澤太郎左衛門

澤太郎左衛門 (さわ たろうざえもん)
天保5年6月4日〜明治31年5月9日 享年64歳
「沢太郎左衛門」と記するのは、現代の略文字。
幕臣。
天保5年、幕臣澤太八郎の子として江戸に生まれる。
名は貞説。蘭学・砲学を修める。
黒船来航後、海防の重要性が急速に高まる中の安政2年7月、幕府はオランダから贈呈された軍艦スンビン号(和名・観光)と、隊長ペルス・ライケンの指導の下、幕臣や有志諸藩の子弟を教育する為、長崎に海軍伝習所を創設。
課目は航海術運用術、造船学、砲術、船具学、測量術、算術、機関学、築城学、騎兵調練、艦砲・野山砲教練、手銃教練、太鼓打法、地理学、歴史学など多岐にわたり、授業はオランダ語を主体に行われるという困難もあったが、伝習生は熱心に洋学の習得に励んだ。
安政3年9月、箱館奉行書物御用掛として初出仕。
同4年、第2回長崎海軍伝習生に選ばれる。
伝習所の先輩であり、指導役の一人であった勝海舟は、「澤は数多い生徒の中でも抜きん出て秀で、教官達にも評価が高かった」と後述しており、同6年5月には軍艦操練所教授方出役に任命されている。
長崎伝習所は、莫大な経費や地理的関係から次第に江戸築地へ人材を移行したが、国産軍艦「千代田形」の建造計画には、澤も船体部の担当として名を連ねている。
万延元年には軍艦操練所教授方手伝出役となり海上砲術を教えた。
文久2年3月、幕府は第1回遣欧使節団の派遣に続いて、2ヶ月後、特に優秀な青年達15名(内田恒次郎、榎本釜次郎、赤松大三郎、津田真一郎、西周助、伊東玄白、林研海 他)を選抜し、西洋へ長期留学の途に送り出す。
当初の計画では留学先をアメリカに予定していたが、同国で南北戦争が起こっており、欧州オランダへ変更となったものである。
澤は主に火薬・砲術を学ぶ。
砲術に秀でた沢は火薬製造を主に学んだが、どこの国も火薬の生成については極秘事項でそれを学び取ることは困難だった。
そこで沢は一計を案じベルギーの火薬製造所に工夫として入所し、働きながらその生成方を習得。
そしてつてを頼み火薬製造の機械も購入している。
幕府が40万ドルの巨費を投じてオランダに発注し、2,590トン、72.8× 13.4m、クルップ砲18門に通常砲8門、後に追加して計35門もの艦載砲を持ち、文字通り日本一となる最新鋭軍艦「開陽」の竣工を実見し、同艦に乗船し、慶応2年10月から同3年3月の長い航海を経て、日本へ帰還した。
しかし、国内の情勢は既に大きく倒幕へ傾いており、同年10月には将軍徳川慶喜による大政奉還が行われ、同4年(改元後は明治元年)1月に鳥羽伏見の戦が勃発。
幕軍敗退の報に、大坂城から脱出した慶喜は、小舟で幕府旗艦「開陽」に漕ぎ着ける。
折から総司令矢田堀讃岐守と船将榎本が上陸中で不在、副長である澤は主命により慶喜の江戸東帰の航海に指揮を預かる事となった。
世界でも最新の軍艦の威力を知りながら、総大将戦線離脱の為に走らせる心中はどのようなものであったろうか。
江戸に戻った澤はその後家督を長男の鑑之丞に譲り、徳川家恭順と処分の決着した同年8月、品川沖を脱出する榎本艦隊に開陽艦長として加わり、仙台を経て箱館へ渡航する。
新政府軍と交戦、箱館五稜郭占拠を終えた榎本軍であったが、同11月の松前・江差攻略に赴き、風雪激浪な真冬の暴風雨に見舞われ、最大の海上戦力である開陽が江差沖で座礁、数日後に沈没するという大打撃を被る。
特にオランダ留学生当時の開陽誕生から末路迄を見た榎本や澤の痛恨は想像に難くない。
蝦夷共和国での役職選挙後、澤は開拓奉行に選出され、雑賀孫六郎ら200余名の人員と共に、長鯨艦で室蘭に渡り、奥地北辺一帯の防御を任務とした。
開陽座礁沈没という大事件がなければ、或いは澤が本拠箱館から離れる事はなかったのかもしれない。
その後、薩長新政府は旧幕府が米国から買い付けていた軍艦「ストーンウォール号=甲鉄艦」を取得しており、海軍力では優位であった榎本軍との立場は最早逆転した。
明けて明治2年の春、新政府軍の蝦夷再攻略、箱館総攻撃の前に榎本軍は次第に敗勢に
追い込まれ、残る軍艦や土方歳三ら最強の陸将も失い、本陣である五稜郭も5月17日には降伏。
澤は室蘭にあって斎藤辰吉から味方の開城を知らされ5月25日に降伏するに至った。
榎本らとは別便で東京に送致され入牢、入る早々に牢名主になったという逸話がある。
明治5年、特赦を受けて出獄後は、開拓使御用掛を経て海軍兵学寮に勤務。
同8年1月、兵学権頭兼兵学大教授。
15年10月に兵学校教務副総理、18年に海軍一等教官となり、19年2月に辞職。
幕臣出身として希少な大臣就任の栄誉を受け、世評にも取り沙汰された榎本とは対照的ながら、教育者として多くの将校を育て海軍創設に貢献した。
一方で自身の爵位を辞退し、正月の屠蘇や松飾りの祝いを避けて、毎年東京三ノ輪の円通寺においては、幕臣の戊辰戦争戦没者の為に法要を行っていた。
勝海舟は談話集「氷川清話」の中で、自分より若くして亡くなった後輩の澤
を、伝習所時代の様子も含めて回顧しつつ「あれも俺の友達さ」と語り、晩年を静かに暮らした澤の教え子達が今では海軍の枢機として豪傑然としているから面白い話だと結んでいる。
澤太郎左衛門の生き方は、先駆者的な経験や頭脳に恵まれながら、決して明治政府や軍部の中核で脚光を浴びる事はない旧幕臣の一典型であろう。
明治31年没、享年64歳。

