鄭和
鄭和は明の時代の人で、15世紀初、大艦隊を率いて東南アジア、インド、そしてアフリカにまで遠征した人です。
永楽帝は、また対外積極政策を採って5回もモンゴル高原に親征したほか、ヴェトナムを支配し、イスラム教徒の宦官鄭和をにしばしば大規模な南海遠征をおこなわせた。
鄭和が率いた大艦隊は東南アジアからインド洋・ペルシア湾にいたり、一部はアフリカ東岸にまで達し、南海諸国の対明朝貢をさかんにした。
鄭和の大航海はヴァスコ・ダ・ガマに匹敵し、その規模はヨーロッパの大航海時代を担ったどの艦隊も凌いでいる。
にもかかわらず、あまり知られていない存在です。
これは、鄭和の航海以後、明国が鎖国政策を取ったためもあります。
15世紀の、アジアとヨーロッパの国力の違いを示している事実としても重要であり、
また有益ものです。
明の永楽帝の積極外交政策南方版が、鄭和の南海遠征。
永楽2年(1405年)から宣徳8年(1433年)まで前後7回行われた。
1回の航海に62隻の大船が出かけ、その乗組員は総勢2万8千人を数えたという。
東南アジア・インド、そして一部の者はメッカやアフリカのマリンディまで行った。
当時としては大変な航海だった。
目的は、明朝の勢威を見せつけ、朝貢貿易を促すことだったらしい。
かつて100年ほど前、元朝の侵略軍を乗せた船が航海したルートを平和的な貿易促進キャラバン船が行く。
この南海遠征から60年ほど後に、コロンブスの新大陸発見の航海が行われた。
そしてヨーロッパは、このころからさかんに海外へ進出し、大航海時代、そしてアジア・アフリカ・アメリカの植民地化へと歴史を動かしていくことになる。
大船を62隻も引き連れた鄭和は、何故思い切って喜望峰を回らなかったのだろうか。
が、イギリスの退役海軍将校で歴史学者でもあるガビン・メンジース(Gavin Menzies)が、現存する鄭和の航海記録を調べなおしたところ、艦隊は第六回航海の1421年3月から1423年10月にかけて世界一周の航海を行い、艦隊の一部はアフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったという。
鄭和の艦隊は、天体の角度を測定する装置である六分儀を使って自らの船の位置を記録しながら航海していたが、コンピューターによるシミュレーションで当時の南十字星などの位置を再現し、鄭和の航海記録と照らし合わせたところ、オーストラリアや南極、南北アメリカの沿岸などの場所が浮かび上がった。
また、カリブ海やオーストラリアの周辺で巨大な古い中国の難破船が発見されているが、これらは鄭和の艦隊の一部だった可能性がある、とも指摘している。
鄭和
鄭和(ていわ)は、1371年に生まれた。
父は馬只(マ=ハッジ)といい、この名前は、アラビア語の haji(聖地メッカに巡礼した人)に由来する。
すなわち、鄭和一族は、代々イスラム教徒であり、元代には色目人に属し、特権的地位にあった。
ところが、明が成立し、鄭和の故郷雲南地方を征服すると一家の暮らしは一変する。
12歳の鄭和は、明軍に捕えられて、宦官にされてしまった。
それからまもなく彼は燕王(のちの世祖永楽帝)の藩邸に送られ、しだいに生来の才能を発揮して人々の注目するところとなるのである。
とくに、靖難の変での功績は目ざましいものがあった。
永楽帝は、即位後に宦官の最高職をかれに与えているが、これは、洪武帝以来の伝統を破る大抜擢であった。
1405年、鄭和は永楽帝の命により、200隻の大艦隊を率いて、第1回の南海遠征に出発した。
鄭和の艦隊
鄭和の南海遠征に使われた船は、通称「宝船」といい、約500トンほどであった。
多いときには200隻、1隻に100人から200人乗り組むので、一番多いときで5万人の部隊を率いる勘定になる。
宝船は3段に分かれていて、一番上に約50cmの盛土がしてあった。これは、野菜を植えるためだったという。長い航海で一番欠乏するのがビタミンCであり、その不足による壊血病の予防策であった。
第1回の航海の2年前、皇帝からの命令で福建省や江蘇省などの港に造船所が作られ、福建では137隻、江蘇では200隻の造船が命じられた。航海が始まった後の3年間には、さらに1700隻の建造が進められた。
鄭和艦隊の船は、南京の宝船廠でつくられ、長さ44丈(150メートル)、はば18丈(62メートル)あったと記録されている。
これは現在の8000トンクラスの船に相当するそうだ。
船隊の主力は宝船と呼ばれ、明史によると長さ44丈、幅18丈の大船で、第一次の航海には62隻が建造されたとある。明の常造尺は31.7〜32.1センチほどであったので、長さ約140メートル、幅約58メートルという巨大船になる。マストは9本であった。
