幕末の黒船

黒船とは、室町時代末期から江戸時代末期にかけて、わが国を来訪した欧米諸国の 艦船の総称で、その船体が黒色に塗ってあったことに由来する。
当時日本は塗料を用いず白木の船だったが、欧米の船は防腐・防水のためにタール(石炭などからつくる黒くてねばねばした液体)を塗っていた。そのため日本人は欧米の船を黒船と呼んだ。

幕末、鎖国時代の大型外国船を意味するようになり、主な黒船来航としては、以下のようなものがある。

「泰平のねむりをさます 上喜撰 たった四はいで、夜も眠れず」と狂歌にも謳われた ペリーが率いる黒船は、黒船の代表的なものとなった。
この狂歌にでてくる上喜撰とは上質のお茶のことで、これを飲むと夜に眠れなくなる。上喜撰と蒸気船をかけおり、黒船(実際は蒸気船2隻と帆船2隻)の出現は、日本人にとって夜に眠れなくなるほどの衝撃だった。
当時の日本人にとっては、この世の物とは思えないペリーの蒸気船だが、実は、外輪式蒸気軍艦は、すでにイギリス・フランスで発展していたスクリュー式蒸気軍艦に比べ、鈍重さが目立ち、時代遅れのものとなりつつあった。ペリー来航の年に勃発したクリミア戦争では、大きな外輪が敵の砲撃の的となり、外輪を破壊されて航行不能となった艦が続出し、実戦での弱点を露呈していた。

1853来航時のペリーの4隻の艦隊は、2隻が蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号、残り2隻が帆船サラトガ号・プリマス号。
この時、蒸気船の2隻が、動力を持たない2隻を曳航し、全艦が帆走せずに航行している姿を演じて圧倒させたといわれている。
ペリー来航時、艦隊は小田原沖を航行しており、ウィリアム・ハイネ(William Heine)が描いた、小田原湾(BAY OF WODOWARA)には、小田原沖の艦隊が描かれている。

1853来航時のペリー艦隊の行動
羽田沖 7/15 □
本牧沖 7/14 □■●○
根岸沖 7/11 □
富岡沖 7/15 □■●○
猿島沖 7/16-17 □■●○
浦賀沖 7/8 □■●○
久里浜 7/14 □■
□ サスケハナ号 Susquehana
■ ミシシッピ号 Mississippi
● サラトガ号 Saratoga
○ プリマス号 Plymouth


Usa 来日したアメリカ艦艇

蒸気船の動力は、石炭を燃やしてボイラーで蒸気を起こし、その蒸気でエンジンを動かして、船体両側面にある外輪を回転させて推進力とする。ただ、非常に燃費が悪いので、港に出入りするときや無風状態の時しか使われず、航海のほとんどは帆を張って風力を利用していた。

比較
日本の千石船が約20メートル、100トン程度。その為、黒船は20倍以上の大きさになり、このような巨大な蒸気船を見て「伊豆大島が動き出したような巨大な船」だという人もいた。
記念艦三笠の全長が132メートル、ボーイング777が63.73メートル。
日本の船/和船


神奈川条約
嘉永7年(1854年)神奈川において日米和親条約(神奈川条約)が締結され、下田と函館の2港の開港が決まり、ペリー率いる黒船が続々と下田に入港した。
了仙寺はペリーを初めとするアメリカ使節の接待所兼徳川幕府との交渉場所となった。

下田条約
嘉永7年(1854年)5月25日、了仙寺において日米和親条約付録(下田条約)が締結された。内容はアメリカ人の日本における規則ともいうべきもので、日米の異文化交流の歴史がここから始まった。この条約により、下田は日本で初めて外国人が自由に町中を歩ける町となった。日米の異文化交流の歴史は下田から始まったのである。
そして2年後この下田に初代アメリカ駐日総領事ハリスがやってきて、日本とアメリカのつきあいの歴史が始まる。

