浦賀奉行所

享保5年(1720年)に下田にあった奉行所が、この地に移転してきました。
この際、下田奉行所から持ってきた「伊豆石」が浦賀奉行所の玄関石とされたが、この石が現在も残されている。
浦賀奉行所は海岸近くに浦賀番所を持ち、江戸湾を入出港する船舶の監視に当たった、江戸幕府遠国奉行の一つで老中直属の支配にあり、石高1000石、役料500俵であった。
初代奉行堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人を数えた。
奉行所内には与力10騎、同心50人の役人たちが勤めていた。
浦賀奉行所に直属する浦賀番所では与力12騎、同心50人が所属しており、実質的な行政はこちらで行われていた。
なお浦賀奉行は欧米列強の船舶が頻繁に日本近海に来航する、開国前後の安政年間に、長崎奉行よりも格式が高くなり、重職とみなされるようになっている。

奉行所の広さは約2000坪です。
この近くは、奉行所の与力同心たちの武家屋敷があったところで、そのため道も城下町のように入り組んでいます。
当時の施設で残っているのは、堀と橋だけです。

浦賀奉行所が開設されると、その付属機関として、蛇畑(西浦賀町1丁目)の海岸に船番所が置かれた。
ここでは単なる船の関所として、武器の出入りや女人の無断出国を取締まるばかりではなく、商品の流通過程のチェックボイン卜として、特に米、酒、味噌、油、炭、薪、綿等の生活必需品に目を光らせて、これらの商品の浦賀通過数は3カ月に1度、江戸の勘定奉行に報告された。
この船改めの仕事を実際に行なっていたのが、浦貿で廻船問屋と呼ばれる人々であり、下田奉行所が廃止となったあと、浦賀ヘ移ってきた下田問屋が63軒、東浦賀20軒、西浦賀22軒、でこれらを総称して三方問屋と呼んでいる。
江戸ヘ出入りの船はすペて浦賀で船改めを行なわなくてはならなかったが、このとき船の大きさに応じて、石銭という税金(10石で3文)と、船乗りの人数に応じた問屋料(1人銀1匁8分)を納めなくてはならなかった。
このうち石残は城ケ島と志摩の菅島のがり火の代金となり、問屋料は廻船問屋の手数料となった。
このように、船改めは浦賀奉行所の重要な業務のひとつであったが、この他には行政役所、裁判所、警察署、海難救助など幅広い仕事をしていた、
そしてさらに、時代が下がってくると、江戸を守る海防の最前線の基地としての役目も大きなウェイトを占めてくる。
特に天保3年(1837)のモリソン号の砲撃事件の国内外での影響や、弘化3年(1846)のピッドルの来航による大型軍艦の必要性などが、新たな課題としてのしかって来ている。


浦賀奉行所の付属機関
奉行所の構成



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新規作成日:2003年6月29日/最終更新日:2003年6月29日