A-26
A-26
昭和15年(194O年)は、皇紀2600年にあたるとされ、色々な記念行事が計画されたが、斬日新聞社では「東京−ニューョーク間無着陸親善飛行」を目標とする超長距離機の計画を発表した。そしてその基礎計画を、航研機で実績を持つ東京帝国大学(現、東京大学)航空研究所に依頼した。航空研究所では航研機に関係した所員を中心に技術諮悶委員会が組織され、昭和15年3月頃より基礎設計が始まった。そしてこの飛行機は、朝日のAと26OOの26をとってA―26と名付けられた。一方、陸軍の方でも遠距離司令部慎察機の計画を立川飛行機鰍ノ指示して進めていたので、このための資科とA―26の計画を噛み合わせることを考え、この計画をキ77研究機としてあつかうことにした。
昭和15年頃には飛行機の設計技術は飛躍的に向上し、A―26には昭和8年に設計された航研機よりも格段に進歩をとげた新技術がとり入れられた。そして昭和15年秋には詳細設計が始められ、17年2月に完了した。この詳細設計と併行して機体部品の製造が16年春から始められたが、機体そのものの完成は、太平洋戦争勃発のため、遅れに遅れて昭和17年10月になってやっと完成し、11月18日に立川飛行場(東京都)で初飛行に成功した。
その後、このA−26は試験につぐ試験を行っていたが、昭和18年7月7日に2号機がシンガポールからドイツへ向け出発し、途中で消息を断ってしまった。
昭和19年7月2日、このA−26の性能限界を実際に調べるための長距離周回飛行
(長春−ハルビン−白城の3角コ−ス865km)が始まった。搭乗員は朝日新聞社航空部の小俣機長以下6名であったが、3日間の好天に恵まれ16,435kmを57時間12分で飛び切り、当時の世界新記録を樹立した。しかし残念ながら戦争中のため、この記録は公認されなかった。
参考
⇒ 神風号
⇒ 航研機
⇒ ニッポン号
新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日