黒船祭
当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約締結された5月に、毎年行われてる。


マシュー・カルブレイス・ペリー 1794〜1858
1794年4月10日アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートで生まれた。ペリーの父は商船の船長や積荷監督官などをしていた。兄が海軍士官だった影響もあり、ペリーは14才で海軍士官候補生になった。
1821年、植民地の監督官をアフリカに護送する航海で初めて船長の任に就き、翌年、ビッドル提督率いる海賊討伐艦隊に加わり、西インド諸島で海賊退治の任に携わっている。
1833年からブルックリン海軍工廠の指揮官として地上勤務に就くが、1837年に『海軍に関する所見』という論文を発表している。これには、諸外国と比較してアメリカ海軍がいかに貧弱であるかを述べていた。1836年現在、蒸気船の保有数は、イギリス21隻、フランス23隻、に対して、1814年に世界最初の蒸気軍艦デモロゴス号を建造した実績を持つアメリカは、1隻も保有していなかった。
蒸気船研究のために、イギリス・フランスを視察した後、1839年には実験蒸気船フルトン号の初代艦長となり、その実績が議会に認められ、大型の蒸気軍艦ミシシッピ号とミズーリ号が建造された。これにより、アメリカは蒸気軍艦時代の幕開けを迎えた。アメリカ海軍の蒸気船導入に尽力したペリーは、『蒸気海軍の父』と呼ばれるようになった。
1846年から2年続いた対メキシコ戦争で、ペリーはメキシコ湾艦隊司令長官となり、蒸気船を率いて活躍し、アメリカの勝利に終わった。その結果、アメリカはカリフォルニアを得ることとなった。
メキシコ戦争後、郵船総監督官の任に就くが、1852年に東インド艦隊司令長官として日本へ赴くべく命令を受ける。日本遠征艦隊は、当初12隻の予定だったが、艦隊編成がはかどらず、1852年11月24日、ミシシッピ号1隻だけで東海岸ノーフォークを出港した。太平洋を渡る航路には、蒸気船用の給炭地が確保されていなかったため、大西洋を渡り、アフリカ、インド、中国を経る航路をとった。
ペリーが日本遠征に出発したあと、政権が交代し、外交方針が不侵略路線へと転換したため、艦艇が補充されず、1853年7月8日に浦賀に来航したのは、4隻だけとなった。ちなみに、翌年2回目の来日時には9隻の艦隊がそろえていた。
1855年に帰国し、遠征についての詳細な記録『アメリカ艦隊の中国海域及び日本遠征記』という題で出版した。約1500ページに渡る3巻本で、1巻が遠征の全行程、条約交渉、日本人の生活など、2巻が博物学的調査、日本近海の海図など、3巻は航海中の天体の観測記録になっている。1857年12月には「日本遠征記」の編纂作業を終えている。
しかし、人生最大の仕事を終えて生き甲斐を失ったのか、病気で伏せるようになり、1858年3月4日自宅で心臓発作を起こして63年の生涯を閉じている。

サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ1812〜?
ペリー来航時に、通訳としてやって来た。
1812年9月22日、アメリカニューヨーク州ユチカ市で、14人兄弟の長男として生まれた。
1832年、米国対外宣教委員会の中国の広東印刷場(後にマカオへ移転)の監督者になり10年ほど滞在した。その間、印刷技術、中国語、ポルトガル語、日本語を学んだ。一時アメリカへ帰国し、『中国総論』という書物を出版し、これは後世まで高く評価されたそうである。
1837(天保8)年、米国軍艦モリソン号が日本の漂流漁民を送り届けるために浦賀沖へ現れたとき、江戸幕府は大砲を撃ってこれを追い返してしまう事件があり、その時、20代の若き日のウィリアムズも同乗していた。
日本がアメリカ大統領の国書を受け取るまで、日米両国の実務者間で何度も協議が繰り返され、通訳に当たったウィリアムズは、担当の浦賀奉行の配下の性格をよく観察していた。香山栄左衛門は大変紳士的で、ペリー来航を好意的に考えてはいるが、立場上の限度をわきまえていると分析、中島三郎助は、対照的に奇抜な言動をし、船や大砲などなんにでも興味を持ち丹念にメモをとり続けたとある。

ヴィルヘルム・ハイネ 1827〜1885
ペリー提督の久里浜上陸を描いた画家。
1827年1月30日、ドイツのドレスデンで生また。父のフェルディナンドは宮廷劇場の俳優をしていたが、息子を同じ道に進ませず、レンガ積み職の仕事に就かせた。
しかし、その後、ドレスデンの王立芸術学院に入学し、建築学を学んだ。彼は絵画に対する興味を募らせ、劇場の舞台装置の技法や、装飾画を学んだ。その結果、優れた成績が認められ3年間パリに留学することがでが、1849年5月、ドイツのドレスデンが革命の波にのまれ、アメリカに亡命した。
1849年暮れにニューヨークに上陸したが、恵まれた職に就くこともできず、苦しい生活をしていた。しかし、幸運にも、考古学者のエラレム・ジョージ・スクワイヤー(中央アメリカ諸国の代理大使)と知り合い、彼の出版のための挿し絵を描く仕事で生活できるようになった。
やがて、海軍に入り、「マスター・メイル」の資格を得て、日本派遣の遠征艦隊に随行することになった。
当時は、写真機が使われる前で、スケッチ我を描く画家は重要な存在で、しかも、ハイネは速筆のスケッチ画を描く技能を持っていることで定評があった。
彼の日本遠征の時に描かれた絵は、アメリカメリーランド州アナポリスの米海軍兵学校の博物館に保存されている。
後に故郷に戻り、プロイセン政府からの勧誘で、ふたたび日本をはじめとする東アジア遠征に加わったが、その後、1885年、故郷に近いレスニッツで58才の生涯を閉じた。

