幕末の海軍伝習・操練所

海軍伝習所

江戸末期、幕府が海軍教育にために設けた機関。長崎海軍伝習所。
出島の右裏手にもうけられたようである。
1855(安政 2)長崎に開設。オランダ海軍士官ペルス・ライケン以下22名の指導の下、オランダから贈られた軍艦スームビング号(観光丸)を用いて近代的な教育を受けさせた。
日本側は永井岩之丞を総督とする39名の伝習生。旗本・御家人・諸藩士から選抜し、勝海舟・榎本武揚らが学んだ。この第一期伝習生の学生長を務めたのが勝麟太郎(のちの海舟)である。 
1857(安政 4)カッテンディーケがヤーパン号(咸臨丸)で来日して教授。
新しく到着したスクリュウ式蒸気船ヤーバン号(威臨丸)とエド号(朝陽丸)を練習船として、第二期・第三期の伝習が行われた。
のちに初代海軍卿となった先述の勝海舟をはじめ、小野友五郎(航海長、軍艦操練所教授)、榎本武揚(中将 海軍卿)、中牟田倉之助(初代海軍軍令部長)、肥田浜五郎(初代海軍機技総監)、川村純義(大将 海軍卿)、赤松大二郎(大将 海軍卿)、松本良順(初代軍医総監)など、近代海軍の発展に寄与した多くの俊才たちがここから巣立っていった。
1859(安政 6. 2.)閉鎖。


幕末 長崎海軍伝習所 ジオラマ / 海上防衛史料館・セイルタワー(佐世保港)
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p0673033_14 観光丸 スームビンク. p0673033_24 咸臨丸 ヤッパン. p0673033_34 朝陽丸 エド.


その後、海軍知識の必要性から、1866(慶応 2)横浜に設置。
フランス式の教育を行ったが、翌1867(慶応 3.11.)江戸築地の海軍所(軍艦操練所)に吸収。




海軍教授所 / 軍艦操練所

安政4(1857)年、長崎海軍伝習所の第一期の伝習が終わると、幕府は永井総督以下の第一期伝習生とスンビン号を江戸に回航、築地南小田原町にある講武所内に海軍教授所を設けた。長崎はあまりに遠くて不便だったためである。この教授所は、2年後に勝海舟が教授方頭取となり御軍艦操練所と改称された。
二度の火災にあい、慶応3年(1867年)浜御殿(今の浜離宮)へ移った。翌年英人教頭トレシーが江戸を去ったため伝習は名実ともに休止された。
後に、海軍兵学校となり、明治政府の海軍創設の基礎となった。

p0673033_14 観光丸 スームビンク.
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観光丸 (復元船)

軍艦操練所跡(説明板)

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海軍操練所

文久三年四月二十三日 将軍徳川家茂(いえもち)と、順動丸で和田岬経由で、上陸した神戸(神戸村小野浜)で、勝海舟は永年考えていたことを切り出した。
「前々から申し上げたとおり、海軍を興すは護国の急務でございます。とくに摂海は、京都、大坂を控え、要衝の地であります。ここ兵庫に海軍操練所を開き、海軍の人材を養成することは最も急務かと存じます。人材は幕臣のみでは足りず、幕臣以外、諸藩の子弟もひろく集めることをお許し頂きとう存じます」
勝の訴えに対し、将軍はただちに「よかろう。許す。そうするがよい」と仰せられ、上様自身で「このあたりの土地はどうか」と区画を指示された。
その跡に「海軍営之基」という碑が建ててある。
海軍操練所は総坪数一万七千百三十坪。場所は生田神社馬場先海岸東寄りにあったらしい。
現在、平野通りにある湊山小学校は、もとその建物の廃材で明治初年に作られたといい、そこの校長室に葵の紋のある屋根瓦が保存されてあるという。

文久3年(1863)年5月、軍艦奉行並−勝海舟は、幕府より神戸に海軍操練所の開設を許された。資金三千両は幕府より出資。その操練所が開設されるまで、勝海舟は私塾を開くことも許された。これが操練所の前身となる海軍塾である。
坂本竜馬は海軍塾塾頭として主に浪人たちで構成したメンバーをまとめた。また、海舟は塾の資金調達のため竜馬を福井へ派遣。福井藩主、松平春嶽から五千両もの大金を借りることに成功した。
主な海軍塾メンバー
土佐 坂本竜馬、近藤長次郎、沢村惣之丞、白峰駿馬、新宮馬之助、新宮馬之助、高松太郎、千屋寅之助、望月亀弥太、安岡金馬、岡田以蔵
鳥取 黒木小太郎
紀州 陸奥源次郎(宗光)

海軍操練所は、海軍兵学校と海軍機関学校を兼ねたものであり、 日本に欧米と肩を並べる海軍を建設するための足がかりを作ろうとしたもの。
勝が神戸を選んだ理由は、江戸時代の末期に網屋吉兵衛(あみやきちべえ)が築いた 「船たで場(ふなたでば)」(船底に付いた貝殻や船虫などを焼くための施設、 現在の「ドッグ」に相当)の設備を利用できると考えたからであった。

元治元年(1864)5月、幕府は海軍操練所の開設を布告、生徒の募集をした。幕臣の子弟たちは繰練所の寄宿舎で、竜馬ら旧塾生と諸藩からのものは海軍塾で寝起きし、練習に励んだ。

ところが、元治元年6月、池田屋事件勃発。犠牲者のなかには海軍塾生の望月亀弥太がいた。さらに7月の蛤御門の変。そのとき幕府と戦った長州軍のなかに海軍塾生の安岡金馬が加わっていた。この2つの事件に海軍塾生が関与していたことで、「海軍操練所は激徒の巣」と幕府より疑いをかけられることになった。
10月、勝海舟は帰国を命じられ、軍艦奉行免職という処分を受けた。翌年3月、正式に海軍操練所は廃止される。

海舟は帰国前に、薩摩の西郷隆盛に会い、竜馬たちを託した。西郷は、薩摩藩邸などに彼ら塾生を潜伏させ、4月には薩摩藩船に乗せ鹿児島へ向かった。

鹿児島に到着した彼らは薩摩藩家老小松帯刀とともに長崎へ向かった。

操練所の開所期間は非常に短かったものの、 その間に坂本龍馬−陸奥宗光(むつむねみつ)など新しい時代を担う人々を育て、 日本の海軍の歴史にも大きな足跡を残している。




佐賀藩 三重津海軍所

安政5年(1858)、三重津に「御船稽古所」が設けられ、翌年に海軍寮が設置された。
この安政6年(1859)には、幕府の長崎海軍伝習所が閉鎖されたので、佐賀藩では、幕府の長崎海軍伝習所一期伝習生を教官として、ここで伝習をした。


(築地)
◎軍艦操練所跡(説明板) 中央区築地5ー20(交差点歩道角)
◎海軍発祥の地(旗山の石碑) 中央区築地5−2水神社敷地内

(浜離宮)
◎延遼館跡 浜離宮恩賜庭園内

浜離宮(幕末)
Pict_1612.

(神戸)
◎神戸海軍操練所跡 神戸市中央区新港町
交通 神戸市各線三宮・元町駅から徒歩10分
◎網屋吉兵衛(あみやきちべえ)の顕彰碑 神戸市中央区新港町
新港第一突堤入口付近

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新規作成日:2002年2月2日/最終更新日:2002年2月7日