1498年、喜望峰を回ったヴァスコ・ダ・ガマの旗艦が120トンであったというから、鄭和の船は当時としては信じられないほどの巨船だったのである。
1957年南京の北西にある明代の造船所「宝船廠」跡から、1本の舵軸が発見された。長さ11メートルのもので、これを基に中国の学者の1人が現代の河船と舵軸の比率から全長48〜53丈(154〜170メートルほど)の船を推定し、宝船の記録は正しい、科学的に証明された、と論じた。
マルコ・ポーロはヨーロッパのものよりは大きい中国の船に驚いており、中国の造船技術が高い水準にあったことは間違いない。しかし、その後の中国の造船にその遺産はなく、木造船の最高峰に達した19世紀のヨーロッパにも、このような超巨大船はない。
第7次の航海には61隻の宝船が出航し、その時の人員は2万7500人ほどで1隻当たり450人である。
1533年に琉球への使節を乗せた船は長さ45メートルのもので340人余が乗っていた。
鄭和の宝船も基本的には沿岸の国に朝貢を求めることが目的であったので、かなりの部分は沿岸づたいである。
尚、一回の航海における隻数は、一つの艦隊として行動したものではなく、いくつかの分隊としてそれぞれの目的地へ航海したとも考えられる。
鄭和の船
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七次の航海
第一回航海
蘇州から出発した船団はチャンパー⇒スマトラ⇒パレンパン⇒マラッカ⇒セイロンと言う航路をたどり、1407年初めにカリカットへと到達した。
この船団の主な目的は、途中の国々に対して明へ朝貢を求める事と、南方の様々な産物を持ち帰る事である。
マラッカ海峡では海賊を行っていた陳祖義という華人を捕らえて一旦本国へ帰国している。
この航海により、それまで明と交流が無かった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。
鄭和が帰国したのは1407年9月である。
第二回航海
帰国後すぐに再出発の命令が出され、1407年末には第2次航海へと出発した。
航路はほぼ同じだが、今度はタイ・ジャワなどを経由してカリカットへ至った。
帰路の途中でセイロン島に中国語・タミール語・ペルシア語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている。
1409年の夏に帰って来た。
第三回航海
再び出発を命じられて1409年末に出発した。
今度もほぼ同じ航路でカリカットに到達したが、帰路のセイロンで現地の王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので鄭和は反撃して王とその家族を虜にして本国へと連れ帰り、1411年七月に帰国した。
第四回航海
アラビア海へ
これまでの3回はいずれもほぼ同じ航路を取り、しかも立て続けの航海であったが、4回目は少し間を置いて1413年の冬に出発した。
これまでとは違い更に西へと行くので、準備が必要だったのだろう。
カリカットへ至るまではこれまでとほぼ同じ航路を取り、そこから更に西へ航海してペルシャ湾のホルムズやアラビア半島南のアデンなどに到達した。
帰路の途中、スマトラで現地の王の要請で兵を使って反逆者を討ち、1415年7月に帰国した。
第五回航海
1417年の冬に出発し、本隊は前回と同じくアデンまで到達したが、途中で分かれた分隊はアフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達したと言う。
1419年8月に帰国したが、この時にはライオン・ヒョウ・ダチョウ・シマウマ・サイなどの珍しい動物を連れ帰っている。
第六回航海
間があいて1421年2月になるが、これは今までとは違って朝貢にやってきていた各国の使節を送るための物であるからである。
今度もほぼ同じ航路を取って、帰国は1422年8月になった。
この航海で、艦隊の一部は、オーストラリアや南極、アフリカ南端から北上してカリブ海沿岸、今のカリフォルニア沖などへも航海したとい説も出ている。
第七回航海
永楽帝の死後に彼の孫の宣徳帝の命令による。
出発は1431年12月で、既に鄭和はかなり年を取っていたが、彼に代わる人材はいなかった。
この時に別働隊はメッカに至ったと言う。
帰国は1433年7月。 帰国後にほどなくして鄭和は死去した。
明の軍船
新規作成日:2002年2月13日/最終更新日:2005年10月16日