YS-11

昭和31年(1956年)、通産省は、航空機製造再開後のわが国航空工業の総力をあげて、中型輸送機を製造することを計画し、32年4月に財団法人輸送機設計研究協会を設立した。この協会では、32年度にオぺレーションリサーチを行い、33年には基礎設計を行ったが、その総括には「A−26」等の木村秀政、企画班には「隼」等の太田稔、空力班には「2式大艇」等のの菊原静男、構造班には「零戦」等の堀越二郎、艤装班には「飛燕」等の土井武夫の各氏が主任を務めた。
そして33年度中にはその基礎設計ができあがり、「YS-11」と名付けられた。YSは輸送機設計研究協会の頭文字てあり、11の最初の1はダートエンジンを付けたものを意昧し、次の1は主翼の総面積が95uであることを意味している。
この基礎設計は、昭和34年5月に設立された日本航空機製造鰍ノ引き継がれ、東條輝男設計部長を長とする設計陣によって詳細設計が進められていったが、日本航空機製造鰍ヘ、設計開発・生産管理・品質管理の総括と販売・アフ夕ーサービスを行い、生産は機体6社がそれぞれ分担を定めて行い、最終の組み立ては三菱重工鰍ェ行った。その生産分担率は、三菱重工54%、川崎重工25%、富士重工10%、新明和工業5%、日本飛行機5%、昭和飛行機1%となっている。
昭和37年8月30日、YS-11の試作1号は初の試鹸飛行に成功し、39年8月には運輸省航空局の型式証明を取得し、同年9月にはオリンピック聖火を沖縄から北海道まて輸送した。
昭和4O年度に入ってから、量産機が全日空、東亜国内航空、運輸省等に次々に納入され、47年に生産を中止するまでに182機のYS-11が生産された。その納入先別機数は、国内の民間機として75機、運輸省・防衛庁等の官庁用として30磯、輸出機は13か国76機となっていた。
平成元年(1989年)4月現在でも、国内民間機として65機、官庁用機34機、海外で56機、総計155機のYS-11が括躍している。そして、それらによっ培われた技術は、次のYX、ずなわちB―767の生産に生かされている。
平成14年(2002年)11月現在でも、国内民間機として15機、官庁用機31機、海外で20機、総計66機のYS-11が括躍しており、未運航の機体(展示保存以外で)として34機がいる。
平成15年(2003年)1月現在日本では、JAC 日本エアコミューター 12機、ANK エアーニッポン 3機、JASDF 航空自衛隊 13機、JMSDF 海上自衛隊 10機、JCG 海上保安庁 5機、JCAB 航空局 3機、が使用されている。
平成18年(2006年)秋には、国内民間機が姿を消した。
平成18年(2006年)末には、航空局での運用が終了した。


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参考
三菱 MU-2
富士 FA-200エアロスバル


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新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2006年12月27日