・長崎海軍伝習所の同窓生
榎本武揚(共和国総裁、二期生)
矢田堀景蔵(徳川艦隊司令官、一期生、彼は昌平坂学問所の先輩にもあたる。ただし蝦夷地には同行しなかった)。
中島三郎助(箱館奉行並、開陽丸機関長、一期生)
松岡盤吉(蟠龍艦長、二期生)、
上田寅吉(開陽丸船匠長、一期生)
根津勢吉(二代目回天艦長、三期生)
小杉雅之進(江差奉行並、三期生)
・オランダ留学生
上田寅吉(開陽丸船匠長)
古川庄八(開陽丸水夫長)
西周助(法学者、ブレーンのひとり、蝦夷地には同行しない)、
津田真一郎(法学者、ブレーンのひとり、蝦夷地には同行しない)

●滝野川反射炉跡
反射炉とは、高温の反射熱を利用し、純度の高い金属を得る溶解炉のこと。
江戸幕末、諸外国の軍船来航に備え、平成7年まであった国税庁醸造試験所一帯に大砲鋳造のため、幕府の反射炉が築かれた。
箱根の五稜郭の設計をした軍学者、武田斐三郎と、ヨーロッパで火薬製造技術を学んだ沢太郎左衛門らにより、慶応3年(1867)に機械が据え付けられたが、維新となったため大砲鋳造計画も無に帰した。

●圧磨機圧輪
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この圧輪は、幕府の命により板橋火薬製造所の創設者というべき澤太郎左衛門が慶応3年(1868)に、ベルギーで購入したものである。
実際に、明治9年まで黒色火薬の製造に用いられたもので、かなり大きなものである。
現在は、澤太郎左衛門の遺徳を称えた記念碑になっている。
東板橋体育館横の加賀西公園にあり、板橋登録文化財に指定されている。
なお、この圧磨機の圧輪の稼動させるための鉄製の水車の動力源には、石神井川の水が利用されていたとのことである。
板橋の加賀藩屋敷跡は、陸軍第二造兵廠の前身、板橋火薬製造所がおかれた場所で、実質的な創設者、澤太郎左衛門の威徳を称えた碑である。


榎本武揚
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新規作成日:2004年2月11日/最終更新日:2004年2月11日