、東京大学)航空研究所は、昭和8年の末から周回航続距離飛行の新記録を樹立てきるような飛行機の設計を始めた。
その設計には、当時の航空研究所の所長・和田小六博士以下多数の先生方があたった。空気抵抗を徹底的に減らすために、繰織者は離着陸の時だけオープンコックピットから顔を出して機を操縦し、水平飛行中は座席を下げ、胴体内に入ってガラスのふたを閉めるという方式をとった。そのため、この飛行機の水平飛行は全く前方が見えないという、現在ではとても考えられない設計となった。また引込脚は、当時日本では未経験のものなうえに、航研機の主翼の構造上、車輪を後方に下げてから内方に引き上げるという2段モーションをとらざるを得なくなり、これが航研機の最大の弱点となった。
航研機の製作担当会社は、東京(大森)にあった東京瓦斯電気工業(のちの日立航空機)に決まり、エンジンは川崎航空機製の液冷12気筒V型を特別に改造したものを、プロぺラは日本楽器の木製2枚羽根固定ピッチのものが使用されることになった。機体の製作は昭和10年4月から開始され、12年5月25日に初飛行に成功した。その後、引込脚の故障で胴体着陸等をしたが、13年5月13日に、藤田雄蔵少佐、高橋福次郎曹長、関根近吉技手の搭乗で、木更津(千葉県)の飛行場を離陸し、木更津・銚子(千葉県)・太田(群馬県)・平塚(神奈川県)の四角コースを3日間にわたって飛行し、11,651kmの周回航続距離世界記録と、1万kmコース平均速度1862km/hの国際記録を樹立した。
日本の飛行機で、公認の世界記録を樹立したのは、戦前・戦後を通じて、この航研機だけである。


参考
神風号
ニッポン号
A-26


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新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日