伊藤音次郎

伊藤音次郎(1892-1971)
伊藤音次郎は、明治24年(1891年)6月3日、今の大阪市南区恵比寿町に生まれまた。明治41年11月、道頓堀の朝日座てライト兄弟の映画を見てから飛行家になりたいと思い、明治43年には奈良原三次に手紙を書いて、翌44年5月に上京して奈良原のところに弟子入りしている。その後、奈良原式2号・3号・4号機の製作を手伝い、奈良原が稲毛の干潟飛行場に本拠を構えた時は、白戸栄之助教官・伊藤音次郎練習生という関係になっていた。大正4年(1915年)2月には独立して、伊藤飛行機研究所を創立し、白戸栄之助のために飛行機を作ったりしていた。大正4年9月から作りはじめた恵美号で、翌年1月8日、民間機としては初めての帝都(首都、東京)訪問飛行に成功、一躍、飛行家として有名になった。
大正6年10月1日の高潮で稲毛の施設が壊滅した後、伊藤は津田沼町鷲沼(現習志野市)に適地をみつけて、翌年4月にここに移転、規模を拡充して民間航空界の先達として活躍した。そして朝日新聞社の東西定期航空会には、乗員・機材をあげて参加したほか優れた飛行士や飛行機を送り出した。昭和5年(1930年)には日本軽飛行倶楽部を設立して奈良原会長と共にわが国の軽飛行機の普及に貢献し、さらに昭和9年頃から盛んになりはじめたグライダーの試作・発表に毎日新聞社の日本帆走飛行連盟と共に大変な努力をした。
昭和12年末には伊藤飛行機株式会杜と組織を改めて、その活動は航空工業の分野にも及んだが、17年には日本航空工業株式会杜と合併し、常務取締役として航空機産業に活躍した。
終戦とともに成田の恵美農場主となって、開墾に従事していたが、その農地が新東京国際空港敷地にかかると、用地売却契約第1号となった。
昭和46年には「民間航空発祥之地記念碑」建設委員会の代表となり、その昔、自分たちが飛行した稲毛の干潟、千葉市稲岸公園に民間航空発祥之地記念碑を建立した。


参考
奈良原式4号機「鳳号」
奈良原三次
白戸栄之助
伊藤式「恵美1号」
伊藤式「鶴羽2号」
白戸式37型(改造)


戻る TOPに戻る

新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日