ゴローニン(ゴローウニン)
ロシアの軍人。ディアナ号で、1811年に南千島を測量中、国後島で松前藩の役人に捕らえられて2年間監禁された。これに対して、ロシアは蝦夷地貿易商の高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕らえた。しかし、高田屋嘉兵衛は事件の解決に尽力し、1813年に両者は釈放された。ゴローニンが帰国後直ちに書いた抑留中の手記『日本幽囚記』は、各国語に訳されて有名になっている。

佐久間 象山/さくま しょうざん1811〜1864
幕末の志士の誰もが一目置いていた、兵学者。勝海舟や吉田松陰が門下生になってる。
1811(文化8)年に生まれ、名を国忠、通称啓之助といい、号の象山は松代にある海抜475メートルの山の名前に由来する。17才で家督を継ぎ、22才の時に江戸遊学を許され佐藤一斎の門徒となり、儒学(朱子学)を学んだ。
1842(天保13)年、老中で海防掛を担当することになった松代藩主・真田幸貫は、象山を顧問として海外事情の調査を依頼した。この時、幕府代官であり、西洋式の砲術家・江川太郎左衛門(英竜)の門下となるとともに、自力で翻訳洋書を読破し、藩主の期待に応えようとした。
その最初が『海防八策』で、1842(天保13)年の秋に提出された。主な内容として、アヘン戦争後のイギリスの動向、江戸を守るための房総や相州の海防、西洋式の大砲の増産、軍艦を建造し海戦の訓練をするなどであった。
この仕事をきっかけとして、西洋兵学の研究に傾き始めた。
1850(嘉永3)年4月、初めて三浦半島に足を運び、海岸にある台場を回り、異国船の進入を防ぐ目的にかなった台場が、江戸湾(東京湾)には1つもないことを知り愕然とし、江戸へ戻った象山は、江戸湾の真ん中を異国船が通過すれば、台場からの弾丸がそこまで届かない致命的な不備を指摘した上申書を幕府に提出しようとしたが、幕府の怒りを恐れた藩当局によって差し止められてしまった。
そして、1853(嘉永6)年6月3日ペリーが来航し、翌4日早朝に江戸の松代藩邸に浦賀沖へ姿を現したと知らせが届き、この知らせはすぐさま象山に告げられ、足軽2人とともに浦賀に向けて旅立ち、その日の夜には浦賀に到着した。
象山が記した『浦賀日記』によると、6月5日に「朝、山に登って黒船の停泊している様子を一見す。」とあり、この時登った山は、現在臨海団地と呼ばれているところと思われる。
真田藩の重役・望月主水に宛てた手紙によると、かねてから懇意にしていた小泉屋に宿泊したとある。翌日、吉田松陰と合流し、東浦賀の徳田屋に宿泊している。


(横浜地区) ◎横浜マリタイムミュージアム (045-221-0280) 〒220 横浜市西区みなとみらい2−1−1
\600(日本丸共通) 10:00-17:00(冬季16:30) 月曜休館。港内3個所に設置されたビデオカメラを館内の機器から操作出来、ウォッチング出来る。図書室は、収蔵資料の請求閲覧も可能。帆船日本丸、横浜港の歩みと現在を中心に海事文化を紹介。
◎神奈川県立 歴史博物館 (045-201-0926) 〒231 横浜市中区南仲通5−60
\300 9:30-17:00 月曜祝翌日休館
◎横浜開港資料館 (045-201-2100) 〒220 横浜市中区日本大通3
\200 9:30-17:00 月曜祝翌日休館。交通:バスで桜木駅から県庁前。

(浦賀・久里浜地区)
◎浦賀港
◎久里浜港
金谷港行き(東京湾フェリー:0468-35-8855)のターミナルがある。交通:京浜急行、京急久里浜駅。
・ペリー記念館 (0468-34-7531)
\0 9:00-16:30 月・祝日の翌日休み 久里浜港ペリー公園の中

(下田地区)
◎下田 (観光協会:0558-22-1531)
下田駅前に、黒船の模型有り。毎年5月中旬に黒船祭が行われる。
・下田開港記念館 *閉鎖* 資料は豆州下田郷土資料館へ統合。
・豆州下田郷土貿料館 (0558-23-2500) 下田市4−8−13
\820 8:30-17:30 年中無休 幕末、ペリー関係の貸料の展示他。
・下田城 (0558-22-3622)
\600 日本海軍艦艇模型保存会の1/200の模型を一堂に展示していたが、今はないかも。
・了仙寺 (0558-22-0657) 415-0023 下田市3-12-12
\500 8:30-17:00 黒船に関する膨大な資料は了仙寺宝物館に所蔵展示されている。

(函館地区)
・「会見所跡」の木柱(函館市弁天町)
ペリーと松前藩家老、松前勘解由らが会見を行った豪商・山田屋寿兵衛宅跡にある。

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新規作成日:2002年2月1日/最終更新日:2002年12月30日