富士 FA-200エアロスバル

大正6年(1917年)12月、群馬県矢島(現、太田市)に創業した頃の中島飛行機研究所は、伊藤飛行機研究所などと同一レベルにあった。大正7年には神戸の川西清兵衛の援助で日本飛行機製作所と改称。8年12月には中島飛行機製作所となり、陸軍から中島式5型の多量の発注を受けて以来みるみるうちにその規模を拡大し、日本有数の飛行機メーカー、中島飛行機鰍ノなっていった。そして終戦までに数多くの名機を世に送り出したが、戦によってすべての航空機の生産を禁止され、会社自体も財閥解体により富士産業鰍ネどのいくつかの会社に分割されてしまった。
昭和28年(1953年)、講和条約発効の1年後に富士重工業鰍ェ設立され、この会社が初歩練習機メンターのライセンス生産から航空機の生産を再開したが、33年には国産のジェット練習機T−1の試作に成功して量産を開始している。
そんな富士重工業鰍ナ昭和39年、初心者の飛行訓練、家族や友人との飛行や曲技飛行を含むスポーツ航空が楽しめる小型飛行機の開発を計画した。そして、機体強度が強いためほとんどの曲技飛行が可能であり、また強度の割には機体重量が軽いためオンジンに余力があり、上昇力および短距離離着陸性が抜群によく、さらに視界がよくて低速時の安定性がすぐれているFA-200が完成した。これも、戦前からの飛行機製作技術が伝統として富士重工業鰍ノ伝えられていたからである。
このFA-200は、昭和40年8月には初飛行に成功し、運輸省航空局の耐空類別N類(普通の飛行)、U類(実用の飛行)およびA類(曲技飛行)の型式証明を取得。さらにアメリカ連邦航空局、オーストラリア航空省およびスウェーデン航空局から耐空類別の型式証明を取得して、きわめて高度な曲技飛行のできる高性能軽飛行機として世界的に注目を浴びた。そして、160型・180型および180AO型の3機種のRA−2OOは、3O0機生産され、そのラち179機が輸出されて世界の空を飛んている。


参考
YS-11
三菱 MU-2


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新規作成日:2003年1月17日/最終更新日:2003年1月17日